年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 2

2009年10月22日 | 福神漬
一丁倫敦と丸の内スタイル展から
 2009年に復元新築した旧三菱一号館はお雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計だった。一丁倫敦と呼ばれた三菱のビル街に大正12年鶯亭金升(長井総太郎・長井金升)会合のため三菱商事の会議室に入っていった。1894年(明治27年)竣工の赤レンガのビルには明治26年に発足した三菱合資会社が入っていた。そして何年か後には東武鉄道が一号館のビルが本社となっていたこともあった。
 鶯亭が三菱のビルに入って福神漬の話を始めたのは訳があるである。明治22年、彼は新婚生活を池之端茅町2丁目18番地の借家で始めていた。大家は池之端御前と言われた福地桜痴(福地源一郎)だった。そして福地の隣に住んでいた(茅町2丁目16番地)日本郵船重役浅田正文に借地借家を買われ間もなく転居することとなった。福地の経営していた東京日日新聞が経営危機となり財産を失うこととなった。
 その茅町の借家からすぐの距離に明治11年(1878)三菱の岩崎彌太郎により購入され 岩崎茅町本邸として使用されていた。この土地は江戸時代には越後高田藩の城主榊原家の中屋敷で上野戦争の時はここからアームストロング砲で彰義隊の陣営に砲弾を撃ち込んだという。岩崎 彌太郎は榊原の屋敷を修理改修して使っていたが 明治18年この茅町で逝去した 以後は嫡男 岩崎久彌が相続し、明治29年茅町に岩崎久彌 邸を新築した 。洋館の設計者はジョサイア・コンドルだった。そしてジョサイア・コンドルの妻となった前波くめさんは花柳流の踊り手で鶯亭の妻は花柳流の創始者の縁者であった。
 また鶯亭夫妻の仲人をした画家小林清親は河鍋暁斎と親しく、ジョサイア・コンドルは河鍋暁斎の日本画での弟子で暁英という雅号ももらっている。
 このような思い出深い所に行ったとき、ふと恩師である梅亭金鵞との出会いの思い出が出たのだろう。缶詰協会の会合で福神漬の話が出た下地があったのだろう。 
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