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稲村亭日乗

京都の渓流を中心にルアーでトラウトを釣り歩いています

二回目のワクチンを終えて

2021年07月17日 | 日々
 「品薄」とのことで心配したが、予定通り二回目の接種を終えた。

 なぜか一回目と違い、針を刺すときは痛かった。

 それでも発熱など、案じた副反応もなく一安心。

 英国などには届かないが、日本でも接種率が上がってきた。

 ここにきて感染者や入院者の年齢が低くなってきているのは、
やはりワクチン効果なのだろう。

 「宣言」発令の効果も薄く、結局これしかないということか。

          
       ( 院内の注意書き )

 ところで最近ワクチンに関するデマが話題になる。

 接種すると「遺伝情報の書き換え」、「不妊」、「コロナへの感染」、
はては「接種箇所が磁石のようにひっつく」とかいう意味のわからないものまで・・・。

 医療関係者らによって、これらの情報は否定されているが、
そう簡単に納得は得られないのか、なかなか根強いようだ。

 ある意味では一笑に付されるべきこれらのデマ。
 しかし、多くの人がそれを真実と信じ込み、そう行動して、ひとつのうねりにでもなれば、
世の中はとんでもない方向にねじ曲がるのでは?とおそろしくなってしまう。

 人がデマから無縁になれるのは永遠にないのかも知れない。
 
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「葬式ごっこ」から35年 問いかけは今なお

2021年06月28日 | 日々
 事件
 東京の中野富士見中学2年生 鹿川裕史君が1986.2.1、いじめを苦に自殺した事件。

 最近NHKが「ストーリーズ 事件の涙」でこれを取り上げた。

 鹿川君の自殺に先立つ前年の11月、クラスで彼の「葬式ごっこ」が行われ、
彼を「送る」色紙に同級生41人が寄せ書きし、さらにそこに担任を含む教師4人も加わっていた。

 事件の報道を受け、当時ぼくが受けた衝撃と怒りは今も忘れられない。

 「葬式ごっこ」というこの異様な行いに、
教師たちはその背後にある深刻な問題に誰も気づけなかったのか!!と。

     
     ( 鹿川君が死の前に書き残したもの )

 数少ない友の悔いと涙 35年を経て
 当時の同級生もすでに50歳。

 NHK取材陣が連絡のつく16人を訪ねたが、
「思い出したくない」「そっとしておいてほしい」・・・と拒否。

 が、田嶋俊介(仮名、以下「俊介」と略す)さんは取材に応じてくれた。

 俊介は鹿川君とは入学のとき以来の友達。

 が、中2のとき、鹿川君が使い走りをさせられていることに気づく。

 しかし俊介は「(いじめの)標的が(自分に)変わるのがいや」で鹿川君と距離を置き始める。

 そしてある日、葬式ごっこの色紙が俊介にも回ってくる。

 俊介は促されるままに「いなくなってよかった」と書いた。

 11月のある日、鹿川君の机の上にその色紙が線香などとともに置かれていた。

     

 鹿川君はクラスで爆笑されたあと、色紙に俊介の一文があるのに気づき、こう確かめたという。

「お前、書いたの?これ」
「悪いけど書いた」
「友達だったと思ってたのに」
「すまん」
「信じられねえ」

 ・・・鹿川君の絶望感が伝わってくる思いだ。

 俊介はNHK取材陣に
「(鹿川君の)あの言葉だけは忘れられない」と涙ぐむ。

 鹿川君が縊死したのは翌年2月だった。

 今なおつきつけられる問題
 第三者がこの事件を聞き知って憤りを感じるのは自然なことかもしれない。

 ただ、もしもぼくがあのクラスの生徒の一人であったら、
あるいは色紙への寄せ書きを頼まれた教師だったら、
それを貫ける勇気あるいは見識をもちえたろうか?とぼくは自問する。

 言うは易しなのだ。

 事件から35年、中野富士見中学は少子化対策ですでに廃校。

     

 それでも改めて、この事件の記憶は風化させてはならないとの思いを強くする次第だ。
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リンゴ日報の廃刊から

2021年06月23日 | 日々
 香港で民主主義を希求する運動の象徴に見えたリンゴ日報。

 今日24日の朝刊を最後に発行停止になってしまった。

 この日がいつか来るかも知れないと案じていたが、とても残念だ。

 いつの日か、再び芽を吹いてほしいものだ。

 不屈の姿勢を貫いてきた関係者の方々に敬意を表したい。

     
       ( 最後の街頭販売 )

 それとは別に今日の報道では、
25日からの開催が決まっていた「表現の不自由展」東京が延期になったという。

 会場に決まっていた神楽坂「セッション・ハウス」に妨害や脅迫があったとか。

     
       ( 実行委員会の会見 )

 考え方の違いはともかく、表現の自由を奪ってしまう状況はいただけない。

 民主主義というもの、
決して単純に民主主義と非民主主義との二つに分かれるものではない。

 そこには内容、成熟度というものがあり、為政者だけではなく
市民レベルの意識と行動が深く関わる、そんな気がしてならないのだ。
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ワクチン接種をめぐる空気

2021年06月20日 | 日々
 第1回目のワクチン接種を終えた。

 針を刺したとき、チクリともしなかったことが不思議。

 心配した副反応も腕の痛みだけで済んだ。

 最近、近所の人に出会うと、「ワクチン済んだ?」という話が多い。

 よく出会う近所のおじさん
「ワシはもうかかりつけで済ましたデ」

 続けてボヤく。
「ワクチンを打たんヤツが多いんや。
 知り合いで、日本製のワクチンが出るまで待つと言うのがおった。
 それに、みんなが打って、回りに免疫ができたら私が打たんでもよくなる、
だから打たん、などと言うヤツもおる。なっとらん!」と。

     

 ぼくとしては社会全体で早く免疫ができれば・・・と思う。

 しかし、先日、
大阪東成の区役所で接種希望をめぐっての職員の意思表示が明るみになり、問題化。

 考えてみれば、人それぞれに事情があるのだ。

 誤解は解かなければならないが、同調圧力を強めることはひかえるべきだろう。

 職域接種が加速されようとしている今、そこは特に慎重でありたい。

 先日、新聞の川柳欄にあった。
 「接種拒否 兵役忌避という空気」(東京都 後藤 克好さん作)
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小学5年生男児の死亡 マスクのこともさることながら

2021年05月28日 | 日々
 報道では、今年2月、
高槻市の小学校で5分間持久走の終盤近く、男児が倒れて亡くなったという。

 同市教育委員会では持久走に際し、
男児のマスクの状態などに重点を置いた説明が行われている。

 気になるのは、倒れた男児に気づいたあとの対処だ。

 報道では、倒れた男児に気づいた他の児童が担任に知らせ、
→保健室→病院(死亡確認)とある。

 ぼくにわからないのは、倒れた直後の男児の状態だ。

 ひょっとして、このときすでに心肺停止だったのだろうか?

 倒れてすぐなら人工呼吸などの応急手当をすれば助かる率はかなり高いという。

 一般に小学校教諭はプール指導などに備え、
こうした応急手当の訓練を受けていると聞いたことがある。

 加えて小学校ならAEDも備わっているのでは?

 市教委の説明では、これにも触れられていない。

 マスクのこともさることながら、
プールの季節を前に、そこのところも聞きたいものだが・・・。
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「ある奴隷少女に起こった出来事」(新潮社文庫)から

2021年05月06日 | 日々
 本書はハリエット・アン・ジェイコブズ(1813~1897)の自伝。

 著者はアメリカで黒人女性の奴隷として生まれ、
所有主フリントとその一族による虐待に抵抗し、
逃亡、潜伏を経て、北部で生き延びるという波乱の人生をおくった人だ。
 
 自伝に垣間見る奴隷制度の実態
 アメリカの黒人奴隷制度といえば、綿摘みに象徴される過酷な労働、
むち打ちなどの制裁をはじめとする暴力を思い起こすが、
本書を読むと何よりもその前に黒人奴隷が人でなく、
物として扱われていたことを思い知らされる。

 とりわけ黒人女性が広く奴隷所有主の性暴力の対象とされ、
著者もまたその例外ではなかったことに驚かされる。

「奴隷の少女たちは淫らさと恐怖の中で育つ。鞭と、
ご主人とその息子らが語るわいせつな話が、少女たちの教師だ。
・・・抵抗しても希望はない・・。」(P83~84)

 いたましい話だ。

 黒人差別は今日でもなお克服すべき課題ではあるが、
本書はその歴史上の原点となった奴隷制度の生々しい資料でもある。

     

 著者ハリエットが生き延びられたわけ
 一読して考えたのは、著者が生き延びられた理由だ。

 ひとつには、彼女自身が自分の子どもを守りつつ、
自由を希求する強い意志をもち続けたこと。

 もうひとつは、祖母や弟など親族の命がけの支えがあったこと。

 さらに、北部で黒人奴隷に同情、あるいは憐みをもつ白人女性たちがおり、
彼女らが手をさしのべてくれたことが挙げられる。

     

 心優しき白人女性たちの視線の底を考える
 ただ、ここで思い出すのは「アンクル・トムの小屋」のことだ。

 トムは後の時代、特に公民権運動以降は
「白人に媚びを売る黒人」との批判が広がったようだ。

 この作品を著したストゥ(ストウ夫人)も北部の人で、奴隷解放に尽力したと聞く。

 アンクル・トムへの後世の批判の背景は、
「心優しき白人」の黒人に対する無意識の、内なる優越意識だったのかもしれない。

 だとすれば、著者を支えた優しき白人女性たちにも
やはりそうした意識があったものと推測する。

 ただ、そうしたひとつの限界をはらみながらも、
その優しさが本書のように個々に黒人奴隷を救ったり、
はては奴隷制度の終焉に貢献したり・・・ということだったのだろう。

 歴史の進み方というもの、単純な善と悪との対決ではなく、
進歩的なものの中にも古いものが混じり合いながら、
絡み合って展開していく、そのように見えてくる。

 本書を読んで感銘しつつ、そんなことを考えさせられた。
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悲しい人の性(さが) 『光と影』(渡辺淳一 1970)から 

2021年04月19日 | 日々
 渡辺淳一の初期の作品『光と影』。

 直木賞を受けた渡辺の、事実を基にした力作だ。

 明治初期の西南戦争で共に右腕に銃創を負った小武敬介と寺内正毅。

 この二人は元々陸軍同期の親しい間柄。

 同じ日に軍医によって手術を受けるが、この軍医は小武の右腕切断処置の後、
「実験」として寺内の右腕は切断せず、砕けた骨片を取り除いたあと縫合と消毒ですませた。

 ここから二人の運命は劇的に変わる。

 小武が退役して軍の外郭団体 偕行社の事務員となった一方、
寺内はダラリとしたままながら「腕はある」ということで、退役せず軍に残る。

 やがて、寺内は士官学校生徒司令副官を経て、その後の日清、日露の戦役の波に乗り、
陸軍中将、大将、陸軍大臣、内閣総理大臣という道を歩む。

 しかし、小武にはそれが納得できない。

「小武には下士官から尉官時代に寺内よりはるかにすぐれていた
という自負心があった」(P68)からだ。

 その後、二人は仕事上の必要から再会するが、
寺内の配慮に「憐憫は不要」と小武が食ってかかり、悲惨な別れとなる。

     

 渡辺は「選集のためのあとがき」でこう述べている。

「ひとりの医師の選択が、まったく予知しないままに、
それまで縁のなかった人間たちの運命を変えてしまう」(P272~273)こともあると。

 また、「こうした人生の明暗は・・・ふとしたことで・・・
わたしたちの日常生活でも起こりうる・・・」(P274)と。

 まさにそのとおりだ。

 主人公 小武はその後精神を病み、廃兵院で孤独のうちに死を迎える。

 この作品では、
二人の負傷者に施された医術の違いがそれぞれに及ぼした影響が扱われている。

 しかし、腕を切断されなかったのが小武だったとしたら、
展開はまた違っていたかもしれない。

 というのも、切断手術後の小武が終生抱き続けたのは
「自分より劣るはずの寺内がなぜ?」という不公平感であり、
そこからくる「ねたみ」意識だったからだ。

 が、考えてみれば、そうした「ねたみ」は決してよその世界のことではない。

 会社、学校、地域はてはヤクザの組織でもそれはあるだろう。

 自分を超えてゆく他人の「立身出世」を素直に受け入れられない、
ましてやその他人が自分より劣るとみなしていたならなおさら・・・これは人の悲しい性か。

 この作品を一読すると、それにこだわり続けて人生を送ることの空しさ、
悲しさを改めて思い知らされる気がしてならない。

 おすすめしたい一冊。
 ( 文中のページは講談社文庫による )
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アメリカでのアジア人に対する暴力行為によせて

2021年04月05日 | 日々
 最近、アメリカでのアジア系市民への暴力行為がよく報道される。

 今日もニュースで、韓国系アメリカ人の経営するコンビニに
鉄パイプをもった男が乱入、店舗内を破壊して逮捕されたとあった。

 彼は「中国人は国に帰れ」と叫んでいたそうだ。

     
        (ANNスーパーJチャンネルから)

 一口にアジア系と言っても、
標的は極東地域出身ののアジア人で、すでに日本人にも被害が出ている。

 発端はトランプさんの「コロナ=中国」という煽動だという声もあるが、そうかもしれない。

 けれども、在米のアジア人がコロナをまき散らしたわけでないことはわかりきったこと。

 不幸にも、在米アジア人たちは不満のはけ口にされているのだろうか。

 いずれにしても、この短絡的なとらえ方と行動には、
根深いアジア蔑視が横たわっているようで胸が痛む。

 が、かえりみれば、日本でも北朝鮮の拉致問題が明るみに出た頃だったか、
在日朝鮮人の生徒たちがツバを吐きかけられたり、暴力を受けたことがあった。

 彼らが拉致にかかわったわけではないのにだ。

 そう思えば、短絡的なとらえ方と行動はぼくら自身に無縁なものではない。

 決して海の向こうだけのことではないことを肝に銘じたい。 
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中国 国民の胸の内はいかに?

2021年03月29日 | 日々
 スウェーデンの衣料品大手 H&Mが中国で批判にさらされている。

 発端は、H&Mが新疆地区で生産された綿花を使わないと宣言したことだ。

 その理由は、綿摘み労働がウィグル族に強制されているということらしい。

 これに対し、中国では即座に不買運動が起こり、
地図アプリでもH&Mの検索ができなくなっているという。

 台湾産パインのこともよく似た事情で、
この種のことは中国では決して珍しいことではない。

     

 ただ、ぼくにわからないのは、政府レベルはともかく、
一人ひとりの中国国民はどう受け止めているのだろうかということだ。

 伝え聞くウィグル族に対する迫害。
 普通の国なら圧迫されている者への連帯や
弾圧への抗議の声が出そうなものだが、聞こえてこない。

 それは政府からにらまれることを恐れてなのか?

 それとも国民にはそもそも迫害の事実についての情報が届かないからか?

 もし国民のほとんどが政府を「信頼」して、
その政策を無批判的に支持するというのなら、この国の開化の見通しは暗い。

 そうでないことを願いたいのだが・・・。 
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誇りを捨て、親の威を借りるに堕し

2021年02月22日 | 日々

 放送関連会社「東北新社」の接待問題が国会の場に。

 接待を受けていた官僚たちのウソがバレていく醜態。

 今に始まったことではないと淡々と見つめる。

 ただ、気になるのは菅総理の長男坊のこと。

 長男坊を使った会社側は、当然彼の価値を見定めてのこと。

 計算どおり、総務省の官僚たちは話にのってきた。

 利害関係者との会食に制限を加えた「公務員倫理規程」は
あっさり乗り越えられたのだ。

 が、長男坊の方も、バカでなければ自分の価値はわかるはず。
 「政府要人の息子なら忖度が働くはず」と。 

 長男坊にはそんな自分を利用しようと近づいてきた輩に
「ナメとんのか、オンドレは!」
 とたたき出す気概、誇りはなかったのか?

 親の威を借りるというみじめな選択、実に情けない。

     
       (予算委員会で答弁するお父さん)
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