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「助産婦の手記」6章  『するとあなたは、 多分、小っちゃいお子さんが、まだ長い間、母親のもとにいるのをお喜びになるでしょう。』

2020年07月25日 | プロライフ
「助産婦の手記」

6章

『そうです、レッシュ奧さん、全くそうなんです。あなたは、また妊娠なさったんです。』
『あら、そんなことありっこありませんよ! 考えても御覧なさい……私の年で……』

彼女の居間で私と向きあって坐っていたその妊婦が、あたかも私が彼女に不治の病の診断をでも下したかのように、全く興奮した。
『でも、それは異常なことでは決してありません。レッシュ奥さん、こんなことは割合たびたび起るものです。そうです、四十代の始めに。ウンターワイレルでは、クロンウィルティンさんが結婚してから十二年になるのに子供がなく、もう四十近くになりました。ところが、ここ数年間に、男の子が一人、女の子が二人、都合三人も出来たのです。また私たちは、産婆学校で、四十六になって始めて子供の出来た女を取り扱ったことがありましたよ。』
『どうして、そういうことがあるんでしよう……私はどうしても信ぜられませんわ……』
『ありそうな、全く正常なことです。ところで、あなたは以前、ほかのお子さん方のお産のときも、特別苦しみはなかったんでしょうね!』
『そうです、ありません。私は、もともといつでも大へん調子がよかったのです。でも、あなた、どうかあの子供たちのことを考えて見て下さい! マリーはもう十七ですし、末っ子のベルタは十一です。男の子は、十五と十三です。子供たちは、いつか時期が来たら、私に何か異状のあることに気がつくでしょう。そのときには、私はどんなに恥かしい思いをせねばならぬことでしよう……』
『しかし奥さん、一体何をです! あなたは、結婚していらっしゃるんでしよう。子供が出来る――そうです、出来る――ということは、全く天主の御摂理です。ですから、創造主御自身こそ、その御業について恥じねばならぬことになるでしょう。でも、旧約聖書の中で、サラは、どう言いましたか。「天主は私に喜びを用意し給うた。このことを聞くと 誰でもが、私と共に喜ぶでしょう、なぜなら私はこの年で、なお一人の子供をもつことができるのですから」と。』
『そうですね、もし大きな子供たちがいなかったら、それもまあよいでしょう。でも、今は子供たちは、何も気がつかないでいるには大き過ぎるし、またそれを正しく理解するにはまだ小さ過ぎるんです。』
『そうです、奥さん。もしもお子さんたちが、数週間のうちに、そのようなことを、ほかの人たちから聞かされたとしたら、もちろん何を考えるか判りませんよ。さよう。お子さん方は、よその人たちがこれらの事柄について話す通りを知るわけです。しかし、もしもあなたがいま御自身で、お子さんたちにそれをお話しになるなら、それは愛すべき美妙な神秘となります――すると、お子さん方は、あなたと一緒にそれを耐え忍び、そしてあなたと一緒に喜ぶのです。』
『でも、それはどうも言うことができません……』
『私は、それをもう多くの人たちに言いましたよ、奥さん。もし大きな娘さんがその家にいらっしゃるなら、そしてもし私がそのような家に参りましたなら、私はいつも娘さんに、はっきりしたことを言ってしまいます。そして、私はどこでも認めたことですが、娘さんたちは、それを知ると全く喜んでいるのです。それはちょうど、娘さんたちから大きな重荷が取りおろされたかのようです。それから娘さんたちは、母親に対して、以前にはそういうことがそうたびたびなかったぐらいに、いつも大へん親切にして、いたわるのです。』
『ところが、こうの鳥が子供を持って来るんだってことが、いつも言われて来たんですから……』
『まったく。 でも、あなたの赤ちゃんは、冬の最中に生れるんですよ。こうの鳥が遠くにも近くにも、一羽もいないときに。いいですか、私はこうの鳥のことは、もうどうしても辛抱できません。私がいつまでも、こうの鳥の小母さんでなければならないなんて、馬鹿げた話です。そして、子供たちが――あなたの末のお子さんのように――十一にもなって、そんなことをまだ信じるぐらい、そんなに馬鹿だなどなど考えてはならぬのです。いえ、人の生命はすべて、天主から来るのです。赤ちゃんも、そうです。どうか一度、御主人とこの事についてよくお話し下さい。私は、お子さん方に、あなたに代って言ってあげましょう、も一人、小さなきょうだいが生れ来るんだということ、そして皆んなで、すべてを綺麗に整えるお手伝いをせねばならぬということを……』
『でもそうすれば、子供たちはきっと尋ねるでしょう、どこからそれは来るの? どうして、それが来ないうちから知ってるの?と』
『すると私は、こう言ってやりましよう。本当は、赤ちゃんはもう決してよそから来るのではなく、もう今ここにいるんです、私たちのところにいるんです。あんたたちは、それをまだ見ることができないだけなのです。公教要理の中で、人間は天主様がお作りになったということを教わらなかったですか? 私たちの赤ちゃんも、天主から来るんです。お母さんの心臓の下に、天主様が赤ちゃんのために揺籃(ようらん)を作りになったのです。そして天主様が、ある家庭に赤ちゃんを一人授けてやろうと思われると、天主さまは一つの小さな霊魂をお母さんにお送りになる。それは今、お母さんの心臓の下の揺籃(ゆりかご)の中に眠っています。それから、身体が霊魂につけ加わって出来てきます。そして赤ちゃんが十分大きくなったときに、この世に生れ出て来ます。それから、私たちは、それをお母さんの心臓の下の揺籃から取り出します。その揺籃は、赤ちゃんにとっては、狭くて小さ過ぎるようになったのです。で、それから赤ちゃんを洗濯籠か、または小さなベッドの中に置きます。そこヘリスベートが来て、お母さんの手助けをするんです、と……』
『そうですね、もしそのように見るなら……』
『では、なぜそう見てはいけないんでしょうか? 勇気をよくお出しなさいよ、奥さん。お子さんたちは、やがて大きくなって、段々家を出て行きます。するとあなたは、 多分、小っちゃいお子さんが、まだ長い間、母親のもとにいるのをお喜びになるでしょう。』
『主人もやはり言っています、お母さん、悲しまなくてもいいよ。そういうわけなら、その子は、我々が年を取ったときには、太陽の光となるだろう、と。』

さて数週間の後、私は箒作りの家庭を訪問した。村はずれの池に面して、一軒小さな、風に吹き曲げられた家が立っている。それは、もう大分傾いているので、いつかは嵐のために、池の中に吹き落されるに違いないと、人々は思っている。私も全く同じように見ていた。三年前に、恐ろしい暴風雨がやって来て、この村で多くの立派なお屋敷の屋根を吹き飛ばしたことがあるが、この家の上は何事もなく吹き過ぎて行った。暴風雨にとっては、恐らくその家などは骨折り甲斐がなかったのであろう。それとも、この家は、そのときには、地の中に潜ぐりこむことができたのであろうか? 当時、その箒作りは言った。
『子供が大勢だし、お祈りも沢山だからね。もしおれの家が倒れるようなことがあるなら、一体、天主様は誰の家をお守り下さるだろうか?』と。
小さな覗き窓の、どの一つからも、暴風雨のときには、少くとも半ダースの小さな眼が外を眺めていた。どの眼も、そこの池のように透明で青かった。ところが太陽が輝くときには、十七人の子供のうち、一人として家にはいなかった。一番年上の二人の娘は、勤めに出ていた。私が、その就職の世話をしてやったのである。彼女たちは、勤勉な几帳面な、そして黄金のように非常に快活な人たちであったから、勤め先では、彼女たちを手離そうとはしなかった。一番上の男の子は、地主の農場で働いている。その箒屋は、子供を工場へはやろうとしなかった。『おれの子供たちの身のためには、丸っきりなりはしないよ、』と彼は言っている。『子供たちは、太陽と空気とに慣れっこになっている。歌をうたって、跳ねまわることができなくちゃいけないんだ。』そして、お上さんは言っている。娘たちは勤めていると、後になって世帯をもったときに必要な事柄を学びますよと。娘たちは、良い勤め口では、工場と全く同じぐらいの金を貯めることができる。もっとも工場では、娘たちは、お互いに、無駄な金づかいをさせるようなきらいはあるが。

箒屋の十三人の子供たちは、まだ家にいた。しかし、一人だって暇でボンやり立っているものはなかった。娘たちは、もう九つにもなれば、とても上手に裁縫し、繕い物をし、洗濯し、磨きをかける。男の子たちは、父親の手伝いをするか、または、収穫の仕事をし、そして春になると登校日以外は百姓のところで日雇労働をしていた。彼等は、まるで大人のように働くよと、村の人々は、言っている。しかし彼等は、私の考えでは、要するに箒作りである! いつも歌をうたい、口笛を吹いていないとおさまらない! それは、私たちの村では、心の浮わついていることを示すまぎれもない印しだとされている。そして私はそのことを、もうたびたびたしなめて口争いをせねばならなかった。一番小さい箒作りたちは、羊と山羊の番をし、冬のために飼草を取って帰り、そして、いつも家にいる赤児のお守りをする。というのは、母親も、日雇労働に出かけたからであった。
もちろん、箒屋のお上さんは私のお得意であった。一体、当時では――第一次世界戦争の前は――子供の多いのは珍しいことではなく、むしろ通例のことであった。私たち助産婦は、およそ二年目ごとに、お産のために訪れるよいお得意の家庭を相当もっていた。そういう家庭では、私たち助産婦というものは、聖ニコラスや復活祭の鬼のように、神秘的な贈物をするものと考えられていた。

ことし、私は箒屋のお上さんに十七番目の子供を分娩させた。それはよく晴れた暖かい十一月のある日であった。空は、この満ち溢れる祝福に対して朗らかに笑みかけた。そして箒屋も、生れた女の赤ちゃんを自分の大きな硬い手の中に取りあげてキッスしたとき、同じ様に笑った。私は、彼がその子をつぶしてしまいはしないかと心配した。しかし、仲々どうして。彼は、全くよく慣れた父親の注意をもって、取りあつかったのであった。彼は、私が赤ちゃんに、おむつを当てるまで、待っていることができなかったので、早くも初湯の中から赤ちゃんを奪い去ったのである。そしてその小さなのが泣き出すと、彼はあやしはじめた。
『泣いちゃいけないよ、可愛い娘。お前が大きくなるまでには、また誰かひとり大人になって家から出て行くんだ。お前もじきに一枚の皿と、ベッドの中に小さな席がもらえるんだよ。一番上の姉ちゃんと同じように、本当に可愛らしくなりなさいよ……』
『だが、 この子が多分、最後の子となるでしょうかね、リスベートさん? 家內はいま四十五ですよ。わたしたちは実のところ、今度はもう赤児のことなんか全く考えもしなかったんですよ。あんなに沢山こしらえたんだからね……色んな変ったことがあるもんだね。しかし、この子は実際生れて来たんだし、また大きくなるだろう。そしてわたしたちの老後の太陽の光となるだろう……』
そのとき、レッシュさんの娘のマリーが、おどおどと戸から覗きこんだ。
『はいってもいいでしょうか?』
『どうぞ、おはいり、ちょうど子供のお守りがほしいところなんだよ。』 と箒屋は言って、手足を動かしている小さな代物を彼女に差し出した。そこで私は、やっと赤ちゃんを、その嬉しそうな父親の手から取り上げて、おむつに包むことができた。
『あら、』 とマリーが、びっくり仰天した。『ほんとに真裸で……そして小っちゃい……』
『お前さんは、赤ちゃんは、のっけから、おむつに包まれてこの世に出てくるとでも思っていたのかね?』 と、年寄りの箒屋が、からかった。
『リスベートさん、いつ赤ちゃんを包み直すの……?』
『赤ちゃんが濡れて、きたなくなるとね。そして毎朝、お湯をつかわせるの。』
『そのときまた来てもいい? お願い、いいでしよう? 私のうちの赤ちゃんが生れるまでに、それができるようになりたいのよ。きょうお父さんの姉妹が、来るひまがないって、手紙を寄こして来たの。赤ちゃんとお母さんのお世話が、私にもできるだろってこと、あなた信ぜられないの? 私たちは、誰にも手伝いに来てもらわなくてもいいってことを? 私は、まだ赤ちゃんを見たことがないの――でも、もしあなたが、お産の手伝いに私を連れて行って下さるなら……』
『なあに、もちろん、あんたにはできますよ、もう十七ですからね……』
『リスベートさん、どうかそのことをお母さんに言って下さい。きのうお母さんは、お父さんと話していたわ。お産の間中、私を親類のところへ行かせて置くんだって――でも、それは無意味よ、そうじゃなくって? お母さんの手助けが要るときに……』
『ぜひ家にいて、お母さんの世話をしておあげなさい。でも、今からでも、もうよく親切にして、お母さんのお仕事の手伝いをして上げなさいね……』
『全く、小さな子供をいつも心臓の下に入れてかかえていることは、母親にとっては大きな重荷だね……赤児は成長して、どんどん大きくなるし……そして俺たちの生れた場合も、その通りだったんだね……』
教会の鐘が鳴って、お告げの祈りの時を知らせた。すると、箒屋の子供たちが、まるで一寸法師のように、ぞろぞろと地面から匐(は)い上がって来たので、居間は一ぱいになった。子供たちは、籠の中にいる赤ちゃんを、驚いて見つめた。それは、またしても一つの新しい驚異である! 父親が馬鈴薯のスープを一ぱい入れた大きな「かめ」を食卓の上に置いたとき、子供たちの最初の質問は、『赤ちゃんもスープを飲むの?』というのであった。
『いや、当分まだだよ』
『では、どうして天主様は、おじさんの家へ、そんなに子供を大勢送って来られるの? あなたは、間もなく子供たちをどうすればよいか判らなくなるでしょう……』とマリーが尋ねた。
『多分、わたしたちが、子供を沢山ほしがっているからだろうね。』と、箒屋がすぐ言った。
『それでは、どの子がほんとに一番可愛いいの?』
『ああ、――それは、いつでも一番あとの子さ!』
クリスマスの前の日曜日に、いわゆる「小さな太陽の光」が、レッシュさんの家で生れた。全家族を挙げて、この幼いキリストのことを喜び、そして母親は、愉快な日々を過ごした。父親は、子供たちに言って聞かせておいたので、彼らはすぐ様、母親に何か親切なことをして上げようと競走した。

それ以來、長い年月が村を過ぎて行った。子供たちは、大きくなって自立した。一人々々自分の世帯を築いて親の家を去った。その箒屋さんの小屋でさえも、空になった。しかし、時々その子供たちは、父母のもとに飛んで帰った。彼らは、両親の家に、非常な愛着を持ちつづけた。いかなる祭日でも、両親への拶挨と贈物のなかったことはない。しかし、人生というものは、羽の生えた小鳥をして自分自身の巣を作らせずには置かないのである。
「小さな太陽の光」たちは、両親の家に留っていた。疲れた両親の手から仕事を引きとって、老後の彼らを忠実に世話した。そして両親が墓に運ばれたときには、この小さな太陽の光たちは、自分の生計を建てるには、まだ若すぎた。――
たびたび私は、これらの遅く生れた最後の子供たちは、もしこれを注意深くよく育てるならば、両親の最もよい支えとなるものであるということを経験して来た。





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