人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

鷲田清一著「人生はいつもちぐはぐ」を読む~「折々のことば」筆者のエッセイ/読売日響2017年度年間会費を支払う

2016年12月13日 08時28分42秒 | 日記

13日(火).昨日,読売日響から一通の封書が届きました  コンサートの案内かと思って封を切ると,恐ろしいものが出てきました 「2017年度年間会費支払方法のお知らせ」でした 今月22日までにコンビニを通じて支払うようにという要請が書かれていました.仕方ありません.申し込んじゃったんですから 早速 最寄りのコンビニで支払いを済ませてきました ということで,わが家に来てから今日で805日目を迎え,トランプ次期米大統領が,中国大陸と台湾がともに「中国」に属するという「一つの中国」原則について「なぜ我々が縛られなければならないのか」と疑問を呈したというニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

          

                 トランプさんの言いたいことは分かったけど  どこにいるの?

 

          

             あれま ぼくが踏んづけてたんだね ぼくが中国でトランプさんが台湾みたい

 

  閑話休題  

 

昨日,夕食に「豚肉と鳥肉のスペアリブ」「生野菜とサーモンのサラダ」「カブのお浸し」を作りました 「カブ~」は味噌汁の具にカブを入れたので葉っぱを刻んで削り節とポン酢をかけました.美味しくて栄養満点です

 

          

 

  も一度,閑話休題  

 

千葉県勝浦市在住の大学時代の友人S君から海産物セットが届きました サンマ,アジ,カマス,アコウダイ,カレイが所狭しと詰まっています.奥さまの実家が海鮮問屋を営んでいるとのことで,たくさんの魚を送ってくれたのです S君夫妻には7月29日に内幸町に出てきてもらいランチをご一緒しましたが,その時「今度は是非,勝浦にお出かけください」というお誘いを受けていたのに,当方のスケジュールが過密で未だに実現していないままなのです わが家では子どもたちが肉類が好きなので,夕食に魚料理を用意することがあまりありません その点,こうして送ってもらうと ある程度 規則的に食卓に載ることになるので とてもありがたいのです あらためて S君ありがとうございました 持つべきものは友だちです

 

          

 

  最後の,閑話休題  

 

鷲田清一著「人生はいつもちぐはぐ」(角川ソフィア文庫)を読み終わりました 鷲田清一は1949年,京都生まれ.哲学者で,大阪大学総長などを経て現在,京都市立芸術大学学長,大阪大学名誉教授を務めています.今日が605回目を迎える朝日朝刊第1面のコラム「折々のことば」の著者としてお馴染みです

 

          

 

この本は,2008年12月から2013年4月まで,京都新聞,神戸新聞,中日新聞,北海道新聞,毎日新聞などに掲載されたエッセイを2013年9月に「おとなの背中」というタイトルで角川出版社から単行本として出されたものを,改題して文庫化したものです

著者は「まえがき『これで死ねる』と言えるとき」で次のように書いています

「昔の人は,死に際して,『これで死ねる』という言い方をした.これは,みずからの死に覚悟ができたというよりもむしろ,みずからの死によって起こりうるすべてのことに,できるかぎりの手が打てたという納得を言っているのだろう 人の矜持というものがここにある.そういう矜持を,政治家のみならずこの時代に生きる者として,わたしたちもいつかもてるだろうか.わたしたちは,わたしたちの世代を宛先として丹念になされた過去の職人さんたちの仕事に支えられて,無事,家の切り盛りをどうにかできてきた.おなじことを,今日,明日ではなく明後日の世代に向けておこなうこと,それがわたしたちの義務である

このエッセイ集は,便宜的に7つの章から構成されています

1.伝えること/応えること

2.おとなの背中

3.人生はいつもちぐはぐ

4.ぐずぐずする権利

5.言葉についておもうこと

6.贈りあうこと

7.東日本大震災後

この中から,いくつか印象に残ったエッセイを取り上げてみます 最初は第3章「人生はいつもちぐはぐ」の最初に出てくる「幸福への問い」です

「『しあわせ』というのは不思議な感覚で,傍目にはずいぶん幸福な生活をしているようにみえても,本人はそうと感じていないことが多い なんの不満もないだろうと人が羨むような生活にも,さまざまの悩みや不安が小さな棘のようにちくちく刺している.念願の試験に合格したとか愛する人と結婚したとか,そのときは幸福の絶頂にいるように感じられても,なぜかしばらくするとごくふつうの日常の感覚に戻ってしまう 幸福感というのはどうもそのままでは持続しえないものらしい.これを裏返していうと,幸福は失ってはじめてそれと気づかれるということだろうか

このエッセイは次のように結んでいます

「『ひとりで幸福になろうとしてもそれは無理よ』.これは寺山修司が年配の風俗嬢の言葉として紹介しているものだが,なかなかに味わい深い」

そう,人間は人と人の間で生きるものです

同じく「人生はいつもちぐはぐ」の中の「あえて口喧嘩」にはこう書かれています

「元フライ級の日本チャンピオンとして敵を叩きのめし,引退してからこんどはお笑いタレントとして叩かれ役になり,飲みつぶれたすえに暁の海に消えたあの,たこ八郎 その墓には『めいわくかけてありがとう』と刻まれている.酔いつぶれ,くだを巻き,悪態をつくばかりだったのに,あきれながらも最後までつきあってくれた,つまり『時間をくれた』,そのことに たこは 心底『ありがとう』と言いたかったのだろう

身の回りに何人かいませんか,こういう人 「あ~,どうしようもないんだから~」と言いたくなるのに,「あの人じゃあしょうがないや」と許してしまう愛すべき人が

第7章「東日本大震災後」の最後に「支え合うことの意味~十代の人たちに」というエッセイがあります

「生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を,わたしたちはいま社会の公共的なサーヴィスに委託して暮らしています たがいのいのちの世話を,病院や学校,保育園,介護施設,外食産業,クリーニング店,警察署・消防署などにそっくり任せて生活しています.これは福祉の充実,あるいは『安心・安全』と世間では言われていますが,裏を返していえば,各人が自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある わたしたちは社会のこのサーヴィスが事故や故障で止まったり,劣化したり,停滞したりしたとき,それに文句(クレーム)をつけることしかできなくなっています 自分たちで解決策を提案したり,あるいは行政やサーヴィス業から仕事を取り返して自分たちでやりますということが出来なくなっています.それほどわたしたちは市民として,地域社会の住民として,無能力になっているのです ふだんはそうしたサーヴィス業務にあるていど任せておくとしても,いざというときのために,いつでもそれらが自前でできる準備だけはしておかなければ,非常時に復興を担えない,とても壊れやすい存在に一人ひとりがなってしまいます

「わたしたちは,人生で見舞われるさまざまの困難,社会で直面するさまざまな問題に対して受け身でいるのではなく,それらを引き受ける強さというものが必要です 市民としての強さのことをいまの社会では『自立』と言います.けれども誤解してはならないのは,『自立』とは『独立』のことではないということです.『独立』は英語でいえば  independence  つまりだれにも依存していない状態のことです.でも,人はだれ一人,独りでは生きられません 『自立』とは independence  ではなくて,むしろ  interdependence  (支えあい,頼りあい)のことなのです」

筆者は3.11東日本大震災の経験を通じて,上のことを強く感じるようになったようです.それは,われわれ一般の市民にも同様に当てはまることだと思います

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