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クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

在京オーケストラの定期演奏会に思う

2011年02月28日 17時32分22秒 | 日記
28日(月)付日経朝刊最終面にコラム「文化往来」が掲載された。タイトルは「東京のオーケストラ、指揮者起用で独自色」。それによると「東京フィルは4月から1年間、定期演奏会のほとんどを日本人指揮者で構成する。一方、新日本フィルは今年夏までの定期演奏会の指揮者を4人の外国人で固定している。双方とも経費面等でリスクを負ってでも芸術面では前を向いている」というものだ。

私は1年前まで東京フィルの定期会員だった。チョン・ミュンフンがスペシャル・アーティスティック・アドバイザーとして年に何回か振るからという要素が大きかった。彼のマーラーやベルリオーズを聴きたかったからだ。残念なことに彼は昨年その地位を退いた。定期会員を止めるのに何の躊躇もなかった。

それと入れ替わりに、新日本フィルの定期会員になった。若手で成長株のダニエル・ハーディングやピリオド楽器演奏の第1人者フランス・ブリュッヘンが振ることがわかったからだ。しかも前者はマーラーを後者はバッハを指揮するということで。

あるオーケストラの定期会員になるかどうかの判断基準は、第1にプログラム構成であり、第2にだれが振るかだ。指揮者でいえば、東京フィルは日本人以外ではダン・エッティンガーのみだし、日本人では大野和士がいない。2人とも大変優れた指揮者である。日本人がすべてダメというわけではないが、現状のラインアップを見る限りあまりにも魅力に乏しい。

指揮者を何人かに絞って1年間固定する新日本フィル方式の方が、指揮者にとってもオーケストラにとっても、じっくり演奏曲目に向き合うことができていいのではないか。
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バッハ「ミサ曲ロ短調」を聴いてきました~ブリュッヘン・新日本フィル

2011年02月27日 17時35分34秒 | 日記
27日(日)午後、すみだトリフォニーホールでフランス・ブリュッヘン指揮新日本フィルによるJ.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」を聴いてきた。ブリュッヘンは18世紀~19世紀初期の音楽演奏のパイオニア的存在だ。古楽器を使ってバッハやハイドンからメンデルスゾーンまで演奏する。

オーケストラは各パートの人数を絞った小編成。とはいえバッハ・コレギウム・ジャパンほどではない。半面、コーラスは男女合わせて100人。オケとコーラスがスタンバイしたところに、背が高くやや猫背で痩せた白髪の老人が、おぼつかない足取りで出てきた。ブリュッヘンその人だ。「大丈夫かな、この人?」と心配したが、指揮台の椅子に座り、右手を振り下ろし、最初の「キリエ」の音楽が鳴った途端、聴衆はバッハの世界に引き込まれてしまった。指揮棒は握らない。彼は最小限の手の動きで最大限の音楽を引き出す。

最初の第一部ミサの「キリエ」に続く2番目の「グロリア」(栄光の賛歌)こそ、”もう目前に春が来ている!”という今の季節にふさわしい曲だ。春になるとウキウキとしてなぜか嬉しくなるものだ。そんな気分を表しているかのような喜びに満ちている。

実は、午前中、オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967年録音)によるCDを聴いて予習をしておいた。同じ現代楽器による演奏ということで比較してみたかったからだ。クレンペラーは、テンポが遅い。バッハに限らず、これは彼の演奏の特徴だ。そのかわり堂々としていて安定感がある。それに対し、ブリュッヘンは比較的軽快なテンポで進めていく。演奏後の印象は変わらない。どちらも感動的だ!!

ソプラノのラーションとゾーマー、カウンターテナーのグーテム、テノールのコボウ、バリトンのジョンソンは皆素晴らしかったし、この曲で重要な役割を果たす合唱の栗友会(りつゆうかい)合唱団も熱演だった。終演後、ブリュッヘンは何回も舞台に呼び出され、観客だけでなく、オーケストラや合唱のメンバーからも盛んな拍手を浴びていた。こういう演奏を聴くといつも思う。生きていてよかった!

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佐藤正午の小説について思う

2011年02月26日 21時19分09秒 | 日記
今年に入って読んだ本は次の15冊。読んだ順に○ジェフリー・ディーバー「ショパンの手稿譜」○同「12番目のカード・下」○同「同・下」○マーク・ストレンジ「ボディー・ブロー」○櫻井よし子「異形の大国・中国」○誉田哲也「ジウ1」○同「ジウ2」○同「ジウ3」○同「国境事変」○中山七里「さよならドビュッシー」○朝倉かすみ「田村はまだか」○百田尚樹「輝く夜」○カズオ・イシグロ「夜想曲集」○誉田哲也「シンメトリー」○佐藤正午「アンダー・リポート」。

先ほど佐藤正午を読み終わったばかり。ジャンルで言えば推理小説に分類されるだろう。最期の1行を読み終わって、思わず最初の1行から読み直してしまった!不思議な物語だ。この人の小説には独特の世界がある。彼の本は何冊も読んだが、一昨年から昨年にかけて読んだ「身の上話」はNHKーBSの「週間ブックレビュー」で取り上げられて読書界の話題をさらった小説だ。語り口がうまく、ページをめくる手が止まらない!最期の最期でとてつもないどんでん返しがあって、思わず「えっ?!」と叫んでしまった。残念ながら2000枚のLPレコードを収納するスペースを確保するため他の900冊とともにブック・オフに売却してしまった。その後LPは500枚処分したが。

「アンダー・リポート」の中にも出てきたが、「食パンにリンゴを薄くスライスして載せてトーストするだけ」のおやつが、複数の小説に登場する。この人はよほどこの「おやつ」が好きなのだろう。簡単にできそうなので今度試しに作ってみようと思う。
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東響「東京芸術劇場シリーズ第107回」フィナーレ

2011年02月25日 22時58分05秒 | 日記
25日(金)池袋の東京芸術劇場で東響の「東京芸術劇場シリーズ」演奏会を聴いてきた。このシリーズは指揮者大友直人が1992年4月にスタートし足掛け20年続けてきたもので、今回がシリーズ最終回の第107回目を迎えた。この劇場が新年度から1年半の休場となることを機会にピリオドを打つことを決めたとのこと。今日のプログラムはポーランド生まれのパヌフニクの交響曲第3番「祭典」、ソリストに上原彩子を迎えたラベルのピアノ協奏曲、イギリスの作曲家スタンフォードの交響曲第3番「アイリッシュ」の3曲。

パヌフニクはオーケストラの4隅にトランペットを一人一人配置してファンファーレから始まる。少し前に村上春樹の小説に出てきて話題になったヤナーチェクの「シンフォニエッタ」を思い起こさせる曲想だった。

ラベルは上原が第2楽章「アダージョ・アッサイ」で、このシリーズの終わりを惜しむかのように切々と惜別の歌を奏でているのが印象的だった。上原彩子も貫禄が出てきたなあ、と思った。ちょっと太ったかな?とも。

スタンフォードはアイルランド音楽が根底に流れているが、ときにブラームスのような、ときにエルガーのような、同時代の音楽家の曲想が聴こえてきた。

春一番が吹いたこの日、一人の指揮者の大業が成し遂げられた。他の指揮者があまり取り上げてこなかった作曲家に光を当て、日本の音楽界に紹介してきたことは彼の大きな功績だと思う。
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ブログの表紙を決めました~アナクロニズムの代表格「蓄音機」がお迎えします

2011年02月24日 20時57分36秒 | 日記
本日、テンプレートをご覧のとおり蓄音機に決定しました。いろいろ迷ったのですが、結局、音楽に関係のあるアイテムを、ということで決定です!

今日はモーツアルトがピアノ協奏曲第26番ニ長調K537番を完成した日です。1788年2月24日ですから、今から223年前の今日ということになります。彼は1756年生まれですから32歳の時の作品です。そして3年後の1791年には亡くなっています。死因は今でも不明です。どこに埋葬されているのかも不明です。いまそのK537を聴きながら書いています。曲は底抜けに明るいのに、なぜか悲しいです。

今から25年前の1986年5月、ウイーンの中央墓地にあるモーツアルトの墓(といっても、そこに埋葬されているわけではなく、モニュメントでしたが)に墓参りに行き、花束を捧げてきました。モーツアルト生誕の地ザルツブルクにも滞在し、彼と同じ空気を吸ってきました。とても幸せでした。またウイーンに、ザルツブルクに行きたいと思っています。

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新日本フィルの室内楽シリーズを聴いてきました

2011年02月23日 23時34分09秒 | 日記
23日(水)すみだトリフォニーホール(小ホール)で新日本フィルの室内楽シリーズ「音楽家たちの饗宴2010-2011~今年は、ベートーベン!~」を聴いてきた。昨年から始まったシリーズで昨12月に前半4回が終わり、今日が後半のスタート。最初のうちは「このシリーズ、あまりパッとしないな」と思っていたが、第3回目にベートーベンの七重奏曲作品20を聴いた時に「ベートーベンってやっぱりいいなあ」と改めて感じた。とくにバイオリンの山田容子さんとクラリネットの重松辰巳江さんの掛け合いが絶妙な対話になっていて、室内楽の醍醐味を十分堪能できた。そういうこともあって、後半も定期会員を継続することにしたものだ。

第5回目の本日のプログラムは前半がショスタコービチの「ピアノ三重奏曲第2番」、後半がベートーベンの「弦楽四重奏曲第7番・ラズモフスキー第1番」。ショスタコービチはバイオリン:佐々木絵里子、チェロ:弘田徹、ピアノ:中村真里が演奏した。第1楽章は冒頭、チェロが高音部ですすり泣く様なテーマを奏でるが、弦をこするナマの音なのかゴーゴーという風のうなりのような音が聞こえてきたのにはすこし驚いた。

気になったのは25分足らずの曲なのに各楽章ごとにチューニングをやり直していたことだ。たぶん、小ホールなので天井が低く照明装置と楽器との距離が近いせいで温度が上がり弦の張りに影響を与えたのではないか、と思う。

この曲も反体制音楽家の目に見えない抵抗が現れているといわれているが、演奏だけをとってみれば、第2楽章のスケルツォがスピード感にあふれ諧謔的に表現されたみごとなアンサンブルだった。

ラズモフスキーは第1バイオリンをコンマスのチョイ・ムンス、第2バイオリンを中矢英視、ビオラを中村美由紀、チェロを花崎薫が演奏した。チョイは新日フィルの定期公演を見るとわかるが、椅子を極端に高く調整して座る。コンサートマスターは、他の演奏者が見え易いようにそのようにするのだが、チョイの場合は極端で、中腰でバイオリンを弾いているのではないか、と思うほど腰の位置が高い。

しかし、弦楽四重奏である。オーケストラではない。一人一人がお互いの顔が見える位置にいる。それでもなおかつ椅子を高くしなければならない理由は何か?かつてバリリ弦楽四重奏団に代表されるような、第1バイオリンが他のメンバーをひっぱっていくタイプのグループが一世を風靡したが、そうした方向性を目指したのだということを目に見える形で現したものなのか?答えは本人しかわからない。機会があったら聞いてみたいものだ。
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吉田秀和「音楽展望」に思う

2011年02月22日 20時48分11秒 | 日記
先週土曜日(2月19日)の朝日新聞文化面に吉田秀和氏の「音楽展望」が載った。タイトルは「ああ相撲!勝ち負け、すべてではない」。最近の大相撲の八百長事件に触発されて書かれたものと思う。コラムは最初から最後まで相撲の話に終始している。どこに「音楽の展望」があるのか?

吉田秀和といえば、音楽に止まらず美術を含めて芸術全般について評論活動を展開してきた大御所である。かつて往年の大ピアニスト:ホロビッツの来日公演のとき、日本の音楽評論家たちが当たり障りのない批評を書いていた中で、彼は「ひび割れた骨董品」という言葉を使い、やんわりと、いや、明確に技術の衰えを指摘したものだ。

彼の音楽評論の中で今でも忘れられない表現がある。それは今から20年ほど前にカラヤンがベルリン・フィルを指揮して録音したモーツアルトのディベルティメント第15番K287のアダージョを評して「脂ののったビーフステーキのような」演奏だ、と書いたのだ(表記は正確ではないかもしれない)。この文章を読んだ時「まさにピッタリの表現だ!」「あっさりした演奏ではないし、分厚いステーキのような重みのあるこってりした演奏だ」と思った。抽象的な事柄を身近な事象に置き換えて表現することができる、さすがは吉田秀和!!と思ったものだ。

「音楽展望」は長年にわたり定期的に(月に1回?)朝日新聞に連載されてきたが、何年か前にドイツ人の奥様を亡くされてから急激に執筆意欲が減退しペースが落ちたと聞いていた。最近では、不定期に、忘れた頃に掲載される程度になってしまった。

さて「ああ相撲!」の音楽展望に戻る。以前から彼は「音楽展望」のタイトルとは無関係のことを取り上げてきたことが少なくない。太っ腹な朝日は「コラムの名称がどうであれ、内容は吉田秀和氏にいっさいお任せして書きたいことを自由に書いてもらおう」という方針にいつかの時点で転換したのではないか。しかもかなり早い時点で。新聞社としてはそれでよいのかもしれないが、読者としては「音楽展望」に何を求めたらよいのか?正直に言わせてもらうと、われわれ読者は「音楽展望」のタイトルで書くからには音楽を取り上げてほしい。その中で、「ビーフステーキのような」という分かり易い言葉で批評してほしいと思う。

しかし吉田秀和氏も今年で98歳!そのように望むのは無理なことなのかな・・・さみしい気がする。





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アリス=沙良・オットのこと

2011年02月21日 21時19分33秒 | 日記
先ほど映画音楽の中でベートーベンの「ワルトシュタイン・ソナタ」のことについて触れたが、今年に入ってナマでこの曲を聴いたのを思い出した。それは1月12日(水)オペラシティ・コンサートホールで開かれたアリス=沙良・オットのピアノ・リサイタル。この日は前半がメンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」とベートーベンの「ワルトシュタイン・ソナタ」、後半にショパンのワルツとスケルツォが弾かれた。オットはそれぞれの作曲家の曲を見事に弾き分けていたが、とくに軽快なテンポの「ワルトシュタイン」が良かった。
このリサイタルの前週の1月7日(金)サントリーホールで開かれた東響の第585回定期演奏会で、彼女をソリストにリストのピアノ協奏曲第1番が演奏された。リスト生誕200年という節目の今年に、東響はこの曲を新年初の定期公演にぶつけてきたのではないか。オットをソリストに迎えて。どちらかというと細身の、決してがっちりした体型ではないが、奏でられる音は力強く、聴く者に迫ってくるものだった。
演奏が終わって舞台の袖に引っ込むときにロング・ドレスをちょっとたくし上げて早足で歩いていたが、「あれっ?!」と思った。彼女は靴をはいていない!つまり素足で演奏をしていたのか?まさか!!と思ってプログラムを見ると、解説者が「彼女は素足で演奏する」と書いていた。間違いなく彼女は素足のピアニストだった!素足の方がペダル操作がスムーズに行くのか、専門外なのでわからない。とくに冬場は床も冷たいだろうに、演奏に差し支えないのだろうか?などと余計な心配をしてしまった。演奏会後のサイン会はホワイエを5往復するほど長蛇の列。もちろん、家から持参した彼女のショパンのCDにしっかりサインをもらってきたのは言うまでもない。
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映画と音楽について

2011年02月21日 18時33分35秒 | 日記
今年に入って観た映画は次の5本。「ゴダール・ソシアルスム」「METオペラ:ドン・カルロ」「闇の列車・光の旅」「トイレット」「トロッコ」。映画を観るときいつも気になるのはどんな音楽がどういうシチュエーションで使われているかということだ。とくにクラシック音楽が流れてくると、だれのどういう曲かを思い起こす。今年観た中では「トイレット」でベートーベンのピアノソナタ「ワルトシュタイン」がテーマ音楽のように使われていたほか、ピアノを弾くシーンではリストの「コンソレーション」が弾かれていた。久々に観た心温まるいい映画だった。
昨年は99本観たが、最も印象に残っているのは「シャッター・アイランド」で流れた音楽だ。主人公2人が部屋に入ると音楽が流れている。ピアノの連打に弦楽器が深く静かに重ねられて流れていく。一人が「ブラームスだ」という。観ているこちらも「ブラームスらしいぞ。ピアノ四重奏にこんな曲があったかな」と思う。すると、もう一人が「マーラーだ」という。こちらは「えっ!?まさか・・・」と思う。しかしそこに流れていたのはマーラーが若い時に作曲したピアノ四重奏曲・イ短調だということがわかる。まさか、と思ったのは、若い時とはいえマーラーはこんなにブラームスに近い音楽を書いていたのかという驚きだった。映画を観たその日は、家に帰って早々にCDを引っ張り出してその曲を聴いたのを覚えている。
映画との出会いは音楽との出会いでもある。これからどんな映画にどんな音楽が使われているか観て聴くのが楽しみだ。
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マリインスキーオペラ「トゥーランドット」を聴いてきました。

2011年02月20日 21時30分40秒 | 日記
20日(日)NHKホールでワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラによるプッチーニの「トゥーランドット」を観てきた。1階C18列24番。ヒロインのトゥーランドット姫をマリア・グレギーナ、カラフをガルージン、リューをゲルズマーワが歌った。これを観たいと思ったきっかけは、去年、東劇でメト・オペラビューイング(ニューヨークのメトロポリタンオペラが上演したオペラを映画化して全世界で公開した映像)を何本か観たが、グレギーナがトゥーランドットを歌っているのを観て、あまりの素晴らしさに感動して再び観に行ったのだ。彼女の歌うトゥーランドットをナマで観ないうちは死んでも死に切れない、と思っていたところ、思ったよりも早くそのチャンスが訪れたという訳だ。しかも指揮は今や飛ぶ鳥を落とす勢いのゲルギエフ、聴きに行かねば一生後悔する!!
第1幕はトゥーランドットの歌う場面がないのだが、彼女が舞台下手から出てきて中央で「首を切れ」というジェスチャーをして上手に去っていっただけなのに、その存在感といったらすごかった。一言も言葉を発していないのに冷徹な姫君の性格を表現していた。第2幕第2場に彼女のアリア「この宮殿に」が歌われ3つの謎かけが始まるが、最初はちょっぴり音楽の流れに乗り切れていないかな?と感じたが徐々に調子を上げてきた感じだった。とは言うもののグレギーナはグレギーナだ。圧倒的なドラマチック・ソプラノの歌唱力は衰えることを知らない。リュー役のゲルズマーワは1994年のチャイコフスキーコンクールの声楽部門でグランプリ(一位の上)を受賞したという実力者で、世界中のオペラ劇場で引っ張りだこの人気者だ。心やさしいリューの役柄をリリック・ソプラノで可憐に歌い上げ、拍手を浴びていた。
全体を通して声も役作りも優れていたのはカラフ役のテノール:ガルージンだった。とくに第3幕冒頭のアリア「だれも寝てはならぬ」は歌い終わった後オーケストラ演奏が続いている中、拍手が始まり、しばし鳴り止まなかった。
ところで、圧倒的な迫力の音楽の中で幕が下り、出演者全員が舞台に揃って観客の拍手に応えていたとき、舞台上のコーラスの中からカメラのフラッシュが焚かれた。その後、観客席からも2ヶ所でフラッシュが焚かれた。オーケストラやオペラの公演では、必ず直前に「ケータイの電源を切ること」「録音や撮影をしないこと」をアナウンスする。こんな事は今では世界の常識だ。今回の件は「日本の恥」だ。それにしても、ロシアから連れてきたコーラスの中にも1人とはいえ非常識な輩がいたのは「ロシアの恥」だろう。「2対1で日本の負け」という問題ではない。平気でフラッシュを焚くような無法者は、わざわざ高いお金を払ってオペラを観に来ることはない。自宅のテレビで「タレントのタレントによるタレントのための番組」でも見ていればよいのだ。その方が世のためひとのためになる。
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