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クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

ダン・エッティンガ- ✕ エドナ・プロホニク ✕ 東響で ワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」、ベルリオーズ「幻想交響曲」を聴く ~ 演奏直後の騒音、曲間のブラボーの再発防止を

2018年10月21日 07時26分32秒 | 日記

21日(日)。わが家に来てから今日で1479日目を迎え、宇宙航空研究開発機構(JAXA)と欧州宇宙機関(ESA)は19日午後、米国以外で初の水星探査機2基を南米フランス領ギアナのクール―宇宙基地からアリアン5ロケットで打ち上げ 成功した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

       暗いニュースばかりで気が滅入る中  彗星のごとく現れた水星のニュースはいいね

 

         

 

昨夕、サントリーホールで東京交響楽団の第664回定期演奏会を聴きました プログラムは①ワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」、②ベルリオーズ「幻想交響曲作品14」です ①のメゾ・ソプラノ独唱はエドナ・プロホニク、指揮はダン・エッティンガ-です

ダン・エッティンガ-はイスラエル生まれ。2015年シーズンからシュトゥットガルト・フィルの音楽監督を務めています。日本では東京フィルの常任指揮者(現・桂冠指揮者)を務め、新国立オペラでは「ファルスタッフ」「イドメネオ」「ニーベルングの指環・四部作」「こうもり」で東京フィルと、2016年の「サロメ」で東響とオーケストラ・ピットに入っています

メゾ・ソプラノのエドナ・プロホニクはイスラエル生まれ。ドイツを中心に世界の歌劇場でワーグナー等を歌い高い評価を得ています

 

     

 

オケはいつもの東響の並びで、左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという編成。コンマスは水谷晃です

1曲目のワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」は、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)が1857年から58年にかけて マティルデ・ヴェーゼンドンクの5つの詩に作曲したもので、ヴェーゼンドンク夫人との激しい恋愛から生まれた作品です 当時ワーグナーは楽劇「ジークフリート」を作曲中だったにも関わらず、それを中断し「トリスタンとイゾルデ」の創作に没頭します。その過程で生まれたのが「ヴェーゼンドンク歌曲集~女声のための5つの詩」でした 第1曲「天使」、第2曲「止まれ」、第3曲「温室にて」、第4曲「悩み」、第5曲「夢」の5曲からなります

若き日のダニエル・バレンボイムを彷彿とさせるダン・エッティンガ-が、メゾ・ソプラノのエドナ・プロホニクとともに登場し配置に着きます エッティンガ-の指揮で第1曲「天使」の演奏に入りますが、プロホニクは深みのある豊かな声で歌い、エッティンガ-✕東響がぴったりと寄り添います 第3曲「温室にて」の中盤ではヴィオラのソロが聴かれますが、首席の青木篤子の演奏はなかなか聴かせてくれました

最後の第5曲「夢」が静かに終わるや否や、2階席後方からバンという大きな音が聞こえました 何かを落としたか倒したかといった音です。このブログで何度も書いていますが、クラシック音楽を生で聴く醍醐味は最後の一音が鳴り終わった直後の一瞬のしじまをかみしめるところにあります そこに演奏のすべてが凝縮されているといっても過言ではありません。その一番肝心なところでバンとやられては感動的な演奏が台無しです。指揮者とオケ、そして他の聴衆に対して大変失礼なことです チラシの束など 落ちて音の出る物は膝の上に載せない、倒れそうな物は最初から床に寝かせておく ー これはコンサートを聴くうえで常識です。心してほしいと思います

満場の拍手とブラボーにエドナ・プロホニク✕エッティンガ-✕東響はリヒャルト・シュトラウス「8つの歌」から「献呈」を、そしてシューベルト「音楽に寄せて」をアンコールに歌いさらに大きな拍手とブラボーを浴びました 私の考えでは、「ヴェーゼンドンク歌曲集」が20数分と短いので、最初からこの2曲は”闇プロブラム”に含めていたのではないかと察します 両曲とも素晴らしかったのは言うまでもありません

 

     

 

プログラム後半はベルリオーズ「幻想交響曲 作品14」です この曲はエクトル・ベルリオーズ(1803‐1869)が1830年に作曲した作品です この作品は「ある芸術家の生涯におけるエピソード」という副題を持っています ベルリオーズはイギリスのシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの舞台を観て一目惚れしたものの、片思いに終わったという経験を この曲に込めたのです   曲のストーリーは「若い芸術家が失恋して阿片を飲んで自殺を図るが、それが致死量に達しなかったため、奇怪な幻想を夢見る 夢の中で、芸術家は愛する女性を殺して処刑され、魔女の饗宴に身を置く。その女性は一つの旋律となって繰り返し現れる」というものです

ベートーヴェンの「第九交響曲」が初演された1824年からわずか6年後に作曲された「幻想交響曲」は、イデー・フィクス(固定観念)の使用による標題音楽の手法を試み、リストの交響詩やワーグナーの楽劇への道をひらいた画期的な作品と言われています

この曲は第1楽章「夢、情熱」、第2楽章「舞踏会」、第3楽章「野の風景」、第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「魔女の夜宴の夢」の5楽章からなります

ステージを見ると、ヴァイオリン・セクションとヴィオラ・セクションの手前(客席側)にハープが2台ずつ計4台置かれています こういう配置を見るのは初めてです。しかし、ハープの出番は第2楽章なので演奏者は不在です。また、最初 打楽器はティンパニ奏者だけで、金管楽器も限られています 他の打楽器や金管楽器群は第3楽章の前に加わります

この日の演奏では、オーボエの荒木奏美、フルートの甲藤さち、クラリネットの吉野亜希菜、ファゴットの福士マリ子、そして第3楽章ではコールアングレの篠崎隆ら木管楽器群の演奏が冴えていたほか、金管楽器群もパワー全開でした この曲で好きなのは第2楽章「舞踏会」のハープ4台と弦楽5部の演奏と、第4楽章「断頭台への行進」のファゴット4本の合奏ですが、この日の演奏は大満足でした 

ところで、第3楽章「野の風景」で舞台上のコールアングレと舞台裏のオーボエが会話を交わす場面がありますが、裏のオーボエはどこで吹いていたのでしょう? ステージに極めて近いところにように思えましたが、当然ながら荒木奏美さんは吹いていませんでした

いい気分で第4楽章「断頭台への行進」を聴き終わって、一息つこうと思った瞬間、またしても2階席から 今度は大きな声でブラボーがかかりました このあと第5楽章が残されていることは事前にプログラムを見ていれば分かるはずです ブラボーをかけるほどの度胸がある人なら、コンサートは初めてではないと推測します。プログラムを見ることぐらい朝飯前でしょう ダン・エッティンガ-は大人の対応で、すぐに第5楽章に移りましたが、演奏者の集中力を削ぐ恐れのある このような行為は 指揮者やオケの楽員に対して大変失礼だし、他の聴衆は「シラケ鳥飛んでいく東の空へ」です 「演奏に感動したからブラボーをかけたのだ」という言い訳は通用しません。演奏はまだ終わっていないのですから はっきり言いますが、演奏を聴く心構えが出来ていません 次からはプログラムを見て 顔を洗って出直してきてほしいと思います

さて この日のダン・エッティンガ-による「幻想交響曲」は、曲のグロテスクな面を前面に出したメリハリのある演奏でした 個人的には、オペラを振った方が もっと良いと思います

【訂正・補筆】

東響会員さんからコールアングレ奏者は最上峰行さんではなかったかとのご指摘がありました。確認の結果その通りでしたので、東響会員さんにお礼を申し上げるとともに、ここに訂正させていただきます

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シュトイデ弦楽四重奏団✕小林有紗でベートーヴェン「大フーガ」、シューベルト「弦楽四重奏曲第14番”死と乙女”」、ドヴルザーク「ピアノ五重奏曲」を聴く~紀尾井ホール/読響2019年度コース変更へ

2018年10月20日 07時18分26秒 | 日記

20日(土)。ゆえさんのブログに「来年の手帳を買いました」と書いてあったので、「おお、もうそんな季節か」と思い 池袋の Loft で買ってきました   2年前から使い始めた「能率手帳 NOLTY1801」です。これはコンサート、映画などのスケジュール管理に便利で、使い始めたら他の手帳には手が出ません ぼちぼち来年のコンサートの予定を書き入れていこうと思っています

 

     

 

ということで、わが家に来てから今日で1478日目を迎え、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館でサウジ人記者カンショギ氏が殺害された疑惑を受け、トランプ米大統領は「サウジ政府がカンショギ氏殺害に関与したことが事実だと判明した場合は、非常に厳しく対処しなければならない」と話した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                相手が米国の武器輸出先のサウジだから 厳しい対応なんて言っても限られるよな

 

         

 

昨日、夕食に「鶏肉のマヨポン炒め」と「湯豆腐」を作りました 「鶏肉~」は cookpad のレシピです。「湯豆腐」は昆布で出汁をとって鶏ガラスープで煮込んでいます

 

     

 

         

 

今日は読響の2019年度年間会員継続手続きの締切日なので、読響チケットWEBのサイトから手続きをしました 読響の定期コンサートは①定期演奏会(サントリーホール)、②名曲シリーズ(同)、③土曜・日曜マチネシリーズ(東京芸術劇場コンサートホール)、④みなとみらいホリデー名曲シリーズがあり、私は現在①のS会員です 2019‐2020シーズンのラインナップを見たところ、いずれのコースも決定打がないので、比較的魅力を感じる②名曲シリーズに移ることにしました 今日の手続きは「座席変更する」という意志を伝えただけで、具体的な座席指定の手続きは11月2日以降となります。N響と同様 ランクをSからAに落とすことも考えたいと思っています

 

     

     

 

         

 

昨夕、紀尾井ホールでシュトイデ弦楽四重奏団のコンサートを聴きました プログラムは①ベートーヴェン「大フーガ変ロ長調作品133」、②シューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調作品810”死と乙女”」、③ドヴォルザーク「ピアノ五重奏曲イ長調作品81、B.155」です ③のピアノは小林有紗です

シュトイデ弦楽四重奏団は、ウィーン・フィルのコンマス、フォルクハルト・シュトイデを中心にウィーン・フィルのメンバーにより2002年に結成されたクァルテットです メンバーは第1ヴァイオリン=フォルクハルト・シュトイデ、第2ヴァイオリン=アデラ・フラジネアヌ(ホルガ―・グローの代演)、ヴィオラ=エルマー・ランダラー、チェロ=ヴォルフガング・ヘルテルです

私がなぜシュトイデ弦楽四重奏団の演奏を聴こうと思ったかと言うと、彼は毎年「トヨタ・マスタープレイヤーズ・ウィーン」を率いて指揮者なしのコンサートを開いており、私は毎回聴いていますが、その演奏の素晴らしさに感銘を受けたからで、クァルテットを聴くのは今回が2度目です

 

     

 

自席は1階5列5番、左ブロック右通路側です。会場は8割程度埋まっているでしょうか

4人が登場、配置に着きます 左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという並びです。第2ヴァイオリンが女性のアデラ・フラジネアヌさんに代わったので、前回と印象が変わりました

1曲目はベートーヴェン「大フーガ変ロ長調作品133」です この曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が「弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130」の最終楽章(第6楽章)として作曲し、1826年春にシュパンツィク弦楽四重奏団により初演されました しかし、この楽章だけ「長大で難解だ」という批判を受け、作品130から外され 作品133「大フーガ」として独立することになりました その後、ベートーヴェンは「プレスト」の第6楽章を作曲しています 私はこの「プレスト」が「大フーガ」と同じように好きです

シュトイデの合図で演奏が開始されます プログラムの1曲目から「大フーガ」とは余程の自信があるのだろうと思いますが、4人はバッハが基礎を作ったフーガの集大成とでも言うべき「大フーガ」を築き上げていきます ストイックな緊張感が会場を満たします。厳しくも美しい演奏でした

2曲目はシューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調作品810”死と乙女”」です この曲は、フランツ・シューベルト(1797‐1828)が1824年に作曲した作品です この曲が「死と乙女」という愛称で呼ばれているのは、第2楽章の変奏主題に病床にある少女と死神との対話を綴った自作の歌曲「死と乙女」の旋律が使われているからです 第1楽章「アレグロ」、第2楽章「アンダンテ・コン・モート」、第3楽章「スケルツォ:アレグロ・モルト」、第4楽章「プレスト」の4楽章から成ります

シュトイデの合図で第1楽章が開始され、冒頭 緊迫した音楽が迫ってきます 何かを駆り立てるような切迫感のある音楽です 第2楽章冒頭の美しさを湛えた静謐な音楽を聴いていて、私はジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」(1851‐52年)を思い浮かべていました これはオフィーリアが溺れる前に歌いながら川に浮かんでいる姿を描いた油絵です

第3楽章、第4楽章を含めて全楽章が短調で書かれている「死と乙女」の演奏を4人の演奏で聴いていると、シューベルト特有の同じメロディーの繰り返しが、しつこく感じません  これは4人の半端ない集中力と技量の高さによるものに他なりません 第1ヴァイオリンのシュトイデとチェロのヴォルフガング・ヘルテルが特に素晴らしいのですが、第2ヴァイオリンのアデラ・フラジネアヌも存在感を主張しています このメンバーで固定してはどうでしょうか


     


プログラム後半はドヴォルザーク「ピアノ五重奏曲第2番イ長調作品81、B.155」です この曲はアントン・ドヴォルザーク(1841‐1904)が1887年8月18日から同年10月8日にかけて作曲し、1888年1月6日にプラハで初演された作品です これに先立ち、第1番作品5が1872年に作曲されましたが、演奏される機会がほとんどないので、一般的に ドヴォルザークの「ピアノ五重奏曲」と言えばこの第2番を指すことが多いです

第1楽章「アレグロ・マ・ノン・タント」、第2楽章「ドゥムカ:アンダンテ・コン・モート」、第3楽章「スケルツォ:フュリアント:モルト・ヴィヴァーチェ」、第4楽章「フィナーレ:アレグロ」の4楽章から成ります

ピアノの小林有紗とシュトイデ・クァルテットのメンバーが登場し配置に着きます

第1楽章冒頭、ピアノに導かれてチェロが朗々と演奏されますが、このチェロが素晴らしい 間もなくテンポが速くなり、ピアノと弦楽四重奏が絡んで演奏が展開します 第2楽章はスラヴ舞曲「ドゥムカ」の形式によります。ピアノに次いでヴィオラが何かを懐かしむように奏でられますが、ここでヴィオラのエルマー・ランダラーが存在感を示しました 第3楽章はテンポの速い喜びに満ちた曲想です。第4楽章もその流れを受け継ぎ、屈指のメロディーメーカーであるドヴォルザークの民族色に溢れた音楽を展開します

全体を通して感じたのは、小林有紗による自らの役割をわきまえたピアノ演奏です 弦楽四重奏の音を消すほどの強音を出すこともなく、かといって弦楽四重奏の音に埋もれることもなく、適度な距離を置いて演奏していたのが強く印象に残りました

鳴り止まない拍手とブラボーに5人は、今演奏したばかりのドヴォルザークの第3楽章「スケルツォ」をアンコールに演奏し再度大きな拍手を浴びました

 

     

 

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大友直人✕片山杜秀による対談「クラシックに未来はあるか」を読んで思うこと~『中央公論』11月号の特集から / シネマ歌舞伎「法界坊」を観る~中村勘三郎、笹野高志、片岡亀蔵の快演

2018年10月19日 07時31分14秒 | 日記

19日(金)。新日本フィルから「第596回定期演奏会ジェイド、特別演奏会:第7回サファイア公演に関するお知らせ」というハガキが届きました 内容は10月27日(土)ジェイド(サントリーホール・シリーズ)と28日(日)の特別演奏会:第7回サファイア(横浜みなとみらいシリーズ)公演では、1曲目のブルックナー「交響曲第9番」と2曲目の同「テ・デウム」の間には休憩がないので、開演時間を過ぎてから来場するとチケット記載の席で聴けない恐れがあるので注意してほしい、というものです 上記の2曲を連続して演奏するのは決して珍しいことではありません オーケストラ公演でよくある「お知らせ」は、指揮者やソリストが変更になったのであらかじめ承知してほしいというものですが、曲の間に休憩が入らないという事前通知は珍しいかも知れません こうした配慮は、予想されるトラブルを事前に防いで定期会員離れを防ぐコンプライアンスの一環だと思います ハガキ代等のコストがかかっても 会員が減るよりはマシだという判断でしょうが、オーケストラ運営は大変ですね

ということで、わが家に来てから今日で1477日目を迎え、財務省は18日、来年3月18日から発行する千円札から、記号と番号の色を褐色から紺色に変えると発表したが、これはアルファベット3文字と数字6ケタを組み合わせた129億6千万通りを全て使ってしまうためである というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                     現在 12,960,000,000 枚の褐色の記号・番号の1000円札が出回ってるわけだね

 

         

 

昨日、夕食に「豚肉と大根の炒め煮」と「湯豆腐」を作りました 「大根~」はかなり煮込んでいるので味が浸み込んで美味しいです

 

     

 

         

 

昨日、東銀座の東劇でシネマ歌舞伎「法界坊」を観ました この夏から秋にかけて東劇で上映していた「METライブビューイング  アンコール2018」の時に"予告"を観て、面白そうだと思ったので当日券を買ったものです

この公演は2008年(平成20年)11月に浅草寺境内の平成中村座で開かれた公演のライブ録画映像(ライブビューイング)です

東劇のホームページの「作品紹介」によると「法界坊」のストーリーは次の通りです

「金と女が大好きな法界坊(18代目 中村勘三郎)は、どこか憎めない愛嬌溢れる乞食坊主 永楽屋の娘お組(扇雀)に恋い焦がれる法界坊は、盗まれた吉田家お家の重宝「鯉魚の一軸(りぎょのいちじく)」を お組と恋仲である手代の要助(実は、吉田宿位之助松若=よしだとのいのすけまつわか=勘九郎)が探し求めていると知る。いい金づるを見つけた欲深い法界坊に、永楽屋番頭の正八(亀蔵)や山崎屋勘十郎(笹野高史)らも加わり、鯉魚の一軸を巡る悪だくみが繰り広げられる 一度は道具屋甚三郎(実は𠮷田屋の忠臣・芝翫)にやり込められ散々な目に遭った法界坊だったが、お組の父 永楽屋権左衛門(彌十郎)と松若の許婚の野分姫(七之助)らも巻き込み、さらに数々の悪行を行う 幕が変わり、最後に大切所作事「双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)」の場面では、法界坊と野分姫の霊が合体したお組そっくりな葱売りの女(勘三郎)が出現し、徐々に本性を現しながら舞踏劇を展開する

 

     

 

これは本当に楽しいライブビューイングでした まず第一に、アドリブ満載の中村勘三郎の法界坊には笑ってしまいます 彼に負けず劣らず可笑しかったのは山崎屋勘十郎を演じた笹野高史です。顔と身体で演技していました そして、柔らかい身体を生かして柔軟体操のような演技を見せた番頭正八役の片岡亀蔵も大きな笑いを誘っていました 

18代目中村勘三郎は2012年12月5日に死去しましたが、その4年前のこの公演では二人の息子(勘九郎と七之助)と共演し、ライブビューイングとして映像が残されているのは良かったと思います それにしても中村七之助が演じた花園息女野分姫の何と美しかったことか

途中休憩15分を含めて165分の上映はあっという間に過ぎました チケット代2,100円は決して高くありません

 ところで、「歌舞伎」ということで思い出すのは、初めて歌舞伎を観た時の興奮です 70年代半ば、新聞関係団体に入職して1~2年くらいの時のことでした。アメリカの新聞記者約10人を日本に招いて日本の現況を理解してもらうプロジェクトがあり、講師を招いてのレクチャーから観劇・国内旅行まで私が彼らに同行し お世話することになりました その時、アメリカ側の希望により 東銀座の歌舞伎座での歌舞伎鑑賞がプログラムに組まれたのです  出し物は「児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)」です。これは、主人公の盗賊・忍者「児雷也」が宿敵「大蛇丸(おろちまる)」を相手に戦う物語ですが、児雷也が巨大なガマに跨って出てきたり、大蛇が出てきたり、いろいろな動物に早変わりで変身したりと、実にビジュアル的に楽しい歌舞伎でした 原色による鮮やかな衣装や舞台とも相まって、アメリカの記者たちは大喜びでした 最初に観た歌舞伎が「児雷也~」だったのが幸いし、私も歌舞伎が好きになりました ただ、当時からクラシックを聴いていたので、もしここで趣味の守備範囲を広げると、とことん のめり込むタイプなので泥沼状態になると恐れ、足を踏み入れることはしませんでした そのため、その後 歌舞伎を観たのは一度だけです しかし、歌舞伎は日本最高のエンターテインメントです その魅力には抗しがたいものがあります

 

     

 

         

 

17日に続いて『中央公論』11月号の特集「クラシック音楽に未来はあるか」の第2弾をご紹介します 指揮者・大友直人氏と思想史研究家・音楽評論家の片山杜秀氏による対談は、題して「助成金の先細り、観客の高齢化・・・マエストロと考える危機の乗り越え方」です

大友直人氏は1958年東京都生まれ。桐朋学園卒。22歳で楽団推薦によりNHK交響楽団を指揮してデビュー。現在、群馬交響楽団音楽監督、東京交響楽団名誉客員指揮者、京都市交響楽団桂冠指揮者、琉球交響楽団音楽監督

片山杜秀氏は1963年宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。2013年より慶應義塾大学教授。著書に「音盤考現学」「音盤博物誌」(両書で吉田秀和賞・サントリー学芸賞)など

 

     

 

片山氏は日本経済新聞に「クラシックの未来」というテーマのエッセイを寄せていますが(2018年2月12日付の当ブログ参照)、それを踏まえて次のように語ります

「そもそもオーケストラやオペラなどの大人数の出演者を要するクラシックの公演は、満員になって、チケット収入があっても、ペイしない構造になっている 100人のオケが2000人の聴衆を相手に演奏し、独唱と合唱とオケを合わせて200人で1500人の観客を前にオペラを演奏する。ポップスのコンサートなどと比べて効率が悪い だから、公共や民間の助成を受けないと成り立たない。助成が大幅に減額されたら、たちまち存続できなくなってしまう もう一つの危惧は、オーケストラの観客が高齢化していることだ 自分が中高生の時とはそこが全然違う。観客の年齢層に合わせて、オペラも夜だけでなく平日の昼にもやるようになっているが、今クラシックの演奏会に行っている人たちの足腰がたたなくなったら、N響だって都響だって定期演奏会の会場がガラガラになるのは目に見えている

これは根本的な問題です チケット代だけではオーケストラやオペラは経営が成り立たないという事実は、あまりにも一般の人たちに理解されていません ただ、主催者側はそういうことをアピールする努力をどれほどやっているでしょうか。「是非寄付をしたい」と思わせるようなパフォーマンスをやっているでしょうか

なお、この特集では 日本のオーケストラの収支構造を①大きなスポンサーをもつ東京のオーケストラ(N響、読響)、②大きなスポンサーをもたない東京のオーケストラ(新日フィル、東響)、③大きなスポンサーをもつ地方のオーケストラ(名古屋フィル、大坂フィル)、④大きなスポンサーをもたない地方のオーケストラ(京都市響、オーケストラ・アンサンブル金沢)の別に実額ベースで明らかにしています 非常に興味深い内容になっていますが、詳細をお知りになりたい向きは『中央公論』11月号をご購入下さい

片山氏はさらに、「世代による価値観の変化は確かにある」として、橋本徹氏が大阪府知事になり大阪センチュリー交響楽団の補助金を打ち切ったことを例に挙げます そして、

「昔なら、江戸英雄、佐治敬三、堤清二といった、数字とは別のところで判断する経営者がいたが、今だと楽天の三木谷浩史氏のように理解のある人はいるものの、次の世代に誰がいるのかと考えると、たぶんいない

と指摘しています

残念ながら、指摘の通り誰もいません。今はやりの経営者は自ら宇宙旅行に行くことには いくらでも大金を使いますが、文化を支えようとはしません

大友氏は「クラシック音楽の地位の低下」について次のように語っています

「いま日本のオーケストラが『弱く』なってきているような気がする 昔に比べて機能性は上がり、柔軟性も出てきているが、確固たる『音』がない サウンドに対する感性が弱い。日本のオケは器用だと思う。難しいリズムでも難しい音型でも、それを短時間で演奏できるプレーヤーがこれだけ揃っている一流のオケがいくつもある国は少ないと思う しかし、世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい 日本人は優れた感性を持っている。それをもっと磨いていくべきだ。今や日本のアニメは世界を席巻しているが、日本の漫画家たちは世界の読者を相手に描いているかといえば全然逆で、目の前の自分たちの読者を離さないために必死に描いている そういうことが芸術の分野で誰にも見えなくなっているような気がする

大友氏の「確固たる『音』がない。サウンドに対する感性が弱い」というのは、本当にその通りだと思います 私なりの解釈では「そのオーケストラ独自の音がない、カラーがない、つまり個性がない」ということだと思います。例えば、目隠しテストで、あるオーケストラが演奏して、「どのオーケストラが演奏したか当てよ」という問題が出されたら、自信を持って 私には正解する自信がまったくないと言えます どのオーケストラを聴いてもそれほど違いはなく、同じように聴こえるからです 個人的な経験から言えば、私はかつてドレスデン国立歌劇場管弦楽団(スターツカペレ・ドレスデン)の演奏する曲がラジオから流れてきたら、「これはドレスデンの音だ」と当てることが出来ました 他のオーケストラにない独特の”サウンド”を持っていたからです 今の在京オーケストラにこのような個性を持ったオケは残念ながらありません もし「ある」と言う人が少なくないのなら、私の耳が悪いのだと思います また、「世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい」という指摘は、超一流と一流と二流の演奏をすべて聴いた人にしか言えないセリフです しかし、クラシック愛好家に限ってみても、これらの差が分かる人、とくに超一流と一流の差が分かる人はどれくらいいるのでしょうか   また、オーケストラの皆さんはこういう特集記事を読んでいるのでしょうか 読んでいるとすれば、どう思っておられるのでしょうか

大友氏は「日本人が西洋音楽を演奏することの意味」について次のように語っています

「斎藤秀雄先生はよく『日本人は見方によってはとても有利だ』と言われていた つまり日本人は素地がないだけに、ドイツ人が演奏するフランス音楽よりもフランス的に、フランス人が演奏するドイツ音楽よりもドイツ的に演奏することが出来るかも知れない、そういう柔軟性を持っていると。これは当たっていると思う 日本人は歴史的にも文化的にも、あらゆるものを受け入れ、取り入れ、咀嚼することができる民族かも知れない。その意味で、日本人が西洋音楽をやる上での強みはある

「柔軟性」とは便利な言葉ですが、別の言葉に置き換えれば「器用貧乏」ということではないかと思います

大友氏は千住明氏や三枝茂彰氏のオペラを積極的に上演していますが、「日本にオペラは根付かないのか」という問題について次のように語ります

「日本の音楽家としての自分にとって最高に価値のある、意味のあることは何かと考えた時、それは日本のオペラの新作ではないか、と思った 本来、ブルックナーやマーラーのシンフォニーをコンサートホールの椅子に座って2時間聴くことより、オペラを観る方がずっと簡単なはずだ オペラは平たく言えばエンターテインメントの歌芝居だ。日本にオペラを根付かせたいのであれば、日本の日本語によるインパクトのある現代作品を上演することだ モーツアルトやワーグナー、プッチーニばかりやっていて、劇場を連日満員にするなんて、未来永劫そんなことは起こらない そんな認識も持てないまま、オペラ劇場を運営する状況が続いていること自体おかしい。今度、新国立劇場のオペラ芸術監督が大野和士君になったので期待したい

たしかに日本人による日本語のオペラの方がストレートに歌の真意が伝わってきて理解しやすいと思います 新国立オペラでいくつも日本人によるオペラを観てきましたが、團伊玖磨作曲「夕鶴」は言うまでもなく、いまだに瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲によるオペラ「愛怨」(2006年)は素晴らしかったと思うし、遠藤周作原作、松村貞三作曲による「沈黙」(2012年)も印象深いものがありました その意味では、新国立オペラの今シーズンの西村朗作曲「紫苑物語」には大いに期待しています

 

     

 

「文化を経営する」ことについて、片山氏は次のように語ります

「クラシック音楽は大事なものだという社会的コンセンサスが弱ってきて、公共にもお金がなくなって、クラシック音楽界に対する補助を減らしても、まあしょうがないんじゃないか、という空気が充満している おそらく残るのは、超一流とセミプロとアマチュアだけになるのではないか、という恐怖がある 歌舞伎のような伝統芸能は残していかなけばならないけど、それ以外は勝手にやってください、となりかねない

これに対し 大友氏は、

「歌舞伎は凄いと思う。歴史的には山あり谷ありで、興行的にもかなり厳しい時代があったと聞くが、公的助成を受けていない クラシック音楽界はもっと見習わなくてはいけない

と述べます。これを受けて 片山氏は、

「国立劇場が出来てからは、研修所なんかには公共のお金が入っているが、基本的に歌舞伎座は松竹の興業だ

と語ります。大友氏は、

「歌舞伎は看板役者はだんだん代わっていくが、いつの時代も、皆ちゃんと看板に育っていくし、仕立てていく それに比べてクラシックはどうなのか。看板がない 看板がどれだけ大事かという認識を持つオーケストラマネージャーや劇場支配人がいなくなってしまったのかもしれない。それを含めて歌舞伎は勉強になるはずだ クラシック音楽界をリードする人、自分の確固たる哲学を持ったオーケストラマネージャーを育てていかなければらない

と語り、昭和20年代後半から30年代初頭までN響にあった指揮研究員制度で、岩城宏之、外山雄三、若杉弘といった名指揮者が巣立っていったことを紹介しています その上で、

「今の中学生や高校生の中から次代を担う人材が生まれてくるかもしれない。これからも 出来るだけ若い人と接触する機会を持つようにしたい

と語っています。中高年層を相手にしていてはもう間に合わない、という危機感が垣間見られます

そして、寄付制度について大友氏は、

「いまの日本の社会は、基本的に文化活動に興味がない   それはオーケストラや美術館の展覧会がどういう背景によって成り立ち、どういう歴史があるのか、どういう財源によって維持されているのかという認識が、人々の中にないからだ    メトロポリタン美術館や大英博物館に行くと、至るところに『寄付をお願いします』と書いてあるので、子供の頃からオペラ劇場や美術館は寄付がないと存続できないことを自然に覚えると思う。日本にはそういう認識が薄い」 

と指摘しています。主張は理解できますが、日本はチケット代が高いと思います 1つでも多くのコンサートを聴きたいと思う身からは「寄付を考えるまでの余裕がない」というのが正直なところです 料簡が狭くてごめんなさい

大友氏は最後に、

「あらゆるジャンルの音楽のもととなっているクラシックのエネルギーを絶やしてはいけないし、これからはむしろそれをさらに強いものにしていけるはずだと信じている

と結んでいます

さて、クラシックに未来はあるのでしょうか 二人の対談で明らかになった問題点を解決した先に 未来は開けるのだと思いますが、さて そうした未来は近いのでしょうか

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岸本葉子著「エッセイの書き方 読んでもらえる文章のコツ」を読む / 村田沙耶香「コンビニ人間」、伊坂幸太郎「陽気なギャングは3つ数えろ」、米澤穂信「王とサーカス」他を買う

2018年10月18日 07時41分17秒 | 日記

18日(木)。わが家に来てから今日で1476日目を迎え、米財務省は15日、2018会計年度(17年10月~18年9月)の財政赤字が前年比17%増の7790億ドル(約87兆円)となったと発表したが、これはトランプ政権の減税による6年ぶりの赤字幅である というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                 公約実現のための結果だけど 赤字を理由にトランプがまた攻勢をかけてくるか?

 

         

 

昨日、夕食に「豚バラ肉のエリンギ炒め」と「シメジとキャベツの中華スープ」を作りました 秋はキノコ料理がいいですね

 

     

 

         

 

性懲りもなく 本を5冊買いました   1冊目は伊坂幸太郎著「陽気なギャングは3つ数えろ」(祥伝社文庫)です 伊坂幸太郎の作品は文庫化されるたびに当ブログでご紹介してきました これは「陽気なギャングが地球を回す」(2003年)、「陽気なギャングの日常と襲撃」(2006年)に次ぐ9年ぶりのシリーズ第3作です

 

     

 

2冊目は米澤穂信著「王とサーカス」(創元推理文庫)です 米澤穂信の作品も文庫化されるたびに当ブログでご紹介してきました

 

     

 

3冊目はジェフリー・アーチャー著「嘘ばっかり」(新潮文庫)です ジェフリー・アーチャーの作品は、クリフトン年代記(第1部~第7部)をはじめ、ほとんどすべての作品をご紹介してきました この作品は15の短編から成り、前の短編集「15のわけあり小説」から7年経っての刊行となります

 

     

 

4冊目は村田沙耶香著「コンビニ人間」(文春文庫)です ご存知「芥川賞」受賞作です

 

     

 

5冊目は橋本忍著「複眼の映像 私と黒澤明」(文春文庫)です 日本で一番有名な脚本家・橋本忍氏が黒澤映画の舞台裏を描いた作品です

 

     

 

いずれも読み終わり次第、このブログでご紹介していきます

 

         

 

岸本葉子著「エッセイの書き方 読んでもらえる文章のコツ」(中公文庫)を読み終わりました。岸本葉子さんは1961年鎌倉市生まれ。東大教養学部卒。エッセイスト。会社勤務を経て中国北京に留学。著作に「がんから始まる」「生と死をめぐる断想」など多数あります

 

     

 

著者は「序章」で、「エッセイを書くことを仕事として30年ほどになるが、エッセイの方法を体系的に学ぶ機会はなかった」と告白しています そして、「これから行うのは、エッセイを書くとき、頭の中で起きていることを、自分で捉え直し、分析し、言語化し、整理する作業であり、エッセイする脳を解剖する試みとも言える」と述べています その上で、次のような章立てで話を進めていきます

第1章:テーマは連想の始動装置ー「私」と「公共」の往復運動

第2章:頭にはたらきかける文、感覚にはたらきかける文ー無意識を意識する

第3章:リスク回避と情報開示ー「自分は他者ではない」宿命を超えて

第4章:文を制御するマインドー「筆に随う」はエッセイにあらず

終  章:ひとたび脳を離れたら

すべてをご紹介するわけにはいかないので、私がこの本を読んで「なるほど」と思ったことを中心に書こうと思います

まず最初は「エッセイの基本要件」です

「エッセイとは何か。何をどのように書くものか。非常に簡単な定義だが次のようになる」として

A「自分の書きたいこと」を、

B「他者が読みたくなるように」書く

ことだと書いています

つまり「自分の書きたいことを」「自分が書きたいように書く」のではエッセイにならないということです したがって「読ませる文章でなければならない」ということになります

次に「エッセイにおける起承転結」です

「文章には起承転結があり、『結』がとても大事だと教わってきたと思う しかし、エッセイでは『転』こそが題材であり、『結』はそんなに大事ではない

これを筆者は「ある、ある、へえーっ、そうなんだ」という言葉で置き換えて説明しています 「ある、ある」が『起』『承』であり、「へえーっ」が『転』で、「そうなんだ」が『結』に当たるということです 日常会話がそうなっているとして、次の例文を提示しています

「きのうね、酔っ払って帰ってきてね、けさ家を出ようとしたら鍵がみつからないのよ」(『起』)

「もう、きのう着てた服のポケットとか鞄の中とか、あちこち引っ掻き回して探したのよ」(『承』)

「そうしたら、どこにあったと思う?なんと部屋の外、ドアの鍵穴に挿してあるじゃない。ひと晩そのまっまだったわけよ」(『転』。一番話したかったこと)

「これからは、飲み過ぎに気を付けようとあらためて思ったよ」(『結』)

非常に分かり易い例示ですね

次に「リスク回避と情報開示」の中の「文は短く」です

著者は俳画のエッセイの書き出しを例に次のように説明します

「店などにときどき飾ってありますね。ひと筆がきふうの絵に、句らしきものが添えてある。俳画というものだそう。」

「これは3つの文章から成り立っていますが、一文で続けることもできなくはない」として

「店などにときどき飾ってある、ひと筆がきふうの絵に、句らしくものが添えられているのを、俳画というそうですが・・・」

と書き、「書き出しとしてはつらい長さです。短く切りたいがために、倒置法を用います」と説明しています

自分の書いた文章を後で振り返ってみると、一文が長いことがたびたびあります そのため主語と述語が離れてしまい、意味がストレートに伝わらないこともありました 私の書いているブログは日記であってエッセイではありませんが、そのエッセンスは同じだと思います これからは岸本さんのアドヴァイスを参考に書こうと思います

以上のほか、エッセイを書く時の注意点を具体例を交えて説明しているので分かり易いと思います ブログを書いている方に特にお薦めします

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「クラシックに未来はあるか」~京都大学教授・岡田暁生氏の見解=『中央公論』11月号の特集から / ジャン・ルノワール監督「大いなる幻影」「恋多き女」を観る~早稲田松竹

2018年10月17日 07時22分25秒 | 日記

17日(水)。わが家に来てから今日で1475日目を迎え、東京都品川区の土地を購入しようとした積水ハウス(大阪市)が偽の地主にだまされて約55億円の詐欺被害に遭った事件で、警視庁捜査2課は16日 偽の書類を法務局に提出して土地の所有権を無断で移転登記しようとしたとして、土地所有者の女性に成りすました職業不詳の女性ら数人を偽造有印私文書行使などの疑いで逮捕した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

      東証一部上場の一流企業がだまされたって? コンプライアンスはどこにあるのか

     

         

 

昨日、夕食に「鶏の照り焼き」と「トマトの卵スープ」を作りました。「鶏の~」は河野雅子先生のレシピです。簡単で美味しいです

 

     

 

         

 

『中央公論』11月号が「クラシックに未来はあるか」を特集しています 特集は①「助成金の先細り、観客の高齢化・・・マエストロと考える危機の乗り越え方」=片山杜秀氏と大友直人氏による対談、②「クラシック音楽家よ、まずは芸人たれ ”立派な芸術”だから必要だなんて言えない」=岡田暁生氏の論考、③「西洋音楽という概念を超えて 新作オペラ『紫苑物語』を世界に問う覚悟」=大野和士氏へのインタビュー、の3つから構成されています

 

     

 

ここでは京都大学教授・岡田暁生氏の論考「クラシック音楽家よ、まずは芸人たれ ”立派な芸術”だから必要だなんて言えない」をご紹介します

岡田暁生氏は1960年京都府生まれ。大阪大学助手、神戸大学助教授を経て現職。著書に「音楽の聴き方」(吉田秀和賞)などがあります 当ブログでも「クラシック音楽とは何か」(小学館)をご紹介しました 


     


岡田氏の論考を超訳すると次のようになります

「コンサートの聴衆の高齢化が言われている 昭和高度経済成長期と比べるとクラシック音楽が斜陽産業であることは明らかだ 私が子供だった頃、あちこちの家からピアノの練習が聞こえてきた どうして戦後昭和の日本人がクラシック教育に熱を上げたかといえば、素朴な『教養』への信仰があったのだと思う 少なからぬ数の人々が子どもにピアノやヴァイオリンを習わせていたとすれば、当時のクラシック産業が途方もなく潤っていたのも当然だった そこには「~かぶれ」的な似非教養主義と紙一重のものがあったし、そもそも人々がこぞって地球の裏側の100年以上も昔の音楽の習得に熱を上げるなど、かなりいびつな状況だったことは否定できない だから今どきの政治家が『クラシックへの補助金など必要じゃない!』といった発言をしても、それを頭ごなしに否定は出来ない自分が確かにいる。少なくともそういう発言に対して、『クラシック音楽は立派なものだから必要だ』という理屈で反論を試みても勝てるはずがないと思う クラシック聴衆層が仮に超高齢化の危機に瀕しているのだとして、何より必要なのは『意地でもオレたちの音楽を聴きに来させてやる!』という気合いのようなものだと思う 敢えて言えば、もっと『芸人根性』のようなものをクラシック音楽家に求めたい。芸術家は芸術家である以前にまず芸人であるはず 例えば、20世紀最大のピアニスト、ホロヴィッツがプライベートでピアノを弾いて好き放題に遊んでいるネット動画があるが、彼は超一流の大道芸人だ 一度耳にした聴き手は絶対に次も足を運ぶ、そんな音楽を聴きたい。お仕事としての音楽はまっぴらだ ただし、音楽家をビジュアル・アイドル的に売ることには絶対反対だ。クラシック音楽はその核に『音楽』があってのものだ。ヴィジュアル面で『芸人』するのではなく、音楽そのものによって『芸』を見せてほしい 個人的な経験を言えば、10年くらい前にドレスデンのオペラ劇場でR.シュトラウス「無口な女」を観たとき、100人のオケと歌手に対し聴衆は50人くらいしかいなかった それでも彼らは『せっかく来てくれたお客さんだから、せめて彼らにはいつにも増して満足してもらおう』という心意気が伝わってくるようなテンションで演奏してくれた 一流の音楽家はお仕事観をまったく感じさせない。彼らは聴衆が少しであっても、『来たお客は絶対に逃さない』と言わんばかりの根性を見せる。そこには『芸術=立派なもの』といった”上から目線”は存在しない。クラシックの未来は明るくない いつ絶滅の時が来ても不思議ではない。そうであるならば、今こそがその時であるかのように、夜ごと美しき刹那の夢を聴かせてほしい

私がこの論考を読んで一番共感を感じたのは、「一度耳にした聴き手は絶対に次も足を運ぶ、そんな音楽を聴きたい。お仕事としての音楽はまっぴらだ」というフレーズです 私はコンサートを聴いて、その時の演奏が心の底から良かったと思うかどうかについて「もう一度、今の演奏を聴きたいか」という基準を持っていますが、それと同じことでしょう

岡田氏が例に挙げたドレスデンのオペラ劇場での経験と似たようなケースいうことで言えば、つい先日聴いた「オイストラフ弦楽四重奏団」のコンサートがまさにそうでした   聴衆は5割から多くても6割くらいの低調な入りでしたが、最後のメンデルスゾーンを白熱の演奏で終え、聴衆の熱狂的な拍手を受けてアンコールに演奏したバルトーク「ルーマニア民族舞曲」は入魂の熱い演奏で、さらに自国の作曲家チャイコフスキーの曲まで演奏したのでした   あの時は 彼らの「来たお客には いつにも増して満足してもらおう」というプロ根性を感じました 

 

         

昨日、早稲田松竹で「大いなる幻影」と「恋多き女」の2本立てを観ました

「大いなる幻影」はジャン・ルノワール監督・脚本による1937年フランス映画(白黒・114分・デジタル修復版)です

ドイツ軍に撃ち落とされ捕虜となったフランス飛行隊のマレシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ボアルデュー大尉(ピエール・フレネー)は脱走を繰り返した挙句、脱出不可能と言われる古城の将校捕虜収容所に送られる そこで署長を務めていたのは、かつて2人を撃ち落としたドイツ貴族ラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)だった。同じ貴族階級のド・ボアルデューとラウフェンシュタインは親交を深めていくが、マレシャルやユダヤ人ローゼンタール中尉(マルセル・ダリオ)の新たな脱走計画は着々と進められる ド・ボアルデューがドイツ兵を引き付けている間に、マレシャルとローゼンタールは窓からシーツで作った縄で脱出を図る ド・ボアルデューはラウフェンシュタインの銃に倒れ、マレシャルとローゼンタールは酪農を営む未亡人エルザの家に匿われる マレシャルとエルザはお互いに愛し合うようになるが やがて別れの時がやってくる

 

     

 

この映画はその昔一度観た記憶がありますが、今回あらためて観て、まったく内容を覚えていないことを自覚しました 初めて観たようなものでした

「大いなる幻影(仏題:La Grande Illusion)」は、マレシャルとローゼンタールの会話からとられています マレシャルが「この戦争が終わったら エルザを迎えにここに戻ってくるんだ」と言うと、ローゼンタールは「それは幻影だよ」と返します。つまり、「戦争はそう簡単に終わるわけがない」ということを暗示しています

貴族ということで、最初のうちは仲間から信用されていなかったド・ボアルデュー大尉は、ドイツの貴族ラウフェンシュタイン大尉と心を通わせますが、自分の立場を見極め、最後は自分が犠牲になって仲間二人を逃がします 戦争さえなければラウフェンシュタインは引き金を引くことはなかったし、ド・ボアルデューは死ぬことはなかった ルノワール監督がこの映画を通して言いたかったことは、そうした戦争の不条理だったと思います

ところで、この映画の冒頭近く、マレシャルとド・ボアルデューがドイツ軍の元に連行され、ラウフェンシュタインらと食事をするシーンがありますが、その時レコードから流れたのはヨハン・シュトラウスのワルツ「ウィーンの森の物語」だったと思います   当時オーストリア・ハンガリー帝国はドイツ帝国の同盟国でしたから不思議ではありませんね

 

         

 

「恋多き女」はジャン・ルノワール監督・脚色による1956年フランス映画(99分・デジタル修復版)です

時は20世紀初頭。パリでは7月14日の革命記念日に沸いている。夫に先立たれ財産も底をついた美貌のポーランド公女エレナ・ソロコフスカ(イングリット・バーグマン)は、富豪の実業家マルタン=ミショー〈ピエール・ベルタン)との縁談を進めていた そんな中、パレードの群衆の中で、アンリ・ド・シュバンクール伯爵(メル・ファ―ラ―)と出会ったエレナは、アンリの親友で国民的人気を誇るフランソワ・ロラン将軍(ジャン・マレー)のもとを訪れる アンリとロランとマルタン=ミショーの3人の男たちがエレナに心を奪われる中、彼らの行動はフランスの国家体制を揺るがしていく その運命はエレナの純真な心に委ねられていた

 

     

 

この映画はベル・エポックのパリを舞台に描いた恋愛喜劇です イングリット・バーグマンと言えば「カサブランカ」(1942年)の白黒映画のイメージが強すぎて、カラーで観る彼女はまるで別人に見えました

喜劇なので楽しいのですが、登場人物が多くテンポが速いので追いついていくのが大変でした なお、この映画ではジプシー娘ミアルカにシャンソン歌手ジュリエット・グレコが扮しています。当時彼女は女優としても活躍していたのですね

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