年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 4

2009年10月24日 | 福神漬
新聞記者になるきっかけ
鶯亭金升が新聞記者になるきっかけは彼の日記によると少年の頃から家庭や学校で新聞を掲示していたという。そんな少年がが友人から團團珍聞という風刺雑誌を知り、投書をしているうちに梅亭金鵞に才能を認められ、明治17年7月編集者の仲間入りをした(17才)。明治時代は投書という事から新聞記者になった人が多かった。
 19歳の時、社主の野村文夫と伊勢紀州の旅行をしている。この時関西で活躍していた久保田米僊と知り合っている。下谷根岸の文化人グループ根岸党に久保田米僊を紹介したのは鶯亭金升だという。
 鶯亭金升の名前の由来は《おうてきなさい-会って来なさい》からといわれているが根岸に住んでいて鶯の里と呼ばれ江戸時代から風雅の里でもあったから名前とした。このような経歴から彼の大手町三菱ビル内での会合で明治18年の半ばの頃に師匠でもある梅亭金鵞が小石川指ヶ谷の家で福神漬の引札を書いているのを見たというのは事実だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする