お江戸・尾張・・・そして九州放浪記

2006年江戸へ、2012年3月に尾張へと単身赴任が続き2014年3月末で退社して九州に帰ってきました、放浪は続きます。

JRウォーキング:世界文化遺産!日本を支えた産業遺産「三池炭鉱の軌跡」

2016年11月03日 | JRε =  ε =  ε = ヾ(;~o~)ノ
今日はJRウォーキングに参加することんしました。

大牟田駅から降りると沢山の参加者が受付をしています・・・天気が良いから参加者が多いようです・・・わつぃは1000番目でした。

最初に着いたのは「三池かるた歴史資料館」です・・・中は写真撮影禁止となっています??

【三池かるた歴史資料館】日本で唯一のカルタ専門館:日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われています。当館では日本古来のカルタや海外のトランプ・タロットのほか古代~近代に至るまでのさまざまな郷土の歴史資料もあわせて展示しています。滴翠美術館(兵庫県芦屋市)に1枚だけ現存する「天正カルタ」は、日本最古の国産カルタです。その裏には「三池住貞次」と記されていることから、三池地方がカルタの製作に大きなかかわりを持っていたことが考えられます。当館は1991(平成3)年に開館して以来、日本古来のカルタだけではなく、それを生み出した周辺のタロットやトランプなども含め、国内外を問わず多種多様な品々を収集してきました。その内容は、貝型源氏歌カルタといった古典的名品から子どもたちに人気のキャラクターカルタまで、その数は1万点を超えており、企画展ごとに色々なカルタを紹介しています。

中には色々なカルタ(花札や和歌のカルタや百人一首等)が展示されていますが・・・(?_?)写真撮影ができないのかな~

次に着いたのは「早鐘眼鏡橋」です、石組みの1連眼鏡橋となっていました。

江戸中期/1674 石造単アーチ橋 輪石にジ☆延宝二甲寅二月吉祥日の刻銘がある
この眼鏡橋は単アーチ造の石橋で、延宝二年(一六七四)に三池藩が大牟田川を渡す灌漑用の水路橋としてつくったもので、上流の水路も附指定された。この橋は水路橋として現在知られる最古の遺構であり、橋の構造手法が長崎県下の石造アーチ橋に類似していることは文化史上注目される。



道を挟んでそばには「旧三池炭鉱専用鉄道敷」があります。

【旧三池炭鉱専用鉄道敷】1891年、初めて横須浜-七浦間に開通
三池炭鉱専用鉄道敷跡各坑口から産出した石炭や炭鉱資材等、さらに従業員も運んでいました。1905年に万田坑〜三池港まで開通し、全線が開通しました。現在は宮浦駅からJR線につながる約1.5kmが企業により使用されています。なお、レールはほぼ撤去され、現在は枕木のみが残っています。世界遺産候補となっているのは早鐘踏切〜三池港の区間です。



旧線路沿いを歩いていくと遠くにレンガ造りの建物と鉄の櫓が見えています。

前回ウォーキングに参加したときはこんなコースにはなっていなかったのですが世界遺産に登録されて整備されたようです。


【宮原坑跡】(1898年開坑)三池炭鉱に9つある主な坑口のうち、5番目に作られたもので、三井組が三池炭鉱を国から払い下げを受けた後、初めて自ら計画・開発した坑口です。年間40〜50万トンを出炭し、近隣の三池集治監(刑務所)の囚人を主な労働者としていました。現在は、我が国現存最古の鋼鉄製の櫓である第二竪坑櫓と巻揚機室が残ります。

揚巻機室の中に入ると万田坑で見たように大きな車輪の様なものにワイヤーが巻き付いています。

外には人を上げ下ろしするようなエレベータ???がありました。

一通り見て回り、コースは線路跡沿いを歩いていくと・・・

万田坑に着きました・・・線路跡にはゴム板を敷き詰めて歩きやすく整備されていますが凸凹して(´ェ`)ン-・・

【万田坑跡】(1902年開坑)
万田坑跡画像万田坑跡は、宮原坑跡に続き開削された坑口で、当時、日本最大級の炭鉱施設でした。三池港の開港とも相俟って、出炭量は増加し、1940年には年間113万トンを記録し、1951年まで採炭しました。炭鉱施設と設備関係が国内で最も良好な状態で残っています。




広場にはテントが張られ、舞台が設置されて音楽や踊りの出し物がされていて、道路には両側に屋台が出されて飲食物が売られて賑わっています。





此処にも巻揚げ室がありますが沢山の人が並んで見学をしています・・・私は前回見たのでスルーしました。

コースに戻りマタマタ線路跡を歩いていくと以前駅として使用されていたホームが朽ちかけて残っています。

線路上には沢山の高圧電線の塔が建てられています。

線路途中から降りて、今度は寺の鳥居前に来ました・・・ここは四山神社です。

【四山神社】神域にある四山古墳(よつやまこふん)は6世紀後半に造られ、虚空蔵菩薩が降臨されたといわれています。延久2年(1070年)菊池氏初代の菊池則隆がお堂を建立しました。
その後慶長10年(1605年)加藤清正が再建し、虚空蔵信仰は益々盛んになり肥後と筑後に広まっていきました。 細川家の所領となり崇敬の念厚く度々お参りされ、九曜の定紋幕を奉納し四山神社の社紋になりました。 明治元年、神仏習合を分離され、虚空蔵尊の徳に相当する造化の三神=(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)をおまつりして、四山神社として発足することになりましたが、やはり肥後と筑後のこくんぞさんとして親しまれ春秋の祭には多くの参拝者で賑わっています。なお虚空蔵さんは丑、寅年生れの守り本尊で、13歳の守護神(13参り)ともいわれ、各地から参拝者が絶えません。

階段の傍の看板にはイシ団が313段あると記載されています・・・(´ェ`)ン-・・スルーしよう(・∀・)ウン!!

それからは足が痛くなってきてどんどん後ろの人から追い越されていきます┐(´ー)┌ フッ・・・毎日ウォーキングしているのにな~

コースの終点荒尾駅近くで宮崎兄弟の生家前に来ました。

【宮崎兄弟】孫文の三民主義と中国辛亥革命に影響を与えたとされる宮崎兄弟の生家が荒尾市にあります。革命家と呼べる四兄弟の活躍が、生家敷地内の荒尾市宮崎兄弟資料館で知ることができます。特に活躍した4兄弟は、社会の流れに大きな影響を与えています。八郎は中江兆民訳ルソーの民約論に感銘し、自由民権思想をかかげ植木学校を創立。しかし、西南戦争で熊本協同隊を組織して西郷軍に参加、若くして八代の地で戦死しました。
民蔵は、凶作と重税に苦しむ農民をみて、土地の平均再分配を実行すべく活動しました。「土地均享・人類の大権」は歴史的な著書。彌蔵と寅蔵は中国革命、全アジアの独立開放、自由平等の実現のために生涯を捧げ、全財産をかけ孫文を支援し続けたといいます。寅蔵は別名滔天(とうてん)も有名で、宮崎兄弟資料館には滔天と孫文の筆談の様子が再現されています。


此処も依然来た時に中を見たので入場することなく駅に向けて歩くことにしました。

途中マンホールを見ると「荒尾梨の花」がデザインされていました・・・荒尾梨(新高)は10月初旬が旬で網ないだろうな~

今日は終盤になって足が痛くなってしまいました・・・日ごろからもっと鍛えないといけないようです。





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