明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(68)1号機、事実上の水棺処理・・・?

2011年04月23日 12時30分00秒 | 明日に向けて4月1日~30日
守田です。(20110423 12:30)

福島原発の現状は、このところ僕には、靄がかかった状態が続いています。
一時は1号機で臨界の可能性が懸念されていましたが、東電が基礎的データで
あるクロル38の存在の有無を間違っていたことが分かりました。臨界の懸念は
薄まりましたが、データの誤りが訂正されただけで、実態は相変わらず、よく
分からないままです。

一体が何がどうなっているのか。何がどこまで進んでいるのか。

そう考えあぐねているときに、新しい情報が入ってきました。1号機で「事実上の
水棺処理が進んでいる」というのです。水棺処理とは、原子炉圧力容器と、
その外側にある格納容器の中を水で満たし、原子炉の冷却を行おうと
するもの。これまで理論的な検討はされてきたものの、実際には一度も
適用されたことのない全く未知の技術です。

これが初めて報じられたのは4月7日に頃。東京新聞の記事によれば、
「同本部(対策本部)は、現在1~3号機で進めている格納容器への窒素の
注入が終わった後で、1号機から作業に入ることを検討している」と
書かれていました。

ところが、1号機の窒素注入の完了の報道はあいまいにしかなされませんでした。
ある程度以上は入らないことが報じられていたので、どの時点かであきらめて
注水に踏み切ったものと思われます。

しかし当初予定されていた2号機、3号機への窒素注入は行われず、1号機の
水棺が優先されている。つまり、「水素爆発の可能性を限りなくゼロにする」
ための2号機、3号機への窒素注入はいまだ行われないままの状態が
続いています。

一方、1号機について、読売新聞は「事実上の水棺処理」と書いていますが、
何が「事実上」なのでしょうか。おそらく、東電側が、「水棺」とは言ってないが
ゆえに「事実上」という修飾がつくのだと思われますが、それがなぜなのか
この短い記事からは読み取れません。

また他方で記事には次のように書かれています。
「1号機の圧力容器には、これまでに約7000トンの水が注入されており、
東電は、この水がほぼ全量、格納容器内にとどまっているとみている」。
本当にそうなのでしょうか。

これまで東電は再三再四、甘い見通しを語ってきましたが、窒素を一定以上
注入すると圧力がそれ以上上がらずに漏れてしまうのは、格納容器のどこかが
壊れていることを物語っています。あるいは格納容器の上部なのかもしれま
せんが、ともあれ破損が生じている可能性のある格納容器が、7000トンもの
水の重圧に耐えられるのだろうか。

とくに懸念されるのは、大きな余震があった場合です。水がたくさん入った
容器は地震の揺れに非常に弱い。そのために、汚染水を回収しようとして
いるタービン建屋内の復水器も、満杯にはしない処置が取られています。

ましてや1号機の格納容器には、一時期、設計強度である4.3気圧を大幅に
上回る8気圧の圧力が加わりました。温度も上昇し、設計限界を上回って
いた。それやこれやさまざまなダメージが蓄積してきています。そこに水を
たくさんはって大丈夫なのだろうか。

恐らくこれもまた、他に手段がないがゆえに取られている選択の余地のない
手段なのではないかと思われます。そうであるならば、その成功を祈る以外
ないものの、少なくともその危険性を、明らかにするべきです。

また爆発阻止と銘打った窒素注入の1号機での成果や、2号機、3号機の
遅延の理由も明らかにされなければいけない。にもかかわらず、どうして
記者さんたちはこのことを尋ねないのでしょうか。

他方で、東京新聞では4号機のプールの水温が91度もあり、高止まりしている
ことが告げられています。これもかなりの危険な状態なのではないか。
ここには燃料集合体が1535体もあります。そのうち使用済み燃料は1331体
であり、新しい燃料がさらに重ねてあって、発熱量が高く、なかなか冷えない。
ここもまた危機的な状況が継続しているのではないか。

ともあれこのところの発表は多くのことが僕には不透明です。
情報解析を進め、靄の奥を見通すための尽力を続けます・・・。


*****************************

1号機、事実上の「水棺」処理

2011年4月23日06時00分 読売新聞
 東電は22日の記者会見で、福島第一原発1号機の格納容器の下部にある
圧力抑制室が、ほぼ水で満たされているとみられることを明らかにした。

 ドライウェルと呼ばれる上部も半分程度、水がたまっているとみられ、燃料が
完全に水につかるまで格納容器を水で満たす「水棺」処理が事実上進行
していることになる。

 圧力抑制室は通常、約50%の水が入っており、圧力容器の内部が非常に
高圧になると、弁を通じて内部の蒸気を導き、水中で冷却、凝結させて全体の
圧力を下げる。1号機の圧力容器には、これまでに約7000トンの水が
注入されており、東電は、この水がほぼ全量、格納容器内にとどまっていると
みている。

 2、3号機には格納容器の容量(約7000トン)を上回る1万4000トン、
9600トンが注水されているが、圧力抑制室の損傷などで格納容器から
流出し、タービン建屋などに流入している可能性が高いという。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110423-OYT1T00160.htm

福島第一原発 「水棺」冷却を検討

2011年4月8日 朝刊 東京新聞
 福島第一原子力発電所の事故で、政府と東京電力の事故対策統合本部が
、核燃料棒が入った圧力容器とその外側の格納容器の内部を水で満たすことで、
原子炉を継続的に冷却する「水棺(すいかん)」を検討していることが七日、
分かった。水棺は原発事故の処理方法として研究されているが、実際に
行われれば世界で初めてとなる。

 政府と東電の関係者によると、福島第一原発では大量の高濃度汚染水が
建屋内などにたまり、復旧作業が難航している。対策本部は水を循環させて
海水との熱交換で水を冷やす「残留熱除去系」の復旧を目指しているが難航
している。仮に復旧しても、海水を大量に注入したことで冷却機能が
落ちている恐れもあり、水棺による冷却案が浮上した。

 水棺では、圧力容器と格納容器をともに燃料棒の高さ付近まで水で満たし、
高い熱を持つ燃料棒を冷やす。燃料棒が破損して放射性物質が漏れるのを
抑える狙いもある。熱で蒸発する水は外部から注入。燃料棒が冷めて取り
出せるようになるまで、少なくとも数年は続けるとみられる。

 同本部は、現在1~3号機で進めている格納容器への窒素の注入が
終わった後で、1号機から作業に入ることを検討している。

 格納容器は厚いコンクリートで囲われており、水を満たしても一般に強度の
問題はないが、地震などで損傷していないことが条件。2号機は格納容器の
圧力抑制室に損傷の疑いがあり、汚染水が外部に漏れ続ける恐れがある
ため事前チェックが必要となる。水棺は、米国でも冷却水を喪失した重大
事故時に取り得る手段として研究されている。福島第一原発の事故に関しても、
米原子力規制委員会(NRC)が水棺に言及。「水の重さと格納容器の
耐震性に留意すべきだ」と助言している。

 一九八六年に原発史上最悪の事故を起こした旧ソ連のチェルノブイリ
原発は格納容器がなく、放射性物質を閉じこめるため全体をコンクリートで
覆う「石棺」が行われた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011040802000039.html

4号機プール高温続く 91度、水位には変化なし

2011年4月23日 朝刊 東京新聞
 福島第一原発の事故で、東京電力は二十二日、4号機の使用済み核燃料
プールの水温が九一度だったと発表した。十二日の測定とほぼ同じ水温で、
高止まり状態が続いている。安定した冷温停止状態は約三〇度。プールには、
原子炉から取り出して冷却期間が短い燃料が多数あり、東電は監視を
強めている。

 東電はこの日、生コン圧送機のアームに計測機器を取り付けて調査を
実施し、水が燃料の上二メートルまであることを確認した。

 水温は十二日の測定でも約九〇度あったため、一日おきに百四十トンの
水を注入し、冷却に努めていた。水注入について、東電は「計算通り蒸発分に
ほぼ見合う量。プールの水位に大きな変化はなかった」と説明している。

 ただ、プール内の燃料棒は損傷が疑われているため、東電は水中カメラを
用意したが、この日は高温で断念。注水などで水温が五〇度を下回った際に、
撮影可能か検討する。

 4号機のプールには核燃料棒を束ねた燃料集合体が千五百三十五体
入っている。他号機のプールより千体前後多く、新品や炉から取り出した
ばかりの使用途中の集合体もある。

 一方、集中廃棄物処理施設へ高濃度の放射能汚染水を移送している2号機
立て坑では、水位が朝から一センチ下がった。1号機の「水棺」作業では、
最下部にある圧力抑制室が満水になり、格納容器下部にまで水が
たまっているとの見方を示した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011042302000043.html
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明日に向けて(67)人間を返せ!・・・被ばく者と共に歩む

2011年04月23日 02時30分00秒 | 明日に向けて4月1日~30日
守田です。(20110423 02:30)

今宵は、情報分析を少し離れて、この間の出会いのこと、そこから考えて
いることについて、述べさせていただこうと思います。

数日前、あるところで福島原発に関する学習会を行う依頼を受けました。
そこで企画をされた女性とお会いし、うち合わせをしました。初めてお会いする
方だったので、どのような問題意識をお持ちなのか、手探りだったのですが、
お話しているうちに、大変、問題を深く捉えておられ、かなりしっかりした
知識もお持ちで、何も僕が話をせずとも、ご本人自身がお話されてもいいのでは
と思うほどでした。

話が進む内に、その原因が見えてきました。仮にこの方をAさんと呼ばさせて
いただきますが、彼女は、被ばく二世でいらっしゃるのです。お母さんが16歳の
時に、長崎で被ばくされたのだそうです。しかも爆心地に近かったため、窓から身を
乗り出して、爆発を見た友だちが、そのまま亡くなられてしまったそうです。

そんな彼女にとって忘れられない思い出が、小さいときに連れて行かれた長崎原爆
資料館の恐ろしさだそうです。それもあって、福島原発の事故が起こった時は、
恐怖にかられ、パニックになったといいます。

ちなみに最近僕は、パニックとはむしろ当然の反応であり、正しい危機感によって
起こるものでもあると思うようになりました。パニックを起こすなどころか、危機感が
薄いとパニックなど、起こそうにも起きないものでもあることが、今回の経験で
分かった。その点で、被ばく二世である彼女は、正しい危機感を持っていた
と思うのですね。

ただそれで今後、この大規模な放射能漏れとどう立ち向かうのかの話になり、
僕は最近、持論としている、能動的に被ばくと立ち向かうお話をしました。
たとえ大量の放射線に被ばくしようとも、それで終わりではない。ガンになる
確率が高くなっても、ガンにならない人もいる。そのことを見据えて、
さらなる被ばくを避けるとともに、ガンになる他の因子を取り除くことが大切だ
・・・というようなお話です。

そうしたら彼女、実はお母さんは今にいたるも、いたって健康なのだという
話をしてくださいました。その理由を2人で振り返ってみて、実は戦中・戦後の
動乱期、ある偶然から食糧事情が良く、栄養に恵まれたのだというお話が
聞けました。戦後直後に撮った写真に、ふっくらと太ったお母さんが写って
いたそうです。

きっとそれが良かったのではないかと話し合いました。もちろん、どこまでも
推論の余地はでませんが、被ばくをしても、栄養に恵まれたことは幸いだった。
しかも今より、科学物質の汚染が少ない食べ物を得ることができたかもしれない
などとも話し合いました。

もちろんこれは科学的な分析を経た話ではありません。でも僕にはAさんの
今でも元気なお母さんと、そのお母さんのもとに生まれて、今日まで元気に
生きてこられたAさん自身が、人間が放射能に立ち向かっていける
生き証人ではないかと思えたし、そのようにAさんにお伝えしました。

後になって、彼女から、「放射能を闇雲に恐れるだけではなく、たとえ被ばくしても
対処の方法があるということに、あらためて気づいて少し元気が出てきました」
というメールが届きました。

Aさんとは今後も、いろいろな思いを互い重ねていきたいものだと思います。
とてもありがたい出会いです。


不思議なことに、実は僕はこのところ、被ばく二世、三世の方々と連続的に
出会ったり、出会い直しています。京都であったある脱原発の講演会のおり
にも、主催者の方たちに二次会に誘っていただいたのですが、そこで昔から
知っている広島出身のBさんにお会いしました。その席で、Bさんは、「今、
懸念されることは被ばく者への差別だ。福島の人々が差別されないように
真剣に考えていかなければならない」と発言された。

その後、僕のところに来て、こんな話をしてくれました。
「僕は広島を出て京都に来て、被ばく二世ということを表に出して社会運動を
したことはなかったのだけれど、実は親父もおふくろも被ばくしているのだよね。
被ばくした若い夫婦は、最初の子どもを産むときは決意がいったそうだ。
それで生まれたのが僕だ。僕は小さい頃、病弱で、ずいぶん心配をかけた
らしい。下の妹はぴんぴんしていて元気でさあ。親はずいぶん悩んだらしいよ。」
「でもその下に弟がいてね。49歳でガンで死んだよ。親父もガンで死んだ。
親戚はみんなガンだらけだよ」・・・・。

さらに話をしているうちに、何とも僕とも因縁めいた話が出てきました。
というのは、僕の父は当時、陸軍船舶隊にいて、香川県善通寺の基地に
いました。それで原爆が落ちて、すわ救援だということで広島に向かい、呉の
海軍基地に入った。そこから偵察隊を出したけれど、市内には何もない・・・
ということで部隊はそれ以上進まなかった。偵察隊の方は後に二次被ばくで
亡くなったと父に聞きました。

ところがそのBさんのお父さんは、なんとその呉の基地にいたそうなのです。
そこで閃光とキノコ雲を見た。そしてそのキノコ雲の下へと救助に向かった
といいいます。それはいつなのだろう。Aさんのお父さんたちが爆心地に
向かった後に、後詰め部隊として、僕の親父の部隊が入ったのかも
しれない。あるいは僕の親父の部隊が来たので、ところてん式に、Bさんの
お父さんたちが爆心地に向かったのかもしれない。

そうしてBさんのお父さんは被ばくし、僕の親父は被ばくしなかった。
なんということでしょう・・・。いや、そうではないのかもしれない。呉までいった
僕の親父もまた被ばくしたのかもしれない。それは分からないことです。


そんな話を聞いた後、二次会の会場を、Cさんという方と後にしました。4月9日の
講演会の講師に僕を誘ってくれた方です。僕は彼に、Bさんってさあ、被ばく
二世なんだよね。御両親とも被ばくされたそうでさあ・・・と話をすると、Cさん、
やにわに手を挙げられた。「守田さん、僕も被ばく二世ですよ!」・・・・。

Cさんのお父さんは広島郊外にいたらしい。朝から上半身裸で野良仕事を
しているときに原爆が投下された。お父さんは「背中が熱かった」記憶がある
そうです。
そのお父さんは今もお元気にしておられるとのこと。Cさんもお元気です。
少々薄くなった頭をなでて、「これが後遺症です」と笑っておられました。

「Cさん、まさに今こそ『人間を返せ』ですね」、と僕はつぶやいた。
「そうですよね、脱原発の声を今こそ広げたいですね」・・・とCさん。
その後、僕たちは、夜の街を何か熱い思いを胸に抱いて、2人で
歩き続けました。


ちなみに僕のピースウォーク京都のHPに設けたブログサイトの運営を
バックアップしてくれているDさんも被ばく三世です。彼には、気心しれた
友人たちと、広島の町を訪れた時に、被ばくにまつわる場所を案内して
もらったことがあります。

原爆ドームを訪れ、平和祈念資料館にいくと、原爆投下時の広島市内を
あらわした大きなジオラマがありました。その真ん中の空中に、火の玉が
おいてある。破裂した原爆です。そしてその周り、ジオラマで表現された
半径数キロの円の内側から外へと猛烈な熱線と放射線が襲っていった。

「僕のおばあさんは、2人とも、この中の2.7キロの地点にいたんですよ」と
Dさん。父方のおばあさんは、建物疎開か何かで集合して点呼を受けている
ときに被爆し、後方の竹薮に吹き飛ばされたそうです。母方のおばあさんは、
職場の建物の中で被爆しましたが、建物の柱が陰になって助かったのだそうです。
やがてそれぞれに命の鎖がつながれていき、Dさんが生まれました。

そんなDさんは、この間、被ばく者のこと、米軍のABCC(原爆傷害調査
委員会)のこと、広島放射線影響研究所のこと、被ばく者の裁判のことなどで、
次々と僕に貴重な資料を送ってきてくれます。僕の書いた内容をチェックして
細かい訂正などもいれてくれています。


何だか僕には、多くの被ばく者の方々・・・広島や長崎で瞬時に亡くなった
方たちや、その後にボロボロと亡くなっていた方たち、そして戦後の長い時を
ガンと闘った方たちが、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんなどを通じて、僕に
メッセージを伝えて来ているように思えてなりません。

私たちの体験を、人類のために生かしてくれ、被ばくと立ち向かう道しるべに、
私たちの苦しみを使ってくれ、人間を返せという私たちの声を、明るい
未来に向けて解き放ってくれ・・・。そんな切々たる声が僕には聞こえてきます。

・・・そうだ。僕らには、被ばく者が血と汗と涙で綴った貴重な経験がある。
今、フクシマの事態と立ち向かう時、こんなに心強いことは僕はないと
思えます。


戦争のとき、やはり少女だった僕の母は、東京深川に住んでいました。一家は
生粋の江戸っ子であり、親戚はみんな、映画、『フーテンの寅』の登場人物の
ような話し方をする。そんな人懐っこい人々が住まう東京の下町はまた、東京
大空襲の爆心地でした。

1945年3月14日未明の大空襲、10万人を焼き殺す猛火の中を、母は本当に
奇跡的に生き延びた。そして父は、8月6日に呉まで進軍し、そこで止まり、恐らくは
高線量の放射線の被ばくを免れた。そして2人はやがて出会い、僕が生まれました。
だから僕は、東京大空襲と広島原爆の狭間から生まれた子だと思うのです。

その僕に被ばく者たちが、今、人類のために働けと語りかけて来ているのでは
ないか。きっとそうに違いないと僕は思うことにしました・・・。


今宵は最後に、峠三吉さんの詩を掲載させていただきます。


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

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