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「助産婦の手記」7章 『この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの…』

2020年07月26日 | プロライフ
「助産婦の手記」

7章

肉屋のヘルマンの宅では、初めての子が生れるのを待っていた。彼は金持ちであり、しかも腕がよい。そのことは、また誰よりも彼自身がよく知っていた。もっとも、彼の経営方法は、一番評判がよいというわけではなかった。しかし、本当に自由自在に働き廻りたいと思うほどの若者たちは、ヘルマンのところへ行った。業をしていると、時々奇妙なことが起るそうである。とにかく人々は、どんな種類の家畜でも、そう、死んだのでさえも、ヘルマンのところへ持ち込めば、何とかなることは確かであった。その代り、彼はまた、その腸詰商品を遠方の都会へ送るのであった。腸詰の中には何がはいっているか、判ったものではないと、見習の若い衆が言っていた。

しかし、ヘルマンが金持になったのは、右に述べた一切のことによるのではなく、むしろ彼の手広い家畜売買によるのであった。近所のどこかで、一匹の家畜でも売り出されると、彼はそれに手を出した。東はポーランドから、西は西プロシャまでも、彼は剛毛のある動物、特に豚や、そのほか食用の四足動物の取引をする。この大規模な経営による汚い取引によって、彼はこの村の成金王となったのである。

かようなわけで、この肉屋の親方ヘルマンの宅で、初めての誕生が待ち受けられていたのである。すでに三週間前から、私は毎日その奥さんを見に行かねばならなかった。彼女はまだ一人も子がなかったためであろうか、いつ私を必要とするか、その時期がよく判っていなかった。バベット婆さんも毎日訪問に来て、お八つのために、腸詰を一本もらっては喜んだ。彼女が、まだしょっちゅう、妊婦たちのところへ行くのは、私にとっては大へん迷惑な話であった。というのは、彼女が私に害を与えるからではない。すでに婦人たち自身が、その憐れな婆さんは、もはやその職業には全く堪えられなくなったことを認めていたのであった。

もう三度も、ヘルマンは、私を夜分に呼びつけた―― もちろん、無駄であった。奥さんは、少しでも具合が良くないと、早くもマテオ聖福音書の最後の章になった。すなわち、もう終りだ、駄目だと信じるのであった。もし、私の見立てが間違っていないとするならば、まだ四週間も間があったのである。

とうとう有難いことには、万事は、いつかは終りになる。ヘルマン奥さんの妊娠も、そうである。すなわち、とうとう、私が五回も夜訪問し、八週間お每日見に行き、二十四時間もその家に留めて置かれたことが三回もあった後に、やっと男の子が生れた。全く正常なお産だった。初産は大抵そうであるように、やや長くかかった。それは全く大騒ぎであった! ああ実際、もし母親というものが、そのようにして、子供をもうけるのであるなら、私はもう助産婦は止めてしまいたいと思う。そのときの奥さんの有様といったら! ほかの母親なら歯を食いしばって笑うような、少しばかりの陣痛が起ると、もう彼女はわめき散らし――呪った――。彼女が呪いの言葉を発するときには、私は『イエズス・キリストは讃美せられ給え』という祈りを、そんなに早口に唱えることは全くできなかった。

二度、ヘルマンは、医者のところへ走って行った。私は、この夫婦が、家庭医学叢書の中で、一体何を読んだことがあるのか知らない。出産のときの麻酔のこととか、産科鉗子の助けのこととか……? ウイレ先生が見えた。容態を見て――そして帰られた。『自然の成行きを待たないで、必要もないのに手出しをしないことですね』と先生は言われた。『万事好調ですよ。全く結構な正常な状態です! よい具合にゆくよう、お祈りします!』

とうとうお産を終えることができた。その幸福が果して誰にとってか、母親にか、私にか、そのどちらにとって、より大きかったか、私は知らない。父親は嫡男が生れたので、すっかり、はめを外して喜んだ。彼の店の前を通って行った子供たちは、みんな腸詰を一本ずつもらった。王子様がお生れになったのだ! 人々は、カイゼルの誕生日と同じように、それを祝わなければならなかった。――

しかし、この小さな息子は、前に母親がそうだったと全く同じように、泣きわめいた。私は、そんなに良くない子供を取り上げたことは稀であった。あたかも、父母の我儘と憤りとが、全部その子供の中で出会ったかのように思われた。始めからその子は、家庭の暴君であった。日中、その子は寝ようとした。そして夜分には、その子を泣きわめかさないために、女中が抱いて家中をグルグル歩き廻らねばならなかった。私は、それに対して抗議した。

『子供は、合理的に育てるものですよ。この赤ちゃんは、生れながらに、善くない或るものを持っているのですから、早めに従順と自制と秩序の習慣をつけるようになさいよ。』
『とんでもない、子供には我儘をさせなくちゃいけませんよ。以前、人々がやったように、子供の意志を抑えつけるのは、全く誤っていますね。』
『確かに子供は、正しい意志を持たねばなりませんわ。それを、私たちは保護し、伸ばしてやるべきです。でも、我儘と、怒りは、理性的な意志とは、別なものですよ。子供の希望と熱望を、全部無制限に叶えさせていると、ゆくゆくは、子供を刑務所に入れるようなことになりますよ。』
『子供が物心つきさえすれば、自分の不行儀をなおすでしょうよ。私は、子供に教育の自由を与えてやらねばならないんです。子供の人格的個性を保護してやらねばならない……』

こういうような有樣で、理性をもってしては、彼等を説得することはできなかった。彼等は、当世新流行の誤った考え方に陥っているので、私の勧めはすべて無駄であった。ところで、子供の教育ということは、結局、私の仕事ではなく、私にその責任はない。善意の忠告を受け入れようとしない人は、自分自身で後々のことを見なければならない。たぶん私たちは、そんな判りきった愚かしさに対しては、完全に黙っていることができないだけだ――子供たちのために。子供たちは、私たち助産婦にとっては、常に幾分かは、自分の本当の子である。

私の骨折りの報酬として、肉屋の親方は、豚を半分、送ってよこした。私たちは、この脂肪の匂いのする慣れないお礼の品物を、どう処分してよいか殆んど判らなかった。親方は、けちけちしようとしなかった。

約一年後、私がその家の前を通って行ったとき、ヘルマン奥さんは、私にまあお入りなさいと呼びかけた。彼女は、またもや妊娠したと信じこんでいた、そしてまた、その通りであった。そこに、ちょうど、坊やのハインツが部屋のテーブルの真中に坐っていた。母親の大きな鋏(はさみ)を手に持って、自分の玉座の上を、窓に取りすがって、あちこちと歩きながら、花の咲いた草木から葉と花をつみ切っていた。
『まあ、後で皆さんは、そこで昼御飯をお上りになるのに』と私は言わざるを得なかった。
『私、どうしましょう? あの子は窓のところへ行くことができねば、ほかの場所にはどうしても座っていないんですよ……』
私は、その腕白の手から鋏を取り去った。『ヘルマンの奥さん、もしも坊ちゃんがこれで自分の眼を突いたらどうなさるの……』
すると、そのお馬鹿さんは、顔を真赤にし、両手で拳を握り、手足をバタバタさせて泣きわめいたので、全く大騒ぎであった。
『そうだ』と父親は笑った。『この坊主の体の中には、何か潜んでいるんだね。この子は刃物のほかは、何も気に入らないんだ。大きくなれば、きっと……』そして母親は、言い訳をした。『この子は、欲しいものを何でも与えられない限りは、いつまでも泣き叫んでいるんです。どうすることもできません……泣き止めさせるために、何でもやるんです。……この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの……』
私は、その腕白を、なにも言わずに、少し強くおむつの上からつかんで、その玉座もろとも地上に引き下ろした。『静かにして遊べないの……』そして、その子をジッと見つめた。身動きもせずに、黙ってその子はそこにうずくまり……ホッと深い溜息をし、……このような慣れない取扱いに対して、もはや不平をよう言いもせずに……助けを求めるように、父母の方を見まわした。しかし、彼らもその子と全く同じように、非常に圧せられていたので、どういう処置をとっていいか判らなかった。そしてただ顔を見合せていた。それが驚きであったか、怒りであったか、私は今日になってもまだ判らない。そして、その腕白がやっと立ち直って、静かに母親のスカートにすがりついたとき、彼女は言った。『あなたは、お子さんがないですからね。そうでなければ、子供をあんな風には取扱えないでしょう。この子は、まだとても小っちゃくて、物事がよく判らないのですよ……』
私はよほど、それでは、そのお子さんは、あなたにお似合いですよ、と言いたかったのであるが、黙って立ち去った。馬鹿につける薬はない。

後に、その腕白の小さな妹が生れたとき、家族たちは、ほかの居間の食卓に坐っていた。『食べたくない!』とハインツが叫んで、スープのはいった皿を高く振り上げて、床へ投げつけた。
父親は笑った。『いつも元気だね、お前! 今じゃお前は、この家ではもう独りではないんだから、男の子の権利を護らねばいけないよ。』ハインツは、椅子から滑りおりた。父親がその子をつかまえようとすると、子供は出て行って、ドアをバタンと閉めて叫んだ。『つかめるかい……』そこで、父親は身をゆすぶって笑った。彼は、寝室にいる私たちのところに来た。『あれが聞えたかね? あのハインツは、全くどえらい奴だ……』
ああ、実にハインツは、どえらい子であった。そして日増しにひどくなった。彼が街路に現われると、ほかの子供たちは、みんな走り逃げた。あるときは、彼は山羊の車に乗って、小さな動物を殴りまわった。あるときは、一匹の子羊を縄で引きずり殺したため、とうとう憲兵から注意を受けた。
そうかと思うと、彼は、鶏の雛の脚と羽を引き抜いた。『ああ、そんなものは、たかが家畜だ! なぜ子供を喜ばせてやってはいけないのかね?』と老ヘルマンが言った。すべてこれらのことは、最も憎むべき動物虐待であることを、彼の荒んだ感情は、理解できなかった。

ハインツの後から生れて来た二人の妹は、非常に利巧ではあったが、二三年のうちに死んだ。そのために、医者のマルクスが、この家に出入りした。ヘルマンのお宅には、私としては、もはや何の仕事もなかった。『子供が一人しかないということは、いいことだ、面倒なことがなくてよい。』と、ヘルマンは今や言った。

ハインツは、学校へ入学した。彼は強情な、狡猾な校友であって、そのずるい策略の前には、誰も安全ではなかった。もっとも学校では、彼は無法ぶりを公然と発揮するわけには行かなかったので、陰ではそれだけますます狡猾になった。教師は、その子を感化教育に附することを繰り返し提言した。しかして、誰も敢えてヘルマンの御機嫌を損じようとするものはなかった。そのため、それも沙汰止みとなった。ある献堂記念日の日曜日に、その父親と息子が喧嘩をした。というのは、この十三歳の乱暴な子は、すでに午前中に店の銭箱の有り金をすべて使ってしまったので、彼はお昼に金庫の鍵に手を出した。このことは、流石の老ヘルマンにとっても、あまりにもひどいことに思われた。『この金庫は、わしがこの家の主人である限り、わしのものだ。判ったか!』そこで、その若者は怒って用の斧をつかんで、父に打ちかかった。仕損んじた。しかし、ヘルマンは、電光に撃たれたように茫然と立っていた。そのとき、彼の眼は一度に開けた。そして同時にまた、抑え難い怒りが、彼をとらえた。始めて彼は、息子をつかまえて殴りつけた。もちろん、我を忘れ、止めどもなく。もしも、母親や職人や下女たちが仲にはいらなかったなら、彼は恐らく息子を殴り殺したであろう。ヘルマンは、青と黒の打撲傷をつけて、家中を走りまわった。ハインツは、何週間も床に就いた。
父親は、思い切った仕打ちをした。しかし、それは遅すぎた。父親のこの突然の変化は、その若者の中に眠っていた復讐心、詭計および粗暴といったようなものを、すべて表面に呼び出したに過ぎなかった。

数ヶ月の後、その息子は、父親を本当に用の斧をもってたたき殺した。狡猾にも、待伏せていた隠れ場から出て来て……
村中は、恐ろしい大騒ぎであった。こんなことは、前代未聞の出来事であった。しかし……しかし……すべての人々は、その父母が自らその禍(わざわい)を呼び起し、そして今その禍が、彼らを打ち砕いたのであるということを見、かつ感じたのであった。近頃は、多くの親たちは、次のように考えるようになった。すなわち、子供の教育は、一つの重要な課題であるということ、そしてそれゆえ親たちは『子供がまあ物心がつくまで……』待っていてはいけないということである。

親たちが、子供に対する誤った教育により、または全く教育しないために、子供を不幸にするのみでなく、自分自身の上にも不幸を招いたという、親の愚かさについて、私などは本を幾冊も書くことができる。以前には、家庭には、まだ或る種の習慣があって、それに従って教育が行われていた。子供たちは、この慣習を見、そしてそれを親から引き継いで来た。今日では、この教育上の伝統は、その他の多くのものと一緒に、家庭から消え去った、それは一部分は、変化した経済上の事情にも因るのである。今や新しい母親たちは、自分の子供たちをどう取り扱ってよいのか、全く判らぬことがしばしばある。そして彼らの頭の中は、新しい流行語で一杯にはなっているが、何かを始めようとする場合には、この新しいものによるべきか、または、まだ保存されているところの――しかし、彼等のもとからは、消えてしまったところの――旧(ふる)いものによるべきかを知らないのである。結婚する前に、子供の教育に必要な知識を持っているという証明書を要求することは、痛切に必要なことであろう。






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