長崎の五島列島。
ここは長崎市から西約100キロに位置する。
過去には五島氏が治めていたとされる。
今も残る石田城の石垣。
けれども、このさいはての島にあっては戦国時代も平穏だったのでは・・・とさえ思えてならない。
とにかく本土からは遠いのだ。
島のいろいろな観光地をめぐったが、ぼくにはあまり心の動くものはなかった。
ただ、この島には教会が多い。
というより、天草、長崎はじめ、それは西海一帯の特色だといえるだろう。
バスガイドに尋ねると、その元はやはり西欧の宣教師たちの布教活動によるようだ。
ただ、秀吉の時代に始まったキリシタン弾圧。
それ以降、キリスト教徒たちは、いわゆる「隠れキリシタン」となって、うわべは仏教徒を装いつつ、その信仰を守りとおしたとのこと。
ということは、徳川時代の長い間、彼らはひそかにキリスト教を伝えていったわけだ。
現存する教会が建設されたのは明治以降。
宣教師、神父といった職業的宗教家が不在のまま、信仰を伝えぬいたということは驚異というほかない。
(オオタニワタリに囲まれたマリア像)
おそらく日本的変容も遂げながらではあったろうが、その真摯な臨み方には感心せざるをえない
さらには、死の危険を冒してまでもその信仰を貫いた人々にとって、その源には何があったのだろうという尽きない疑問も改めて湧く。
そんな思いを胸に帰路に着いた次第だ。
ここは長崎市から西約100キロに位置する。
過去には五島氏が治めていたとされる。
今も残る石田城の石垣。
けれども、このさいはての島にあっては戦国時代も平穏だったのでは・・・とさえ思えてならない。
とにかく本土からは遠いのだ。
島のいろいろな観光地をめぐったが、ぼくにはあまり心の動くものはなかった。
ただ、この島には教会が多い。
というより、天草、長崎はじめ、それは西海一帯の特色だといえるだろう。
バスガイドに尋ねると、その元はやはり西欧の宣教師たちの布教活動によるようだ。
ただ、秀吉の時代に始まったキリシタン弾圧。
それ以降、キリスト教徒たちは、いわゆる「隠れキリシタン」となって、うわべは仏教徒を装いつつ、その信仰を守りとおしたとのこと。
ということは、徳川時代の長い間、彼らはひそかにキリスト教を伝えていったわけだ。
現存する教会が建設されたのは明治以降。
宣教師、神父といった職業的宗教家が不在のまま、信仰を伝えぬいたということは驚異というほかない。
(オオタニワタリに囲まれたマリア像)
おそらく日本的変容も遂げながらではあったろうが、その真摯な臨み方には感心せざるをえない
さらには、死の危険を冒してまでもその信仰を貫いた人々にとって、その源には何があったのだろうという尽きない疑問も改めて湧く。
そんな思いを胸に帰路に着いた次第だ。