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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

マーチフォーライフをマリア様と共に歩いてください_手による聖体拝領を止めて、跪いて恭しく口で拝領してください!

2020年07月20日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年7月19日、聖霊降臨後第七主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

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「助産婦の手記」1章 神父様『リスベートさん、私はあなたと真面目な話を一寸したいのですが…』

2020年07月20日 | プロライフ
「助産婦の手記」

1章

私が三十になろうとした頃、私たちの村で何事かが起った。それが何であつたかは、私は知らない。当時は、そのような事柄の上には、神秘的な厚いヴェールが被いかぶせられていて、未婚の上品な娘と見なされたいと思うものは、誰一人として、このヴェールを取り払おうとあえてするものはなかった。私の知っていることは、ある妊婦がお産のとき死んだということ、そして私たちの村の助産婦に、その責任が負わされたということだけであった。

この助産婦は七十六になるお婆さんで、見たところ体が少々ふるえていた。彼女は自分の子供を十人も育て上げ、しかも数年前までは、一生涯中大酒飲みで仕事は殆んど何一つしないような夫を養わねばならなかった。今では、もうその夫は死んでおり、そして子供たちも家から巣立って、それぞれの道を歩んでいる。この老母の世話をする人は、誰もいない。多くの人たちは、この婆さんも死んだ夫にならって適量以上の酒をたしなんでいるのではないかと知りたがっていた。とにかく、彼女は全く変になって来た。そこへもって来て、今また、一人の母親が死んだその責任を問われるという不運が起ったのであった。こんなことは、彼女としては初めての失策ではなかったであろうが、それ以外の失策は、大目に見のがされて来たに過ぎなかった。

とにかく、この村の医者たちや医監は、誰か新しい若い助産婦が養成されねばならないと非常に強く主張するようになった。隣り村の助産婦は結婚していて、毎年、自分自身で産褥についているというような始末であり、しかも私たちの村でその助産婦に用があるときには大抵そうなのであった。新しい工業がまた開始された結果、私たちの村はますます人口が増えることとなった。そこで婦人たちは、一体誰がこの村の助産婦になろうとするのかと、非常に熱心に話し合っていた。しかし、彼女たちの間からは、この重荷を背負おうとするものを見いだすことはできなかった。

私の父はかつて教員をしていたが、残念なことに、チブスが流行したとき、まだ大変若いのに死んでしまった。で、当時、私の弟は神学校に入っており、そしていつも病身な妹は家にいた。その頃、この村ですることのできる唯一の職業は裁縫だけだったので、私はそれを稽古して、乏しい恩給を補おうとした。しかし、そうしてもわずかに「酸っぱい一切れのパン」が得られるに過ぎなかった。というのは、この村には、もうすでに三人も古い縫手がおり、しかも村の女たちは、何十年も着つづけた衣服をまだ着ているという有様であり、そして普段着は、大抵の女は、自分で作ったからである。仮縫いの四つはぎのスカートや、前掛や肩掛を作るには、大した技術も要らなかった。

さてある日のこと、主任司祭が、私たちの家へお見えになった。神父様は、まるでこの家にお葬らいでもあるかのように、とても厳かな様子に見えた。
『リスベートさん、私はあなたと真面目な話を一寸したいのですが…』
おや、まさか縁談ではあるまいに!と私は思った。私は大分前から熟考したすえ、結婚はすまいと思っていた。しかし、神父様は、私にそう長くは気を揉ませなかった。『あなたは、この村で新しい助産婦が必要だということを、もう聞いておられるでしよう。で、私はきょう、村会で、助産婦学校にあなたを入れるべきだと言ったのです……』
『まあ、神父様……』これはまさに、私が怖れていたこと以上に、いやなことであつた。私のような娘が助産婦になるなんて……
『費用はいらないんですよ。助産婦学校の学費は、村で負担しますから。で、 この村では、一年に大抵、八十件ぐらいお産があります。しかも、助産料金は、今日では十二マルクですから、大した収入になります――もっとも貧乏な女では、そんな大金は、ちょっと勘定できないでしようが。裁縫では、一杯の薄いスープに塩を入れるほどの稼ぎにもなりますまい。』
『誠に御もっともなお話です、神父様』と、私の母が言葉をさしはさんだ。『でも、私はリスベートをそういう風には育てなかったのです……そうです、全くそうなんです!この娘は、いつまでも、きちんとしていなければなりません!――それなのに、助產婦は、まともな娘のする仕事ではありません。』
『きちんとしたですって、奥さん……きちんとしたというのは、どういうことなんですか? 助産婦は全然きちんとしたものではないとでもおっしゃるのですかね? 御婦人たちを、苦しいお産のときに助けるのですよ。あなた方御婦人は、信賴できるきちんとした人が、そばについていてくれるとしたら、いつもどんなにか心丈夫でしように――それとも違いますか? そして赤ちゃんが生れて来る手助けをするんです! 自分が母親でない御婦人にとっては、お産のときに母子を助け、保護することより以上に、美しい職業は恐らくないでしよう。そして素晴らしく真面目な職業です! いつも母親と子供の二人の人間の生命を握っているんです。もし私が女であって、結婚もせず、子供もないとしたら、これ以上に望ましい、より美しい職業は、よもやほかにはなかろうと思うのですが。』
『でも、それは、まともな娘に適した仕事ではありません。結婚しないうちは、そんな事柄については、何一つ知るべきではありません………』
『ですが、奥さん、お宅のリスベートさんは、もう子供ではありませんよ。間もなく三十になるんです。もし、ほかの人たちのように早く結婚していたら、子供が四人も出来たことでしよう。』
『でも、あの娘はまだ子供がありません――そんな事柄とは、全く無関係なのです。そうです、私は娘がそんな事にたずさわるのには堪えられません……』
『あなたはやたらに、そんな事……そんな事と言いますね。奥さん』と老神父様は、本当に怒り出した。こんなに怒られたことは、珍しい。『では、正しい結婚で赤ちゃんが生れて来るということは、罪悪だとでもいうのですか? それとも、私たちの天主様は、そういうようにはお定めにならなかったとでも言うのですか? 天主の御業は、善いものです、常に善いものです。悪いのは、ただ人間の考えのみで、従って人間のする業もまた悪いのです。今こそ我々のうちの善人は、天主の全き祝福が与えられるように、助産婦になるべきです。独り身の人は、その職業に一層よく専念することができます。そういう人は、母親としての義務や家事などで束縛されることもないし、殊にお宅のように、ほかに女手があるような場合には、なおさら、そうです。リスベートさんは、全く自由に他人のために働くことができるのです。』
『でも、それはどうしても適していません……』
『それでは、なぜ童貞マリア様は、山を越えて、従姉妹(いとこ)のエリザベト様のところへ行かれましたか?
これは、ただ、何か珍しい噂さ話を持ちこむためだけだったでしょうか? いえ、従姉妹のお産の苦しい時に、お助けしようと思われたからです。で、もしもこのことが、マリア様に――最も純潔な処女に――適していたとするなら、今日でもそれはやはりふさわしいことでしよう。まさに純な人々にとって、純潔な手と純真な心は、そのような責任のある職業に適しているのです。そして、どんな雑事によっても乱されず、また愚かな考えのひそまない明晰な頭脳。そして最後に、沈黙をよく守り、かつ万事において、心を正しく持つ婦德もまた必要なのです。
とにかく、奥さん、私はもう村会で、リスベートさんは勉強に行くと言ってしまったのです。ですから、どうか私を村中の笑いものにして下さいますな。村長はもうすでに、娘さんが十月から授業を受けられるようにするために、助産婦学校へ向けて出発されました。というのは、この村の生活改善は、焦眉の急を要するからです。もし、そうしなければ、また一年経ってしまいます。もし、この間のような事が起ったとしても、あなたは、その責任を負うことは全くできないでしよう。』
『では、もし私の娘が堕落したら、どなたがその責任を負うて下さいますか?』
『私が負います、奥さん。私は、リスベートさんが本当に立派な助産婦になることを保証します――すべての婦人や子供たちを幸福にして――そして助産婦をすることによって、心身に害を受けるというようなことは全くないのです。では、一週間以內に準備をして下さい、分りましたか?』
『はい、でも神父様――私は神父様のおっしゃることは、すべて正しいとかねてから信じています……しかし、私は助産婦というものは、一体何をするものなのか、ちっとも存じませんもの……』
『ああそうですか、それは、赤ちゃんが無事に生れ、そしてお母さんに何の別状もないように手助けすることです。そして赤ちゃんをきちんと整え、世話をすることです――ですが、赤ちゃんは、おむつと一緒に天から降りて来るのじゃありませんよ……』
『でも、私はちっとも知りませんもの、どういうように……どういうように……』
『どういうように何をするかということは、間もなく教わるでしよう。あなたは、在学中いつも一番だったのですから、そんなこともまた解るでしよう。それに、あなたのお母さんが、直きに何か話して下さるでしよう……』
『そんなことは、誰も話しはしませんよ、神父様。私の母もそうでした。』 と、母は言葉短かに言った。そして私は、もう一つ最後の異議をあえて申し述べた――というのは、私は、これから引きずりこんで行かれねばならないその神秘的なものに関して、とても不安で心配でたまらなかったから。
『でも、それは罪悪です――私のような者にとっては……』
『いえいえ、あなたは私のところの「公教要理」の勉強で、そんなことを教わったことはありませんよ!
で、もし、かりにそう教わったとしたなら、あなたを助産婦にならせようなどと私がすると思いますか? 子供が、どのようにして生れて来るかということを知ることは、成長した人なら、誰でもが持つ権利です。天主の御業は、それを理解できる年齢に達した人なら、誰でも知ってよいことです。そして、そういう場合に、手助けをし言わば天主の助手となるということは――一個の人間にとって大きな名誉です。罪というのは、自分の知識をあらゆる不正な事柄に悪用することだけです。このことは、あなたは間もなくよく理解し、区別することができるでしょう。』

私たちは、なお暫らく、あれやこれや話し合った。そして結局母は、どうしても承知しようとはしなかったが――私は一週間後には、助産婦学校へ向けて出発した。母も私も、その土地は不案内であったので、その町出身の教頭の奥さんが、私を連れて行って下さった。

私たち新入生は十四名で、三人ずつ小さな部屋に起居することとなった。そして晚になると、私たちは夕食の食卓を囲んだが、何を話し合ってよいか分らなかった。翌朝、教室で私たちは、アルファベット順に並ばされたので、私は一番目の席についた。校長先生は、この職業の厳粛なことについて一場の講話をされたので、私はすっかり気分が重くなってしまった。すると校長先生は、私にお尋ねになった。
『あなたは、もうお子さんがおありですか?』
まあ……こんなことを尋ねるなんて。一体、私のことを何と思っているんでしょう……全く狼狽して、私はどもった。『いいえ……私の村の神父さんは、おっしゃいました……子供を持っている必要はないんですと……』
幾たりかが笑った。しかし、校長先生は大変まじめに、断固として言われた。
『全くその通りです。 この職業を正しく理解し、正しく行うには、その必要は全くありません。私は、処女たちが、母と子のために全力をつくして下さるなら、ほんとに嬉しいのです。』

しかし、私たち処女は、わずか三人だけであった。大抵の人は、既婚婦人であり、しかもそのうちの四人は、正式の結婚によらぬ母であった。そこで私の母が、どうして私を助産婦にならせたがらなかったかというわけについて、ほのかな光がごくおもむろに私にさして来た。老校長先生は、私たち三人のために、一般の授業が始まる前に、特別な講義をして下さった。このことについては、私は今日でもなお感謝している。校長先生は、私たちの知らないことを大変はっきり言って下さったので、私たちは、愚か者ながら、後になって、さほど大きな困難には全く会わずにすんだ。

しかし、当時私は、時々こう考えていた。私たち娘が成人した暁には、母親は娘たちをブラブラ遊ばせておくことはよくないことである。正式な結婚をして子供を儲けることは、ほんとに好ましいことであって、このことは、天主様が人間にそうさせるために、新たに霊魂をお造りになり、そしてこれを母親の胎內に宿らせ給うのであるということを考えて見れば判ることであると……
私たちは、昼も夜も一生懸命に勉強しなければならなかった。時は、非常に速く過ぎて行った。当時は、授業期間はわずか五ヶ月であり、それから試験があって、私たちは免許状を授けられた。これよりさき、私の村の村会は、私に最新式の器具を買って帰るようにと依頼して来ていた。そして私は三月の上旬に、ちょうど小さな椋鳥(むくどり)が初めて春のおとずれをするかのように故郷へ帰った。

私の母は、駅に出迎えに来ていた。そして私たちが一緒に村を通って行くと、どこでも好奇心に満ちた眼が庭の後ろからも、窓の中からも覗いていた。婦人たちは、不信な面持ちで。というのは、未婚の娘が、彼女たちの助産婦になろうなどということは、よく了解できなかったことだから。娘たちは、驚いて、彼女たちは、私の新知識をとても羨んだ。子供たちは、無邪気に喜んだ。
『ワーイ、新らしい助産婦さんが来るぞ!』と一人の腕白が友達仲間に叫んだ。『あの人、知ってるかい、どこへ赤ちゃんを持って行くか知ってるかい!』
『違うよ、あの人が持って来るんじゃないよ! こうの鳥が持つて来るんだい!』
『でも、あの人が来て、赤ちゃんをこうの鳥から取らなくちゃならないんだよ……そうしないと、こうの鳥がお母ちゃんの足に噛みつくんだ……』
『ちがうよ、こうの鳥が赤ちゃんをお母ちゃんのところへ持って来て、それからお母ちゃんが、それを黒い袋に入れて家の中に運ぶんだよ……』
幸福な子供の無邪気さよ……




リスベート・ブルゲル著「助産婦の手記」はしがき Lisbeth Burger : aus dem Tagebuch einer Hebamme

2020年07月20日 | プロライフ
「助産婦の手記」

はしがき

年老いたわたくし、リスベート・ブルゲル(Lisbeth Burger)は、もう四十年も、ある大きな田舎の村で助産婦をしています。この村には、種々の人々が住んでいます。大農、小農、日雇労務者をはじめ、各種の職人や商人、それに医者や薬剤師もおり、また役人も、監督や山林長官に至るまでいます。 数十年以前から、幾つかの大工場が村からちょうど十五分ほど離れたところに立っており、そして労働者(コロニー)が、 そのそばに出来ているので、私たちも、その工場で製造される物は何でも供給を受けられました。 この村で私は、いろいろなことを経験しました。 そこで、 私は最も重要だと思われる事柄を書きつけて置きましたので、 そのうちの幾つかをこれから述べて見たいと思います。というのは、それらの出来事の中には、老若男女を問わず、すべての方々にとって、何かと為めになることが少なからずあることと信じるからです。

Mit Zwillingen fing es an: aus dem Tagebuch einer Hebamme
By Lisbeth Burger







霊魂の生命なるキリスト 第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト

2020年07月20日 | カトリックとは
霊魂の生命なるキリスト

第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト

天主と一致するには天主を知らなければならない。天主は御子イエズスをもって世に御自分を顕わし給う。「彼を見る人は父を見るなり」

我等は、成聖とは聖そのものにて在す天主の生命に分与し天主の超自然的養子としてこれにふさわしく生活することであり、このような人こそ聖人であると知ることが出来た。

これを聖パウロは、「汝等、至愛なる小児のごとく天主に倣う者たれ」(エフェゾ5:1)と言い、イエズスは我等に「汝等完全なれ」しかも「汝等の天父の完全に在すごとく、汝等もまた完全なれ」(マテオ5:48) とはっきりと示し給うた。

それは、天主が我等を御自分の子と定め給うたのだから、我等も天主の子として父なる天主に倣いこれに似奉らねばならないからである。

天主に倣い奉るためには、まず天主はどのような方にて在すかを知らなければならない。 それなのに天主は「近づくべからざる光に住み給い、一人もかつて見奉りしことなく、また見奉る能わざる者に在す」(テモテオ前6:16),「誰もかつて天主を見奉りしことなし」(ヨハネ一書4:12)であるなら、我等はどのように天主を知り奉ることが出来るだろう。知りもせず見もしない天主を、人はどうしたら倣い奉ることが出来るだろうか。

答は聖パウロの「天主はキリスト・イエズスの御顔に輝かし給えり」(コリント後4:6)の一言に尽きる。すなわち、天主は御子イエズス・キリストの中に、また御子イエズス・キリストにより御自身を世に顕わし給うた「キリスト・イエズスは御父の光栄の輝きに在す」(ヘブレオ1:3) 「御子は見え給わざる天主の御像(みすがた)」(コロサイ1:15)のである。

御子は御父と同等であり御父に自らが知られ給うと同じく自らも御父をも知り給うゆえに、人に御父を顕わすことも叶い給う。「御父は、御子並びに御子が示さんことを望み給う人々の外には、誰にも知られ給わず」(マテオ1:27)、「我はわが父を知る」(ヨハネ1:15)。しかもそれは、ただ我等に御父を示そうとするためなのである。「父の御懐に在す独り子の自ら説き顕し給いしなり」(ヨハネ1:18) 実に、キリストは御父の顕現、その御像(みすがた)にて在す。

しかし御子イエズス・キリストはどのようにして御父を我等に示し給うであろうか。御子は人となって御父を我等に示し給いた。そして我等は御托身によって人となり世に降り給うた御言葉 (Verbum)、すなわち御子イエズス・キリストにより、また彼において天主を知り奉るのである。

―キリスト!これぞ人の外貌を取って我等が理解できるよう立現れ給うた天主、被造物の形の下に現れ出でた神的完全、我等と直接に交り触れ、倣わせるために、三十三年の間、感覚的に我等の目に見え給うた聖その御者にて在すのだ。

キリストは、我等が天主に倣い御意に適い奉ろうとするためにどのように活くべきかを、自らの言行、特に生活をもって教えようとして、人となられて世に降り、我等の間に生活し給う天主に在すのである。そしてこのために、我等が天主の子として活きるには、まず信仰と愛をもって心の目を開いてイエズスの中に天主を観想し奉らなければならないのである。この二点は、どれほど深く考えても考え過ぎることのない重要な事である。

聖福音書の中には簡単で、しかもよく知られている美しい物語――ちょうど今こそ思いださなければならない物語――がある。それは、イエズスの御受難前夜のことであった。イエズスは時の来たことを知って、弟子達に御父について話し給う。弟子達はイエズスの話を喜んで聞いていたとき、御父を見たい 知りたいと思い、遂にフィリッポが主に「主よ、父を我等に示し給え、しからば我等事足るべし」(ヨハネ14:8) と願う。キリストは「我かく久しく汝等と共におれるに、汝等なお我を知らざるか、フィリッポよ、我を見る人は父を見るなり」(ヨハネ14:9)と答え給うた。

その通り、キリストは天主の顕現、御父の顕現にて在す―天主としては御父と一つにて在すが故に、キリストを観想する人は、これ、取りも直さず天主を観想し奉る人である。故に我等は、ベトレヘムの厩(うまや)の中で産声を上げて生まれ、貧しい馬槽の中に横たわり給う幼児キリストを観想する時、「我を見る人は父をも見るなり」の御言葉を思い起こさなければならない。――ナザレトの村童と遊び戯れる少年キリスト、貧困なる青年労働者キリスト、麗しき大工小屋の中で三十才まで、ヨゼフに従って働く、従順なる壮年キリストを見る人は、また「我を見る人は、父を見るなり」のであり、彼(キリスト)を観想する人は、天主を観想する者であることを知るべきである。――ガリレアの町々をあちこちと巡って福音を宣べ病者を癒し善行を行い給うキリストであろうと、人々を救い愛し給うがために自らは悪徒の嘲弄の的となって十字架上に苦しみ死し給うキリストであろうと、これらを観想し奉ることは天主を観想し奉ることなのである。

実に「我を見る人は父をも見るなり」との主の御言葉は、キリストがいかなる外貌の下に願われ給うと、その外貌の中に天主を見させて、拝礼し奉らせる一言である。――天主の完全は、キリストのこのような言行の中に顕示されている。天主の完全は、それ自体は天主の性と同様に覚り難いものである。たとえば、我等人間が理解し得る限りのすべてを超越した深淵なる天主の愛を誰がよく理解し得るであろうか。しかし天主として父と一つであるキリスト――聖父と同じ天主の生命を御自身に有して人を教え、我等に対する愛の故に十字架上に死し、自分の生命を渡し給うたキリスト、聖体の秘蹟を制定し給うキリストを見奉る時、天主の人類を愛し給う愛がどれほど大いなるものかがわかるであろう。

このように天主の完全、その属性は、すべて人智とは無限の距離を隔てているのであるが、キリストはこれを顕示し給い、キリスト自ら話されたように、人間キリストを信じ愛して受け入れる人には、その神性を顕わし多くの奥義を見えさせ我等が深く愛し奉るに連れてますます深い奥義の中に導き御自分をよりはっきりと現わして御父に愛せられる者となし給うのだ。

「我を愛する者は、わが父に愛せらるべく、我もまたこれを愛して、これに己を顯わすべし」(ヨハネ14:21)。聖ヨハネはこれを「生命なるもの顕われ給いて、我等これを見奉りたればこそ、これを証し、父の御懐に在りたる永遠の生命――キリスト・イエズスの中に我等が見て触れることのできる者と成りたる生命――を汝等に告ぐるなり。しかしてその生命は、神人キリスト・イエズスと成りて世に降り、我等の前に顕われ給いしなり」と述べている。

それ故に我等が天主を知りこれに倣い奉るためには、御子イエズスを知り彼に倣い奉れば十分なのだ。御子イエズスこそ、御父の無限なる完全を天主として、また人として、完全に一身の上に顕現し、我等に見えさせ給うのだから。そしてこれ以外には、天主を知り奉る方法はないのである。「我を見る人は、父を見るなり」。




2020年7月19日の聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年07月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、東京では70名(ミサ三回)の方々が、大阪では19名の方々が、聖伝のミサに与ることができました。

日本では、約90名の兄弟姉妹が、聖伝のミサに与ることができマリア様に感謝いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 17人(内、子供1人)
女: 19人(内、子供2人)
計: 36人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 8人(内、子供2人)
女: 13人(内、子供4人)
計: 21人(内、子供6人)

12:30のミサ
男: 7人(内、子供0人)
女: 10人(内、子供1人)
計: 17人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの4人を除く)
男: 30人(内、子供3人)
女: 40人(内、子供7人)
計: 70人(内、子供10人)

東京






大阪









--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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