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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】カルロ・ヴィガノ大司教の駐米教皇大使としてのクリスマス・メッセージ(2012年)

2020年07月27日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

カルロ・ヴィガノ大司教の駐米教皇大使としてのクリスマス・メッセージ(2012年)です。







「助産婦の手記」8章「私は、最初の過ちに対し、二度目の過ちをつけ加えることはできません。」

2020年07月27日 | プロライフ

「助産婦の手記」

8章

『リスベートさん、ほんの一度だけ間違いをしただけなのに、そんなことがあり得るでしようか……たった一度だけなのに……』
工場支配人の一人娘のヒルデガルドは、私の小さな部屋に、私と向いあって坐っていた。私たちはすでに学校時代から知り合っており、一頃は、たびたび自由な日を一緒に遊び暮したものである。彼女の父は、村はずれの森の近くに別荘を持っていた。その後、私たちは少し疎遠になった。彼女は、寄宿学校にはいっていたが、帰って来たときには、若い貴婦人であった。今や彼女の生活は、私のとは別の社会に属していた。その社会の人々は、旅行していることが多かったし、また種々のクラブを持っていた。その日常の生活様式は、彼女を高慢にするというようなことはなかったが、しかし以前の生活樣式に対しては、まさに一線を画したものであった。

さて、ヒルデガルドは、少し以前から婚約していた。
『それは、あり得ることですよ、ヒルデガルドさん。でも、どういうわけで、そう想像するようになったのですか? いつからあなたは、そう思ったのですか?……』
『ちょうど八週間前のことですが、私たちは、その前日、山地へ旅行したんです。私は全く疲れて午後にはベッドに横たわっていましたが、両親は、Zにある劇場へ車を走らせました。そのあとに、全く思いもよらず、私の婚約者がやって来たんです。あの人は、私に何かとても重要な善いことを告げに来たのだと、女中を通じて知らせて来ました。そこで私は、素早く軽い普段着をちょっと引っかけ、髪をなでつけただけで、あの人のいる部屋へ行きました。それは、ほんとに輝かしい暖かい夏でした。
多分、あなたは御存知ないでしようが、あの人は法律家なのです。ところが将来の見通しは、悪いんです。この職業は、もう人が有り余っているものですから、不本意ながらも、ある大きな会社で、とても良い地位を得ることになったのです。将来が私たちの眼の前に開けたわけです。それこそ万歳でした! あの人は、私と夕食を共にしました。私たちは上等のブドー酒を持って来させました――そして両親が早く帰ってくれればいいがと、待っていました。それなのに――運命のいたずらとでもいいましようか――父母は、私たちをなおも待たせて置くのでした……
ああ、人は、ほんのちょっとでも不しだらにしていてはならないということは、しょっちゅう言われることですが、それは全くほんとですね。私の手軽い、打ちとけた服裝が、いつもは私たちの間に立っていた境界線を取りこわしたのです――そして結局、私はあの人のものとなったのです。ただの一度きり。私は、知りつつそうなったんです。そんな不しだらなことは、もう二度としようとは思いません……でも、今は用心するには、遅すぎるのです……』

私は、なお体具合に関する幾つかの質問をした。ヒルデガルドの疑惑は、根拠のあるもののように思われた。しかし、まだ断定を下すことは不可能であった。私は彼女に、どんなことがあっても早く結婚するようにと勧めた、もし将来がいま保障されているのであるならば。そして二ヶ月以內に、もう一度やって来るように、彼女に頼んだ。そうすれば、私は、はっきりしたことを言うことができるであろう。

全く喜ばしげに、その娘さんは帰って行った。しかし、私の心はたちまち非常に重くなった。この事件は、よい結果を得られない! このような予感は、私を欺くことはないのである。たとえどこからこの予感が来たかという証明は、私にはできないが。過ちの機会を避けるということは、幸福な結婚のための第一の、かつ最も重要な掟であるということを、もしも、私が若い人たちに固く信じさせることができるならば、私はそのためには、どんな代償でも払うであろう! いかに多くの人の一生の幸福が、この断崖において早くも打ち砕かれたことであろうか! 人は、何も悪いことを考えない――そして何も悪いことをしようとは思わない――人は、注意を怠る――すると、人は悪いことをするのである。そして、たとえ、そのことが、ほんの一度だけであったとしても――長い一生が損なわれ、亡ぼされるのである……
ヒルデガルドは、二ヶ月後にやって来た。そこで私は、はっきりと彼女が妊娠していることを断定できた。彼女は、それをごく平静に受けとった。二週間のうちに、結婚式が挙げられるそうだ。
『リスベートさん、どうかこのことは、誰にも言わないで下さいね。私の家の人たちは、気違いになるでしょうから。いまは万事都合よく行っているのです。婚約者のエーリッヒは、カトリック信者ではありません――あの人は残念ながら、全くどの教会にも属していないんです。でも、あの人は、私にカトリックの結婚をすることを約束しました。そして子供たちのことは、私の思う通りにしてよいことになりました。子供を養育することは、母親の仕事ですからね。』
『ヒルデガルドさん、私は沈黙を守る義務があるのです。ですから、何も心配することは決してありません。ただあなたのお婿さんが、あなたを欺かなければいいですがね。あなた方は、お子さんの宗教教育についてのお約束を、公証人のところでなさいましたか?』
『いいえ、リスベートさん、それくらいの信頼は、どうしてもお互いに持たなくちゃいけませんわ! さもないと、どうして結婚生活ができるでしょう?』

村はずれの別荘では、婚礼の準備が進められた。こんな慶事は世間に知られないではいない。間もなく、村中はその噂で持ちきった。どんなに素晴らしい婚礼が行われるだろうかと、老いも若きも非常な好奇心をもっていた。こんなことは、私たちの村ではまだ経験したことがなかった。大百姓が結婚して、宴会が三日も続いたことは、もうたびたびあった。そして小百姓がその真似をしようと思って、遂にはカナの婚宴のような大げさなことになってしまった――ただ無くなってゆくブドー酒を奇蹟で増やすことだけはできなかったが――ということは、私はこの村で、もうすでに経験していた。その滑稽なことは、今日でもなお語られている。

婚礼の三日前に、ヒルデガルドが夕方、私のところへ来た。十年も一度に年を取り――眼を泣きはらし途方に暮れて。
私は、びっくりした……
『万事おわりです、リスベートさん……万事……』
彼女の話によると、こうである。お昼頃、一人の公証人が、彼女の婚約者の委託を受けて、首府からやって来た。そして美辞麗句を沢山ならべながら、婚姻契約書を彼女に差し出して署名を求めた。公証人の話によると、その委託者は、この契約は最良のものと考えるから、明日中に、その婚姻契約を結んでほしい……とのことであった。
『私たちは、お互いに話し合って、意見が一致したのです。私は、何に署名せねばならぬのか、訳がわかりません。それに、もしそうだとするなら、こんな大事な用件のためには、なぜエーリッヒが自身で来ないんですの……?』
『しかし、お嬢さん、今になってそんな難しい問題に触れることは、私の委託者にとっては非常に不愉快なのですが、あのお方の地位や、また種々な関係上、そのように、せざるを得ないことを御了解願わねばなりません。』
「そのように、とは何ですの? あなたは一体何について話していらっしゃるんですか?」
「さよう、この契約で主要な事柄は、この婚姻は、ただ法律上においてのみ結ばれ得るということです。宗教上の婚姻は、事実上、ある信条を承認することであり、ある宗教団体に対して敬意を払うということです。このことは、あなたの配偶者の社会的地位を、すべて危険に陥れるでしょう。あのお方が、一層出世されるために必要とする、種々な社会での活動を不可能にするでしよう……」
『エーリッヒは、私にカトリックの結婚を約束したのです。私は、あの人の言った言葉をお返しするわけには参りませんわ。』
『あなたは、そんな形式的なことを主張することはできませんよ……』
『私は、それを主張します。そればかりでなく、カトリック的な子供の教育を。』
『私は、あなたにこの件を、もう一度熟考して下さるよう切にお願いしなければなりません。さもないと、私の依頼人は、この結婚から手をひかざるを得なくなるでしょう。あのお方は、そんな気まぐれのために、自分の全存在、全経歴を賭することはできないのです……』
『あなたが、私の宗教的確信を気まぐれだと言われることは、お断りせねばなりません! 私たちは、これ以上何も話し合うことはありません。もし私の婚約者が、何か契約書を作ろうと思うのでしたら、自分でそれを持って来るべきです……』
『お嬢さん、私は、もう一度あなたにこのことを御注意申上げねばなりません。というのは、もしもあなたが、この婚姻をただ法律上においてのみ結ばれるべきこと、そして子供は教会の信条によらず教育さるべきであるということに、同意する旨を宣言せられないならば、私の依頼人は、婚約を解消することを余儀なくされたものとみなす、ということです。』
以上のようなわけであった。
『リスベートさん、婚礼の三日前です! 村中のものは、もうその噂をしています。それなのに、子供が……子供が……』と、その娘さんは泣いた。
『ねえ。そう言われたとき、激しい怒りが、私をつかまえました……私自身よりも、もっと信賴していたあの男、私が責任のもてる以上に、もっと信賴していたあの男に対する軽蔑の念が… で今としては、もうどうなってもいいんです。私は、最初の過ちに対し、二度目の過ちをつけ加えることはできません。私は、私の信仰を否定することはできないし、また子供が生れぬうちに、その霊魂を売ることもできませんわ……
私は、その公証人に婚約の指輪をつき返し、そして言ってやりました。「そんな無人格な男との結婚は思い切りますと、あなたの依頼人に伝えて下さい。むしろ死んだ方がいいのです――一生涯を、そんな無節操な人に縛られているよりは……」』
すすり泣きながら、その娘さんは顔を手の中に埋めた。さて、どうしたらいいか?
私は、女の一生の上に横たわる非常な悲劇の下に、それほどまでひどく悲しんだことは、いまだかつてなかった。そこでは、双方が同様に罪を犯している、男と女が。そして男の方は、あたかも、何事も起らなかったかのように、自由に平気で立ち去るのに反して、女の方はその一生涯中、子供のために重荷と心労とを背負わねばならぬのである。どうして、片方のものだけが、共同の罪悪の結果を堪え忍ばねばならぬのであろうか? 私は時々、自然の法則を変更できる力を持っていたら、と思うのであるが……
『御両親は、このことを御存知ですか、ヒルデガルドさん?』
『いえ、父も―― また母も……』
『それでは、私が御両親のところへ行って相談することにしましょう。』
『父は恐ろしく怒ることでしょう、リスベートさん。』
『まさか私を殺すようなことはないでしょう。心配しないでいらっしゃい。私はじきに、生きたまま帰って来ますからね。その間、ここに待っていて下さい。もしあなたが御一緒だと、口論は一層ひどくなるだけですから……』

何の予感も持っていないその両親に対し、露骨に言うことは容易でなかった。彼らが遂に事の次第を知ったとき、父親は怒りのために我を忘れた。彼は、私に二度と再び自分の家に入って来ることを禁じた。あたかも、私にこの事件の責任があるかのように! でも私は、私が避雷針となって、あの憐れな娘さんがこの嵐に逢わなくてもよかったことを喜んだ。父親は、あの娘は、自分にとってはもはや無いも同然だ! 娘はもう二度とこの家に帰って来ようなどとしてはならない、と言った….
それから、父親は考え直した。娘は早速、結婚すべきだ! どんな犠牲を払っても! こんな切迫した状態にあっては、他に方策はないんだと……
幸いにも、彼女は丁年〔満20歳〕に達していた。そこで、私はその父親に尋ねた、あなたは、ただ一人のお嬢さんをそのような不幸に陥らせる責任を負うことができますかどうかと。カトリック信者として、あなたはあんなルンペンを――そうです、人はそのような人間をルンペンと呼ぶ、たとえその者がいかに大学卒業生であっても!――そのような大ルンペンをお婿さんにしたいとお思いになるかどうか?と。
そこで、父親は、またその計画を取り止めた。私たちは、夜になるまで議論した。私は、あらゆる可能な解決策を考えようとしたが、どれも適切なものはなかった。そこで、私は最後に、その娘さんを、私の知人の経営している小さな助産院へ連れて行こうと言った。というのは、私はこう考えたからだ。その御両親が、生れて来る子供の親となり、そしてその子は、たとえ不仕合せの身ではあるけれども、親に対する子としての権利を持たせてもらうことができるようになればよいが、と。
数ヶ月後に、ヒルデガルドは、立派な丈夫な男の子を生んだ。しかし、かの年老いた工場支配人は母と子を引き取ることを頑強に拒んだ。娘だけなら、いつでも家へ帰ってもよい―しかし、瘤つきではご免である。彼は、その子供のために、身分相応の金額の口留料を出す用意があったようである。しかし、ヒルデガルドは、それに同意しなかった。彼女は、自分の子供を否定することを欲しなかった。そして、その気丈夫な娘は、どこかに就職して、子供と一緒に暮すことにした。彼女は語学がよくできたお陰で、外国語係りの通信員としての勤め口をたやすく見つけ出した。そして子供と一緒でも部屋を貸してくれる善良な家庭を見いだすことにも成功した。子供は、母親が稼ぎに出かけている間は、その家庭でよく面倒を見てもらった。かつては非常にあまやかして育てられた独り娘のヒルデガルドにとっては、いま、毎日、人に使われて、勤め仕事をし、そして親子二人分としては乏しい給料をよく節約して、いろいろの経費に割り当てて暮してゆくことは、恐らく非常につらいことであったであろう。しかし、彼女は、それをよくなし遂げた。そして、私は彼女から、一言も悲欺の言葉を聞いたことはなかったのである。

子供のパウルは、立派な若者になった。彼が十歲になったとき、私は彼を学校の休暇の間、一度、田舎の私のところに引き取って、少しばかり世話をした。すると、お祖父さんの胸には、まさしく愛情の火が燃えついた。で、彼は娘に対して、その子をフェルドキルヒにあるイエズス会の学校で教育する費用を、引き受けようと申し出た。そして、その子の母親もまた、自分の子のために、それを承諾して、しばらく子供と別れる犠牲を捧げた。その学校では、その子は、母親のもとで勤務のかたわら養育されるよりも、一層よく世話をされたのである。

そのうちに、世界戦争が起って、多くの変化が生じた。今日では、その母と子は、両親の家に帰って来ている――そして誰も、もはや、あの頃のことについては、何も話さないのである……




【再掲】九条が本当に戦争放棄なら

2020年07月27日 | プロライフ
アヴェ・マリア!

【12年前の記事ですが、再掲しています】

愛する兄弟の皆様、
 いかがお過ごしでしょうか?ただ今、聖伝のミサ聖祭のために、私は沖縄に来ております。沖縄にいるアメリカの方々と話しをするにつけて、オバマ大統領の新しい政策の話しなどを聞き、思ったことです。

 日本は、憲法九条で戦争を放棄したとうそぶいていますが、ものすごい不正な侵略戦争を行い続けている、ということです。

 戦争には、正義の戦争と不正な戦争があります。正義の戦争とは、例えば正当防衛の戦争です。いずれにしても、交戦国は軍隊を出して戦うでしょう。子どもや家族を守るために国は、敵国と戦うのです。戦争では、民間施設、居住区を攻撃することは禁止されています。

 ところで、堕胎は、戦争よりも、不正な侵略戦争よりも、はるかに邪悪です。

 何故なら、私たちが愛するべき胎児に対する攻撃だからです。私たちの子どもであり家族であり国民を敵として虐殺することだからです。

 何故なら、母の胎内に眠る赤ちゃんは、その最も安全なはずの胎内において虐殺されるからです。最も安全なはずの保護されるべき居住区で虐殺されるからです。

 何故なら、母の胎内の赤ちゃんには、自分を守る術が全く無いからです。人間であることさえ拒否され、生きることさえ拒否され、大人の勝手な都合で亡きものと闇に葬られ、助けて!と訴えるところも無いからです。赤ちゃんを、私たちの未来の世代を、誰が助けて防衛してくれるのでしょうか!?誰が武器をもって守ってくれるのでしょうか!?

 罪無き人間を殺害することは、天に復讐を呼ぶ罪です。カトリック教会は、堕胎する者、堕胎を幇助する者、堕胎を促す者を破門をもって罰します。天主様は、彼らを恐るべき災いをもって罰し給うでしょう。

 イエズス・キリストの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 日本が、堕胎という戦争を放棄しますように!聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





聖伝のミサ報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年07月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、東京では72名の方々が、大阪では19名の方々がミサに与りました!

大阪では、大雨の為にミサに与ることができなかった方もいらっしゃいました。大雨の影響で新幹線に遅れが出た為に、ミサも30分ほど開始が遅れてしまいました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 14人(内、子供1人)
女: 15人(内、子供2人)
計: 29人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 14人(内、子供2人)
女: 15人(内、子供4人)
計: 29人(内、子供6人)

12:30のミサ
男: 9人(内、子供0人)
女: 11人(内、子供1人)
計: 20人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの6人を除く)
男: 35人(内、子供3人)
女: 37人(内、子供7人)
計: 72人(内、子供10人)

【報告】【大阪】
新幹線が遅れてしまって、ミサは30分程遅れて始まりましたが、今日はロザリオを3環皆で唱える事が出来て良かったです!! 今日はお祈りがもっと必要だったのかもしれません。















「助産婦の手記」7章 『この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの…』

2020年07月26日 | プロライフ
「助産婦の手記」

7章

肉屋のヘルマンの宅では、初めての子が生れるのを待っていた。彼は金持ちであり、しかも腕がよい。そのことは、また誰よりも彼自身がよく知っていた。もっとも、彼の経営方法は、一番評判がよいというわけではなかった。しかし、本当に自由自在に働き廻りたいと思うほどの若者たちは、ヘルマンのところへ行った。業をしていると、時々奇妙なことが起るそうである。とにかく人々は、どんな種類の家畜でも、そう、死んだのでさえも、ヘルマンのところへ持ち込めば、何とかなることは確かであった。その代り、彼はまた、その腸詰商品を遠方の都会へ送るのであった。腸詰の中には何がはいっているか、判ったものではないと、見習の若い衆が言っていた。

しかし、ヘルマンが金持になったのは、右に述べた一切のことによるのではなく、むしろ彼の手広い家畜売買によるのであった。近所のどこかで、一匹の家畜でも売り出されると、彼はそれに手を出した。東はポーランドから、西は西プロシャまでも、彼は剛毛のある動物、特に豚や、そのほか食用の四足動物の取引をする。この大規模な経営による汚い取引によって、彼はこの村の成金王となったのである。

かようなわけで、この肉屋の親方ヘルマンの宅で、初めての誕生が待ち受けられていたのである。すでに三週間前から、私は毎日その奥さんを見に行かねばならなかった。彼女はまだ一人も子がなかったためであろうか、いつ私を必要とするか、その時期がよく判っていなかった。バベット婆さんも毎日訪問に来て、お八つのために、腸詰を一本もらっては喜んだ。彼女が、まだしょっちゅう、妊婦たちのところへ行くのは、私にとっては大へん迷惑な話であった。というのは、彼女が私に害を与えるからではない。すでに婦人たち自身が、その憐れな婆さんは、もはやその職業には全く堪えられなくなったことを認めていたのであった。

もう三度も、ヘルマンは、私を夜分に呼びつけた―― もちろん、無駄であった。奥さんは、少しでも具合が良くないと、早くもマテオ聖福音書の最後の章になった。すなわち、もう終りだ、駄目だと信じるのであった。もし、私の見立てが間違っていないとするならば、まだ四週間も間があったのである。

とうとう有難いことには、万事は、いつかは終りになる。ヘルマン奥さんの妊娠も、そうである。すなわち、とうとう、私が五回も夜訪問し、八週間お每日見に行き、二十四時間もその家に留めて置かれたことが三回もあった後に、やっと男の子が生れた。全く正常なお産だった。初産は大抵そうであるように、やや長くかかった。それは全く大騒ぎであった! ああ実際、もし母親というものが、そのようにして、子供をもうけるのであるなら、私はもう助産婦は止めてしまいたいと思う。そのときの奥さんの有様といったら! ほかの母親なら歯を食いしばって笑うような、少しばかりの陣痛が起ると、もう彼女はわめき散らし――呪った――。彼女が呪いの言葉を発するときには、私は『イエズス・キリストは讃美せられ給え』という祈りを、そんなに早口に唱えることは全くできなかった。

二度、ヘルマンは、医者のところへ走って行った。私は、この夫婦が、家庭医学叢書の中で、一体何を読んだことがあるのか知らない。出産のときの麻酔のこととか、産科鉗子の助けのこととか……? ウイレ先生が見えた。容態を見て――そして帰られた。『自然の成行きを待たないで、必要もないのに手出しをしないことですね』と先生は言われた。『万事好調ですよ。全く結構な正常な状態です! よい具合にゆくよう、お祈りします!』

とうとうお産を終えることができた。その幸福が果して誰にとってか、母親にか、私にか、そのどちらにとって、より大きかったか、私は知らない。父親は嫡男が生れたので、すっかり、はめを外して喜んだ。彼の店の前を通って行った子供たちは、みんな腸詰を一本ずつもらった。王子様がお生れになったのだ! 人々は、カイゼルの誕生日と同じように、それを祝わなければならなかった。――

しかし、この小さな息子は、前に母親がそうだったと全く同じように、泣きわめいた。私は、そんなに良くない子供を取り上げたことは稀であった。あたかも、父母の我儘と憤りとが、全部その子供の中で出会ったかのように思われた。始めからその子は、家庭の暴君であった。日中、その子は寝ようとした。そして夜分には、その子を泣きわめかさないために、女中が抱いて家中をグルグル歩き廻らねばならなかった。私は、それに対して抗議した。

『子供は、合理的に育てるものですよ。この赤ちゃんは、生れながらに、善くない或るものを持っているのですから、早めに従順と自制と秩序の習慣をつけるようになさいよ。』
『とんでもない、子供には我儘をさせなくちゃいけませんよ。以前、人々がやったように、子供の意志を抑えつけるのは、全く誤っていますね。』
『確かに子供は、正しい意志を持たねばなりませんわ。それを、私たちは保護し、伸ばしてやるべきです。でも、我儘と、怒りは、理性的な意志とは、別なものですよ。子供の希望と熱望を、全部無制限に叶えさせていると、ゆくゆくは、子供を刑務所に入れるようなことになりますよ。』
『子供が物心つきさえすれば、自分の不行儀をなおすでしょうよ。私は、子供に教育の自由を与えてやらねばならないんです。子供の人格的個性を保護してやらねばならない……』

こういうような有樣で、理性をもってしては、彼等を説得することはできなかった。彼等は、当世新流行の誤った考え方に陥っているので、私の勧めはすべて無駄であった。ところで、子供の教育ということは、結局、私の仕事ではなく、私にその責任はない。善意の忠告を受け入れようとしない人は、自分自身で後々のことを見なければならない。たぶん私たちは、そんな判りきった愚かしさに対しては、完全に黙っていることができないだけだ――子供たちのために。子供たちは、私たち助産婦にとっては、常に幾分かは、自分の本当の子である。

私の骨折りの報酬として、肉屋の親方は、豚を半分、送ってよこした。私たちは、この脂肪の匂いのする慣れないお礼の品物を、どう処分してよいか殆んど判らなかった。親方は、けちけちしようとしなかった。

約一年後、私がその家の前を通って行ったとき、ヘルマン奥さんは、私にまあお入りなさいと呼びかけた。彼女は、またもや妊娠したと信じこんでいた、そしてまた、その通りであった。そこに、ちょうど、坊やのハインツが部屋のテーブルの真中に坐っていた。母親の大きな鋏(はさみ)を手に持って、自分の玉座の上を、窓に取りすがって、あちこちと歩きながら、花の咲いた草木から葉と花をつみ切っていた。
『まあ、後で皆さんは、そこで昼御飯をお上りになるのに』と私は言わざるを得なかった。
『私、どうしましょう? あの子は窓のところへ行くことができねば、ほかの場所にはどうしても座っていないんですよ……』
私は、その腕白の手から鋏を取り去った。『ヘルマンの奥さん、もしも坊ちゃんがこれで自分の眼を突いたらどうなさるの……』
すると、そのお馬鹿さんは、顔を真赤にし、両手で拳を握り、手足をバタバタさせて泣きわめいたので、全く大騒ぎであった。
『そうだ』と父親は笑った。『この坊主の体の中には、何か潜んでいるんだね。この子は刃物のほかは、何も気に入らないんだ。大きくなれば、きっと……』そして母親は、言い訳をした。『この子は、欲しいものを何でも与えられない限りは、いつまでも泣き叫んでいるんです。どうすることもできません……泣き止めさせるために、何でもやるんです。……この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの……』
私は、その腕白を、なにも言わずに、少し強くおむつの上からつかんで、その玉座もろとも地上に引き下ろした。『静かにして遊べないの……』そして、その子をジッと見つめた。身動きもせずに、黙ってその子はそこにうずくまり……ホッと深い溜息をし、……このような慣れない取扱いに対して、もはや不平をよう言いもせずに……助けを求めるように、父母の方を見まわした。しかし、彼らもその子と全く同じように、非常に圧せられていたので、どういう処置をとっていいか判らなかった。そしてただ顔を見合せていた。それが驚きであったか、怒りであったか、私は今日になってもまだ判らない。そして、その腕白がやっと立ち直って、静かに母親のスカートにすがりついたとき、彼女は言った。『あなたは、お子さんがないですからね。そうでなければ、子供をあんな風には取扱えないでしょう。この子は、まだとても小っちゃくて、物事がよく判らないのですよ……』
私はよほど、それでは、そのお子さんは、あなたにお似合いですよ、と言いたかったのであるが、黙って立ち去った。馬鹿につける薬はない。

後に、その腕白の小さな妹が生れたとき、家族たちは、ほかの居間の食卓に坐っていた。『食べたくない!』とハインツが叫んで、スープのはいった皿を高く振り上げて、床へ投げつけた。
父親は笑った。『いつも元気だね、お前! 今じゃお前は、この家ではもう独りではないんだから、男の子の権利を護らねばいけないよ。』ハインツは、椅子から滑りおりた。父親がその子をつかまえようとすると、子供は出て行って、ドアをバタンと閉めて叫んだ。『つかめるかい……』そこで、父親は身をゆすぶって笑った。彼は、寝室にいる私たちのところに来た。『あれが聞えたかね? あのハインツは、全くどえらい奴だ……』
ああ、実にハインツは、どえらい子であった。そして日増しにひどくなった。彼が街路に現われると、ほかの子供たちは、みんな走り逃げた。あるときは、彼は山羊の車に乗って、小さな動物を殴りまわった。あるときは、一匹の子羊を縄で引きずり殺したため、とうとう憲兵から注意を受けた。
そうかと思うと、彼は、鶏の雛の脚と羽を引き抜いた。『ああ、そんなものは、たかが家畜だ! なぜ子供を喜ばせてやってはいけないのかね?』と老ヘルマンが言った。すべてこれらのことは、最も憎むべき動物虐待であることを、彼の荒んだ感情は、理解できなかった。

ハインツの後から生れて来た二人の妹は、非常に利巧ではあったが、二三年のうちに死んだ。そのために、医者のマルクスが、この家に出入りした。ヘルマンのお宅には、私としては、もはや何の仕事もなかった。『子供が一人しかないということは、いいことだ、面倒なことがなくてよい。』と、ヘルマンは今や言った。

ハインツは、学校へ入学した。彼は強情な、狡猾な校友であって、そのずるい策略の前には、誰も安全ではなかった。もっとも学校では、彼は無法ぶりを公然と発揮するわけには行かなかったので、陰ではそれだけますます狡猾になった。教師は、その子を感化教育に附することを繰り返し提言した。しかして、誰も敢えてヘルマンの御機嫌を損じようとするものはなかった。そのため、それも沙汰止みとなった。ある献堂記念日の日曜日に、その父親と息子が喧嘩をした。というのは、この十三歳の乱暴な子は、すでに午前中に店の銭箱の有り金をすべて使ってしまったので、彼はお昼に金庫の鍵に手を出した。このことは、流石の老ヘルマンにとっても、あまりにもひどいことに思われた。『この金庫は、わしがこの家の主人である限り、わしのものだ。判ったか!』そこで、その若者は怒って用の斧をつかんで、父に打ちかかった。仕損んじた。しかし、ヘルマンは、電光に撃たれたように茫然と立っていた。そのとき、彼の眼は一度に開けた。そして同時にまた、抑え難い怒りが、彼をとらえた。始めて彼は、息子をつかまえて殴りつけた。もちろん、我を忘れ、止めどもなく。もしも、母親や職人や下女たちが仲にはいらなかったなら、彼は恐らく息子を殴り殺したであろう。ヘルマンは、青と黒の打撲傷をつけて、家中を走りまわった。ハインツは、何週間も床に就いた。
父親は、思い切った仕打ちをした。しかし、それは遅すぎた。父親のこの突然の変化は、その若者の中に眠っていた復讐心、詭計および粗暴といったようなものを、すべて表面に呼び出したに過ぎなかった。

数ヶ月の後、その息子は、父親を本当に用の斧をもってたたき殺した。狡猾にも、待伏せていた隠れ場から出て来て……
村中は、恐ろしい大騒ぎであった。こんなことは、前代未聞の出来事であった。しかし……しかし……すべての人々は、その父母が自らその禍(わざわい)を呼び起し、そして今その禍が、彼らを打ち砕いたのであるということを見、かつ感じたのであった。近頃は、多くの親たちは、次のように考えるようになった。すなわち、子供の教育は、一つの重要な課題であるということ、そしてそれゆえ親たちは『子供がまあ物心がつくまで……』待っていてはいけないということである。

親たちが、子供に対する誤った教育により、または全く教育しないために、子供を不幸にするのみでなく、自分自身の上にも不幸を招いたという、親の愚かさについて、私などは本を幾冊も書くことができる。以前には、家庭には、まだ或る種の習慣があって、それに従って教育が行われていた。子供たちは、この慣習を見、そしてそれを親から引き継いで来た。今日では、この教育上の伝統は、その他の多くのものと一緒に、家庭から消え去った、それは一部分は、変化した経済上の事情にも因るのである。今や新しい母親たちは、自分の子供たちをどう取り扱ってよいのか、全く判らぬことがしばしばある。そして彼らの頭の中は、新しい流行語で一杯にはなっているが、何かを始めようとする場合には、この新しいものによるべきか、または、まだ保存されているところの――しかし、彼等のもとからは、消えてしまったところの――旧(ふる)いものによるべきかを知らないのである。結婚する前に、子供の教育に必要な知識を持っているという証明書を要求することは、痛切に必要なことであろう。





「会計の報告を出しなさい」 これはあなたにも私にも必ず起こることです。死の瞬間のイエズス・キリストの審判の厳しさとはどのようなものか?

2020年07月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年7月26日は聖霊降臨後第八主日です。

一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。

私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。

死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。

その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。

「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。

ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

7月は毎日「いと尊き御血の連祷を唱えましょう。今日の主日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい

Give an account of thy stewardship.

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年7月26日、聖霊降臨後第八主日です。一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。

天主は愛です。愛の天主は、私たちを愛するがゆえに、全能の力をもって私たちを無から創造しました。善意と信頼をこめて自然の全ての良いものと超自然の恵みとを私たちに委ねました。生まれ、生命(いのち)、健康、時間、家族、言葉、才能、教育、財産、自由、可能性、境遇、環境、全てです。

私たちは天主から全てを受けましたが、かといって受けたものを自分の思い通りに処分することはできません。私たちは主人ではないからです。私たちは天主から委託された、支配人、管理人、運用人にすぎません。私たちは天主の財産を自分勝手に使い込むことはできません。天主の御旨に従って使わなければなりません。

【1:私たちの会計の報告:死の瞬間】

私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。

私たちの死は、天主の愛と知恵がお定めになった時と場所において定められています。

私の死は、いつなのか、どこでなのか、どのようになのか、今は分かりません。しかし、私は必ず一度死ぬ、ということだけは、誰にも変えられない荘厳な現実です。私は、死によって、この世界から永遠の世界に入ります。死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。

その時、私たちは、裁判官であるイエズス・キリストに、人生の厳格な報告を提出しなければなりません。聖パウロはこう言います。「私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体でおこなったことの善悪にしたがって、報いを受ける。」(コリント後5:10)と。

つまり、私たち一人ひとりは、人生の終わりの瞬間に会計報告を提出して、一生の間に天主から受けた全ての恵みと機会と祝福と、それを私たちがどのように使ったか、どのように責任を果たしたかについて厳格な監査と審判をうけるのです。その審判に従って、天主には永遠の至福の褒章か、あるいは、永遠の嘆きと苦悩の罰を受けるかが決定されます。これはたった一度きりで、二度と繰り返されることはありません。

【2:会計の報告の厳しさ】

多くの聖人聖女は、天主から受けた数々の御恩、愛の天主に対して私たちが過去に犯した多くの罪、天主の裁きの厳しさ、永遠の救いの不確実さ、などを思い、審判の日のことを恐れました。より多く受けたものは、より多くの責任を負い、より厳しく天主から追及されるからです。

裁かれなければならないという時の恐怖はどれほど大きいものでしょうか!韓国のソウル市長は、大統領に次ぐ重職だと考えられています。2011年からソウル市長に就任して今期で3期目の、韓国の次期大統領最有力候補であると考えられていた評価の高かった或るソウル市長が、元秘書女性から「セクハラの被害を受けてきた」と告訴されました。すると告訴されたソウル市長は、その翌日の公務を突然すべてキャンセルし、翌々日に失踪して自殺してしまいました!これはつい最近あった事件です。

もしも、中立の裁判官の前に立つことがそれほど恐ろしいことであるなら、自分の犯した罪のために怒る裁判官や君主や父親の前に出頭しなければならない人民や家臣や子供の恐怖はどれほどでしょうか?

葬儀ミサの時に歌うことで有名なDies irae という続誦(Sequentia)には次のような節があります。

Judex ergo cum sedébit, quidquid latet apparébit, nihil inúltum remanébit.

Quid sum miser tunc dictúrus ? Quem patrónum rogatúrus, cum vix justus sit secúrus ?

「裁判官なるキリストが審判席に座す時、隠されているいかなることも明らかになり、何一つそのまま残ることはない。その時、哀れな私は何を言うべきか?どんな保護者に懇願すべきか?義人でさえほとんど安全でないのに?」

もしも生涯イエズス・キリストを侮辱した霊魂が、その屈辱を受けた義憤するイエズス・キリストによって裁かれる厳かな法廷に立たなければならないとすると、どれほど恐れと赤面に覆われることでしょうか?ただでは済まないからです。

聖バジリオは「恐ろしさのあまり、地獄の火の苦しみのほうがまだましだと思うだろう」(Horridior quam ignis, erit pudor)と言っています。

ファラオのもとでエジプトの宰相となった旧約のヨゼフが、自分を売り飛ばした兄弟たちに自分が誰かを明らかにして「私はヨゼフだ!」と言った時、「兄弟たちは、かれの面前で恐れのあまり返事さえできなかった」(創世45:3)と聖書にはあります。

私たちの主イエズス・キリストが、裁きの法廷に立つ私にこう言われるとき、罪人の私はどう答えたらよいでしょうか?「私は、おまえの贖い主であり、おまえの裁き主イエズス・キリストだ。おまえを愛するあまりに天主でありながら人間となり、おまえの代わりに十字架の苦しみを受けた。おまえに数えきれないほどの恵みと祝福を与えて満たし、愛の激流を与え続けてきた。私のできることでおまえのためにやらなかったことがあるか?私はおまえに愛と憐みで全てを与え続けてきた。しかし、私の愛と恩と憐れみに対して、おまえは軽蔑と無関心、怠慢と放埓、不信と冷淡、忘恩と侮辱、責任逃避、無数の罪と思い上がりで返答した。」と。

私はその時、言われてみれば、振り返って考えてみると、生きている間にどれほどのお恵みと憐みをを受けたことかがいやというほどわかることでしょう。何という恩知らずだったことか!

しかし、いままで生きている間、主の憐みを馬鹿にして足蹴にし、無駄にして溝(どぶ)に捨て続け、思い高ぶってきたくせに、死んだら突然態度を変えて、馬鹿にしてきたその主に憐みを乞い願うことがどうやってできるのでしょうか?今までの数えきれないほどの憐みを足蹴にしてきた生涯をまず「会計報告」しなければならないのに、どの面下げて? 

私の人生は、主の愛に満ちた度重なる憐みを今まで何度も何度も嘲弄してきたことをまず裁かれなければならないのに、死後、一体どうやって主の憐みを更に願うことができるでしょうか? 私が主のお恵みを受けて生きている間、天主の救いをずーっといらないと馬鹿にしてきたくせに、私が息を引き取ったら、その天主が私を救ってくれると期待するのでしょうか? 優しい天主は私を友、子供として考え、ご自分を私の父親、保護者として愛してくれ続けてくれましたが、私は生きている間、この天主を父と認めず、保護者とみなさず、敵として取り扱っておきながら、死後、天主は私を敵ではなく友として取り扱うと期待できるのでしょうか?

【3:全人生についての会計報告】

聖パウロは、永遠の栄光にふさわしくなるためには、イエズス・キリストの生涯にかたどった者とならなければならないと言います。「天主はあらかじめ知っている人々をみ子の姿にかたどらせようと予定された。それはみ子を、多くの兄弟の長子とするためである。また、予定された人々を召し出し、召し出した人々を義とし、義とした人々に光栄をお与えになった。」(ローマ8:29)

聖ペトロも言います。天主の掟に敬虔に従い、敵を赦し、聖人を崇敬し、貞潔を守り、慎み深く、柔和、謙遜、親切の聖徳をつんだ義人でも、かろうじて救われるにすぎない、復讐を企てる人々、不貞操、冒涜、嘘つき、讒言、残酷、暴力、酩酊などを行う人々は、いったいどうなってしまうのか?生涯のあいだ、イエズス・キリストの御生涯に反対してきた人びとは、いったいどうなるのか?と。「義人がかろうじて救われるのなら、不敬虔な人、罪人はどうなるであろうか?」(ペトロ前4:18)

裁判者なるイエズス・キリストは、ご自分が私に下さった全ての祝福や恵みを私がまったく無駄にしたことについて、会計報告を求めるでしょう。

愛の天主なるイエズス・キリストは、私が天主に使え天主を愛することができるように与えてくださった年月を、私が天主に罪を犯すために使っていたことについて、会計報告を求めるでしょう。

私たちは、主から戴いた才能や財産をどのように使ったでしょうか? 面白おかしく娯楽で時を過ごすために乱費した?見せびらかすために使った?それとも、多くの霊魂の救いのために賢明に主のために使ったでしょうか?

聖なる天主イエズス・キリストは、私たちが犯しても痛悔もせずにケロリと忘れている邪悪な罪を忘れずに全てを覚えておられます。私の犯した全ての罪の詳しい会計報告を求めるでしょう。その時、私たち一人ひとりは、全ての思い、言葉、行い、怠り、その他の詳細についてさばかれます。

聖マテオはこう書いています。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう。あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって罪とされるであろう」(マテオ12:36)と。聖アンセルモは、全ての視線の会計報告も求められるといいます。Exigitur usque ad ictum oculi.

黄金も浄められるように、私たちの行った黄金のような善行でさえも会計報告が求められるでしょう。善行、告解、聖体拝領、祈り、などもそうです。

もしも、私たちの視線、私たちの言葉、私たちの善行でさえも裁かれるのであれば、慎みのない言葉遣いや、わいせつな言葉遣い、不潔、冒涜、悪口、讒言、盗み、冒涜など、どれほどの厳しさで裁かれることでしょうか!

その時、私は自分のした全ての悪を、邪悪を、罪を、赤面しながら、はっきりと見ることでしょう。

その時、私たちの主の裁判の御前で価値があるのは、私の聖なる生活と善行です。私の生まれ、家系、血筋、富、権勢、地位、知識、才能などは、まったく価値がありません。何故なら与えられたものだからです。その時、私が王であろうが、教皇であろうが、大統領であろうが、世界で最高の資産家であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、主の裁判において何の価値もありません。それどころか、責任があればあるほど、受けたものが多ければ多いほど、より多くが請求されます。

【4:私の会計報告】

愛する兄弟姉妹の皆様、会計報告つまり審判、これは皆さまと私とに必ず起こることです。これは「私」の会計報告です。ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。私たちは黒字でしょうか、それとも赤字でしょうか?

私たちの身分上の務めを、天主に対してどのように果たしているでしょうか?家庭の父親として、母親として、子供として、自分に与えられた責務をどう果たしているでしょうか?夫として、妻として、上司として、部下として、国民として、学生として、教師として、カトリック信徒として、どうでしょうか?

もしも私が天主に対しては不従順でも、世間体や人の目に従った場合、天主は私が世間の考えに従ったかどうかに基づいて、私を裁くと思いますか? 子供の数が多いと、みんなから何と言われるだろうか? ミニスカートでへそ出しルックが今の流行だから。みんなと一緒にいかがわしい場所に行かないと。これは悪いことだけれども、することが決まっているから。みんなで決めたことだから。

元駐米教皇大使のヴィガノ大司教は言います。「もし私たちの信仰が、従順のみに基づいていたとしたら、殉教者たちは国家の法が定めた苦しみに直面する必要はなかっただろう。ただ従順に、皇帝の像の前で一粒の香を焚くだけで十分だったことでしょう。」

私たちのミサに与る態度はいかがでしょうか?私たちの御聖体拝領はどうでしょうか?主日をどのように聖化しているでしょうか?ミサの時、聖体拝領の時、私たちを愛するがあまり御聖体の内に黙ってしかし真にましまし給うイエズス・キリストをふさわしく礼拝しているでしょうか?聖パウロはイエズス・キリストの前で天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、膝をかがめる、と言います。カトリック教会の1500年以上の伝統と規律は、跪いて口による聖体拝領です。手による聖体拝領はパウロ六世の出した特別の例外的許可にすぎません。イエズス・キリストは、私たちがどのように愛をこめて御聖体を礼拝したかについて会計報告を求めるでしょう。

皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体を冒涜することができるのでしょうか?

また韓国での例を挙げるのを許してください。7月には22歳の女子選手が自殺しました。この女子選手は、監督やドクターや先輩選手から激しいいじめを受け続けていたそうです。ところでまわりが虐めていれば、私も彼女を虐めていいのでしょうか?私は大人のくせに「コーチや先輩からやれと言われたからいじめただけで、私には責任がない」などと小学生のようなことを言うことはできません。刑事責任を取らねばなりません。

皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体に不敬をなすことが許されるのでしょうか?

カトリック教会の教える信仰の真理を、首尾一貫し、妥協せず、日和見主義に陥らず、信じて証しすべきです。従順とは真理と善に秩序づけられたものです。そうでなければ、従順ではなく"へつらい"です。

ヴィガノ大司教はこう言います。「信仰と愛徳における一致は霊魂の救いに基づいているのであって、霊魂への害に基づいているのではありません。真理を宣言することは必然的に「分裂を招く」ものであり、それは光が闇と対立するように真理が誤謬に対立するからです。ですから、主は私たちにこうおっしゃっています。「私が地上に平和を与えるために来たと思うのか。私は言う。そうではない、むしろ分裂のために来た」(ルカ12:51)と。」

【5:遷善の決心】

死の時、私たちの主からこの言葉を聞くとき、私たちはどれほどの喜びと慰めに満たされることでしょうか。「よしよし、善良な忠義なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをあなたにまかせよう。あなたの主人の喜びに加われ!」(マテオ25:21)

それに引き換え、怒り心頭の主から次の宣告を聞くとき、どれほど悲しみと絶望にとらわれることでしょうか?「のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ。」(マテオ25:41)

【準備その一:改悛の秘蹟】

もしかしたら、今まで、私の会計報告、自分の会計報告について、ほとんど関心がなかったかもしれません。こんなこと私にだけは起こらないよ、大丈夫だよ、と。しかし、まだ私たちが笑いながら罪にどっぷりつかって眠りこけている時、突然、死が襲ってくるかもしれません。

聖アウグスチヌスはこういいます。「多くの人びとは自分だけは地獄に堕ちないと信じていて、地獄に堕ちた。終わりが来て、暗闇に落とされた」と。

洗者聖ヨハネはこういいます。「まむし族のものよ、近くくるおんいかりをのがれることを、だれがあなたたちに教えたのか。くいあらためにふさわしい実を結べ。… 斧はもう木の根におかれている。よい実を結ばない木は、みな切りとられて、火に投げいれられるだろう。」(マテオ3:8, 10)

今、まだ時があるうちに、会計報告の準備をしておきましょう。生活を天主の御旨に合わせましょう。まだ時があるうちに天主の憐みを乞い求めましょう。裁きの前には、裁き主に憐みを祈ることができます。しかし、裁きの最中にはできません。

最善の準備は、すでに告解の秘蹟で「清算」しておくことです。きれいに赦されておくことです。

【準備その二:聖母に祈る】

幼きイエズスの聖テレジアは諸聖人と声を合わせて言います。私たちは人生の夕べに愛について裁かれる、と。人の目から見ると価値のないように思われる小さなことも、天主への愛をこめて行うならそれには永遠の価値が生じます。聖母マリア様のご生活がまさにこれでした。

死の直後の私審判の時に、私は本来なら一人で被告人として裁かれます。しかし、もしも私たちが生きている間、聖母にお願いしておくならば、裁判官の愛する母であり私たちの母であるマリア様が私たちの弁護者となって最高裁判官に強力な弁護をしてくださいます。会計報告の成功の秘訣は、マリア様によく取次を願うことです。

来る土曜日は8月の初土曜日(8月1日)です。ファチマの聖母は初土曜日の信心を行うなら聖母の汚れなき御心は私たちの避難所となると約束されました。どんな大洪水や火山の噴火のような霊的危険からも守られる避難所です。8月15日は聖母被昇天の聖母の大祝日です。私たちは8月13日から15日まで秋田の聖母のところに巡礼を行います。8月22日は日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。私たちの愛を見て、聖母は私たちの赤字を帳消しにしてくださるようにイエズス様に願うに違いありません。愛する兄弟姉妹の皆様をこれらの行事とミサに招待いたします。

【準備その三:隣人のために祈る】

最後に、隣人のためにも祈りましょう。秋田の聖母はカトリック司祭、司教、枢機卿、教皇様のために祈れと私たちに依頼されました。地位が高くなればなるほど、多くを受ければ受ける程、それだけより厳しい会計監査を受けます。与えられた権威をどのように用いて、天主の栄光のために、カトリック教会の名誉のために、信徒たちの永遠の救いのために使ったのか?と。

与えられた権威を、主を信じ、礼拝し、希望し、愛するために正しく使った聖職者たちには、より大いなる永遠の喜びが与えられることでしょう。しかし、与えられた権威を乱用して、カトリックの教えを歪曲させるなら、主に対する信仰と礼拝と希望と愛を減少させるなら、どれほど厳しい裁きと罰を受けることでしょうか?

ヴィガノ大司教はこう言います。「教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営をご自分の代理者に委任するだけです。教会を、そうではないものにしかも決してそうであり得ないものに変えることは、天主に反する、また天主が非常に明確に定められ牧草地で草を食み、裂け目や茂みに散らされないように命じた羊の群れに反する、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪を構成します。もしこの巨大な破滅の責任者らが、法令や貸借対照表を偽造し、顧客を騙し取った不誠実な管理者であるならば、彼らは説明を求められなければなりません。Redde rationem villicationis tuae [おまえの会計の報告を出しなさい] (ルカ16:2)。」

ルフェーブル大司教は「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」という公開書簡の中の最後で、次のように言葉を結んでいます。

「今日この瞬間は、まだ口を閉ざしているとしても、これらの司教のうちの誰かが、聖霊の導きによって立ち上がる勇気を与えられることでしょう。私のこの仕事が天主様のものであるならば、その道は主によって守られ、教会にとっての善となるように用いてくださるはずだからです。

私たちの主は、地獄の門が教会を打ち負かすことはないと約束してくださっているからです。ここに、私が主張し続ける理由があります。もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主様が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか」と。」

Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい Give an account of thy stewardship.


「助産婦の手記」6章  『するとあなたは、 多分、小っちゃいお子さんが、まだ長い間、母親のもとにいるのをお喜びになるでしょう。』

2020年07月25日 | プロライフ
「助産婦の手記」

6章

『そうです、レッシュ奧さん、全くそうなんです。あなたは、また妊娠なさったんです。』
『あら、そんなことありっこありませんよ! 考えても御覧なさい……私の年で……』

彼女の居間で私と向きあって坐っていたその妊婦が、あたかも私が彼女に不治の病の診断をでも下したかのように、全く興奮した。
『でも、それは異常なことでは決してありません。レッシュ奥さん、こんなことは割合たびたび起るものです。そうです、四十代の始めに。ウンターワイレルでは、クロンウィルティンさんが結婚してから十二年になるのに子供がなく、もう四十近くになりました。ところが、ここ数年間に、男の子が一人、女の子が二人、都合三人も出来たのです。また私たちは、産婆学校で、四十六になって始めて子供の出来た女を取り扱ったことがありましたよ。』
『どうして、そういうことがあるんでしよう……私はどうしても信ぜられませんわ……』
『ありそうな、全く正常なことです。ところで、あなたは以前、ほかのお子さん方のお産のときも、特別苦しみはなかったんでしょうね!』
『そうです、ありません。私は、もともといつでも大へん調子がよかったのです。でも、あなた、どうかあの子供たちのことを考えて見て下さい! マリーはもう十七ですし、末っ子のベルタは十一です。男の子は、十五と十三です。子供たちは、いつか時期が来たら、私に何か異状のあることに気がつくでしょう。そのときには、私はどんなに恥かしい思いをせねばならぬことでしよう……』
『しかし奥さん、一体何をです! あなたは、結婚していらっしゃるんでしよう。子供が出来る――そうです、出来る――ということは、全く天主の御摂理です。ですから、創造主御自身こそ、その御業について恥じねばならぬことになるでしょう。でも、旧約聖書の中で、サラは、どう言いましたか。「天主は私に喜びを用意し給うた。このことを聞くと 誰でもが、私と共に喜ぶでしょう、なぜなら私はこの年で、なお一人の子供をもつことができるのですから」と。』
『そうですね、もし大きな子供たちがいなかったら、それもまあよいでしょう。でも、今は子供たちは、何も気がつかないでいるには大き過ぎるし、またそれを正しく理解するにはまだ小さ過ぎるんです。』
『そうです、奥さん。もしもお子さんたちが、数週間のうちに、そのようなことを、ほかの人たちから聞かされたとしたら、もちろん何を考えるか判りませんよ。さよう。お子さん方は、よその人たちがこれらの事柄について話す通りを知るわけです。しかし、もしもあなたがいま御自身で、お子さんたちにそれをお話しになるなら、それは愛すべき美妙な神秘となります――すると、お子さん方は、あなたと一緒にそれを耐え忍び、そしてあなたと一緒に喜ぶのです。』
『でも、それはどうも言うことができません……』
『私は、それをもう多くの人たちに言いましたよ、奥さん。もし大きな娘さんがその家にいらっしゃるなら、そしてもし私がそのような家に参りましたなら、私はいつも娘さんに、はっきりしたことを言ってしまいます。そして、私はどこでも認めたことですが、娘さんたちは、それを知ると全く喜んでいるのです。それはちょうど、娘さんたちから大きな重荷が取りおろされたかのようです。それから娘さんたちは、母親に対して、以前にはそういうことがそうたびたびなかったぐらいに、いつも大へん親切にして、いたわるのです。』
『ところが、こうの鳥が子供を持って来るんだってことが、いつも言われて来たんですから……』
『まったく。 でも、あなたの赤ちゃんは、冬の最中に生れるんですよ。こうの鳥が遠くにも近くにも、一羽もいないときに。いいですか、私はこうの鳥のことは、もうどうしても辛抱できません。私がいつまでも、こうの鳥の小母さんでなければならないなんて、馬鹿げた話です。そして、子供たちが――あなたの末のお子さんのように――十一にもなって、そんなことをまだ信じるぐらい、そんなに馬鹿だなどなど考えてはならぬのです。いえ、人の生命はすべて、天主から来るのです。赤ちゃんも、そうです。どうか一度、御主人とこの事についてよくお話し下さい。私は、お子さん方に、あなたに代って言ってあげましょう、も一人、小さなきょうだいが生れ来るんだということ、そして皆んなで、すべてを綺麗に整えるお手伝いをせねばならぬということを……』
『でもそうすれば、子供たちはきっと尋ねるでしょう、どこからそれは来るの? どうして、それが来ないうちから知ってるの?と』
『すると私は、こう言ってやりましよう。本当は、赤ちゃんはもう決してよそから来るのではなく、もう今ここにいるんです、私たちのところにいるんです。あんたたちは、それをまだ見ることができないだけなのです。公教要理の中で、人間は天主様がお作りになったということを教わらなかったですか? 私たちの赤ちゃんも、天主から来るんです。お母さんの心臓の下に、天主様が赤ちゃんのために揺籃(ようらん)を作りになったのです。そして天主様が、ある家庭に赤ちゃんを一人授けてやろうと思われると、天主さまは一つの小さな霊魂をお母さんにお送りになる。それは今、お母さんの心臓の下の揺籃(ゆりかご)の中に眠っています。それから、身体が霊魂につけ加わって出来てきます。そして赤ちゃんが十分大きくなったときに、この世に生れ出て来ます。それから、私たちは、それをお母さんの心臓の下の揺籃から取り出します。その揺籃は、赤ちゃんにとっては、狭くて小さ過ぎるようになったのです。で、それから赤ちゃんを洗濯籠か、または小さなベッドの中に置きます。そこヘリスベートが来て、お母さんの手助けをするんです、と……』
『そうですね、もしそのように見るなら……』
『では、なぜそう見てはいけないんでしょうか? 勇気をよくお出しなさいよ、奥さん。お子さんたちは、やがて大きくなって、段々家を出て行きます。するとあなたは、 多分、小っちゃいお子さんが、まだ長い間、母親のもとにいるのをお喜びになるでしょう。』
『主人もやはり言っています、お母さん、悲しまなくてもいいよ。そういうわけなら、その子は、我々が年を取ったときには、太陽の光となるだろう、と。』

さて数週間の後、私は箒作りの家庭を訪問した。村はずれの池に面して、一軒小さな、風に吹き曲げられた家が立っている。それは、もう大分傾いているので、いつかは嵐のために、池の中に吹き落されるに違いないと、人々は思っている。私も全く同じように見ていた。三年前に、恐ろしい暴風雨がやって来て、この村で多くの立派なお屋敷の屋根を吹き飛ばしたことがあるが、この家の上は何事もなく吹き過ぎて行った。暴風雨にとっては、恐らくその家などは骨折り甲斐がなかったのであろう。それとも、この家は、そのときには、地の中に潜ぐりこむことができたのであろうか? 当時、その箒作りは言った。
『子供が大勢だし、お祈りも沢山だからね。もしおれの家が倒れるようなことがあるなら、一体、天主様は誰の家をお守り下さるだろうか?』と。
小さな覗き窓の、どの一つからも、暴風雨のときには、少くとも半ダースの小さな眼が外を眺めていた。どの眼も、そこの池のように透明で青かった。ところが太陽が輝くときには、十七人の子供のうち、一人として家にはいなかった。一番年上の二人の娘は、勤めに出ていた。私が、その就職の世話をしてやったのである。彼女たちは、勤勉な几帳面な、そして黄金のように非常に快活な人たちであったから、勤め先では、彼女たちを手離そうとはしなかった。一番上の男の子は、地主の農場で働いている。その箒屋は、子供を工場へはやろうとしなかった。『おれの子供たちの身のためには、丸っきりなりはしないよ、』と彼は言っている。『子供たちは、太陽と空気とに慣れっこになっている。歌をうたって、跳ねまわることができなくちゃいけないんだ。』そして、お上さんは言っている。娘たちは勤めていると、後になって世帯をもったときに必要な事柄を学びますよと。娘たちは、良い勤め口では、工場と全く同じぐらいの金を貯めることができる。もっとも工場では、娘たちは、お互いに、無駄な金づかいをさせるようなきらいはあるが。

箒屋の十三人の子供たちは、まだ家にいた。しかし、一人だって暇でボンやり立っているものはなかった。娘たちは、もう九つにもなれば、とても上手に裁縫し、繕い物をし、洗濯し、磨きをかける。男の子たちは、父親の手伝いをするか、または、収穫の仕事をし、そして春になると登校日以外は百姓のところで日雇労働をしていた。彼等は、まるで大人のように働くよと、村の人々は、言っている。しかし彼等は、私の考えでは、要するに箒作りである! いつも歌をうたい、口笛を吹いていないとおさまらない! それは、私たちの村では、心の浮わついていることを示すまぎれもない印しだとされている。そして私はそのことを、もうたびたびたしなめて口争いをせねばならなかった。一番小さい箒作りたちは、羊と山羊の番をし、冬のために飼草を取って帰り、そして、いつも家にいる赤児のお守りをする。というのは、母親も、日雇労働に出かけたからであった。
もちろん、箒屋のお上さんは私のお得意であった。一体、当時では――第一次世界戦争の前は――子供の多いのは珍しいことではなく、むしろ通例のことであった。私たち助産婦は、およそ二年目ごとに、お産のために訪れるよいお得意の家庭を相当もっていた。そういう家庭では、私たち助産婦というものは、聖ニコラスや復活祭の鬼のように、神秘的な贈物をするものと考えられていた。

ことし、私は箒屋のお上さんに十七番目の子供を分娩させた。それはよく晴れた暖かい十一月のある日であった。空は、この満ち溢れる祝福に対して朗らかに笑みかけた。そして箒屋も、生れた女の赤ちゃんを自分の大きな硬い手の中に取りあげてキッスしたとき、同じ様に笑った。私は、彼がその子をつぶしてしまいはしないかと心配した。しかし、仲々どうして。彼は、全くよく慣れた父親の注意をもって、取りあつかったのであった。彼は、私が赤ちゃんに、おむつを当てるまで、待っていることができなかったので、早くも初湯の中から赤ちゃんを奪い去ったのである。そしてその小さなのが泣き出すと、彼はあやしはじめた。
『泣いちゃいけないよ、可愛い娘。お前が大きくなるまでには、また誰かひとり大人になって家から出て行くんだ。お前もじきに一枚の皿と、ベッドの中に小さな席がもらえるんだよ。一番上の姉ちゃんと同じように、本当に可愛らしくなりなさいよ……』
『だが、 この子が多分、最後の子となるでしょうかね、リスベートさん? 家內はいま四十五ですよ。わたしたちは実のところ、今度はもう赤児のことなんか全く考えもしなかったんですよ。あんなに沢山こしらえたんだからね……色んな変ったことがあるもんだね。しかし、この子は実際生れて来たんだし、また大きくなるだろう。そしてわたしたちの老後の太陽の光となるだろう……』
そのとき、レッシュさんの娘のマリーが、おどおどと戸から覗きこんだ。
『はいってもいいでしょうか?』
『どうぞ、おはいり、ちょうど子供のお守りがほしいところなんだよ。』 と箒屋は言って、手足を動かしている小さな代物を彼女に差し出した。そこで私は、やっと赤ちゃんを、その嬉しそうな父親の手から取り上げて、おむつに包むことができた。
『あら、』 とマリーが、びっくり仰天した。『ほんとに真裸で……そして小っちゃい……』
『お前さんは、赤ちゃんは、のっけから、おむつに包まれてこの世に出てくるとでも思っていたのかね?』 と、年寄りの箒屋が、からかった。
『リスベートさん、いつ赤ちゃんを包み直すの……?』
『赤ちゃんが濡れて、きたなくなるとね。そして毎朝、お湯をつかわせるの。』
『そのときまた来てもいい? お願い、いいでしよう? 私のうちの赤ちゃんが生れるまでに、それができるようになりたいのよ。きょうお父さんの姉妹が、来るひまがないって、手紙を寄こして来たの。赤ちゃんとお母さんのお世話が、私にもできるだろってこと、あなた信ぜられないの? 私たちは、誰にも手伝いに来てもらわなくてもいいってことを? 私は、まだ赤ちゃんを見たことがないの――でも、もしあなたが、お産の手伝いに私を連れて行って下さるなら……』
『なあに、もちろん、あんたにはできますよ、もう十七ですからね……』
『リスベートさん、どうかそのことをお母さんに言って下さい。きのうお母さんは、お父さんと話していたわ。お産の間中、私を親類のところへ行かせて置くんだって――でも、それは無意味よ、そうじゃなくって? お母さんの手助けが要るときに……』
『ぜひ家にいて、お母さんの世話をしておあげなさい。でも、今からでも、もうよく親切にして、お母さんのお仕事の手伝いをして上げなさいね……』
『全く、小さな子供をいつも心臓の下に入れてかかえていることは、母親にとっては大きな重荷だね……赤児は成長して、どんどん大きくなるし……そして俺たちの生れた場合も、その通りだったんだね……』
教会の鐘が鳴って、お告げの祈りの時を知らせた。すると、箒屋の子供たちが、まるで一寸法師のように、ぞろぞろと地面から匐(は)い上がって来たので、居間は一ぱいになった。子供たちは、籠の中にいる赤ちゃんを、驚いて見つめた。それは、またしても一つの新しい驚異である! 父親が馬鈴薯のスープを一ぱい入れた大きな「かめ」を食卓の上に置いたとき、子供たちの最初の質問は、『赤ちゃんもスープを飲むの?』というのであった。
『いや、当分まだだよ』
『では、どうして天主様は、おじさんの家へ、そんなに子供を大勢送って来られるの? あなたは、間もなく子供たちをどうすればよいか判らなくなるでしょう……』とマリーが尋ねた。
『多分、わたしたちが、子供を沢山ほしがっているからだろうね。』と、箒屋がすぐ言った。
『それでは、どの子がほんとに一番可愛いいの?』
『ああ、――それは、いつでも一番あとの子さ!』
クリスマスの前の日曜日に、いわゆる「小さな太陽の光」が、レッシュさんの家で生れた。全家族を挙げて、この幼いキリストのことを喜び、そして母親は、愉快な日々を過ごした。父親は、子供たちに言って聞かせておいたので、彼らはすぐ様、母親に何か親切なことをして上げようと競走した。

それ以來、長い年月が村を過ぎて行った。子供たちは、大きくなって自立した。一人々々自分の世帯を築いて親の家を去った。その箒屋さんの小屋でさえも、空になった。しかし、時々その子供たちは、父母のもとに飛んで帰った。彼らは、両親の家に、非常な愛着を持ちつづけた。いかなる祭日でも、両親への拶挨と贈物のなかったことはない。しかし、人生というものは、羽の生えた小鳥をして自分自身の巣を作らせずには置かないのである。
「小さな太陽の光」たちは、両親の家に留っていた。疲れた両親の手から仕事を引きとって、老後の彼らを忠実に世話した。そして両親が墓に運ばれたときには、この小さな太陽の光たちは、自分の生計を建てるには、まだ若すぎた。――
たびたび私は、これらの遅く生れた最後の子供たちは、もしこれを注意深くよく育てるならば、両親の最もよい支えとなるものであるということを経験して来た。




2020年7月26日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for July 26, 2020

2020年07月25日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年7月17日(金)18日(土)19日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 7月24日(金) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭 15:00 マーチフォーライフ

 7月25日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 7月26日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 7月27日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 7月5日(日)から、東京では会場がもと通り、いつもの会場になっています。

これまでの会場は「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

[本駒込駅から来られる場合には次の地図をご覧ください。]


7月24日(金)海(生み)の日 ミサがニ回捧げられます

11:00 ミサ聖祭 

12:30 ミサ聖祭

16:00 マーチフォーライフ

7月26日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of July 26, 2020.

On this coming Thursday, July 23 (Marine Day), there will be two masses at 11:00 and 12:30 (but not at 09:00). There will also be March for Life in Tokyo, starting at 4:00 p.m. (please see below for details).


Mass location (we are now back at Akebonocho Kaikan):


Akebonocho Kaikan

Address: 1-12-5, Bunkyo-ku, Tokyo 113-0021

GoogleMap link: 1-chリme-12-5 Honkomagome, Bunkyo City, Tリkyリ-to 113-0021


Mass times:


11:00 - Sung mass

12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the masses.

March for Life in Tokyo (July 23)

March for Life in Tokyo : on Thursday July 23rd, 2020 "Marine Day" at 4 PM

The march is about 3km from Tokiwa Park (Nihonbashi) up to Hibiya Park

Assembly at Tokiwa Park in Nihonbashi

Location for Assembly : 4-4-3 Nihonbashi Hongokucho, Chuo-ku, Tokyo

Googlemap: https://www.google.com/maps/place/Tokiwa+Park/@35.6884179,139.7682742,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x48f2e48b4319f946!8m2!3d35.6881129!4d139.7699694

Google マップ

[Access]

* 4 minutes walk from Shin-Nihonbashi Station on the JR Sobu Line

* 4 minutes walk from Mitsukoshimae Station on the Tokyo Metro Hanzomon Line

* 5 minutes walk from Otemachi Station on the Tokyo Metro Line

* 4 minutes walk from Kanda Station on JR Yamanote Line, Keihin Tohoku Line and Chuo Line.

* 4 minutes walk from Kanda Station on Tokyo Metro Ginza Line

March starts at at 4 p.m.

Distance of walk : approximately 3 km

Place of dismissal : Hibiya Park

Save the human life before birth!

There is something you can do.

Walk with us and with Our Lady of Fatima!

Thank you!


July 26, 2020

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, Sunday mass attendances were as follows:

July 12
09:00 - 31
11:00 - 23
12:30 - 26

July 19
09:00 - 36
11:00 - 21
12:30 - 17

Mass location in TOKYO:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo

Mass schedule in OSAKA:

Fri, July 24: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sat, July 25: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, July 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, July 27: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.

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Continuing requests regarding our measures against the coronavirus:
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Responding, singing and talking in the room
We have been told by the administrator of this place that some of the neighbors are concerned about the sound level of our masses. To alleviate their concern, all of us need to try to keep our sound level reasonable, which will also help us mitigate the virus transmission risk.
(a) We will keep the windows on the right side open, but those on the left side closed.
(b) During the mass, please do not raise your voice in responses (e.g., et cum spiritu tuo, amen); instead let the servers respond.
(c) The same rule applies to the prayers after the mass (Ave Maria, Salve Regina, etc.) - please do not raise your voice; instead let the servers respond.
(d) Please refrain from talking in a loud voice with other people before and after the mass.
Finally, as always, please remember to wash or sanitize your hands when you arrive.





2020年7月24日、大阪での第一回マーチフォーライフの写真をご紹介いたします。

2020年07月24日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

初回の大阪でのマーチフォーライフ(2020年7月24日)の写真です。

Some souvenir photos of the first edition of the March for Life in Osaka 2020.



























昨日の生みの日は東京で、今日のスポーツの日には大阪で、マーチフォーライフが行なわれました。

2020年07月24日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

昨日の生みの日は東京で、今日のスポーツの日には大阪で、マーチフォーライフが行なわれました。

東京では約70名が、大阪では28名がマーチフォーライフに参加しました。

私たちは微々たるものでしたが、マリア様が一緒に歩かれたのでマリア様御一人で一億人以上のパワーがあったと思います。

雨の降る中を参加してくださった方々に心からお礼を申し上げます。保護誘導してくださった警察の方々に感謝いたします。

中には雨の中を濡れても、償いとして捧げておられた方々もいらっしゃるのを拝見し心を打つものがありました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

7月23日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

11:00のミサ
男: 12人(内、子供0人)
女: 10人(内、子供0人)
計: 22人(内、子供0人)

12:30のミサ
男: 10人(内、子供1人)
女: 17人(内、子供3人)
計: 27人(内、子供4人)

2回のミサの合計(ダブルカウントの8人を除く)
男: 19人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供3人)
計: 41人(内、子供4人)

【報告】【大阪】
神父様、マーチありがとうございました。
大阪のメイン通りを警察の警備の中、マリア様が堂々と歩かれた事が一番嬉しかっです。








「助産婦の手記」5章 『赤ちゃんをここに置いて、可愛がってやって下さい すると噂はじきに消えますよ。』

2020年07月24日 | プロライフ
「助産婦の手記」

5章

しかし、ベーレンホーフは、それでもまだ一人の相続人を持っていた。さて教会献堂記念祭の或る日曜日のことであった。村はずれには、いろいろな見世物小屋が立っていた。老いも若きも出かけた。荘厳ミサが終ってから、メリーゴーランドがずっと旋回していた。舟ブランコを元気一杯の若者がやけに高く揺り上げたので、ブランコの蝶番(ちょうつがい)が殆んどはずれて飛びそうになった。射的場の前では、男たちが打ち興じていた。彼等は、軍国主義の時代が、もうとっくに過ぎ去ってしまったのに、なおまだ善い射手になることができるかどうかを試しているような塩梅だった。

ケバケバしく種々な色で描かれた仮小屋の囲いの中では、非常に奇妙なものを見ることができた。目方が四百八十三ポンドもあるという巨人娘だの、頭が二つに足が六本ある子牛だの、本もののインド産の大蛇だの、暗黒中世紀の榜問室だの。ああ、私は今日でもなお、それらの光景を想い出すたびに、脊中がゾッとする。それから、また福引車があって、十ペンニヒ出せば、それを回転させることができ、当れば何かがもらえた――また当らぬこともあった。砂糖菓子の屋台店、胡椒か蜂蜜かのはいった菓子のパン屋、トルコ蜂蜜、各種の玩具――もちろん、一番安い見切り品であり、また信ぜられないぐらい無意味な、かつ不必要な物をゴテゴテ描いた器物(うつわ)を売る露店もあった。当時の人々は、そんなものを、どの部屋にも沢山陳列するのを好んでいた。そしてインディアン音楽が、絶え間もなく、種々な色合いをつけて、やかましく鳴り立て、人の頭を狂わせた。

私たちの村では、献堂記念祭は、いつまでも特に念入りに面白く行われる。そして、色々の見世物の中には、本ものの猿や駱駝もいるから、若い人たちは、遠近を問わず、そこへ集って来る。またメリーゴーラウンドに乗る。物珍らしげに、ここかしこを歩きまわる。あれこれと話し合う――もっとも話は、常に必ずしも上品な、ふさわしい事柄のみには限られなかった。こでは、若者は娘に御馳走をせねばならない。それから若い人たちが、もう相当ゆるんだ気分になって、最後に村にやって来るのであるが、村では、どの居酒屋でもダンス音楽が鳴りひびいている。そして、ここでは前とは一変して、ダンスホールでの費用は、娘が若者の分まで、全部支払うのである。

そのような或るお祭の日曜日に、私は夕闇の迫る頃、村を通って歩いていた。そのとき、私は、ベーレンホーフの娘のパウラに出会った。彼女の髪は、熱した顔に乱れかかっていた。その相当ギラギラ光った眼は、この十七になるかならぬぐらいの小娘に、アルコールが気遣わしいほど廻っていることを物語っていた。彼女も、まさに居酒屋「鹿」から出て来たのであった。
『あんたは、全く独りでここに来たの、パウラさん? あんたの村の若い人たちは、誰もここにはいないの?』
『どこに若者たちがいるのか知らないわ! 私は、お昼御飯のあとで逃げ出したのよ。私も、一度、何か愉快なことをやって見たいのよ!』
『でも、あんたはこれからどうするつもり? 一人で森を走り抜けることは出来ませんよ。あんたがここから歩いて村を抜け出ないうちに、すっかり夜になってしまいますよ。』
『では、私の年寄りたちが、私を迎えに来るまで待っていなけれゃならないの? それじゃ仲々時間がかかるでしょう!』
『私について家へいらっしゃい。私の家のそばの居酒屋「鷲」には、確かな人たちがいます。その人たちは、同じ道を行くから、あんたを連れて行ってくれますよ。』
『「鹿」には、も一人、Xへ行く人がいるわ、その人がすぐ後から来るはずです。』
そこへ誰あろう、Xのワルドホーフの馬係りの若者が、居酒屋から出て来た。彼は、遠近に聞えた最も性の悪い与太者である。ワルドホーフの屋敷では、彼がいるために、下女は誰も居つかない。彼は、どの居酒屋でも自慢して言っている、間もなくXでは、自分の言うことを聞かぬ娘は、いなくなるであろうと。今まで何べんも、彼は汚らわしい事件のために裁判所に呼ばれている……
『あの馬係りとは、あんたはまさか一緒に行きたくはないでしよう。パウラさん! あれは、どんな奴だか、ちっとも知らないの? 上品な娘は、あんな者と一緒にいてはいけませんよ。』
『人の噂さが、私に何の関係があるでしょう……』
『でも、もしあんたに怪我があったら、どうするの? 人生は長いのに、女は一度そんなことがあると一生涯中、每日、十字架を背負わねばならないんですよ。私と一緒にいらっしゃい。あんたが安心して一緒に家に帰れるしっかりした人を誰か探してあげましよう。』
私が自分でその娘を連れて行けるなら事は簡単であったが、私はまだ私を待ちうけている妊婦のところへ行かねばならなかった。
『私は誰もいらないわ!』と、その娘は叫んで走り去った。しかも、あの馬男が実際ついて来ているかどうかを振り返って見ようともしないで。そのとき、ちょうどワグナー・ヨゼフが自宅から出て来た。
『ヨゼフさん、どうかあの馬男を暫らく引き留めて置いて下さい。あすこにベーレンホーフのパウラが走って行くんです。もし二人が森の中で会うと、どんなことになるやら!』
『あいつは、私にとっちゃあ、確かに一番苦手なんですがね……』と、ヨゼフはつぶやいた。『だが、よろしい、確かに引き受けましたよ……』
こういうわけで、その二人の男は、また「鹿」へ引き返した。
多分、それはうまく行っただろうと私は思った! 私は仕事を済ませて、安心してベッドに横たわった。『あいつは、確かに、もう娘さんに追いつけなかったでしょうよ。』 と翌日ヨゼフが言った。
『完全に一時間、あれを引きとめてやったから……』

しかし、一人の小娘が、一たび不幸の中に飛びこもうと思っているときには、誰もそれを引き止めることはできない。

森に差しかかる手前の最後の里標の石の上に、パウラは腰をかけて待っていた。独りで森を通り抜けるのが恐ろしかったのか? 同じ道を行く人々が二回も通りかかって、彼女に呼びかけた。しかし彼女は、彼等と一緒に行かなかった。彼女は、まさしく待っていたのだ……
もちろん、私たちが警戒するようにと注意して置いたあの男を。午前中、彼女は彼と踊った。そして彼は、ほかの誰もがまだ彼女に話したことのない事柄を話した。それらの事柄について、彼女はもうよほど以前から、何か知りたがっていた。屋敷の下女たちは、みな彼女よりも利巧だった。そして彼女が女中部屋にはいって来ると、あざ笑って黙りこんだ。下女たちは、彼女がまだそんなに若く、しかも愚鈍だったので、彼女を真面目に取扱わなかった。とにかく、下女たちが、何と考えていたにせよ、彼女は、もう大分以前から、下女たちが想像していたほどには、愚かではなかった。そして、きょうこそ彼女は、最後のものを知りたいと思ったのである。その馬男は、彼女に森の中で、とても微妙な或ることを話してやろうと約束した。居酒屋では、人々が大騒ぎをしていた――そのため、しょっちゅう話を中絕せねばならなかった……それに反して、森の中では、ほかに人はいなかった。殊に、徒步道をすぐ右に折れて行くならば。今晚は、もはや恐らくその道を行く人は誰もいないであろう。そこでは邪魔されることなく、何でも話すことができる。好奇心と情慾とが、アルコールの酔いに目覚まされて、手を握り合った。朦朧とした、奔放な空想が、次ぎから次ぎへと、幻影を並べ立てた。かようにして十七歳の娘は、生ま暖かい夏の夜に、そこに坐って、確実に墮落するのを待っていたのであった……
道を伝って一人の足音が近づいて来た。馬男だった。彼は娘が道端に坐っているのを見いだした――立ちどまった。本当にこの娘は、待っていた! 御意のままだ! これはお祭の日曜日のために、さらにも一つの見事な終幕を与えるものだ! 有難い、わざわざ自分のために、このようにして道に投げ出されている林檎は、食べるべきのみだ……
『ヨッケルさん、でもあんた仲々来なかったわねえ……』
『引き留められていたのさ。君はもうとっくに家に帰ったのかと思ったよ。特別に俺を待っていたのかい?』
『でも私たち、そう約束したじゃないの……』
『もちろん、そうだ。君たち女というものは、実に好奇心に富んでいるよ……』彼は彼女の腕を自分の腕にかき込んだ。広い道から、静かな森の中に曲って行った。夏の夜は暖かで蒸し蒸ししていた。
そよと吹く風もなく、夜露の雫も落ちて来なかった。野生の鳩が、声低く鳴いた。若い牡鹿が、牝鹿を追うて走った……
『あれも、若い牡鹿をさそって、待っているのだよ。この世の中は、すべてそうなんだ。家畜小屋の動物だって、森の動物だって、時が来れば、お互いにくっつき合うんだ。そして人間も、違ったものには造られていないんだ。全く同じなんだ。が、彼らは、いつも馬鹿げた真似をやり、そしていささか違ったものであるかのように思うだけだ。全くそうなんだ。君たち娘は、若者の方へ、そして若者は、娘の方へ寄りつくのだ……きょう君は、自分で感じなかったかね、何ものかが君の体の中にあって、それが何かを待って呼ぶのを……』
彼は、彼女を抱えてキッスした。繰り返し繰り返し。とうとう情慾が炎々と燃えて赤い焔となり、その娘はますます深く情熱の中へ滑り落ちた。思慮もなく、彼女は一歩々々堕落への道を彼について進んで行った。抵抗することもなく、最後のものへも突き進む気であった……あたかも呪縛にかけられているかのように。堰き止められていた激情が、突然解放されて大波となり、彼女の上で相擊った。彼女は、何をしたのか全然意識しなかった。とうとう罪悪的な快楽の盃は、傾けられた。それから二人は分れた。
『あす、そう、あすまたね……』とパウラは、二人が彼女の屋敷の門の下に来たとき、も一度彼に呼びかけた。
晩秋の夜な夜なが、無分別な激情の中に浪費されて経って行った。それから、森の中は湿めっぽく、冷たくなって来た。そして同時にまた、秋の霜が激情の炎の上にも拡がるかのように見えた。かの馬男は、来ない時には何かと口実を見つけていたが、遂には弁解もせずに姿を見せなくなった。
『もっと利巧になって、俺なんかを相手にしないようにしな。』 と彼は、冷たく言って、 ほかの女に移って行った。
『俺が君に何か約束でもしたって言うのかい? こう言うじゃないか。「自然は、それ自身の権利を持つ」とね、そしてそれでお終いだ……』

ああ、かつてはそんなに静かで內気だったパウラは、数週間前から大胆で鉄面皮になって来た! 下女たちは意味深長に、ささやきあった。親の百姓は、長男の不幸に遭ってからというものは、一層気むずかしくなっていたので、そんな事には全く気がつかなかった。百姓のお上さんは、娘の変化した挙動が大変目についてはいたが、彼女は平素から黙って小さくなっている習慣がついていた。それでも遂におどおどと質問したのに対して、娘が悪びれもせずに一切を打明けたとき、母親はただその成行きに任せた。運命を阻止しようとしても無駄だ……運命はどうしても自らを貫徹するのだ……

御公現の祝日が過ぎて、ダンスの歓楽も段々と終って行き、そして人々が悪い天気の日には、いやでも応でも家にいなければならなかった頃の、堪えがたく長い冬の夜な夜な、時々変な気持がパウラに忍び寄った。恐怖が彼女の体中を走った。氷のように冷たく、そして鉛のように重く。もしや――そうだ、もしやとうとう……今や彼女は時々非常に奇妙な気分になった。彼女は、ますますとても具合が悪くなった……そして袖なし襦袢は、狭すぎるようになって来た。ああ、どうともなるがよい。自然がそうなっているのなら、それを人間がどうすることができようぞ……人間の運命は、どうしても、なるようにしかなって行かないのだ。そこで彼女は、そんな考えはできるだけ遠くの方へ押しやった。
彼女は、強いて無頓着になることが出来た。なるほど、村では色んな噂が立った。私のところヘも、誰彼となく、その話をもたらした。ところで、ベーレンホーフでは、次のような出来事が、青天の霹靂のように突如として現われて来た。

その頃は、枯草の取入れ時であった。およそ手を持っているものは、誰でも、牧場へ出かけた。この夏は 天候が不順であった。その百姓のお上さんも、早朝から外に出て、それから夕方に帰って来た。彼女は、それでも熱心に娘のことを心配していた。娘は、この数週間というものは、時々非常に具合が悪いように見え、そして一日中ベッドに寝ていた。ところが、きょう母親がその居間にはいって行って見ると、娘は床の上に横たわって、苦痛のため身をもんでいた。そこで、母親は牧場へ駈出して行き、末の男の子を呼んで、村の医者のもとへ使いにやった。医者は、田舎を旅行していた、一人の百姓が、途方に暮れているその男の子に、そのわけを尋ねた。『ああ、それでは、リスベートさんのところへ行きなさい。きっとパウラさんを助けてくれるだろうよ!』そこで、その男の子は私のところへ来て、その困っている次第を訴えたのであった。

私は一緒に行った。というのは、私はこの事件は信ぜられなかったから。そして、そこに着いたとき、やっとお産の最後の瞬間に間に合った。私がその居間にはいると同時に、肥えた男の子が生れ落ちた。百姓のお上さんは、あわてふためいて手をもんだ。何一つ、実に何一つ、整えられていなかった。私は、その可哀想な赤ちゃんを、まずもって、青と赤の弁慶縞の枕カヴァーとタオルの中に包まねばならなかった。硬ばった頑固な表情で、娘はベッドに横たわり、天井をじっと見て、一語も発しなかった。一度も子供の方を見なかった。
『これは、あのお祭の日曜日にふさわしいですね』と私は言った。
『あんたは、すぐ家には帰らないで、とうとう森の中であの馬男を待っていたのね……』
『ふーん、で、もし――そのこと、あんたに何の関係があって? もしも、私たち女には、こういうことが起きるということが、自然だとしたら……』
殆んど堪えがたい苦痛を想い出して、彼女は突然、大きな声を挙げて泣いた。そこで私は、すべてが失われたのではないことを知って、彼女に次ぎのことについていろいろ話した―――母の悩みと、母の喜びのこと――汚してはならない神聖な「貞潔」という大切な花園のこと、子供たちがその中で育てられることの出来る小さな巣を持っていない不幸のこと……そして私はいろいろのことが、彼女の心の中にしみ込んだことを認めた。一つの迷った霊魂の中に、薄明りがさした……
『なぜ誰かもっと早く、正しい為めになることを私に話してくれなかったのでしようか? なぜ?』
百姓の足音が玄関に響いたとき、娘は両手で私にひしと縋りついた。『どうかここに居て下さい……』
彼が、ベッドのそばに私が立っていて、手足を動かしている赤児が私の傍らに寝かされているのを見たとたん、彼は呪いの言葉を発して、その若い母親の方に突進して行った。もし私がその間に立っていなかったなら、彼女は恐らく絞め殺されたであろう。
『百姓さん、私が初めてあなたのお宅に伺ったあの日のことを思い出して下さい。もしも、あなたが、あの当時、娘さんをあんなに呪わなかったなら――多分、きょうという日は、あなたに与えられないですんだことでしょう。あなたに責任があります。あなたにだけ。こういうことになったのは、娘さんが生れた当時のあなたの呪いの果実ですし、また長い年月の間、あなたに愛情のなかった結果です。あなたは娘さんに一言でもやさしい言葉をかけてやったことが、一度だってありますか。娘さんを喜ばしたことが、一度だってありますか? そうです。今こそあなたは、 自分で作ったスープを飲むことになったのです。そして、村中の者は誰でも、ベーレンホーフの百姓さんには、当然なことが起ったものだと言うでしょう。両親の呪いは、子供に対して報いられる、ということは、古くからの真理です。それを私たちは、今ここでも目の前に見るのですよ……』
『そんなことが起っちゃ困るんだ……子供は家から追い出さねばならん……』
『お百姓さん、もうよほど前から村中のものは、皆、そのことを知っていて、赤ちゃんの洗礼を待っているんですよ。あなたは、村中の人々があなたの娘さんについて、どんな噂さをしているかということを、今日まで御存知なかったほど、無関心なお父さんであったということが今よくお判りでしょう。赤ちゃんをここに置いて、可愛がってやって下さい すると噂は、じきに消えますよ。』

こうして赤ちゃんは実際、その家に置かれることになった。そしてお祖母さんは、その子を心から可愛がった。彼女は、自分自身の結婚に沢山の悩みがあったものだから、いろいろの忠告を非常によく受け入れた。そしていかにして良からぬ素質―― その子については、このことを心配せねばならなかった――を予防し、阻止することができるかについて、しばしば主任司祭や教頭と相談した。彼女は、そんな両親から生れた子供は、全く特別な養護を必要とすることを理解していた。

老いた百姓は、 その子供に対して何らの害をも加えなかった。それは、彼としては大出来であった。それ以上のことは、最初のうちは期待してはならなかった。後になって戦争が、彼から息子たちを次から次へと無慈悲にも奪い去ったとき、彼は結局、その丈夫な男の子のあるのを喜ぶこととなった。そしてその子には、今や大きな屋敷の将来がかつていた。

パウラのために、私はスイスの修道女たちのところに身を落ちつける場所をさがしてやった。一種の家政女学校。それは同時に、家族的な寮であったから、少女たちは、無料で収容された。もっとも卒業後、二年間は、そこに留って一緒に働かなければならなかった。彼女たちは、その家の子供のように待遇され、そして、いろいろな正しい喜びに十分あずかることができた。そこで、少女パウラは、自分自身に立ち帰った。彼女は、自発的に四年間、そこに留まり、そして正しい忠実な娘であると同時に母親として帰郷し、今日に至っている。





今日、スポーツの日、大阪ではマーチフォーライフがあります!

2020年07月24日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

おはようございます!

今日、大阪ではマーチフォーライフがあります。大阪市役所を午後3時集合です!雨天決行します。😊👶☺️

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

On this Friday, July 24 (Sports Day), there will also be March for Life in Osaka.
Gathering at 3:00 p.m. at Osaka City Hall










今日の東京でのマーチフォーライフの写真 Some photos of the March for Life in Tokyo today

2020年07月23日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

マーチフォーライフお疲れ様でした!マーチのほんの一部の写真ですが、いくつか写真をいただきましたので、ご紹介いたします。













第七回目のマーチフォーライフ(東京)は無事に行なわれました!感謝します!

2020年07月23日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

 
愛する兄弟姉妹の皆様!
 
今日、生みの日の東京都のマーチフォーライフは、予定通り、行なわれました!
 
私たちの母親であるマリア様と一緒にマーチができて、心から感謝いたします。
 
マーチを準備してくださった多くの兄弟姉妹の皆様に感謝いたします。
 
雨がパラパラ降る中をマーチに参加してくださった兄弟姉妹の方々、特に、小さなお友達に深く感謝いたします。一年ぶりにマーチで再会することができた方々、新しく出会うことができた方々と、出会いの喜びを分かち合うことができました。
 
本来ならば参加したかった方々も多くいらっしゃったと思います。東京に移動することができなかったり、その他の事情で行進に来ることが難しかった方々のことに思いを馳せます。赤ちゃんを守りたいというお心に感謝いたします。
 
交通整理をしてマーチが安全に行なわれるように保護してくださった警察の方々に心からお礼を申し上げます。
 
明日は、大阪でも、マーチフォーライフが行なわれます。感謝いたします。
 
天主様の祝福が豊かにありますように!
 
トマス小野田神父
 






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】