Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「一人の人が、全ての民が滅びない為に命を捨てるべきだ。」

2017年04月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月7日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月7日(初金) 受難節の平日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年4月7日、受難の主日の後の金曜日です。また初金曜日でもあり、そしてマリア様の七つの御悲しみの記念も行っています。今日は初金曜ですので、いつものようにこのミサの後には聖時間をお捧げ致しましょう。明日は10時30分からミサがあります。

主日は枝の主日で、夕方の18時からミサがあります。月曜日も朝6時30分からミサがあります。明日の土曜日には大阪での初めての枝の主日の準備も兼ねて、枝の主日の歌の練習や、枝の主日とはどういうものなのか、の黙想などを一緒にする事を提案したいと思っています、ぜひ明日も来て下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「一人の人が、全ての民が滅びない為に命を捨てるべきだ。」

こうその年の大司祭カイファは預言をしました。司祭として、天主の代理者として、たとえ相応しい者ではなかったにもかかわらず、しかし天主の制定した大司祭の立場の公式の発言として、「イエズス・キリスト様がこれから、全ての人が失われないように、その代わりにいけにえとなられる」という事を預言しました。それはユダヤ人のみならず、この世に散らばっている天主の御子が1つにまとまる為、イエズス・キリストの御頭のもとに1つの体となる為に、栄光のキリストの神秘体となる為に、その預言をしたのでした。聖ヨハネは福音書の中でそう書いてあります。

そこで今日は、イエズス様の御受難の中に深く入る為に、このミサを3つの点で黙想致しましょう。今日の指定巡礼教会と、それから今日の書簡、今日の福音、一体私たちに何を共通して伝えているのか、それを黙想して、最後にマリア様の七つの御悲しみを通して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

第1のポイントは、今日の指定巡礼教会です。それは最初の殉教者、助祭聖ステファノの為に建てられた教会で、特にその美しいモザイクの十字架は有名です。モザイクの十字架には宝石が飾られていて、典型的な勝利と栄光の十字架です。そしてその上にイエズス様の上半身の姿がモザイクで描かれていて、「まさに今日、イエズス様が十字架をもって勝利される」という事を意味すると同時に、最初の、「イエズス様の苦しみに従った最初の殉教者、聖ステファノに私たちも倣わなければならない」という事を訴えています。

指定巡礼教会に教皇様或いは聖職者が、求道者や公の罪人と共に行列で入って行くと、聖歌隊が言うのは最初に歌うのは、「“Miserere mihi”私を憐れみ給え。」そして聖歌隊が歌う歌は、イエズス様の声を、詩篇を通して私たちに聞かせる歌です、「これからイエズス様は私たちの為に受難に入り、その敵に渡される」という声を響かせます。「これらは全て、私たちの罪が赦される為、そして私たちが1つと集まる為に」という事を私たちに聞かせています。

第2のポイントで、エレミヤの預言書も全く同じです。エレミヤというのはイエズス様の、「苦しむメシア」の象りでした。何故かというと、民が、ユダヤの民がヤーウェをあまりにも無視して、いい加減な罪の生活を送るので、エレミヤが送られて、「回心するように」と呼びかけるのですけれども、しかし罪を痛悔するどころか、そのエレミヤに対して忘恩と無関心とを以ってユダヤ人たちが対応したからです。今日の書簡書の中にもエレミヤがその事を言います。

第3の福音では、ちょうど1週間前に私たちは、この前の金曜日にラザロの預言の事を復活の事を見ましたけれども、このラザロの話の結果、大司祭たちが遂にイエズス様を「殺害しよう、亡き者にしよう」という決意を立てる事を読みます。あと1週間の後には、本当にイエズス様を十字架に付けてしまうという事が決定されます。8日後には、イエズス様が本当に十字架に付けられる事になってしまいます。

大司祭たちは、一体どうやって、いつ、具体的に殺害しようかという事はまだ様子を見ていたのですけれども、時を伺っていたのですけれども、しかしイエズス様の死はもはや決定的に決断されました。あとは時とやり方を探るだけでした。

聖ヨハネはこの大司祭の言葉をはっきりと、「天主の御摂理によって大司祭としての預言であった」と言います。使徒聖ヨハネはよく知っていました。「たとえ人々の悪意であったとしても、意地悪から来るものであったとしても、妬みから来るものであったとしても、憎しみから来るものであったとしても、そして相手がたとえ害を加える事のみを考えたとしても、地獄の勢力が全て計らったとしても、しかし全ては天主様の御摂理の下にあって、主の聖なる御旨を果たす為の道具として結局は、 善の為に善意の人々の善の為に使われる事になる」という事を知っていました。「天主の子らが1つに集まる為に、救われる為に、この預言をしたのだ」と。

私たちはイエズス様の流されるべき尊き御血の祝福を受ける事ができる。そしてそのそれを最初に実践したのは聖ステファノでした。ユダヤ人でしたけれども、そのイエズス様と同じく罪の赦しを願いつつ、自分の血を流していきました。

イエズス様はこれからエフレムという砂漠に姿を隠して、時が来るのを待っていました。聖父によって定められた時が来るのを待っていました。

今日御聖体拝領をする時に、是非イエズス様のその御悲しみと、イエズス様の私たちに対する愛のその深さを黙想しながら御聖体拝領をなさって下さい。

イエズス様の御悲しみがどれほどだったのか、それを私たちがよく理解する事ができるように、聖体拝領の時には詩篇を引用させます、特に「偽りの証言が、偽証人たちがイエズス様に対して立ち上がった」という事が語られます。もしも私たちが全く無実であるにもかかわらず、偽証人が私たちの前に立ち上がって私たちを陥れようとしたら、私たちは一体どのように考えるでしょうか。詩篇の声を響かせて、イエズス様の御悲しみはどれほどだったのか、という事を聖体拝領した私たちに考えるようにと教会は招いています。

では最後に、イエズス様の聖心のこの悲しみの中に深く入る為に、どのような遷善の決心したら良いでしょうか?

教会は、七つの御悲しみのマリア様の記念をさせる事によって、「マリア様を通してイエズス様の心の悲しみを、私たちに対する愛と、そしてその苦しみをよく知っていたマリア様を通して、その中に深く入るように」と招いています。あと1週間後に、マリア様はイエズス様の十字架の御下に立ち留まり、そしてイエズス様と共にその御苦しみを捧げようとされます。

マリア様の心は心臓は、どれほど張り裂けるように痛く、胸を痛めておられた事でしょうか。イエズス様に対してなされる偽証人たちの声、或いはイエズス様に対してなされる冒瀆の数々、イエズス様の汚れない御体に対してなされる残酷な仕打ち、暴力、全く罪が無いにもかかわらず立てられた罪状の札、釘打ちのその手、足、茨の冠、その嘲りの人々、マリア様の心はどれほど痛み、苦しまれた事でしょうか。

しかしイエズス様とマリア様は、私たちの為にそれを御捧げされようとされます。マリア様の御悲しみと、イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳を通して、私たちもその聖心の中に深く入る事ができますように、そして罪人である私たちが、求道者と公の罪人と共に本当の回心の恵みを受ける事ができますように、イエズス様を決して金輪際裏切る事がない御恵みを受ける事できますように、 そして私たちの日常の生活と苦しみを、マリア様とイエズス様と共に捧げる事ができますように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズス・キリストが死なれた日は

2017年04月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス・キリストの死なれた日付はいつだったのでしょうか。

4つの福音書が口をそろえているのは、イエズスが死なれたのが金曜日(安息日の前日、すなわち安息日のために用意する「用意日」)だったということです。

マテオ 「日が落ちたころ、アリマタヤの金持ちでヨゼフという人が来た。この人もイエズスの弟子だったので、ピラトのもとに行って、イエズスの屍をさげ渡してくださいと願った。ピラトはそれを渡すように命じた。屍をうけとったヨゼフは、それを清い覆布でつつみ、岩に掘った自分の新しい墓におさめ、墓の入り口に大きな岩をおいて帰って行った。そこでは、マグダラのマリアと他のマリアが、墓のほうにむいて座っていた。
そのあくる日、すなわち用意日の翌日、司祭長たちとファリザイ人たちとはピラトの所に行って、「主よ、私たちは思い出したのですが、あの惑わし者は、生きていた時に、"私は三日後によみがえる"といっていました。ですから、三日間墓を見張るように命令してください。かれの弟子たちが来て、屍をぬすみ出し、"死からよみがえった"と人々にいいふらすおそれがありますから。そんなことをいえば、このうそは、前のうそよりもひどいものです」といった。ピラトは、「あなたたちに番兵をやる。好きなように守りにいけ」といった。そこでかれらは、石に封印をし、番兵をつけて墓を守り固めた。」

マルコ 「夕ぐれになった。用意日、すなわち安息日の前日であった。おもだった議員の一人で、天主の国をまちのぞんでいたアリマタヤのヨゼフが、なんのはばかりもなくピラトのもとに行き、イエズスのしかばねを乞うた。もう死んだのかとおどろいたピラトは、百夫長をよんで、もう死んだのかとたずね、百夫長からたしかめた上で、しかばねをヨゼフに下げ渡した。ヨゼフは、亜麻布を買い、イエズスを十字架からおろし、亜麻布でつつみ、岩にほった墓におさめた。そしてその墓の入口に、石をころばしておいた。マグダラのマリアと、ヨゼットの母マリアとが、その納めたところをよく見ておいた。」

ルカ 「さて、議員で、善良な、正しいヨゼフという人がいたが、・・・かれはあの議決と仕業とに賛成していなかった・・・この人はユダヤ人の町、アリマタヤの人で、天主の国をまっていた。かれは、ピラトをおとずれて、イエズスのおん体の引取り方をたのんだ。そして、イエズスのおん体を十字架からおろして覆布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩にほった墓におさめた。その日は用意日で、安息日があけはじめていた。ガリラヤからイエズスといっしょにきた婦人たちもついて来て、その墓と、おん体がおさめられたありさまとを見て、帰ってから、香料と香油を準備した。それから掟にしたがって、安息日を休んだ。」

ヨハネ 「このことばをきいたピラトは、イエズスを外につれていき、敷石、ヘブライ語でガッバタといわれるところで、裁判の席についた。それはすぎこしの用意日で、十二時頃のことであった。ピラトが、ユダヤ人に、「これが、あなたたちの王だ」というと、彼らは、「殺せ、殺せ!十字架につけよ!」と叫んだ。ピラトが、「私が、あなたたちの王を十字架につけるのか?」というと、司祭長たちは、「私たちの王はチェザルのほかにはありません」と答えた。そこで、ピラトは、イエズスを十字架につけるために、かれらにひきわたした。」

ヨハネ 「イエズスは酢をうけて、「すべてはなしとげられた」といい、おん頭を垂れて息を引きとられた。その日は用意日だったので、安息日に体を十字架の上に残しておかないように(この安息日は、大祭日であったから)ユダヤ人たちは、ピラトに、彼らのすねを折って取りのぞくようにと願ったので、兵隊たちが来て、まず一人、そして、ともに十字架につけられたもう一人の脛を折った。」

ヨハネ 「彼らはイエズスのおん体をとりおろし、ユダヤ人の葬りの習慣どおり、香料とともに、そのおん体を布で巻いた。イエズスが十字架につけられたあたりに園があり、その園に、まだだれもいれない新しい墓があった。その日は、ユダヤ人の用意日でもあり、この墓が近かったので、そこにイエズスを納めた。」

イエズス・キリストが最後の晩餐をしたのは十字架にかけられる前の晩ですから、木曜日の晩です。

ところで、共観福音によると、イエズス・キリストはご自分の亡くなる前、木曜日の晩に「過ぎ越しの食事」を弟子達と取ったと分かります。

マテオ 「たねなしパンの祭の最初の日に、弟子たちがイエズスに近づき、「すぎこしの食事をするために、どこに準備したらよろしいですか?」というと、イエズスは、「町に行って、某という人をたずね、"私の時は近づいた。私は弟子たちといっしょに、あなたの家ですぎこしをすると先生がおっしゃいました"といえ」とお命じになった。弟子たちはイエズスのことばどおりにしてすぎこしの準備をした。」

マルコ 「たねなしパンの祭の最初の日・・・それはすぎこしの小羊をほふる日であるが、弟子たちがイエズスに、「どこに行って、あなたのすぎこしの食事の準備をしましょうか?」といった。イエズスは、二人の弟子をおくり、「町に行くと、水瓶をもっている人にであうから、その人について行き、その人がはいった家の主人に、"先生が弟子たちといっしょにすぎこしを食べる部屋はどこかとおたずねでした"といえ。そうすると、その人は、席をととのえ、すでに用意された二階の広間を見せてくれるから、そこに準備せよ」とおおせられた。弟子たちが出かけて町に行くと、おっしゃったとおりになったので、そこにすぎこしの準備をした。」

ルカ 「すぎこしをそなえるたねなしパンの日が来た。イエズスは、ペトロとヨハネとをつかわすにあたり、「私たちの食事のために、すぎこしの準備をしにいけ」とおおせられた。かれらが「どこに準備すればよろしいでしょうか?」ときいたので、イエズスは、「市中にはいると、水瓶をもっている人にであうから、あなたたちは、その人がはいる家についていき、家の主人に、"先生が弟子たちといっしょにすぎこしの食事をする部屋はどこか、とおおせられていました"といえ。すると、主人は、席をととのえた二階の大広間を見せてくれるから、そこに準備せよ」とおおせられた。かれらがいってみると、イエズスのいわれたとおりだったので、すぎこしの準備をした。」

もしもこのイエズス・キリストが弟子達と食べたユダヤの過ぎ越しの食事が律法によるものだとすると、ニーサンの14日(木曜日)の夕方になされ、ニーサンの15日(金曜日)にイエズス・キリストが十字架で亡くなったことになります。エルサレム入城はニーサンの10日(主日)になされたことになります。

何故なら「過ぎ越し祭」は、ニーサンの14日の夕方に行われ、その直後から7日間「種なしパンの祭り」が続いた(ニーサンの月15日から21日)からです。(ニーサンの14日から21日までを、「過ぎ越し祭」とも「種なしパンの祭」とも言われていました。)

しかし、もしもこのイエズス・キリスト最後の晩餐が律法に従ってニーサンの14日(木曜日)の夕方になされ、ニーサンの15日(金曜日)にイエズス・キリストが十字架で亡くなったとすると、何故多くのユダヤ人たちがこの日(ニーサン15日)に安息を守っていなかったのかが問題になります。シレネのシモンは労働に行くところでしたし、アリマテアのヨゼフは没薬を購入することも出来たからです。


ヨハネの福音によると、イエズスが最後の晩餐をした翌日、言い換えると、イエズスが十字架に天主の子羊として十字架に付けられて死なれたその日、ユダヤ人たちはまだ過ぎ越しの食事をまだしていなかったとあります。

ヨハネ 「人々は、イエズスを、カヤファのもとから総督官邸にひいて行った。夜明けだった。ユダヤ人たちは、すぎこしの小羊を食べるについて、汚れをうけないようにと、総督官邸にはいらなかった。」

何故、イエズス・キリストの過ぎ越しの食事の日付と、ユダヤ人たちの過ぎ越しの食事の日付が一日ずれていたのでしょうか?

もしも、ユダヤ人たちが過ぎ越しの食事をニーサンの14日の夕方にしていたとすると、イエズスが十字架で亡くなったのがニーサンの14日(金曜日)だということになります。ユダヤ人たちがすぎこしの子羊を屠ろうとする時、天主の子羊が十字架の上で屠られていたことになります。その時、日はまだ高かったのですが、にわかに夕方のように暗くなりました。

もしもそうだとすると、木曜日の最後の晩餐の食事は律法による食事ではなかったことになります。

また前晩の木曜日の食事の時についてヨハネは「すぎこし祭の前」と言います。

ヨハネ 「すぎこし祭の前に、イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった。食事の間に、悪魔は、早くも、イスカリオトのシモンの子ユダの心に、イエズスをわたそうという考えをいれた。父が自分の手に万物をゆだね、自分は天主から出て天主に帰ることを知っておられたイエズスは、食卓から立ちあがって、上衣をぬぎ、手拭いをとって腰にまとい、それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、まとった手拭いでこれをふきはじめられた。」

ということは、もしもユダヤ人たちの過ぎ越し祭がニーサンの14日(金)だったなら、最後の晩餐は、ニーサンの13日に行われたことになります。

イエズス・キリストが亡くなった年、私たちの今は詳しく正確に知ることが出来ない理由で、ある者はニーサンの13日に、ある者はニーサンの14日に過ぎ越しの食事を行ったと考えられます。

その理由としては、現代の天文学による厳密な月の満ち欠けではなく、肉眼の観察による暦を使っていたため、です。

例えば、イエズス・キリストの時代に、サドカイ派とファリサイ派とは、五旬祭と過ぎ越し祭との日付について論争していました。

例えば、当時、司祭の家系でサドカイ派で極めて影響力のあったボエトゥス家の一派は、五旬祭は必ず日曜日に祝うべきであると主張していました。さらに過ぎ越しと五旬祭との間の50日は、過ぎ越しの八日後の初穂奉献の祭りから数え始めることを主張していました。

旧約の律法によれば「過ぎ越し祭」の間(つまりニーサンの14日から21日までの間)、初穂を捧げなければなりませんでしたが、その捧げる日は「安息日の翌日」altero die sabbati だったからです。サドカイ派は、初穂奉献の祭りは過ぎ越しの後の日曜日に行われることを支持しました。

ところが、これと対立して、ファリザイ派は五旬祭は週の何曜日でもかまわないと主張。そこで初穂奉献の祭りは、過ぎ越しの直後、つまりニーサン16日に行われることを主張していました。ファリザイ派によると、初穂奉献祭の日の「安息日の翌日」altero die sabbati とは、「過ぎ越しの翌日」のことだと主張していたからです。

ところで、サドカイ派は、ニーサンの15日が金曜日に当たると、暦を一日ずらしてこの金曜日をニーサン14日として子羊を屠り過ぎ越しの食事をとり、ニーサン15日が安息日(土曜日)、その翌日(ニーサン16日)に初穂記念祭を行っていました。これは満月がいつであるかを計るために肉眼による測定を行っていたためにおこる揺らぎでした。

しかしファリザイ派はこのようなずらしを受け入れず、何曜日であろうとも過ぎ越しを行っていました。一般大衆はファリザイ派の指導の下にありましたが、上流社会は司祭階級とより結びつきが強く、サドカイ派の影響を強く受けていました。また人々は、自分の都合に合わせてどちらの流儀に従っても良いと考えられていました。

そこで、イエズス・キリストが磔になった聖金曜日は、本来なら「ニーサン15日」でした。サドカイ派は、習慣に従ってこれを一日ずらして、初穂奉献祭「ニーサン16日」が日曜日になるようにしたけれど、ファリザイ派はずらさなかった、と。そこで、聖金曜日は、一部の人々にはニーサン14日であり、一部の人々にとってニーサン15日であったとなる、と言うことです。

そこでヨハネの福音はサドカイ派の暦に沿っており、共観福音はファリザイ派の暦に従っていると思われます。

すると、ファリザイ派と一般民衆は、聖木曜日に律法の子羊の食事を取り、イエズス・キリストも最後の晩餐を行ったことになります。この聖木曜日はニーサン14日になります。翌日の聖金曜日はニーサン15日(過ぎ越し)となるはずですが、イエズス・キリストを排斥した衆議所の大部分はサドカイ派に属し、彼らにとっては聖木曜日は「ニーサン13日」でした。そこで、彼らは聖金曜日に子羊を屠り、土曜日をニーサン15日(過ぎ越し)と考えていたことになります。そこでイエズス・キリストが亡くなった聖金曜日に、多くの人々が律法による安息を守っていなかったか、が説明が付きます。何故なら、ファリザイ人にとっては過ぎ越し(ニーサン15日)でしたが、一般の人々は様々な理由でサドカイ派の暦に従っていたからです。

2017年4月7日-10日の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日の聖伝のミサについてのご報告を更にいただきました。深く感謝します。

どうぞ良い聖週間をお過ごしになり、聖なる復活の主日をお迎え下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
変おそくなりましたが、ひとことだけ所感を申し上げます。(^_^;)

【所感】
4/10の聖月曜日に、レネー神父様が一言だけのお説教をしてくださいました。
その中で、心に突き刺さったお言葉がありました。
聖月曜日の聖ヨハネ聖福音では、イエズス様はベタニヤに行かれ、聖マグダレナがナルドの香油をイエズス様の御足に注ぎ、自らの髪の毛で拭う箇所でした。
ナルドの香油は売れば300デナリオという大金になり、貧しい人々に施すことができるほど高価なものを、イエズス様に注いだ。
イエズス様は「彼女のするにまかせよ。・・・貧しい者はいつもあなたたちとともにあるが、私は常にあなたたちとともにいないであろう・・・」とお答えになり、
マグダレナの行為を良しとされました。この箇所が聖週間に読まれるという意味は、聖週間だけは、施しという善行でさえ、それよりもイエズス様への愛を最優先にしなければならない。
それほど聖週間は受難に向かわれるイエズス様の聖心を思わなければならないと悟りました。
この聖マグダレナの行為は、聖週間のお手本だったのだと理解できました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

【お返事】
聖ヨハネの福音による聖月曜日の朗読箇所は、本当に心に残りますね。
聖マリア・マグダレナとユダ・イスカリオトとの対比がすごいと思います。

聖マリア・マグダレナは、高価な香油を惜しみなくイエズス様の頭と御足に塗り、自分の髪で主の足をぬぐいました。
イスカリオトのユダは、それをケチって金貨300デナリオという大金で売れば良い、お金を儲ければ良い、と文句を言います。
イエズスがユダをたしなめると、それに腹を立てたユダは、今度はイエズスを売り飛ばそうと決心します。奴隷の値段の銀貨30シケルで。

聖マリア・マグダレナは、イエズス様の足下に香油を塗って愛情を示し、十字架の足下にまで従い、ついには主の復活の最初の証人の一人となります。
イスカリオトのユダは、イエズスに裏切りの接吻をし、主を売り飛ばして手に入れた金を司祭長たちに投げつけて返し、自分は首をくくって自殺します。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

枝の主日の御ミサをありがとうございました。
枝の主日は、旧約聖書における“過ぎ越しの五日前に部屋の中に生贄の子羊を入れる”ということと 関連していると伺いました。イエズス様がエルサレムに入場される喜びの印に枝をかざして歓迎の歌を歌い行列をし それから ミサ聖祭が執り行われました。

棕櫚の枝を手にするたくさんの信者で狭い会場がいっぱいになりました。また、いつもよりも 香が多く焚かれて、今日は特別な御ミサであることが五感でも感じられました。

長い御受難の朗読が歌われた後の、奉献文「・・・私は 私と共に悲しんでくれるものがあろうと期待したが、一人としてなかった。私を慰めるものを求めたが、一人としてなかった。・・・」を後で読み直し、私も主の悲しみ苦しみをお慰めするどころか逆に苦肝や酢などひどい仕打ちばかりをしていると気づきました。

それで 枝の主日の翌日 聖月曜日の御ミサでマグダレナのマリアが 主をお慰めする場面が読まれるのでしょうか。聖女は主の葬りの準備のためのできうる限りのこととして高価な香油の壷を割りました。きっと この時も 素晴らしい香りが部屋に広がったことでしょう。

主の御受難を黙想して、どのように主がわたしたちのために清いままご自分を生贄として捧げられたかを心に刻みたいと思いましたが、ミサ典書では 続くこの聖週間の聖福音が長い御受難を読むようになっていると気づきました。このところ毎日ミサ典書を読むようにしていましたが、あらためて ミサ典書と典礼の素晴らしさに気づかされました。日本にいるとその全部の典礼に与れませんが、このカトリック典礼が今も地上の各所で捧げられ続けていることは とても大きなことだとおもいます

ところで先日「ラザロの復活」の小野田神父様のお説教を読んだ時に、ラザロが死から甦るというのは わたしたちに当てはめると霊的な復活によって生きかえるということを意味すると教えられて、この部分の意味が突然にはっきりと明かされた思いでした。
そして、イエズス様は死に打ち勝った、ということは、わたしたちもこのあと何年とか何十年とか生きて死を迎えそれから死後に審判の後甦らせていただける希望という意味だけではなくて、いまこの御復活祭で霊的な死から甦って霊的な復活を迎えようとしているという意味でもあるということが、祝別された枝を受け取り、ますますはっきりしました。

生ぬるく怠ってばかりいたことを反省して、もう一度四旬節中のお説教を読みなしました。心から本当の復活の恵みを望みました。感謝いたします。

枝の主日の後のこの聖週間、イエズス様がご自分を生贄としてお捧げするお苦しみとマリア様のお苦しみを黙想して、イエズス様がわたしをどうか霊的な死から甦らせてくださいますようにと、お祈りいたします。そして 教会もどうか霊的な復活をすることができますようと マリア様に取次ぎをお祈りいたします。


【お返事】
ご報告をありがとうございます。
「イエズス様は涙を流された」と書かれているのはここだけなんです。
確かに、別の箇所では、イエズス様が回心しないエルサレムをみて「泣いた」とありますが、実は、全く別の単語を使われています。

エルサレムに対しては、「嘆いた」という意味の「泣いた」(κλαίειν, κλάυμα)が使われています。
しかし、ラザロについては、「涙を流した」(εδάκρυσεν)という単語が使われているのです。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様 いつもまことにありがとうございます。

公教要理のご報告をいたします。
午後の公教要理では まず 旧約の過越しと 新約の枝の主日から御受難までの 対比を お話しくださり、この聖週間の意味を深くとらえる助けをいただきました。とても良いお話をありがとうございます。それから イエズス様の十字架上の七つの言葉について 黙想いたしました。

そのあと 十字架の道行をお捧げしました。午後のこちらは少ない人数でしたが、神父様に先導していただき皆で一緒に心を込めて熱心にお祈りをお捧げすることができて 大変うれしく思いました。ありがとうございました。

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[わかったこと]

A. 「 旧約の過越しと新約の過越しの対比 」
 
◎旧約聖書において エジプトを脱出する際 1歳の傷のない子羊を過越しの子羊として 屠って食べた史実と、イエズス様が天主の子羊・過越しの子羊として 十字架上で屠られたこととの間には つながりがある。

◎その1歳の過越しの子羊は 屠られる5日前に家の中に入れられることになっていた
同じように天主の子羊であるイエズス様も 5日前に 隣のオリベト山からエルサレムに入場していたそして非常な歓迎を受けた(またマグダラのマリアからも特別な歓迎を受けた)

◎木曜の夜に 最後の晩餐でご聖体を制定する
これは エジプトを脱出して約束の地までたどり着くために マンナで民を養ったように 私たちを養おうとされたのである

◎旧約の民は 過越しの食事のために律法の汚れに触れないようにした
大祭司たちはイエズス様を死刑にするようにピラトに願うために、律法の汚れに触れないようにしてピラトの家に入らずに済ませて ピラトに頼んだ。

◎大祭司たちが屠られた子羊の食事をする時刻
その同じ時にイエズス様は十字架上で死去された 天主の子羊が十字架の上で屠られた

◎神殿の幕が真っ二つに裂ける
そのおなじときイエズス様はご死去されて 旧約の時代が終了する

◎イエズス様は (モーゼがイスラエルの民を エジプトから紅海を渡り約束の地に導き出したように) 御受難の自分の血の海を通ってつまり洗礼の水を通して、私たちを 新しい天国の約束の地に導きだそうとしている。

B. 「七つの言葉(イエズス様の最後の遺言としての)」   カトリックの習慣では 聖週間にこの七つの言葉を黙想するというのが非常に盛んだ ヨハネによる御受難バッハによる御受難とかetc.

1 「聖父よ、彼等を赦し給え。彼等はそのなすところを知らざるなり」(ルカ23:34)

赦しを願う言葉について・・・『イエズス様はいまやられている最中に どれほど人となって苦しまれたか、祈らなければならない。ユダヤ人は彼を殺そうとするのに、イエズス様は許そうとする。
「イエズス様 ごめんなさい。あなたは救い主です ゆるしてください」と言うと、痛悔し自分の十字架を受け入れると、(それさえも)ゆるしてくださいます、希望を与えてくれます』。
 
『十字架には三つの種類がある。罪があって苦しむ十字架と罪がなくて苦しむ十字架のうち、罪がなくて苦しむ十字架はイエズスとマリアだけ。罪があって苦しむ十字架に 二つあり、一つはイエズス様を救い主として認めて痛悔して自分の十字架を受け入れる態度、もう一つはキリストなんてどうでもよい苦しみを受け入れない反抗している態度。どちらにしても 苦しみは残る。霊魂が救われるか救われないかは苦しみにあってどういう態度で それに接しなければならないかにある。信仰と痛悔そしてイエズス様に対する愛の態度が 大事』。

2 「私はまことに言う。汝 今日我と共に楽園にあらん」(ルカ23:43)

天国に至りましたらどうぞ私を思い出してくださいという ディスマスの言葉への返事。ディスマスは天国泥棒と呼ばれている。

3 「女よ、これ汝の子なり。」「身よ、これ汝の母なり」。(ヨハネ19:20-27)

聖ヨハネは自分の名を出さないで「愛する弟子」とだけ書いた
第1のエヴァはすべての生けるものの母である
第2のエヴァであるマリアは すべての贖われるべきものの母である。私たちの本当の母として与えられて 立派な最愛の御子のイエズス様が取り上げられてろくでもないもの(私たち)が子供として与えられる。それにもかかわらず マリア様は わたしたちをイエズス様を愛するように愛してくださる。

4 「なぜ私を見捨て給うのですか」(マテオ27:46)

子供として被造物として全く見放されてしまったかのように 天主様から見放されたイエズス様の苦しみは想像を絶する苦しみ。今日のミサの時には その言葉がある詩編21番をずっと歌っていた。

5 「私は渇く」(ヨハネ19:30)

聖心の使徒 霊魂の渇き 嘲り・無関心・冒涜

6 「成し遂げられれた」(ヨハネ19:30)

御父のみ旨をすべて果たしたこと

7 「聖父よ、我が霊魂を御手に委ね奉る」(ルカ23:40)

マリア様のお苦しみは一体もうダメだというようなお苦しみではなく、主と共にこの苦しみを捧げて 多くの霊魂を天国に捧げたいという愛に基づいている。愛に支えられているので気絶もしないで立っていることができる。

(聖心が開かれ 水(洗礼)と血(ご聖体)がでて、そこから教会の花嫁が出たことについてのお話し。)
第1のアダムは 楽園にて あばら骨から エヴァが出た。
第2にアダムであるイエズスからは 十字架の楽園で死の眠りに着いた時に 脇が開かれて 水と血が出て 聖なる浄配(妻)である教会が出た。
イエズス様と教会は一体で離すことができない。聖なる教会は イエズス様の神秘体であり 天主がくっつけたものであって、誰も離すことができない。救われようとするものは 水で洗礼を受け ご聖体に養われて イエズス様の神秘体の一部にならなければならない。
ノアの箱舟の入口が脇についていたが(当時 ノアの箱舟に入った者が救われたように)、イエズス様の脇腹を通って 救われる。
イエズス様の神秘体の一部になれば どんなに悪魔が叫んでも悪魔から逃れて救われる、第二のノアの箱舟ができた。イエズス様の御身体をマリア様が抱えて きれいにされて 人類のためにお捧げになられた。

[感想]
枝の主日は、旧約聖書における“過ぎ越しの五日前に部屋の中に生贄の子羊を入れる”ということと 関連しているということがわかりました。

「三本の十字架」・「十字架に三人がつけられた」、という聖書の箇所一つにさえも、深い意味が隠されていることを教えていただきました。

また、御受難は 人間が考えたものではないことを感じました。気の遠くなるような長い年月をとおして あらかじめユダヤ人に通達(預言)していたということ、、その律法に基づいて 通達(預言)通りに天主様は救いの約束を果たされたのだと 知りました。反抗してご自分から離れてしまった人間の救いのために用意してくださったのは、人間が作りだすことができない贖いであったと 感じました。

不思議に思いますのは、これほどあらかじめ(イザヤ預言書などで) 誰も天主を認めず”なぜわたしを見捨てたもうた” などとまで 言い切っているのは、それほど人間の精神の堕落の深さを天主様が御存じでおられていたからなのでしょうか? 考えられる限りの最大の残酷な苦しみをもってようやく贖われるようなものが原罪というものだからなのでしょうか? 私共の原罪が償われるためには、そこに主がすべてから見捨てられる理由があってだったのでしょうか? 自分の罪の深さをよくわかっていないことを 感じさせられます。
 
御受難は、イエズス様とマリア様の従順と謙遜に満ちたお苦しみを通して ほとんどたった数名のものしか認める者がいないほど、無視され中傷され歪曲されたなかでなされた天主の御業だったということを もっとよく黙想して 救いの意味を考えて 御復活祭を迎えたいと思います。

聖週間を迎えるため 十字架の道行をできまして、またこのような大切なことをお伝えくださいまして ありがとうございます。神父様のご慈愛に心から感謝申し上げます。

デオ・グラチアス!


【お返事】
脱出の書(出エジプト)の第12章には、こうあります。

Dixit quoque Dominus ad Moysen et Aaron in terra Aegypti: Mensis iste, vobis principium mensium: primus erit in mensibus anni. Loquimini ad universum coetum filiorum Israel, et dicite eis: Decima die mensis hujus tollat unusquisque agnum per familias et domos suas. ... Erit autem agnus absque macula, masculus, anniculus: juxta quem ritum tolletis et haedum. Et servabitis eum usque ad quartamdecimam diem mensis hujus: immolabitque eum universa multitudo filiorum Israel ad vesperam.

今月(ニーサンの月)が一年の最初の月となる。今月の第10日目に子羊を自分の家に入れよ。傷のない雄の一歳の子羊である。これを今月の第14日まで留め、それをその夕方に屠れ、と。
そこで、「過ぎ越し祭」は、ニーサンの14日の夕方に行われますが、その直後から7日間「種なしパンの祭り」が続きます(ニーサンの月15日から21日)。そこで、ニーサンの14日から21日までを、「過ぎ越し祭」とも「種なしパンの祭」とも言われていました。

ユダヤ教では、週の曜日に関わりなく、過ぎ越し祭をニーサンの14日にすることになっていました。

私たちの主のエルサレムへの入城は、過ぎ越しの子羊が家に入れられることと重なります。

旧約時代バラアムの時もロバでしたが、イエズスもロバに乗ってエルサレムに入ります。マテオはここにメシアに関するザカリアの預言(9:9)の成就を見ます。「ホザンナ!主の名によって来るものは祝されよ!」 

イエズスにとってこれはご自分のメシアの王国の唯一の公式で盛大な顕示でした。その後、ユダヤを捨てたフラヴィウス・ヨゼフは40年後の別の「エルサレム入城」を描きます。福音によるイエズスの入城は、主の聖名によりて来る天主なるメシアの入城であり、メシアを受け入れなかったがために後に破壊されるエルサレムを嘆き、更に後は異教のローマを壊してキリスト教のローマにする入城。フラヴィウス・ヨゼフは、その反対に、エルサレムを破壊するための人間の入城と、戦利品を持ち運び凱旋のうちに異教のローマに入城を描き出します。フラヴィウスによれば、メシアはローマ皇帝ティトゥスであり、福音史家によるとメシアはナザレトのイエズス・キリストです。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは😃

神父様のブログが 大阪の御聖堂の写真に変えられて
紫の布を被せられた十字架や御像を目にするたび、
大阪に行って御復活の御ミサに与りた~い😭と思います。

聖マリアの汚れなき御心のうちに!

2017年4月7日-10日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間に入りました。

4月の初金には大阪でミサ聖祭を捧げ、聖時間をしました。4月8日の土曜日にも大阪でのミサ聖祭が出来てうれしく思います。
今回は、4月6日の夜、マニラの修道院を発ち、夜行便の飛行機に乗って早朝5時頃に日本に到着しました。フィリピンの修道院を出るとき、マニラの聖歌隊の青年達がアレグリの「ミゼレレ」の練習をしていました。すると、大阪のミサ聖祭でも奉献の時にこの「ミゼレレ」が大変うまく歌われ、感動しました。
さらになんと!土曜日のミサでは、奉献の時にこの「ミゼレレ」が、聖体拝領の時には、Giovanni Pergolesi作曲の「スタバトマーテル」が大変素晴らしく歌われ、心は天に挙がったかのようでした。

Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (1/2)
Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (2/2)


4月9日の枝の主日には、60名の方々が参列されました。新しく来られた方々、久しぶりの方々もおられ、大変嬉しくなりました。
まず枝の祝別と行列を、恒例の通り行い、ミサ聖祭を執行しました。
午後には、十字架の上での主の7つの言葉を黙想し、十字架の道行きを行い、主日の晩課を捧げました。

同時に4月9日の夕方には大阪でレネー神父様が枝の祝日のミサを捧げて下さいました。神父様にはこころから感謝します。

復活祭には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で、夕方の6時からミサ聖祭がある予定です。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日は御ミサ、御聖体降福式、十字架の道行きなど色々ありがとうございました!!
初金と初土の週が違っても、信心を実践する事ができるように2週連続で日本で御ミサを捧げて下さって本当にありがとうございます!そしてマリア様の七つの御悲しみの記念でもある御受難の主日の後の金曜日の御ミサに与る事ができてとても御恵みでした!

紫の布の意味を詳しく説明して下さってありがとうございます。今更ながら、御像などに紫の布を被せるのは、イエズス様の御受難を思って喪に服すという意味で、十字架にも紫の布を被せるのは、十字架は勝利のしるし、栄光のしるしであるからだ、という事が分かりました。

マリア様の汚れなき御心の御助けによって、マリア様の御心に学んで、十字架の価値を、苦しみの価値の意味を深く理解することができますように!教会の精神の中に、聖週間の中に深く入って行くことができますように!

デオ・グラチアス!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

いよいよ聖週間に入りました。

昨日は大阪で初めての枝の祝別式がありました!レネー神父様は韓国でも枝の祝別式を行なって下さって、ただでさえお疲れにもかかわらず、大阪でもフルバージョンの枝の祝別式を行なって下さいました!m(_ _)m

御ミサの後のご講話では十字架の神秘をお話してくださいました。

今日の早朝の御ミサでも、少し御説教をお話下さって、「ある司教様は、『カトリック信者はこの聖週間に、隣人に施しをしたりお見舞いをしたり、隣人愛の業を行なうように』という内容のことのみを仰ったそうなのですが、確かにそれ自体はとても良いことなのですが、その司教様は私たちの主イエズス・キリストの事を黙想するという事を仰っておらず、まず一番に考えなければならない事が抜けてしまっている、本当の隣人愛は天主を愛するが故に隣人を愛する事であって、天主への愛を抜きにして隣人を愛する事は誤った隣人愛で、天主を愛することによって、本当の意味で真に隣人を愛する事ができるようになる」というような内容のことを仰って下さいました。

デオ・グラチアス!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 36人(内、子供5人)
計: 60人(内、子供8人)



【報告】
大司祭の民というのは、イエズス様と共に居ることによって、私たちの日常の苦しみをいけにえとして捧げる事ができる、特に御ミサに与ることによって、御聖体拝領をする事によって、キリストの司祭職に参与できるのだ。何と素晴らしい事でしょうか、何と栄光ある司祭の民でしょうか、と仰って下さった部分が心に残りました。

ファチマのマリア様も、「祈りと犠牲を捧げて下さい」と、救霊の為に、世界の平和のために私たちを栄光ある大司祭の民として招いて下さっているのだなと思いました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

本日は、枝の主日でしたので、その後行われる十字架の道行きの信心業に先んじて、十字架上のイエズス様が述べられた七つの御言葉について、教えをいただきました。

(わかったこと)

いつもとても貴重な講話ありがとうございます!
十字架上のイエズス様の御言葉は、御旨の成就する最終の御言葉であり、そのひとつひとつが重いメッセージを有しているということがよくわかりました。
具体的には、
1 聖父よ 彼らを許したまえ 彼らはそのなすところを知らざればなり(ルカ 23:34)
2 まことに汝にいう。今日汝は我とともに楽園にあるべし(ルカ 23:43)
3 女よ、みよ、これ汝の子なり。みよ、汝の母なり。(ヨハネ19:26)
4 天主よ、なぜ我を見捨てたもうや(エリ・エリ・ラマ・サバクタニ)(マテオ 27:46)
5 我、渇く(ヨハネ 19:28)
6 事、成就せり(ヨハネ 19:30)
7 聖父よ 我が霊魂を御手に委ね奉る(ルカ 23:40)
の7つの御言葉ですが、
異邦人の医者であったルカが、イエズス様の大祭司ら大罪人への赦し、回心した死刑囚(ディスマス)への憐憫と楽園への誘いという無限の愛徳のさまを記録しておりますが、そこにはルカが非ユダヤ人という立場であったがゆえのユダヤ人としてあり得る心証にこだわらない自由な意思が反映されていると感じました。
(ユダヤ人であれば、大祭司への近親憎悪があったり、俗に天国泥棒といわれるディスマスへの感情も微妙に違っていたのかもしれないという意味です。)

また、御心の使徒といわれるヨハネの記録した御言葉のなかで、イエズス様からマリア 様を母親として、また、マリア様にヨハネを子として、定められたにもかかわらず、福音書の中では、ヨハネ、マリア様の名前は一切記述していないところにヨハネの謙遜(そしてマリア様も!)が強く偲ばれる思いがいたしました。

さらにヨハネの記録した「我、渇く」という御言葉は、イエズス様のお辛さが肉体的なもの以上に精神的なものであったこと、そして「事、成就せり」という極限状況の中での宣言により、御旨が完全に成し遂げられたということを明確にされ、のちに御旨は実は成就はなされなかったなどという異端の種を完全に摘み取ったところに御旨があるのだと感じました。
そして、ユダヤ人であるマタイが記録した「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」というアラマイ語を用い た御言葉ですが、本日の講話で、実はその御言葉は、詩編22:1で語られている言葉であるということを教えていただきました。それはとりも直さず詩編の預言が成就されたということであり、そしてそれが、詩編に精通していたユダヤ人たるマテオが記録したというところにその必然のようなものを感じました。

(もっと知りたかったこと)
直接、関係はないかもしれませんが、楽園と天国の違いはなにか、イエズス様のご復活で天国の門が開かれたときに、楽園はそのまま、天国となるのか、それともやはり、楽園と天国は別物なのか、その場合、楽園から天国へ移るのはどういう場合か、どういうプロセスかということを知りたいと思いました。

小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何ものでもありません。

改めて御礼申し上げます!

デオ・グラシアス!


【回答】
鋭い疑問を感謝します。楽園と天国とは、ここでは同じものです。
Et dixit illi Jesus: Amen dico tibi: Hodie mecum eris in paradiso.
楽園とは、人間の観点から喜びと平和と安楽の幸福のところ、という意味です。
天国とは、天主と共にいるところ、すなわち最高の善である天主を享受するこの地上を超越したところ、という意味です。
ところで、天国がどうして天国であるかというと、それは、私たちが真の天主と共にいることにあります。
それは楽園も同じことです。本当の楽園とは、最高の善であり全ての善の源である天主を所有すること、天主を享受することにあります。そこに完全な喜びと平和と幸福があります。
つまり天主の本質を至福直感で見ることに、人生の究極の目的があります。
イエズス・キリストは、この良き盗賊の罪を全て赦し、ご自分と永遠におられることを約束しました、そこで、イエズス・キリストはその日、リンボに行き旧約の太祖や義人らを訪問するのですが、その時リンボはイエズス・キリストの存在により「楽園」となったのです。

" On Liberalism " by Fr. Laisney SSPX

2017年04月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「リベラリズムについて」についての【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sermon for 8th April 2017 – Saturday before Palm Sunday – on Liberalism

My dear Brethren,

I am reading a book from G.K. Chesterton . Though he wrote it about 90 years ago, it addresses so well today’s problems that I would like to give you some gems from it. He is denouncing the liberalism of his days. And liberalism has only gone worse in our days.

Some people think that liberalism is merely a defence of human liberty – it is not so. Liberalism is the worship of human liberty: it consists in setting human liberty as an absolute, so absolute as to be independent from God, independent from truth, independent from all laws. Thus, it makes of human liberty a supreme being, i.e. a god – a false God, an idol. This is the false god of the modern world. This idol is not new: indeed, the complete refusal of all subjection is the very shout of rebellion of the Devil: “I will not serve” (Jer. 2:20). What Chesterton said of the English reformation perfectly applies to this “modern culture”: “it was the result of the impatient and imperious appetites of humanity, hating … most of all to be restrained by invisible bonds.”

A recent issue of the Time magazine was entitled: “Is Truth dead?”, in red letters over a black background. It echoed an issue 50 years ago of the same magazine entitled “Is God dead?” with the same red letters over the same black background. Both issues are signs of the same idolatry of man and rejection of God. That rejection of God includes the rejection of everything that comes from God. All authority comes from God (see Rom. 13:1), hence modern man rejects all authority. Truth comes from God, Who is the First and supreme Truth, hence modern man rejects truth. Modern man claims the right to believe whatever he wants, or rather to believe nothing at all. Marriage is a divine institution, hence modern man rejects marriage by promoting divorces, and all kinds of “free unions” and sinful lives and even unions against nature. Our very human nature, with the natural distinction of male and female, comes from God, hence modern man rejects this and pretends that each one can choose his own gender, which is the most absurd claim. And the list of what modern man rejects goes on and on: rejection of true art and ugliness invades music, painting, sculpture, etc. Rejection of family, to the greater damage of the children. Rejection of the Kingship of Christ, rejection of His Church and a pretended right to all religions even Satanist sects.

In doing so, modern man destroys his own self. This is evident in two modern evils, that are now claimed to be “rights of men”: abortion and euthanasia, together with the multiplication of suicide. Truly “the wages of sin is death” (Rom. 6:23). Sin is death in the soul and leads to death in the body. And as if the facts of abortion and euthanasia were not bad enough, modern man claims a “right” to such abominable sins, a right to disobey God! There is no right against God; God is the supreme Rule of all goodness.

Even without going so far, these modern errors lead to the destruction of the most important human faculty: the mind. Indeed, what makes the superiority of the human race over all other animals is that it is endowed with a spiritual mind, with intelligence and free-will, capable to know and love God. Now the very object of the intelligence is the truth: if there is no truth, there is no intelligence! Man is no longer ruled by his intelligence, by his reason, but by his passions: he becomes the slave of his blind passions, as can be seen so often today.

The destruction of intelligence is visible in the scepticism of many: they think man’s intelligence is – by principle – incapable to find the objective truth about God, and also about man. That scepticism is a grave disease of the mind, it is a despair of the intelligence, which gives up all hope of finding God. By claiming that any religious is fine, each one should have the freedom to choose his own religion as he pleases, this is implicitly the rejection of any ability to know the objective truth about God. Such religious freedom is intrinsically sceptical, and is quite common today.

One characteristic of modern society is the development of modern technology in the service of the body, comfort, leisure and pleasures: now this is to put the mind in the service of the flesh. This is upside down, the complete overturn of proper order within man. Our body should be in the service of the soul, and not the contrary. The soul should rule over the body – which does include providing for the needs of the body in a measured way, with reasonable measure. But it is not right, not reasonable to make of the body the goal of the soul.

Modern liberalism is mostly visible in the moral domain: it is the complete rejection of any moral norm that would come from God. It claims as a human right the ability to do whatever one wants – with no other restriction than a certain vague respect for other humans. I say “vague” because they do not hesitate even to kill those that they get in their way, such as by abortion. And if one can kill an innocent baby, there is no limit to which crime he will not go.

Now our Lord Jesus Christ came to save us from sin. And in a very simple way, in this Passion time when we contemplate the Passion of our Lord, we see precisely that our Lord SACRIFICES HIS BODY in order to save our souls! He could not more vividly be the remedy to our modern evils. To make reparation for our refusal of submission to God, He completely renounced Himself, “He emptied Himself” as St Paul says (Phil. 2:7), and he continues: “He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross” (Phil. 2:8). This is the opposite of modern sins, it is the remedy for our modern man.

But one would say: was it necessary to suffer, especially so far as to suffer the Cross, in order to save us? In a certain way, it is true that one can serve God without sufferings: this is what happened to all the Holy Angels. They never sinned and they never suffered; they offered themselves wholeheartedly to God from the very beginning of their creation; as St Paul says, when God announced to them that the Son of God would become man, He commanded all the angels to adore Him (Heb. 1:6) and all the good angels willingly, with a wonderful devotion and promptitude, offered themselves in the service of Christ, and for such perfect devotion they were immediately rewarded and went to Heaven, without passing through sufferings. The bad angels on the contrary rebelled with so complete wickedness and stubbornness that they deserved to be immediately condemned to Hell fire for ever.

But man had sinned; from the beginning of mankind there has been a revolt of mankind against God. And because of sin, there is need of reparation, there is need of Sacrifice. Only someone who would have no sin at all could claim that he should not suffer. But there is only one who is absolutely sinless, our Lord Jesus Christ: and He came precisely to make reparation for our sins; His Holy Mother was given the privilege of the Immaculate Conception and by the grace of God she perfectly cooperated with that initial grace and thus she also has no sin. But she too understood that she, as the New Eve, should be a helper to the New Adam (see Gen. 2:18) in the very mystery of Redemption and thus shared in the Cross of Christ. But none of us is perfectly innocent: hence we have to bear our cross to make reparation for our sins.

Moreover, if the Saviour Himself carried the Cross and died on it for us, how could we be so heartless and not want to participate in His Sacrifice? We should say to Him: “I should be the one to carry that cross, because it is for my sins that You took it; I should be nailed to that cross in your stead, because I am the sinner”. “If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow me” (Lk. 9:23). This is the Royal Way of the Cross, that leads to Heaven as St Paul says: “we are sons of God, and if sons, heirs also; heirs indeed of God, and joint heirs with Christ: yet so, if we suffer with him, that we may be also glorified with him” (Rom. 8:17).

Now the Passion provides the true remedy for our modern ills. Modern man wanted to be free, and became the slave of sin: “Know you not, that to whom you yield yourselves servants to obey, his servants you are whom you obey, whether it be of sin unto death, or of obedience unto justice” (Rom. 6:16). On the contrary, it is by obedience to God, by submission to His Law, that we become truly free, free from sin, free to do good – not free from God and free to do evil.

A simple comparison will help to understand that. Look at the planes: they are free to fly wherever the pilot wants because they obey the laws of aerodynamics; if they were not obeying the laws of aerodynamics, they would simply crash! It is obedience to the laws that God has set to nature that gives that freedom to the planes. Similarly a computer programmer is free to program somehow what he wants so long as he obeys the laws of programming, which are ultimately the laws of electricity set by God; if he does not obey them, then there are bugs and his program crashes. Obedience to the Laws of God give true freedom; disobedience leads to crashes!

St Augustine tells us: we should not fool ourselves. It is impossible to escape from the Laws of God. Either we do what the Law commands and we shall be rewarded in accordance with the Law of God, or we do not what the Law commands and we shall be punished, still in accordance with the Law of God. We cannot escape! We cannot escape because God is the Almighty Creator and we are little creatures. We cannot escape because God is good and He will not let evil have the last word.

We need to be convinced that it is good for us to be obedient to God; God does not command something for His own aggrandisement: He is already supreme and there is nothing we could give Him that He would not already have. God commands us that which is good for us: it is good for us to live for the Glory of God; it is in God alone that we can find our eternal happiness. St Augustine beautifully says: “Thou hast made us for Thee, o Lord, and our heart is restless until it can rest in Thee!” He is the Supreme Truth, the contemplation of which shall fully delight our intelligence; He is the Supreme Love, the fire of which shall fully delight our Will, as St Paul says: “our God is a consuming fire” (Heb. 12:29, see Deut. 4:24). So, it is really good for us to be obedient to God, and it is a drama – really evil – for us to depart from God. We return to God through our Lord Jesus Christ, through the Cross of our Lord Jesus Christ.

“In the beginning was the Word… in Him was life and the life was the light of men… I am the light of the world. He that followeth me shall not walk in darkness, but shall have the light of life.” (Jn. 1:1,4 8:12) As St Augustine explains, our Lord Jesus Christ is not physical light, but rather spiritual light, i.e. the truth illuminating our intelligence. “In His light we shall see the Light” (Ps. 35:10): our mind will be filled with the light of God, and we shall see God face to face as St John says (1 Jn. 3:2). Thus our Lord Jesus Christ is the remedy to all scepticism; He gives us the true knowledge of the God the Father, with certitude: “All things are delivered to me by my Father. And no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him” (Mt. 11:27).

In this world, our Lord Jesus Christ is the light put on the candlestick of the Cross: “no man lighting a candle covereth it with a vessel, or putteth it under a bed; but setteth it upon a candlestick, that they who come in may see the light” (Lk. 8:16). There, we see the evil of sin, which cost so much to the Son of God; there, we see the holiness of God, who was so offended by sin that there was need of such deep reparation; there, we see the mercy of God, who delivered the Son to redeem the slave; there, we see the love of our Lord Jesus Christ for us, who took upon Himself the penalty of our sins; there, we are healed from the love of pleasures, riches and self-will; there, we are freed from the slavery of sin and become children of God.

There is indeed a mystery in all this; we do not understand it. The Cross seems a folly to us. Yet, as St Paul says: “For both the Jews require signs, and the Greeks seek after wisdom. But we preach Christ crucified, unto the Jews indeed a stumblingblock, and unto the Gentiles foolishness. But unto them that are called, both Jews and Greeks, Christ the power of God, and the wisdom of God. For the foolishness of God is wiser than men; and the weakness of God is stronger than men” (1 Cor. 1:22-25).

My dear brethren, in this Holy Week, let us ask the grace of our Lord Jesus Christ to be truly the light of our mind, of our whole life, so that we may walk in His path, the Way of the Cross, which is the Royal Way to Heaven, together with our Lady and all the Saints! Amen.

「リベラリズムについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年04月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「リベラリズムについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月9日 枝の主日―大阪 公教要理
「リベラリズムについて」

親愛なる兄弟の皆さん、

私は今、英国の批評家G・K・チェスタトンのある本を読んでいるところです。彼はその本を約九十年前に書いたのですが、それにもかかわらず、この本は現代の問題を大変適切に扱っていますので、この本の中からいくつかの貴重な部分を皆さんにご紹介したいと思います。彼は、自分の時代のリベラリズム(自由主義)を非難しています。そして、この同じリベラリズムが、私たちの時代にはさらに悪くなっているのです。

リベラリズム(自由主義)は単に人間の自由を擁護しているだけだと考えている人々がいますが、そうではありません。リベラリズムとは、人間の自由を崇拝することなのです。リベラリズムとは、人間の自由を絶対的なものとすることであり、天主に依存せず、真理に依存せず、あらゆる法に依存しないほど人間の自由を絶対的なものとすることなのです。こうしてリベラリズムは、人間の自由を最高の存在、すなわち神とするのですが、それは偽りの天主、偶像です。これが、現代世界の偽りの神なのです。この偶像は新しいものではありません。実際、服従をすべて完全に拒否することは、「私はお仕えしない」(エレミア2章20節)という悪魔の反乱の叫びそのものです。チェスタトンが英国の宗教改革について述べたことは、この「現代の文化」に完全に当てはまります。「それは、人間の短気で横柄な欲求の帰結だったのであり、…とりわけ目に見えないかせによって束縛されることを…嫌ったのである」(The Thing)。

雑誌タイムの最近の号は、黒い背景に赤い文字の「Is Truth dead?[真理(真実)は死んだのか?]」というタイトルでした。それは、同じ雑誌の五十年前の号の、やはり同じ黒い背景に同じ赤い文字で書かれたタイトル「Is God dead?[天主は死んだのか?]」を彷彿とさせるものでした。どちらの号も、同じように、人間に対する偶像崇拝と天主の拒否の象徴なのです。この天主を拒否することの中には、天主から来るあらゆるものを拒否することも含まれています。あらゆる権威は天主から来る(ローマ13章1節参照)のであり、それゆえに現代人はあらゆる権威を拒否しているのです。真理とは、第一原因にして最高の真理である天主から来るのであり、それゆえに現代人は真理を拒否しているのです。現代人は、何であれ自分が信じたいことを信じる、あるいはむしろ全く何も信じない権利を主張します。結婚は天主によって制定されたものですから、それゆえに現代人は、離婚を促進させることによって、そしてあらゆる種類の「自由な結合」と罪深い生活、さらには自然に反する結合さえも促進させることによって、結婚を拒否しています。男と女という自然の区別を持つ私たちの人間の性質そのものは天主から来ていますから、それゆえに現代人はこれを拒否し、一人一人誰でも自分の性別を選ぶことができると言い張っていますが、これは最もばかげた主張です。そして、現代人が拒否していることのリストは延々と続きます。まことの芸術の拒否と、醜さの音楽、絵画、彫刻などへの侵入。家族の拒否と、拡大する子どもたちへの被害。キリストの王権の拒否、キリストの教会の拒否と、悪魔崇拝者のセクトさえも含むあらゆる宗教に権利があるとの主張、といったことです。

そんなことをすることによって、現代人は自分自身を破壊しているのです。このことは、「人間の権利」だという主張がなされている二つの現代の悪において明らかです。それらは妊娠中絶と安楽死であり、それと同時に自殺の増加があります。まことに「罪の払う報酬は死」(ローマ6章23節)なのです。罪は霊魂の死であり、体の死へと至ります。そして、まるで妊娠中絶と安楽死という事実がそれほど悪いものでないかのように、現代人はそのような忌まわしい罪を犯す「権利」、天主に背く権利を主張しているのです! 天主に背く権利などありはしません。天主はすべての善の最高の規範なのですから。

そこまで行くことはなくても、これらの現代の誤謬は、最も重要な人間の能力、すなわち精神の破壊へと至ります。実際、人類が他のすべての動物に優越しているのは、知性と自由意志を持ち、天主を知って天主を愛することのできる霊的な精神を与えられているからです。さて、知性が対象とするもの自体は真理です。もし真理がないならば、知性もないのです! 人間はもはや自分の知性にも理性にも支配されず、情欲に支配されます。人間は、こんにち非常に頻繁に見られるように、盲目的な情欲の奴隷になるのです。

知性の破壊がはっきり分かるのは、多くの人のもっている懐疑主義です。彼らは、人間の知性が―原理的に―天主についても、また人間についても、客観的な真理を見いだすことはできない、と考えています。この懐疑主義は精神の重い病気であり、それは、知性が天主を見いだす希望をあきらめて絶望することです。どの宗教も素晴らしく、誰もが自分の望む自分自身の宗教を選ぶ自由を持つべきであると主張すること、このことは暗黙のうちに、天主についての客観的な真理を知ることのできる能力があることを否定しているのです。そのような宗教の自由は本質的に懐疑主義的で、こんにちでは全く普通にみられることなのです。

現代社会の特徴の一つは、体や便利さ、レジャー、快楽に奉仕する現代の科学技術が発展していることです。さて、これは精神を肉体に奉仕させることです。これは逆さまであり、人間の内にある正しい秩序を完全に逆転させることです。私たちの体は霊魂に奉仕すべきであり、逆になるべきではありません。霊魂が体を支配すべきであって、それには、体が必要とするものを、適度に、理性的な程度に体に与えることが含まれます。しかし、体を霊魂の目的にすることは正しいことではなく、理性的ではありません。

現代のリベラリズムは、道徳の領域で最もはっきり分かります。それは、天主から来るであろう、いかなる道徳的規範も完全に拒否することです。他の人間に対するある種のあいまいな敬意以外には何の制限もなく、人が望むことなら何であれ、それができることを人間の権利だと主張します。私は「あいまいな」と言っていますが、それは彼らが、妊娠中絶のように、自分の足手まといになる人々を殺すことさえもためらわないからです。ですから、もし人が無垢な赤ん坊を殺すことができるとすれば、その人が犯さない罪はありません。

さて、私たちの主イエズス・キリストは私たちを罪から救うために来られました。そして非常に分かりやすい方法で、私たちが主の御受難を観想するこの御受難節において、私たちは主が私たちの霊魂を救うために御自分の体を犠牲としてお捧げになるという、まさにそのことを見るのです! 現代の私たちの悪に対して、主の犠牲以上に鮮烈な治療薬があるでしょうか。私たちの天主への服従の拒否を償うために、主はご自分を完全に捨て、聖パウロが言うように「自分自身を無とされた」(フィリッピ2章7節)のであり、そして聖パウロはこう続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは現代の罪の対極にあるものであり、これが私たち現代人への治療薬なのです。

しかし、人は言うかもしれません。私たちを救うために主がお苦しみになることは必要だったのだろうか、特に十字架の苦しみまでをも受けることが? ある意味では、苦しむことなく天主にお仕えすることができるというのは本当です。このことはすべての聖なる天使たちに起こったことです。天使たちは決して罪を犯さず、苦しむこともありませんでした。天使たちは自分たちが創造されたまさにそのときから、心を込めて天主に自分自身を捧げました。聖パウロが言うように、天主の御子が人間になることを天主が天使たちに告知なさったとき、天主はすべての天使たちに彼を礼拝するようにお命じになり(ヘブライ1章6節)、すべての良き天使たちは驚くべき信心と速さで、進んで自分自身をキリストへの奉仕に捧げました。そしてその完全な信心に対して、その天使たちにはたちまち報いが与えられ、苦しみを通ることなく天国へ行ったのです。その反対に、悪しき天使たちは、あまりにも完璧な悪と頑固さをもって反逆したため、たちまち永遠の地獄の火という有罪宣告を受けるにふさわしい者となったのです。

しかし、人間は罪を犯してしまいました。人類の始まりから、天主に対する人類の反逆が続いてきたのです。ですから罪があるがゆえに、償いが必要であり、犠牲が必要です。罪を全く犯さない者のみが、自分は苦しむべきではないと主張できたでしょう。しかし、絶対に罪のなかった者は、唯一人、私たちの主イエズス・キリストのみです。そして主は、まさに私たちの罪の償いをするために来られました。主の聖なる御母には無原罪の御宿りという特権が与えられ、天主の恩寵によってその最初の恩寵と完全に一致されたので、聖母にもまた罪はありません。しかし、聖母はまた、ご自分が新しいエバとして、贖いの神秘そのものにおいて、新しいアダムの助け手(創世記2章18節参照)となるべきだということを理解しておられたので、キリストの十字架[の苦しみ]を共に受けられたのです。しかし、私たちは誰も完全に無垢の状態ではありません。それゆえに、私たちは自分の罪の償いをするために、自分の十字架を担わなければならないのです。

さらに、救い主ご自身が十字架を担い、私たちのためにその十字架の上で亡くなられたのですから、私たちは主の犠牲に加わりたくないなどというほど薄情になることができるでしょうか? 私たちは主にこう言うべきです。「私がその十字架を担うべきです。あなたがそれを担われたのは、私の罪のせいだからです。私があなたの代わりにその十字架に釘付けられるべきです。私が罪びとなのですから」。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。これが、聖パウロが言うように、天国へと至る十字架の王道です。「私たちが天主の子である。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。

さて、御受難は私たちの現代の病に対するまことの治療薬です。現代人は自由であることを望みましたが、罪の奴隷になりました。「あなたたちがある人に従うために、奴隷として自分の身をささげるなら、あなたたちは自分が従うその人の奴隷になることを知らないのか。罪に身をささげるのは死のためであり、従順であることは正義のためである」(ローマ6章16節)。その反対に、私たちがまことに自由になり、罪から自由になり、善を行うために自由になり、そして天主から自由になるのではなく悪魔から自由になるのは、天主への従順によって、天主の法に服従することによってなのです。

簡単な例え話をすれば、それを理解する助けになるでしょう。飛行機を見てみましょう。飛行機はパイロットが望むところならどこへでも飛んでいく自由がありますが、その理由は飛行機が空気力学の法則に従うからです。もし飛行機が空気力学の法則に従わなかったとしたら、飛行機はただ破滅にいたるだけです! これは、飛行機にその自由を与える自然に対して天主が定められた法則に従うからです。同様に、コンピュータのプログラマーは、自分が望むものをそのようにプログラムする自由がありますが、それはプログラミングの法則に従っている限りにおいてであって、その法則は究極的には天主の定められた電気の法則なのです。プログラマーがその法則に従わなかったとしたら、バグがあって彼のプログラムは破滅に至ります。天主の法(法則)に従うことによってまことの自由が与えられ、従わないと破滅へと至るのです。

聖アウグスティノは、次のように私たちに教えてくれます。私たちは自分自身をごまかしてはなりません。天主の法から逃れることは不可能です。私たちは法の命じることを行って、天主の法に従って報いを受けることになるか、あるいは、法の命じることを行わず、やはり天主の法に従って罰を受けることになるかのどちらかです。私たちは逃れることができません! 天主は全能の創造主であって、われわれはちっぽけな被造物に過ぎないがゆえに、私たちは天主から逃れることができません。天主が善であって、悪に対して最終決定権をお与えにならないがゆえに、私たちは天主から逃れることができません。

私たちは、私たちが天主に従順であることは善であると確信する必要があります。天主は、ご自分の力をより大きくするために何かをお命じになることはありません。天主はすでに最高のお方であって、天主がいまだお持ちでなく私たちが天主に差し上げることのできるようなものは何もありません。天主は私たちに、私たちにとって善いことをお命じになります。天主の栄光のために生きることは私たちにとって善いことです。私たちが永遠の幸せを見いだせるのは、天主においてのみです。聖アウグスティノは美しく言います。「御身はわれらを御身のために造り給うた。主よ、われらの心は御身において憩うまで、憩うことなし!」。天主は最高の真理であって、その真理を観想することは私たちの知性を完全に喜ばせます。天主は最高の愛であって、その愛の火は私たちの意志を完全に喜ばせます。それについて聖パウロはこう言います。「実に私たちの天主は焼き尽くす火である」(ヘブライ12章29節、第二法4章24節参照)。ですから、天主に従順であることは私たちにとって本当に善なのであり、天主から離れることは私たちにとって悲劇、本当の悪であるのです。私たちは、私たちの主イエズス・キリストによって、私たちの主イエズス・キリストの十字架を通して、天主に立ち戻るのです。

「はじめにみ言葉があった。…かれに生命があり、生命は人の光であった。…私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ1章1、4節、8章12節)。聖アウグスティノが説明するように、私たちの主イエズス・キリストは物理的な光ではなく、むしろ霊的な光、すなわち私たちの知性を照らす真理です。「あなたの光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。私たちの精神は天主の光で満たされ、聖ヨハネが言うように、私たちは顔と顔を合わせて天主を見る(ヨハネ第一3章2節)のです。このように、私たちの主イエズス・キリストは、あらゆる懐疑主義に対する治療薬なのです。主は私たちに、確証をもって、天主なる御父についてのまことの知識をお与えになります。「すべてのものは、父から私に任されました。子が何者かを知っているのは父のほかにはなく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。

この世において、私たちの主イエズス・キリストは十字架という燭台に置かれた光です。「ともしびをともして、器で覆ったり寝台の下に置いたりはしない。入ってくる人にその光が見えるように燭台の上に置く」(ルカ8章16節)。十字架において、私たちは、天主の御子に大変な犠牲を負わせた罪という悪を見るのです。十字架において、私たちは、そのような深い償いの必要があった罪というものによって大変侮辱された天主の聖性を見るのです。十字架において、私たちは、奴隷を贖うために御子を渡された天主の御あわれみを見るのです。十字架において、私たちは、私たちの罪による罰を御自分で背負われた私たちの主イエズス・キリストの私たちへの愛を見るのです。十字架において、私たちは、快楽や富、身勝手を愛する気持ちから癒やされるのです。十字架において、私たちは、罪の奴隷の状態から自由になり、天主の子となるのです。

親愛なる兄弟の皆さん、この聖週間に、私たちの主イエズス・キリストがまことに私たちの精神の光、私たちの生活全体の光でいてくださるよう主の恩寵を願いましょう。そうすることで、私たちが聖母と諸聖人と共に、天国へ至る王道である主の道、すなわち十字架の道を歩むことができますように! アーメン。

「聖ピオ十世会の信徒たちの婚姻に関するエクレジア・デイ委員会の手紙について」 聖ピオ十世会本部の報道発表

2017年04月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会の信徒たちの婚姻に関するエクレジア・デイ委員会の手紙についての聖ピオ十世会本部の報道発表(2017年4月4日)の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会の信徒たちの婚姻に関するエクレジア・デイ委員会の手紙についての聖ピオ十世会本部の報道発表(2017年4月4日)


教皇フランシスコが聖年のために告白を聞く権限を聖ピオ十世会に与え(2015年9月1日)、この権限を聖年が終わっても延長した(2016年11月20日)が、それらの対処についてと同じように、聖ピオ十世会本部は、教皇様が「教区長たちが聖ピオ十世会の司牧活動に従う信徒らの婚姻を執行するための許可を与えることを許す」(信仰教理聖省の手紙2017年3月27日付け、4月4日発表)と決定されたことを知った。

教皇様のこの決定は「できる限り、旧典礼における、ミサ聖祭の最初にある婚姻の秘蹟の典礼様式の中にある、男女の同意を司祭が受けるために、婚姻に与るための教区長の委任が司教区の一司祭に(或いは少なくとも完全に規定通りの司祭に)与えられ、その直後に聖ピオ十世会の司祭によって婚姻の随意ミサが捧げられる」ことを予見している。

しかし同様に「それが不可能な場合には、或いは男女の同意を受けることが出来るような司教区の司祭がいない場合には、教区長は、婚姻の秘蹟執行に必要な権限を、ミサ聖祭も捧げる聖ピオ十世会の司祭に直接に与えることが出来る。この司祭が婚姻の秘蹟を執行したことを証明する文書を司教事務所に出来るだけ早く提出する義務があることをその司祭に思い出させること」が規定されている。

聖ピオ十世会は、この司牧的配慮を教皇様に感謝する。この配慮はエクレジア・デイ委員会の手紙を通して表明されているとおり「婚姻の秘蹟の有効性に関する疑問」を取り除くという目的のためにある。フランシスコ教皇は、告解の秘蹟の時と同様に、聖ピオ十世会の司祭の前で婚姻を望む全ての信徒らが、この秘蹟の有効性をいささかも疑うことなく婚姻を結ぶことを明らかに望んでおられる。願わくは全ての司教たちが同じ司牧的配慮を分かち合わんことを。

聖ピオ十世会の司祭たちは、叙階の時以来常にそうしてきたように、聖なる教会の聖伝の典礼様式において婚姻を結ぼうとする男女の同意を受ける前に、婚姻の一致の一致と不可解消性についてのキリストの不可変の教えに従って、将来の夫婦を婚姻へと準備するために、忠実に努力するだろう。

メンツィンゲンにて2017年4月4日
(Source : FSSPX/MG – DICI du 04/04/17)


Communiqué from the General House about the letter from the Ecclesia Dei Commission concerning marriages of the faithful of the Society of Saint Pius X (April 4, 2017)


As with the measures taken by Pope Francis granting to the priests of the Society of Saint Pius X the faculty to hear confessions during the Holy Year (September 1, 2015), and extending this faculty beyond the Holy Year (November 20, 2016), the General House has learned that the Holy Father decided “to authorize Local Ordinaries to grant faculties for the celebration of marriages of faithful who follow the pastoral activity of the Society.” (Letter from the Congregation for the Doctrine of the Faith dated March 27, 2017, published on April 4).

This decision by the Supreme Pontiff foresees that: “Insofar as possible, the Local Ordinary is to grant the delegation to assist at the marriage to a priest of the Diocese (or in any event, to a fully regular priest), so that the priest may receive the consent of the parties during the marriage rite, followed, in keeping with the liturgy of the Vetus ordo, by the celebration of Mass, which may be celebrated by a priest of the Society.”

But it also provides that: “Where the above is not possible, or if there are no priests in the Diocese able to receive the consent of the parties, the Ordinary may grant the necessary faculties to the priest of the Society who is also to celebrate the Holy Mass, reminding him of the duty to forward the relevant documents [attesting to the celebration of the sacrament] to the Diocesan Curia as soon as possible.”

The Society of Saint Pius X conveys its deep gratitude to the Holy Father for his pastoral solicitude as expressed in the letter from the Ecclesia Dei Commission, for the purpose of alleviating “any uncertainty regarding the validity of the sacrament of marriage”. Pope Francis clearly wishes that, as in the matter of confessions, all the faithful who want to marry in the presence of a priest of the Society of Saint Pius X can do so without any worries about the validity of the sacrament. It is to be hoped that all the bishops share this same pastoral solicitude.

The priests of the Society of Saint Pius X will strive faithfully, as they have done since their ordination, to prepare future spouses for marriage according to the unchangeable doctrine of Christ about the unity and indissolubility of this union (cf. Mt 19:6), before receiving the parties’ consent in the traditional rite of the Holy Church.

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Communiqué de la Maison générale sur la lettre de la Commission Ecclesia Dei au sujet des mariages des fidèles de la Fraternité Saint-Pie X (4 avril 2017)

Comme pour les dispositions prises par le pape François accordant la faculté de confesser aux prêtres de la Fraternité Saint-Pie X pour l’Année Sainte (1er septembre 2015), et étendant cette faculté au-delà de l’Année Sainte (20 novembre 2016), la Maison Générale apprend que le Saint-Père a décidé « d’autoriser les Ordinaires du lieu à concéder aussi des permissions pour la célébration de mariages de fidèles qui suivent l’activité pastorale de la Fraternité ». (Lettre de la Congrégation pour la Doctrine de la Foi du 27 mars 2017, publiée ce 4 avril)

Cette décision du Souverain Pontife prévoit que : « Dans la mesure du possible, la délégation de l’Ordinaire pour assister au mariage sera donnée à un prêtre du diocèse (ou du moins à un prêtre pleinement régulier) pour qu’il reçoive le consentement des parties dans le rite du sacrement qui, dans la liturgie du Vetus ordo, a lieu au début de la Sainte Messe ; suivra alors la célébration de la Sainte Messe votive par un prêtre de la Fraternité. »

Mais elle dispose également que : « En cas d’impossibilité ou s’il n’existe pas de prêtre du diocèse qui puisse recevoir le consentement des parties, l’Ordinaire peut concéder directement les facultés nécessaires au prêtre de la Fraternité qui célébrera aussi la Sainte Messe, en lui rappelant qu’il a le devoir de faire parvenir au plus vite à la Curie diocésaine la documentation qui atteste la célébration du sacrement. »

La Fraternité Saint-Pie X remercie profondément le Saint-Père pour sa sollicitude pastorale, telle qu’elle s’exprime à travers la lettre de la Commission Ecclesia Dei, dans le but de lever « les doutes quant à la validité du sacrement de mariage ». Le pape François veut manifestement que, comme pour les confessions, tous les fidèles qui souhaitent se marier en présence d’un prêtre de la Fraternité Saint-Pie X, puissent le faire sans aucune inquiétude sur la validité du sacrement. Il est à souhaiter que tous les évêques partagent la même sollicitude pastorale.

Les prêtres de la Fraternité Saint-Pie X s’emploieront fidèlement, comme ils le font depuis leur ordination, à préparer au mariage les futurs époux, selon la doctrine immuable du Christ sur l’unité et l’indissolubilité de cette union (cf. Mt 19, 6), avant de recevoir les consentements dans le rite traditionnel de la Sainte Eglise.

Menzingen, le 4 avril 2017

(Source : FSSPX/MG – DICI du 04/04/17)

ラザロの復活について

2017年04月07日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月31日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年3月31日(金) 四旬節の平日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年3月31日、四旬節の第4主日の後の金曜日のミサをしております。今日はこの御ミサで皆さんと一緒に十字架の道行きができて非常に嬉しく思います。

このミサが終わったら、もしも時間がある方はどうぞ一緒に終課のお祈りを唱えていきましょう。
明日は10時30分からやっぱりここでミサがあります、来れる方はいらして下さい。

また1週間の後の金曜日も初金曜日にミサがあります。金・土・日・月と続けてミサがあります、どうぞいらして下さい。



「ラザロ、外に出てきなさい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、小さなお友達、今日はこの四旬節の中でとても美しいミサの一つを捧げています。

そこで今日、このミサで一体どんなお話があって、どんな事を教会は私たちに教えようとしているのか、という事を一緒に黙想する事を提案したいと思っています。

四旬節は、復活の徹夜祭に洗礼を受けようと準備している求道者の方々の為の特別の準備の時でもあり、また公の罪人といわれる、洗礼は受けたけれどもその後で罪を犯して、それで回心して、泥棒をしたりとか何か悪さをしたりしてしまって、罪を犯してしまったという人が痛悔をして、そして聖木曜日に告解をするのを許されて、初めて聖体拝領をまたもう一度する事ができる、その前に断食や色々な償いをするという特別の時期なのです。

そこで教会は、この2つの種類の方々の為にも特に今日話をしています。その一番のテーマは、「復活」という事です。そこで一体、どうやって教会は「復活」という事を私たちに教えようとしているか、という事を3つの点を見てみます。

1つは、指定巡礼教会というものが聖エウゼビオ教会というのに指定されているという事。

もう1つは書簡で、エリアが寡婦の子供を復活させた、よみがえらせたという事。

第3には福音書で、イエズス様がラザロを、一番の友人であった家族の亡くなったラザロを復活させたという事。

それらを見て、それででは一体これは2017年3月31日の今日、大阪にいる私たちに一体どんな意味があるのか、という事を黙想しましょう。

それで私たちはどんな決心を立てたら良いか、という事を考えましょう。

第1の点は、指定巡礼教会という事です。これは何かというと、教会はただ耳で聞かせるだけとか、目でとか、聖書を読んでお話をさせるというだけでは足りないと考えていました。そこで音楽や、或いはミサの時に香を焚いて、その香が上がるのを見せて、その清い、とても良い匂いの香りが天に上がるのを見て、お祈りのシンボルとしたり、或いはきれいな教会の建築をして、この目に見える形でイエズス様の御生涯、或いは五感を全てを通して、私たちにキリスト教の教えを、イエズス様の教えの真髄が一体何なのであるか、という事をありありと分かるようにしようとしていました。

指定巡礼教会とは、四旬節の間40日の間、毎日色んな教会に行列で行って、洗礼を受けようとする求道者、或いは聖木曜日に御聖体を拝領する事の為に準備をしている公の罪人、或いは信徒の方々、或いはローマの教皇様、或いは聖職者、司祭、助祭、色んな方々が一緒に行列をして、荘厳に指定巡礼教会まで行くのです。

聖エウゼビオ教会というのは、聖エウゼビオという8月14日の祝日の聖人、司祭ですけれども、異端者のコンスタンスローマ皇帝によって7ヶ月間小さな部屋の中に閉じ込められて、そして遂に殉教してしまった、その聖人の名誉の為に建てられた教会があるのです。

そこでそこの所に行くまでに、古いローマの異教のお墓の廃墟地を行列が通らなければなりませんでした。そうする事によって教会は、「さぁ、今から洗礼を受ける人々、今から罪を痛悔する人々、私たちは罪を犯して、こんなに暗いお墓の死の陰でもう死の中にいたけれども、でもこの中を通ってこれから聖エウゼビオの教会に行く。異教の死のお墓から私たちは復活する教会の中に入るんだ」という事を教えようとしていました。
ちょうどその場所がそうだったのです。そこの教会に行く為には墓地の中を通らなければなりませんでした、その廃墟の中を。そこでそれを通して、「死から復活へ」という事をまざまざとその目に見せようとして考えられました。

第2の点は書簡です。これは旧約のエリアという預言者が、寡婦の子供を病気の子供を、もう死んだ子をよみがえらせるのです。考えても見て下さい、お父さんが亡くなって、貧しいたった1人のお母さんと男の子、2人だけ残されて、「さぁ、お母さんはこれからもう年を老いて、これから若いこの男の子がお母さんの面倒をみてくれるかもしれない。」この青年の男の子に期待していたにもかかわらず、病気で亡くなってしまった。年を取ってちょっと弱っているお母さんはもう身寄りがなくなってしまって、そしてエリアはこのお母さんの元に身を寄せていました。

そしてその子供が亡くなった時、お母さんがエリアに言うのです。
「このあなたと私に一体何の関係があるだろうか。もう私は、もうこの最愛の子供を失った。私の自分の希望を失った。もうこれで何もこの世に残されていない。私は一体これからどうしていったら良いのだろうか。お先真っ暗だ。」
エリアはその時、そのお母さんの心の悲しみをよく感じていました。

この寡婦の、この「子供を亡くしたお母さん」というのは実は、「罪人の為に泣いているカトリック教会」の象りなのです。

するとエリアは、そのお母さんの心をよく感じ取って、「是非この子が生き返るように」お祈りしようとします、「さぁ、その子を早く出して下さい。さぁ、ここに置いて下さい。この寝台に置いて。」そしてエリアはお祈りをするのです。

「主よ、あなたはこの寡婦からこの子も取ってしまうのですか。あぁ、どうぞお願いします。」
主にお願いするのです。「どうぞお願いします!」長いお祈りをして、さらにお祈りをして、お願いします。そして、それでも子供は何も動きもピクリともしません。ですからエリアは、「自分の命ができればこの子供に入りますように」手に手を合わせて、その上に乗って「あぁ、自分が温かくしてあげればいいか、」3回その上に乗って、「さぁ、どうかお願いします、お願いします、お願いします、どうか生き返らせて下さい、どうぞ、」もう涙ながらに一生懸命お祈りして、お祈りして、お祈りして、すると子供が目を覚まして、その夫人の元に与えられたのです。

第3は、新約のイエズス様が、自分の愛するお友達ラザロが亡くなったのをどうやってよみがえらせたかという事です。

エリアは一生懸命お祈りして、一生懸命もう何とかして、もう天主様にこう戦いを挑むように、こう「これでもか、これでもか、あぁお願いします」と言って、もうお祈りしたおしてその復活を得ました。

イエズス様はどう言うかというと、立ったまま、ただ一言、「ラザロ、出て来なさい。」
それを言っただけで、ラザロはその埋葬されたままの形でパッと起き上がって出て来るのです、そのまま、命令に従って。

イエズス様の力がどれほど強いか、イエズス・キリストが本当に命と死の主であるという事を見せようと、その違いを見せようとしています。

行列を作ったその求道者や公の罪人たちが教会に入って来ると、すぐに聞くのは聖歌で入祭誦で、「私の考えはいつも、その助け主であり贖い主であるあなたの事を考えています、黙想しています」と聞いて、そしていきなりこの2つの復活の話が出てくるのです。

これは何を意味しているかというと、「求道者、あなたたちももうすぐ霊的に復活しますよ。今、死の中を歩んでいるけれども、罪の中にまみれているけれども、もうすぐ復活の日が、あと2週間で復活するのですよ、イエズス様によって復活されますよ。イエズス様こそが私たちに本当の永遠の命を与える、生と命と死の主なのですよ」という事を私たちに聞かせようとするです、教えようとするのです。

イエズス様はただ単に、この求道者や公の罪人たちにのみ言うのではないのです。2017年の今私たちの、大阪にいる私たちにもその声を響かせようとしています。私たちにも、「ラザロや、出てきなさい。お墓から出てきなさい、光の中に出てきなさい」と呼びかけて命令しています。たとえ私たちが罪の包帯を巻いていたとしても、その声を聞くとパッと出て来て歩いて来る事を今起こらせようと、今ミサの中で私たちにイエズス様の声を聞かせています。

イエズス様はラザロが亡くなったと聞いた時に、そのラザロの所にはいませんでした。「ラザロが病気です、あなたの愛している者が病気ですよ」と聞かれた時に、イエズス様は敢えて、病気を治そうと行きませんでした。主の栄光が現れる為に、主の御旨は別の所にあった、という事を見せる為に。

イエズス様にとってベタニアに行くというのは非常に危険な事でした。何故かというとエルサレムの近くにあり、イエズス様の命を狙おうという人たちがたくさんいたからです。「邪魔者は、イエズス様は邪魔者だから亡くしてしまえ」と考える人がたくさんいました。イエズス様はその事もよく知っていました。でもそれを恐れていたから病気だと聞いて行かなかったのではありません。イエズス様はラザロに復活の奇跡を起こそうという事をちゃんと思っていたからです。

でもラザロが亡くなったという事を聞くとイエズス様は、「さぁ、エルサレムに行こう」と言います。弟子たちはそれが危険だという事を知っていました。使徒の聖トマスは言います、「私たちも行って、私たちも一緒に死のう」と。それほど危険な事だったのです。

そして行くと、まずマルタがやって来てイエズス様に言います、「あぁ、もしもあなたがここにいらしたら、私のお兄さんは死にませんでした。でも最後の日には復活する事を知っています」と言いました。イエズス様はマルタに言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。これを信じるか。」「はい、信じます。」

するとマルタは妹のマリアの所に行って、「あぁ、主が来ました」と言うと、今までずっと泣いて泣いて、もうお兄さんの事を泣いてずっと座っていたのに、イエズス様が来たと聞くと「あぁ!」と立ち上がって、急いで走ってイエズス様の所に行きます。周りにいたユダヤの人々は、「お墓の方に行くのだろう」と思っていたら、イエズス様の方に行くのです。

マリアも同じ事を言います、「あなたがここにいらしたら、イエズス様、あなたがここにいらしていたならば、私の兄は死にませんでした。」イエズス様はそのこの彼らを見て非常に感動します。「お墓の方に連れて行きなさい。」そしてその様子を見たイエズス様は彼らを愛するがあまり涙を流します。

イエズス様が涙を流したというのは福音書ではここだけです。「イエズス様は涙を流された。」

それを見てユダヤ人たちは、「あぁ、このイエズス様はどれほど彼の事を愛していたのだろうか。」それを感動して見たほどでした。

イエズス様はその墓の所に行くと、「墓の石を取れ」と命じます、「取りなさい。」するとマルタが、「主よ、ちょっと待って下さい。もう経って4日です、4日も経っているので、非常に臭くて臭くて臭くて、腐敗でたまりません。」するとイエズス様は、「お前は私の事を信じていると言ったではないか。もしも信じているなら主の栄光を見るだろう。」それを言うと、その通りイエズス様の通りにします。

イエズス様は墓が開けられて、おそらく強烈な臭いプンプンしているのを皆の前まで来たと思います、「ウッ!」

するとイエズス様は命令します、「ラザロ、外に出て来なさい。」すると、埋葬されたままの恰好で縛られたままで、ラザロが歩いて出て来ました。

この話を私たちに教会が聞かせたのは、「実はイエズス様がこれほど私たちをこれほど愛しておられる。ラザロというのは私たちの事で、イエズス様は私たちを、どんなに死の危険が冒したとしても、私たちを救いに来る、よみがえらせに来る。そして私たちの為に涙を流して、どれほど愛しているかという事を見せる。そして私たち一人一人に愛の声をかけて、『何とかや、罪の中から出て来なさい。』『何とか、さぁ外に出て来なさい、光の中に出て来なさい。墓の中から出て来なさい。死の罪から死の中から出て来なさい。復活しなさい』と私たちに命じている、今、今日、命じている。私たちはすでにそれを聞いて、今聞いて、出るしかない。霊的に復活するしかない」という事を私たちに教えています。

今日御聖体拝領する時に、教会はまさにこの同じイエズス様の言葉を聖体拝領誦で聞かせてきます。たとえ四日経って、もう罪の中にドロリと浸かって、臭くて臭くてもうたまらない、もう人間の顔もしていないほどもう蛆だらけで、もうどうしようもないように思われたとしても、「もうこれで万事休す、こんな状態では生き返るはずはない」と思ったとしても、イエズス様によれば必ず復活します。霊的によみがえる事ができます。

そしてこの今年の復活祭に、イエズス様はその奇跡を私たちの霊魂にしたい、「ラザロや、出て来なさい」と呼びかけているという事を教えています。イエズス様は私たちの為に、今日涙を流しました。すでに私たちは単なるキリスト教徒ではなくて、キリストの命を生きる者として、イエズス様の命を生きる者として、「私たちにとって生きるとは、キリストなり」とパウロのように言わなければなりません。

イエズス様は言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」

私たちの命であり、復活であるイエズス様が是非、私たちを霊的によみがえらせて下さいますように、今日お祈り致しましょう。御聖体拝領をよく致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちの霊的な復活を助けて下さいますように。

「ラザロ、外に出て来なさい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年3月31-4月3日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

3月31日、4月1日の初土曜日の大阪でのミサ聖祭を、
4月2日の受難の主日の東京でのミサ聖祭を捧げることが出来て、天主に感謝します!特に、東京では5名の小さな赤ちゃん・幼児たちがいて大変うれしく思いました。

今回は、聖ヨハネの福音について講話をしました。聖ヨハネの福音の特徴をお話ししました。

今週の金曜日と土曜日とその翌日の枝の主日には大阪で、ミサ聖祭があります。
来週の枝の主日と聖月曜日とには、東京でミサ聖祭があります。
愛する兄弟姉妹の皆様のお越しをお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
4月の初土曜日のミサの報告をお送りいたします。

3月31日(金)四旬節第四主日御の金曜日のミサには、12人が、
4月1日(初土)聖母の汚れなき御心のミサには16人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス。

今日金曜日、指定巡礼聖堂に指定されている聖エウゼビオ聖堂に行く途中には異教の荒廃した墓があり、この墓の象徴は死んだ霊魂、罪の状態にある人、
聖週間に洗礼を受けたり、御聖体拝領を許される公の罪人たちに、罪から出て、復活の教会にはいることを体 をもって感じさせるための教会の配慮である事を知りました。

また、書簡では寡婦の子の復活と、ラザロの復活が読まれ、これらもまた求道者や罪びとに、そして2017年を生きている私たち信者たちにも、信仰によって生命に入る事を教えてます。四旬節の典礼、お説教を通して、私たちが生きている本当の理由と意味を改めて思い出させて頂いているようにおもいました。

初土曜日のミサのお説教では明日から始まる御受難の週の過ごし方を黙想出来ました。
明日から聖堂の十字架と御影に紫の布をかける習慣は、私たちを全くイエズス様の御受難そのものにだけ集中させるためである事が示すように、霊的に自分の周りに全て紫の布をかけて、イエズス様の御受難に焦点を合わせてご復活までを過ごすよう努力したいと思います。

公教要理では福音史家ヨハネについて勉強しました。
神父様が4人の福音史家について質問をして下さったおかげで、聖書を読む時間が持て、各福音書の細かいところにまで気がつくようになりました。
今回、ヨハネの福音書を読んでみて、この福音書は、読んでいるいうよりも、映像を見ているような、または匂いがしてきそうな感覚を持つ箇所があると思いました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月1日の初土曜の御ミサに与るお恵を頂きました。
小野田神父様のお説教では、御受難の主日からかぶせる紫の布の意味についてのお話でした。
なんとなく知ってたつもりですが、やはり神父様から教えていただくお話は素晴らしいものでした。
十字架は、勝利の印であって、その十字架にも布をかぶせるという事は、十字架の大切さ尊さを考え直し、
イエズス様の御受難をよく黙想するための意味がありました。
これがしたい、あそこに行きたい、これが買いたい、面白いものが観たいなどのしょうもない自分の思いを捨て、
ご復活の主日までは特に御受難の苦しみを考え、イエズス様と一致しなければと思いました。
でも、どのようにしてそれを実行するのか、誘惑に負けないようにするには何が必要なのか、、、
それは完璧だったマリア様の精神をよく学び、常にマリア様とともに行動することだと、神父様がはっきり助言してくださいました。

本当にその通りだと思います。大げさだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は仕事をこなすことも、大変なことをお捧することもマリア様のお力なしではできないと思います。毎日、仕事から帰ってきてそう思います。
本当に感謝しかありません。。。だから、もっとマリア様の汚れなき御心をお慰めして、イエズス様の十字架の苦しみを少しでも癒してさしあげれるように、
毎日努めようと思いました。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

日本でのミッション、心から感謝申し上げます。
私たち日本の信徒の司牧、救霊のためだけに多くの犠牲を払って日本にいらしてくださる神父様は、どれほどの激務のためか、お疲れがとれないと思います。
なにとぞ御無理なさいませんように。
所感をご報告申し上げます。

【所感】
四旬節も、もう御受難節となりました。

金曜日の御ミサの福音ではファリザイ人にイエズス様の殺害を決定づけた「ラザロの復活の奇蹟」が読まれました。
イエズス様は毅然として真理を話され、ファリザイ人らの殺意が、随所で感じられるようになりました。
全能の天主なる聖子であられながら、ご自分を人類の贖いのために犠牲として渡される御姿が、目の前に見えるようです。
「ラザロ、出てきなさい」とおっしゃられただけで、墓の中に葬られて腐敗していたはずのラザロは蘇りました。
さきに書簡で読まれたエリアの奇蹟は、天主に一生懸命祈って祈って、祈りたおして、そして3度子供に覆いかかって、やっと願いを聞き入れられました。
イエズス様の奇蹟とは大変対照的で、イエズス様が生と死を司る御者であることを表しているとお説教でお話くださいました。
また、イエズス様のご命令によって、墓の中から包帯を巻いたまま出て来たラザロは、私たちのかたどりでもあり、2017年の私たちに「罪の包帯を巻いたままでも、腐敗の臭いの充満している墓の中から、光の方へ出て来なさい。」と
イエズス様が命じられておられるのだとお聞きして、このラザロの奇蹟が今までよりも心に深く刻まれました。
イエズス様がお話になられた、「乞食のラザロと金持ち」のたとえで、地獄に行った金持ちは、天国に行った乞食のラザロを自分の兄弟たちに地獄に来ないように忠告してもらうために蘇えらせてほしいと天主に懇願します。でも乞食のラザロが蘇えったところで兄弟たちは信じない。
イエズス様がラザロを蘇えらせた奇蹟を見ても、ファリザイ人たちは信じようとせず、それどころかイエズス様を殺害しようと決めたことを、乞食のラザロのたとえで、あらかじめ布石されておられたと小野田神父様にお聞きしました。
ああ、そういうことだったのか!!と感心しました。全知なる天主のなせる業だと思いました。

初土曜日には、翌日から御受難節を良く過ごすことができるよう、なぜ十字架に諸聖人の御像に紫の布をかけるのかを説明くださいました。
紫の布はイエズス様のご受難、死に対して喪に服するためだと。諸聖人に布をかけるのは、イエズス様の御受難に集中させるためだが、十字架にさえも紫の布をかけるのは何故かと。

十字架は勝利、栄光のしるしであり、私たちが贖われたのは十字架によってのみであること。教会は十字架を非常に大切に崇敬し、金銀、宝石で飾った。
金銀、宝石は王のしるしであった。
その十字架=栄光のしるしを隠して、主の御受難のみに集中させるためだと。
十字架の神秘に深く入るために、主の御受難と一致するために自分に与えられる苦しみを甘受するためには、マリア様の汚れ無き御心に行くことが最善の方法だと。
なぜならマリア様こそ十字架の価値を知っておられ、イエズス様と十字架と完全に一致しておられたからだと。
十字架や御像に紫の布がかけられると、私もとても寂しく、悲しくなり、喪に服すというのが良くわかります。ああ、主の御受難がいよいよ始まる。と感じます。

あと2週間となった四旬節を、マリア様と共に、マリア様に手をつないでいただいて、イエズス様の十字架から片時も離れないように決心いたします。
自分の罪を痛悔し、自分の小さな犠牲を、マリア様の汚れ無き御心を通して、イエズス様の御苦しみにあわせてお捧げしたいと思います。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

金曜日・初土曜日と、御ミサ・十字架の道行き・終課・公教要理など色々ありがとうございました!!(o^▽^o)

お説教で、教会は今日の御ミサで洗礼志願者と公の罪人に「復活」という事を教えるために、墓地を通らなければたどり着けない聖エウゼビオ教会を指定巡礼聖堂に定めて、書簡と聖福音を比較させて、いかにイエズス様の力が偉大であるか、イエズス様こそが生と命と死の主である、イエズス様によればどんな罪人でも霊的に復活する、よみがえる、という事を教えようとしているのだという事を仰って下さって、ここまで私たちの為に色々考えて日々の御ミサを制定して下さっている教会の愛をまた感じました。

それを説明して下さって本当にありがとうございます。

マリア様の御助けによって、私たちの命であり、復活であるイエズス様が是非、私たちを霊的によみがえらせて下さいますように!

デオ・グラチアス!



【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供3人)
女: 31人(内、子供6人)
計: 51人(内、子供9人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

今回は、四福音書の締めくくりとして、小野田神父様に使徒聖ヨハネ福音書の講義をしていただき、わかったこと、もっと知りたかったことを簡単ですが、まとめてみました。

(わかったこと)

いつもとても貴重な講話ありがとうございます!

今回、使徒聖ヨハネの福音書の特徴について、共観福音書との比較を通して、お教えいただきました。

聖ヨハネは12使徒の中で唯一殉教者とはならなかった使徒であり、エフェゾとパトモス島において、それぞれ聖ヨハネ福音書とヨハネの黙示録という2つの文献を著した人物であったとのことであり、その福音書の特徴としては、⑴ヘブライ的であることと⑵使徒ならではの記述が多いということでした。

まず、ヘブライ的という意味ですが、その具体的な記述例として、ユダヤ人の祭が、過越祭、幕屋祭、神殿奉献祭の3つあることや、ユダヤの社会では安息日よりも割礼を優先するなどの律法解釈、サマリヤ人とユダヤ人との緊張関係ほか、パレスチナの地理の詳しさ、さらには旧約聖書で語られていることが成就されたという記述が四福音書の中では、最も多いなどがあげられるということでした。これは聖ヨハネがユダヤ人であったことに起因するのであり、至極自然と思いました。

また、使徒ならではの記述が多いという点ですが、特に聖ヨハネは聖ペトロ、聖ヤコブとともにイエズス様のご変容やゲッセマネの園、ヤイロの娘の蘇りの奇跡などに直接立ち会うことを許された3名の使徒のひとりであり、さらには聖母マリア様をイエズス様から直接託されたことからもわかりますように12使徒の中でもイエズス様に特に愛され、信頼された使徒といわれていますが、ヨハネ福音書の中でも、全くそれをひけらかされることはなく、ヨハネの名前は洗者ヨハネのこととしてしか登場しないということでした。

それはあたかも聖母マリア様が敢えて福音書にはあまり登場されないということと同様に謙遜のなせる技であると思いました。
これらのことをお伺いして改めて聖ヨハネ福音書を再読いたしましたが、これまで以上に理解が深まるとともに記憶もさらに定着した感じがいたしました。

(もっと知りたかったこと)
福音書がなぜ4冊なのか、それが3共観福音書と1非共観福音書から成立する意味は三位一体と関係があるのかなとも思いましたが、実際のところは、どうなんでしょうか。
本質的な問いではありませんが。

小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何ものでもありません。

改めて御礼申し上げます!

デオ・グラシアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

受難の主日のミサをありがとうございます。
「天主からのものは天主の言葉を聞く」という主題で 「十字架の価値」についてと「大祭司の民」とはどういうことを意味しているのかということをお話しいただいたと感じました。

この日は十字架の価値 苦しみの価値について たくさんお話しいただいたように思います。
昔の十字架はその価値を尊ぶ故に純金や銀やダイヤモンドやルビーなど貴重な宝石が組み込まれていて光り輝いていたとのことで 四旬節は勝利に向かっているのではあるが まだ苦難・苦悩を黙想しようとする受難の季節であり キリストの勝利の栄光を隠すために ミサも死者ミサのような式次第でもあり 喪に服す意味合いもあり 紫の布で十字架と御像・御絵を覆うようになったと教えていただきました。またこの日のミサは大祭司ということがテーマになっており、ペトロが十二使徒の中で大祭司の代理者であるから そのため指定巡礼教会はペトロ大聖堂になっているとお話しいただきました。 

この日、ミサで 「イエズス様は 大祭司として お告げの祝日の 3月25日に マリア様のご胎内という香部屋に入られた そして大祭司の服として人間の服をまとわれた とうとう時が来て 今から天の至聖所に入り 人間の生贄をささげるときがきた 」というお話に 超自然の光景を思い浮かべながら 神秘的な畏れ多い思いをいだきました。崇高な美と表現したくても そうするにはあまりにも私たちのための犠牲のお苦しみの大きさに打ちのめされそうになります。

「いまからいけにえに向かう 動物の血ではなくてご自分の血をもって生贄としてささげるために 天の至聖所に一人 入られる」。・・・わたしたちのためにイエズス様がマリアさまをとおして 救いのために来られたということ、  そして (十字架によって?)至聖所に入るということは死という残酷な苦しみ 死以上の生贄としての苦悩があるということに 気づかされます。このイエズス様の十字架という宝の陰にどれほどの「苦しみ」があるか、考えても及ばないほどのものに打ちのめされます。今は イエズス様の「苦しみ」を黙想するときだとわかります。(そしてマリアさまの「お苦しみ」を。)

大祭司として最高の司祭として贖いを完成させたイエズス様の十字架には、金銀宝石よりも大切で隠さねばならない程の価値があり、そのような十字架を聖堂に掲げていた古(いにしえ)のカトリック教会は 生贄の価値を知っていたということになります。(今は 十字架がよくわからないような形の教会建築も多く、生贄の価値・十字架の価値・苦しみの価値が 前ほど顧みられなくなっているのでしょうか。)そして、一信徒ではあるが大祭司として自分の日常の苦しみを生贄としてささげることができるということを教えていただきました。

そのうえで 三つの提案をいただきました。
 
一つは 十字架の価値をよく理解すること。十字架は宝の詰まった宝庫であることを理解して 十字架はわたしたちに天国の鍵を与える祝福の源 であることをよく理解できるように 恵みを求める決心すること。 大祭司としての位置には 王の道十字架の道が隠されているということです。

次には その十字架の価値はイエズスの大祭司としての地位にあり、わたしたちが”大祭司の民”であることを理解するには 「イエズスキリストとともに 日常の苦しみを生贄としてお捧げする」ことによってこれにより私たちのつまらない人生が永遠の宝となるのだということを知らなければならなく、これこそが わたしたちもキリストの司祭職に参与しているという意味であると教えていただきました。

人生におけるごく小さなマイナスの出来事でも永遠の価値を持つ宝となるということに ご聖体を拝領することによって参与できるという意味で、カトリック信者が栄光ある司祭の民であることを 理解するようにとのことでした。

”…大祭司の民だから…”というのを誤って解釈した結果行われるようになったのがノブスオルドのミサで、実際のミサにおける平信徒による参加(聖書朗読とか聖体奉仕者)は まったく「大祭司の民」ということと関係がないということを伺って、驚きました。

第三には 受難節にマリア様のこと 特にファチマのマリア様のことをよくを考えましょうと提案いただきました。ファチマのマリア様は 祈りと犠牲の大切さを 三人の牧童を通して お伝え下さり、たとえ今日のお説教のような難しい神学を知らなくても、天国への道を示してくださったのだなと あらためて思います。本当に大事なことは実践することだと。

ところでずっと昔 ある挫折の中にいた私に 母が母なりに生きて感じている人生での苦しみのようなことについて何か話してくれたことがありました。その時の私は信仰をいただいていなくて、でも、母から何か大事なものが伝わってきたことは感じました。いま 感謝をもってこうしてお説教で聞いた苦しみの価値について母に伝えられたらと思うのですが、キリスト教を受け入れず信仰を持たない母にはこのようなことを話したくても話せないことがよくわかります。苦しみの多い人生の母に 苦しみに宝石のような価値があるということを伝えることができなくて 残念に思います。「天主からのものは天主の言葉を聞く」という主題になっているのは、苦しみの価値を受け入れるかどうかが カトリック信仰と深く関係しているからかなと思いました。

いつも様々な小さな失敗・悲しみ・悩み・不安があり、のみならず自分自身が他の人に対して苦痛を与えるという現実の苦しみもいつもあります。 《その自分が人様にうっかり悪いことをして苦痛を与えたことを知り苦しむというのは 「苦しみ」として捧げることのできる苦しみなのか いつもよく分からなくなります。》  みじめな苦しみでも イエズス・キリストとともにお捧げし ご聖体拝領によって生贄として価値あるものに変えていただくことができる・永遠の宝になるということを よく分かることができますように 恵みを願い求めたいと思います。

ようやく見いだした苦しみの意味というのは人に簡単に伝えることができないものだけでなく、自分にもそれを生きるように簡単に分からせることができないものだとますます感じます。自分がイエズス様の苦悩を良く黙想することでしか、苦しみの価値を知ることができないのではないかと思い すこしでもイエズス様とマリア様のお苦しみを黙想しようと思います。神父様いつもありがとうございます。

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

今回の公教要理は聖ヨハネ福音書についてお話しいただきました。ありがとうございました。ご報告いたします。分かったことは次のようなことです。

◎はじめに・・
●聖ヨハネ福音書を書いたとされる使徒聖ヨハネは 他のすべての弟子の中で特別に愛された弟子として知られ 最後の晩餐で胸に寄りかかりイエズス様の御心の鼓動を聞いたことから「御心の使徒」とも呼ばれることもある。
●職業は漁師、家族は兄が十二使徒のひとりの大ヤコブ(書簡ヤコボの手紙を書いたヤコボとは別の人で、こちらはイエズス様の親戚の兄弟。大ヤコブは、よりイエズス様から愛されていたので、大ヤコブといわれる)、母の名はサロメ、父の名はゼベデオ、生家は雇人がいるようなお金持ちの家で 神殿に魚を卸していたのでコネもあり、大祭司のこともよく知っていた。 
●漁師の仲間に アンドレアとペトロ(シモン)がいた。住居はガリレア湖(テベリア湖)の近くのベトサイダ というところだった。イエズスと最初にあった弟子が アンドレアとヨハネだった。二人は洗礼者聖ヨハネの弟子だったからで イエズスが洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けたとき、この方こそ聖霊で洗礼を授ける方だと聞いたその翌日 ヨハネとアンドレアはイエズスの後をついていく。イエズス様は カファルナムに住居を移し、ヨハネ達もそれについていく。
●聖ヨハネ福音書のいちばんの特徴は 共観福音書には書いていないことをヨハネは書いていることだが、イエズスがヨハネを特に選んでしたこととは何か、ヨハネの人生はどういうものだったか、ヨハネにしか書けないものは何だったか、聖ヨハネ福音書の特徴は何か、などについて 詳しくお話しいただきました。(次に順次列挙いたします。)

◎イエズスがヨハネを選んでしたことは何か・・  
1 ●御変容 (ヨハネと大ヤコブとペトロ)  この三人の使徒だけに御変容を見せた
  (マテオ17:1) (マルコ9:2)(ルカ9:28)

2 ●ゲッセマニの園 (ヨハネとペトロと大ヤコブ)  この三人だけに一緒に祈ってほしいといった
  (マテオ26:37)(マルコ14:33)
 
3 ●ヤイロの娘の甦り (ヨハネとペトロと大ヤコブ) この三人だけに奇跡を見せた
  (マテオ9:18) (マルコ5:21) (ルカ8:40)

4 ●過ぎ越しの準備(ヨハネとペトロだけ) この二人が用意を頼まれた
   (マテオ26:17) (マルコ14:12) (ルカ22:7)

6 ●お母様の聖マリアを委ねる(ヨハネだけ) イエズス様の最も大切なものを委ねられた

◎ヨハネの人生について・・ 
聖伝によると、ヨハネはエルサレムの神殿が粉々になった後にエフェソに行った。西暦70年の後に ローマ皇帝ドミチリアノが ヨハネをエフェソから呼び出して ローマに来るように言った。燃えたぎる油の窯の中に投げ込まれるが 何の傷も受けずに ひょろっと出てくる。それで エーゲ海のパトモス島に追放される。ここでヨハネは黙示録を書く。しかし ローマ皇帝ドミチリアノが没するとエフェソに戻る。そこで亡くなる。(ヨハネだけは殉教していない)。墓もエフェソの「アヤスルク」(神学者という意味)というところで 考古学的に発見されて残っている。ローマ皇帝トラヤヌスの時代に亡くなる。 

◎ヨハネにしか書けないもの・・・
ヨハネにしか書けないものがあり、そのために ヨハネは特別に選ばれたといえるが、ヨハネが選ばれて立ち会った「主の御変容」・「ゲッセマニの園での祈り」・「ヤイロの娘の甦り」・「過ぎ越しの準備」については書いていない。それは ヨハネが自分の名誉になるようなことは一切書かなかったからで、自分の名前を出すことなく 自分以外の人達のことを書いている。洗礼者ヨハネのことをヨハネといって 自分のことは 「主から愛されたもの」としか書いていない。(婉曲的表現)。ヨハネ自身は、自分のことを差し置き 他の十一人の弟子の行状をくわしく書いている。それに比べて共観福音書には ヨハネ・ペトロ・ヤコブが選ばれてああだった、こうだったと この三人のことが詳しく書かれている。パトモス島に追放される前に エフェソで書いたと思われる。エルサレムが崩壊した後に書き残した。(過去形で書いてある)

ヨハネは 一人だけ ペトロの最期・ラザロの最期・カナの婚姻の奇跡・生まれつき目の見えない人の奇跡 などを書いている。

◎ヨハネ福音書の特徴は何か・・・  
1 ●神学的な話
  (ヨハネはまず書き出しが違う)既にキリスト教を知っている人を対象に話している。 
  他の共観福音書は 一般の人たちを対象にイエズスのこういう話をしたかという話を記録しているが、ヨハネ福音書の中には パリサイ人とユダヤの人とどういう神学的論争があったのかとか旧約聖書の論争などということを記録している。 

2 ●この第四福音書が確かにヨハネが書いた(という第一の)理由として イエズス様が旧約聖書の解釈・神学的議論などをする様子を ヘブライ語を知らなければできないような言い回し・表現を用いて書いていることがあげられる。ユダヤの習慣をよく知っていた。

   a 「祭り」の区別・・・祭りにも三種類があり、それらの三つをちゃんと区別している。過越し祭・幕屋祭・神殿奉献祭。
   b サマリア人との対立・・・ユダヤ人がサマリア人と対立していたのもよく知っていてサマリアの女との問答を書いている。 
   c  安息日のこと・・・安息日でも割礼をすることができることをよく知っている
   d  ユダヤ人でなければわからないこと・・・異教徒の家に入ると律法的に穢れを受ける  ため過越し祭の前は異教徒の家に入れないことなど 律法のことを詳しくよく知っていた 

3 ●宿題「これは聖書の預言が成就するためであった」という表現がヨハネ福音書の中に何回あるか?

4 ●パレスチナの聖書の地理に精通 
   例えば ベトザという池があり そこには5つの回廊があり 天使が降りて来ると水が動き そこに入ると 病気が治った」という部分について この廊がどういう形で池を取り囲んでいたとかなど よくわかっていなかったが 最近考古学的にこの池が発見された。そうすると 確かに池の真ん中にも一本の廊が通っていて、四本の縁と真ん中の一本とを合わせて 5つの廊があることになるので、正しい表現だと確認された。他にも べタニアとエルサレムの位置は どうだったかなど を含め19か所、パレスチナの当時の使徒でなければ知らないことを 詳しく書いてある。
  
5 ●使徒ヨハネでなければ分からないようなことをよく知っていた
  ・ 初めてイエズスに出会った時刻のことが記されている
  ・ 石甕が6つあったこと  (カナの婚宴で) 
  ・ 御受難中にイエズス様のされた唯一の奇跡のこと
   (ゲッセマニの園でペトロが大祭司の僕マルコスの耳を切ったのを癒した) 
  ・ ニコデモについての諸々のこと 
  ・ (他の福音書が書いていない)イエズスの話・祈り・聖体制定の予定の話
  ・ ヨハネ自身が 御心に自分の頭をつけて「裏切るものは誰ですか」と聞いたこと 
  ・ 御受難の模様を マリア様を委ねられたことを含めて 最後まで詳細に記述している
  ・ その他多数・・

6 ●ヨハネ福音書が 共観福音書と特に違う部分は 共観福音書はだいたい同じストーリーであり 洗礼を受ける→ガリレア宣教している→エルサレムに行く→受難→と このように一目瞭然に同じ流れ同じ順序で書かれていて共に観るという意味で 共観福音書と呼ばれている。ヨハネ福音書の場合は エルサレム周辺のユディア時代の宣教を主に書いている。そして 共観福音書には書かれていない奇跡を書いている。( カナで水を葡萄酒に変える・ラザロの復活・生まれつきめくらの盲人最初から目が無いような人が見えるようになる) そして使徒ヨハネでなければわからないことを書き留めた。

◎コロザインのこと・・
コロザインでは世界でまたとない奇跡がなされたが 四つの福音書のどれにも書かれていない。ポンペイやソドムやゴモラのようにあまりにもひどく腐敗し穢れに満ちていて可哀そうで書けなかったのではないか。この町でよほどものすごい目を見張るような奇跡を何回もやったにもかかわらず コロザインの人は信じようとしなかったと嘆いている、このように福音書の中で書ききれなかった奇跡をイエズスは何回も行われた。 

◎最後に・・
マリア様と余生を過ごされたヨハネは マリア様からのお話やマリアさまの黙想の話を聴いたりしたと思われるが、特別の光りをいただき、目撃証人として選ばれた者といえる。イエズス様から特別に愛された使命をもって、その仕事の内容を後世につたえなければならなかったと思われる。イエズス様こそ真の天主であり、みことばである、ということを伝える使命があったゆえに、
十二使徒の中で特別に若く、殉教をしないで長生きをして、漁師の子供でありながら聖書を書くような教養も得たと思われる。
ファチマでも 三人のうちの二人は幼くして亡くなっているが、ルチアだけは特別の記録を残している。これも 同じように 伝えなければならない仕事があったからで、そのためにマリア様から読み書きを習うように言われ、長生きをしたのだろう。

◎感想です・・
とても有意義なお話を伺うことができました。これまで漠然としていたけれど 読み進むための地図をいただいたようで、これからヨハネ福音書を読むときの指針となるように思います。ヨハネの生涯についても初めて知ることが多く とても面白かったです。
ヨハネ福音書は 特別な福音書だと思っていました。この日の主日の聖福音にも「まことにまことにあなたたちにいう、わたしのことばを守る者は死を味わわない アブラハムがいる前からわたしはいる 」というヨハネ福音書の御言葉がありました。今回のお話をもとにして 頭の中の引き出しに聖ヨハネ福音書が整理されて収まるように、ヨハネ福音書を読めればと思います。ヨハネ福音書に残されているイエズス様の言葉をよく読んで イエズス様のみことばをよく守れますように恵みを願います。神父様 ありがとうございました。

「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き)

2017年04月05日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている6番の続きの歌詞を、更に考えてみました。新しい歌詞の提案もいただきました。
愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたら是非知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェマリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア


【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 み主と母の 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 あまたの人 地獄の中 幼子らに みせさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

14 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 主と聖母の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 優しき母の 御心こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します。

2017年04月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、4月5日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

良き御受難節、聖週間をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

エリゼオの油を増やした奇蹟があらわすこととは?

2017年04月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月21日(火)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月21日(火) 四旬節の平日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

この四旬節第3主日の後の火曜日の朗読と、四旬節第2主日の後の火曜日の朗読は非常にそっくりです。

今回今日は、エリゼオが寡婦のために油を増やす奇跡を起こさせた事を語ります。
イエズス様はそれによって、「天主の憐れみが無限である、必要なだけどこにでも及ぶ。御恵みをたくさん、私たちが受け取ることができるだけ与えられる。」これは私たちの赦しが必要なだけ、私たちに対する憐れみが無限に続く、という事を表わしているかのようです。

この四旬節に、主の憐れみと御恵みを、私たちが必要とする御恵みを、たくさん求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ヨゼフの冠に飾られた宝石とは?どのような栄光が与えられたのか?

2017年04月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月20日(月)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年3月20日(月) 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年3月20日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。

今日は聖ヨゼフの霊名を持った霊名の祝日のお祝いも申し上げます。

このミサの直後に司祭が退場する前には、聖ピオ十世会を聖ヨゼフ様にした奉献の更新式、今年で奉献の4年目だと思います。その更新式を行いたいと思います、それから退場を致します。


“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”
「あなたは、彼の頭に貴重な宝石の冠を被せた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヨゼフの祝日にあたって、教会は私たちにとてもきれいな昇階誦という歌を歌いました。その中では、「聖ヨゼフの頭に貴重な宝石の冠を被せた。」その聖ヨゼフの栄光を讃えて歌を歌うように、と言っています。

そこで私たちも、聖ヨゼフの冠に飾られた宝石とは一体何なのか?一体聖ヨゼフにどのような栄光が与えられたのか?

その冠とは何なのか?聖ヨゼフのその冠の素晴らしさ、その栄光の素晴らしさ、与えられた御恵みの素晴らしさというのは一体何だったのか?という事を黙想して、

その後に私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。
では私たちは聖ヨゼフに倣って、聖ヨゼフのこの祝日にあたって、何をどのように決心を立てたら良いだろうか、と遷善の決心を立てましょう。

天主様の御摂理は、非常に深いものがあると思っています。今日今回ミサを捧げる為に、四旬節の第2主日の後の金曜日にここでミサを捧げました。その時に旧約の聖ヨゼフの話が出てきました。

旧約の聖ヨゼフは、イエズス様の前表です。つまり兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけて、そして奴隷として売られて、そしてエジプトに行って、しかしその奴隷となったその主人のポティファルの妻から誘惑を受けるのです。ヨゼフはそれを断り、捕まったにもかかわらずその服を置いたまま、捕まったままそのまま逃げた。しかしその自分の主人の妻から濡れ衣を着せられて、告発されて、本当は無実にもかかわらず投獄されたそのヨゼフ。

そのヨゼフはしかしファラオの夢を解いて、「エジプトに飢饉が来る」という事を知らせ、そしてエジプトのファラオのすぐ下において宰相となって、ファラオは全幅の信頼をおいて、「私のエジプトの地は、私の許可なしには何も動かない。しかしこのヨゼフに全てを委ねる。ヨゼフに行け、もしも何か求めるならヨゼフの元に行け」と命じたほどでした。

そのヨゼフがどうやって殺されかけたかという、「穴に捨てられた」という話を私たちが読んで、まさにこの聖ヨゼフの新約のこのヨゼフの準備をしたかのようです。

ヨゼフ様、私たちの今日祝う聖ヨゼフは、この旧約の太祖ヨゼフ第1のヨゼフによって予告されたかのようです。

何故かというと、旧約のヨゼフは兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけてエジプトに行きましたが、私たちの聖ヨゼフはヘロデの嫉妬によって、「自分の王位が奪われるのではないか」と恐れ、「ユダヤの王が来た、そのユダヤの王を亡き者にしよう」とするヘロデの嫉妬の手から、イエズス・キリスト様を、太祖ヨゼフによって預言されたイエズス様を、私たちのヨゼフはエジプトへと運んで、その命を救おうとされたからです。

しかもエジプトでヨゼフは貞潔を守り、自分の主人に対する忠実を守りました。
それと同じように聖ヨゼフは、童貞中の童貞であるマリア様の貞潔の証人となって、しかも自分の主の主であるイエズス・キリストに忠実を尽くす養父となりました。

さらにヨゼフはエジプトでファラオの夢を解いて、「飢饉が来る。さぁ、今豊作の7年の間にエジプトの小麦を全て蓄えるように。7年の飢饉に備えるように」と進言しました。実際その通りになるのです。ヨゼフは夢のそういう神秘を説く特別の力を与えられました。
しかし新約のヨゼフは、神秘を解釈するのみならず、神秘を、天主の天上の神秘をそのまま生きて、それに参与して、それの目撃証人となりました。

ヨゼフがいたからこそ、ヨゼフのこの非常に苦しみ、悩みがあったからこそ、義人のこの悩みがあったからこそ私たちは、「確かに、マリア様が童貞中の童貞にして、イエズス様が本当に聖霊によって懐胎された」という事が分かります。もしもそうでなかったら、ヨゼフはそのようなそうでないような女性を、石殺しにしたか、或いは何らかの形によって、義人であったヨゼフは別の行動をしていたはずです。

しかし、あまりにもマリア様をよく知り過ぎていて、そしてマリア様のその貞潔と、そしてその天主への愛と、その祈り、その奉献、その心をあまりにもよく知っていて、そして決して嘘をついたり人を裏切ったりする事がない、という事をあまりにもよく知っていた為に、マリア様を疑う事ができなかったのです。皆さんも一緒に生活している人がどのような人か、その人柄が皆さんがよく分かるのと同じです。

それにもかかわらずこの目に見える現実は、マリア様のお腹が大きくなっている。「一体何なのか。」
「マリア様を疑う事はできないし、しかし自分の目は別の事を言っている。理解できない、一体何なのか。」苦悩に苦悩を重ねました。「石殺しにするべきか、律法に従うべきか。いやしかし、マリア様はそのような事はできない人だ。では私はどうするべきだ。この親愛なる、自分の尊敬する愛する、敬愛する自分の妻となるべきマリア様を離れる事は非常に辛いけれども、自分にする事ができる唯一の事は、このまま自分はそのまま消え去る事ではないか、それしかないではないか」と。

そのそこで覚悟を決めたその瞬間、その時、夢で天使の告げを受けたのです、「ヨゼフ、恐れるな。マリアは聖霊によって懐胎しているのだ。その子はこの世を救う為に来られる、生まれる。この生まれる子は救い主となる。イエズスと名付けよ。」

それを朝起きて、平和に満たされて安心して、「あぁ、そういう事だったのか」という事を理解したヨゼフ様の顔を見たマリア様は、どれほどほっとされた事でしょうか。ヨゼフ様もマリア様に、「何で一言言ってくれなかったのか」などと野暮な事は言いませんでした。ニコリと笑って、「全ては分ったよ」という事を伝えて、マリア様もそのヨゼフの安心した平和な顔を見て、「あぁ、分かってくれたのだ。何か特別の恵みがあったのだ」という事を知り、やはりニコッと笑って、そしてあたかも何もなかったかのように理解し合ったことでしょう。

ヨゼフがイエズス様の割礼に与かった時。或いはイエズス様の名前を、「イエズス」と「救い主」と「ヤーウェは救う」という名前を付けた時。或いはイエズス様の御降誕の時、その宿を探そうと一生懸命になった時。またイエズス様がお生まれになったその喜び。或いはシメオンの預言を聞いた時。或いはイエズス様の命が狙われているという事を聞いて、エジプトまで天使の告げを以て行った時。誰も知らないエジプト、自分の知ってる人もいないし、言葉も知らない、全く外国で行ったそのエジプト。夜中に行ったそのエジプト。イエズス様を助ける為に、マリア様を保護する為だけに従ったそのエジプト。またエジプトから帰って来た時の事。或いは12歳のイエズス様を見失なった時のその苦難。

聖ヨゼフは神秘を解釈したのみならず、まさにその神秘を生きて、目撃して、その深みの中に入って行ったのでした。

旧約のヨゼフはエジプトで、「今、豊作の時に小麦を蓄えよ」として、ファラオの小麦を全て蓄えるように言いました、それはエジプトの国民の為でした。私たちの聖ヨゼフは、天から下った生けるパンを私たちの為に保護して下さっていました。それは私たちに、遂に十字架の上で屠られて、そして私たちによって食させる為でした。聖ヨゼフが私たちの為に守って下さらなかったら、私たちにはその天からのパンは有り得ませんでした。

ちょうどファラオが国民に、「もしも何かあれば、困った事があれば、必要なものがあれば、皆国民は全てヨゼフに行くように。お前たちの為にヨゼフがいる。ヨゼフに行け」と言ったように、天主御父はピオ九世、福者ピオ九世の口を通して、「聖ヨゼフこそ教会の最も大切な宝を委ねられた、普遍教会の守護者、全世界に渡る教会の守護者である。ヨゼフに行け、聖ヨゼフに祈れ」と私たちに命じ、勧めてくれました。

歴代の教皇様は、聖ヨゼフに対する特別の信心をもって、私たちに聖ヨゼフに対しての信心をますます高めるように教えて下さっています。一体何故でしょうか?

何故かというと、教皇様たちの話をまとめると、「特別の使命が天主から与えられると、天主はそれに適応するそれに相応しい特別の御恵みを与えるから」です。

イエズス様が受けた人類の贖いのその使命の為には、「天主の本性と人間の本性が、天主の第2のペルソナにおいて一致する」という特別の恵みが与えられました。位格的結合といわれる、もうこれ以上の一致が無いという御恵みが与えられました。

マリア様が天主の御母となるという時には特別の恵みが与えられました、「無原罪の御宿り」、「聖寵の充満」、天主の御母となるべきその準備が与えられました。

聖ヨゼフも、イエズス・キリストの養父、童貞天主の御母の浄配となるべき特別の使命を与えられて、それに相応しい選びの御恵みを与えられました。

教皇様たちによると、「もはや人類において 聖ヨゼフの受けた御恵みと栄光よりも上の者は、イエズス様とマリア様しかいない。洗者聖ヨハネや聖ペトロ、パウロ、或いは使徒たちをはるかに勝る御恵みを、聖ヨゼフは受けた」と言います。

イエズス・キリストとマリア様にあまりにも近く密接に居たそのヨゼフが受けて当然の御恵みと栄光でした。それが天主御父が特にヨゼフ様に与えようとした宝石であり、王冠であり、栄光でありました。

では私たちは今日その聖ヨゼフ様の祝日において、一体どんな決心を立てたら良いでしょうか?

旧約のヨゼフもそうですし、新約の聖ヨゼフ様もそうですが、「天主様は全て御恵みを、その喜びも栄光も、苦しみと共に与えて下さる」という事です。たとえ私たちにとって何か禍であるかのように思われるような事も、一見何か「何でこんな事が起ったのだろうか」と思うような事も、実は霊魂の救いの為にとっては非常に貴重な、とてもこれ以上ない貴重な機会である、という事が分かります。

旧約のヨゼフも新約のヨゼフもそうでした。まさにその苦しみがあったからこそ、それに対応する喜びと、それに対応する栄光が与えられるという事です。贖いにますます参与する事ができるという事です。

ですから今日今回、その四旬節はあたかも中断されたかのように、私たちは聖ヨゼフの祝日を祝っていますが、この四旬節の、与えられた四旬節という機会もどうぞよく利用して、ますます贖いの業に参加する事に致しましょう。

第2は、聖ヨゼフ様は非常に御謙遜で沈黙を守り、聖ヨゼフの言葉が聖書の中に一言も無い。ただ私たちが知っているのは、イエズス様の養父で、マリア様の浄配であり、そして大工であり、義人であるという事です。しかしこの時代が経てば経つにつれて、ヨゼフ様の栄光がますます明らかになり、教皇様たちが口を揃えて、「ヨゼフの方に行け」と。「教会が攻撃を受ければ受けるほど、ヨゼフの方に走り寄るように。ヨゼフに奉献するように、私たちを奉献するように。ヨゼフ様に教会の保護者として委ねるように」言っています。

教皇様だけではありません。ファチマのマリア様も、最後の10月の最終の大奇跡の時には、「ヨゼフ様もいらっしゃる」とヨゼフ様も連れて来ました。ヨゼフ様はイエズス様を抱えて、この地上を祝福させました、ヨゼフ様が。

ですから現代に生きる私たちとって、ヨゼフ様の価値が、ヨゼフ様の必要性がますます大きくなっています。教会が、カトリック教会が、イエズス・キリスト様の真の教会が、攻撃や迫害を受ければ受けるほど、ヨゼフ様にひたすら頼まなければなりません。

天主様の御摂理は、ヨゼフ様の御生涯によれば、天主様の御摂理は全て救いの為になっているという事と、ますますヨゼフ様が必要になっているという事を見ると、最後に私たちは、もしも現代、御聖体に対する危機があって、今御聖体がどこでも無くなってしまっている、ちょうどファラオの時代に危機が来て、どこを探してもパンが無い、ぜひ私たちはもう霊的に飢え渇いている、イエズス様を欲しい、或いはマリア様に対する信心が今どこにも無くなっている、という時には、ますますヨゼフ様の元に行きましょう。ヨゼフ様はその宝庫の中に有り余る、御聖体に対する、イエズス・キリストに対する信心と、マリア様に対する信心を持っています。ヨゼフ様こそ、生涯をイエズス様とマリア様の奉仕の為に使った男でした。

ヨゼフ様にひたすらに祈って、この私たちの為にも、また私たちを取り巻く全ての日本の人々の為にも、御聖体に対する愛と、マリア様の汚れなき御心に対する愛を配って下さるように、私たちに分け与えて下さるように、ヨゼフ様に乞い求めましょう。そしてそうする事によってますます、ヨゼフ様の栄光の冠が輝き出ますように、私たちがますますヨゼフ様の冠に付けられる宝石、きれいな宝石の一粒一粒となりますように、その御恵みを乞い求めましょう。

“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

いちばん聖心に適う、いちばん天主三位一体が喜ぶ、いちばん効果がある、力がある祈りと犠牲の仕方とは?

2017年04月02日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年3月4日、3月の初土曜日です。マリア様の汚れなき御心の随意ミサをしています。今日特に小さなお友達がたくさん来て下さって、とっても嬉しく思います。マリア様も天国でとっても嬉しく歓迎しています。今日のこの御ミサはマリア様の御心に捧げて下さい。

この前の水曜日から、教会は四旬節という特別の時期に入りました。これはイエズス様の御復活の前の40日間、犠牲とお祈りを捧げる、特に大人は断食をして復活祭まで時間を過ごす、お祈りと犠牲を果たす、という特別の時期です。それでその最初の日に私たちは、額に灰を付ける儀式があります。水曜日にその儀式をするのです。それができない人はその後でもその儀式をする事ができますので、昨日私たちはそれをしました。
もしも、昨日それができなかった方は、今日どうぞなさって下さい。

ミサが終わったら、公教要理もあります。もしも時間がある方は与ってください。
今回はこの前の続きで福音書、聖書の福音書は一体誰が、いつ、どうやって書いたのか?

本を見た時に、一体著者は誰か、誰が書いたのか、どこの大学の先生なのか、或いは学歴はどうなのか、或いは仕事は何をやっているのか、それを見てから本を読む人がたくさんいるかもしれませんが、買おうか買うまいか。

では福音書は一体誰が書いたのか?という事を皆さんに知ってもらいたいなと思って、特に最初の2つの福音書について今日お話できたらなと思っています。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、特に愛する小さなお友達、今日はマリア様の初土曜です。ですから今日はマリア様の汚れなき御心のこの教会に来ている人たちはとっても嬉しく思っています、初土曜日だからです。

そこでちょうど今年は2017年で、ファチマのマリア様の御出現の100周年なのです。それで特に四旬節は聖ヨゼフ様と共に、またイエズス様の聖心と共に、マリア様の汚れなき御心と共に、私たちの今年の四旬節が始まりました。

ですから今日は特に、このファチマでは100年前、私たちに一体何をイエズス様は求めておられたのか?

私たちはこうマリア様の汚れなき御心というのは一体どういう風に、一体何なのか?どういう風に理解したらいいのか?という事を黙想して、

そして今日この四旬節、特に初土曜日はどうやって過ごしたら良いのか、これから良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

特にファチマのマリア様は100年前に、小さな子供たちに自分の秘密を話されました。ですから今日は小さなお友達が3人来られて、マリア様の御心の秘密をよく聞いてくれるのをとても嬉しく思います。

ファチマのマリア様は私たちに、「祈りと犠牲を捧げて下さい」とお願いしました。100年前マリア様は、その事を特別にお願いする為に来られたのです。その前には天使たちも子供たちに送りました。ポルトガルの守護の天使で平和の天使です。その天使も子供たちに、「罪人の為に祈りと犠牲を捧げなさい。三位一体、真の天主様を慰める為に祈りと犠牲を捧げなさい」とお願いしました。そこでファチマのマリア様は特に、「祈りと犠牲」という事を私たちにお願いしています。

それで特に、その祈りと犠牲にも色々なやり方がありますけれども、特別の秘密を教えてくれました、「色んなやり方もあるけれども、一番聖心に適う、一番天主三位一体が喜ぶ、そして一番効果がある、力がある祈りと犠牲の仕方は、私たちが聖母の汚れなき御心の信心をする事にあるんだよ。これをこの地上に確立する事を望んでおられる。そしてもしこれをすれば、多くの霊魂が天国に行く、救われる。そして全世界には平和が起こる。それでカトリック教会はますます栄えて、栄光を受ける。」

「もしも私たちがその聖母の汚れなき御心の信心をしないならば、多くの霊魂はもう取り返しのつかない事が起こる。地獄に落ちてしまう。雪が真夜中に冬に降るように、更にもっと吹雪のように、雨がザーザー降るように、霊魂たちが地獄に落ちてしまう。そしてこの世界には戦争が起こる。国と国が立ち上がって戦う。多くの霊魂が滅びてしまう。」

「そればかりではない。民族が国々が、無くなってしまう国々もある、この地上から消え去ってしまう民族や国民たちがいる。そればかりではない。飢餓や飢饉が来て、食べる物も無くなってしまう。そればかりでない。教会が迫害を受ける。私たちが自由に教会に行く事もできなくなってしまう。国民が奴隷のようになってしまう」と。

「でもそれを救う為にはそれから逃れる為には、聖母の汚れなき御心の信心をすれば良い。それをすると、私たちにはそれを防ぐ事ができる」と言うのです。

「えぇ!?すごい!とってもすごい事です。そんなに私たちがする事で霊魂がたくさん救われて、平和がこの世界の平和が来て、そして教会には栄光が来るというのは、多くの人が平和に暮らす事ができるというのは、本当に何かちょっと私たちのやっている事とはちょっと比較にもならない事が起こるんじゃないか」と思うかもしれません。でもそういう事ができるのです。

考えてもみて下さい。誰かが、「富士山から湧き出る水を飲みたい、富士山の山の奥に行って、それをその水を飲みたい」と言ったら、「あぁ、じゃあ、やりましょう!」

普通でしたら山に行って、登山して、雪の中でも山の中に入って行って、そしてその泉からコップを取ってこう手ですくって、「こうやって、ああやって」と言って、「ようやく手に入れた富士山からの山の水です、早く飲んで下さい」と言うかもしれません。でも「もっと飲みたい、たくさん」という時にはどうしたら良いでしょうか?

大変な事もあります、その為には色々な準備をしなければなりません。しかしある力がある人が、富士山から水道のパイプを繋げて、「この蛇口をひねるだけで水が出るように、ドクドク出るように作った。だからもしも富士山の水を飲みたいならば、この蛇口をひねれば良いですよ」という人がいたとすれば、私たちはその富士山まで行かなくても、蛇口をひねるだけでよくなります。

それと同じようにイエズス様も、世界の平和の為には特別の蛇口を作って下さったのです。それが聖母の汚れなき御心の信心なのです。

昔同じ事がありました。旧約時代にシリアという国があったのです。とっても強い国で、軍隊がありました。軍隊もとてもとても強くて、もうその軍隊が行けば他の国の王様は恐れてしまって、とても何もできない。その軍のトップが「ナアマン」という人がいました。特別の訓練を受けた軍人で、ナアマンが「進め!」と言えば、何千人の人がダッダッダッダッと行くし、馬に乗った兵士たちも騎士馬車もヒヒーン!ダダダダダッと何千という馬もあるし、馬車もあったり弓矢も打ったり、とても強い軍隊のトップがナアマンです。シリアの王の特別の愛された軍人で大将軍でした。

ところがこのナアマンは、癩病という大きな伝染病にかかってしまいました。もうそれを治す薬もありません。そしてその事を聞いた王様はとても悲しみました、「あれほどの偉大な軍人がこのまま癩病で死んでしまうのか?薬は無いのか?このシリアの国にはそれを治す医師がいないのか?」いません。

すると、たまたま奴隷で連れられて来たイスラエルのある婦人が、シリアのナアマンの奥さんの妻のしもべとして働いていました。その召し使いが奥さんに、「あぁ、イスラエルにはエリゼオというとても素晴らしい預言者がいます。その方がお祈りして、按手したりお祈りして下さったらきっと治るでしょう」と言ったのです。その事を奥さんが聞いて、「そんな事もあるのか」と言って、ナアマンに言うのです、「あなた、イスラエルにはとても素晴らしい人がいるそうです。お祈りをすると奇跡が起こるそうです。有名なエリゼオという人です、たくさんの奇跡を行なった預言者です。」

するとシリアの王様は、その手紙をイスラエルの王に書くのです。イスラエルの王に、王の手紙で、外交の「もしもこれを聞かなければイスラエルの王、お前何が起こるか分かるな」という特別の手紙を書きました。そしてそれを持ってナアマンは、特別の軍隊を揃えてイスラエルに行きます。そして「これがシリアの王からの手紙です」と渡しました。

イスラエルの王様はそのシリアの王様からの手紙を受けて、「えぇ!?『私の大将軍ナアマンの癩病を治せ』!?これは罠だ!これを拒否したら、つまり戦争が起こるという事だ。一体どうしたら良いのだろうか。もう挑発に違いない。」うろたえました。

「もしもシリアが攻めてきたら、私たちは皆奴隷になってしまう。どうしたら良いんだ!?」「でも王様、ここにはこのエリゼオの話があるから、このエリゼオに行くように言ったらどうでしょうか?」「おぉ、そうか」と、イスラエルの王様は平伏して、

「あぁナアマン様、はい、この仰る通りです。イスラエルには偉大な預言者がいます。エリゼオという男です。どうぞヨルダン川のふもとにいますから、どうぞそちらにいらっしゃって下さい、お願い申し上げます。もし必要であればその費用も全て、馬とか全部与えますから、どうぞそちらに向かって下さい。」「あぁ、そうか」と言って行くのです。

そしてイスラエルの王は、「あぁ、このまま戦争が起こらなければ良いなぁ」と、とても心配しました。

大軍隊が来たのを見たエリゼオは、「一体何の事か!?」と思って、ナアマンから「イスラエルの王から送られてきた。この病気を治してほしい」という伝言を受けます。

エリゼオはナアマンに会おうともせずに、「では彼に、ヨルダン川に行って、体を洗えと言え。そしたら治るから。」それを伝えて終わるのです。

「えぇ!?」ナアマンは「俺が来たのに、シリアの軍隊のトップだぞ!大将軍だぞ!会いもせずにヨルダン川で洗えと言うのか!イスラエルにはユーフラテス川もあるし、バビロン川もあるし、チグリス川もあるし、そんなヨルダン川のような小さい川よりももっと偉大な川がある。何でそんな所に行かなければならないのか!馬鹿馬鹿しい!あぁこれは戦争を起こすしかない!俺は騙された!」と言いだします。
近くにいた者が、「あぁ、まぁまぁ将軍そう怒らないで、まぁ騙されたと思ってヨルダン川に入って洗ってみたらどうでしょうか?まぁ、すぐ近くにありますし。」
「俺はシリアの大将軍だぞ!エリゼオが私に直接来て、特別のお祈りをしてくれるのが当然じゃないか!」
「あぁ、まぁそう言わずに、エリゼオがそう言うのですから」とお供が宥めます。
「まぁ、お前が言うなら仕方がない」と言ってヨルダン川の方に行って、「え?俺がここに入って洗うのか!」
「まぁそう言わずに大将軍、少しだけです。」
「人が見ているかもしれない。」
「まぁまぁ、大丈夫、誰も見ていませんから。」
「本当か?俺がそんな恥ずかしい事ができるか!」
「大丈夫です、そんなヨルダン川で洗うくらい何も恥ずかしい事ではありません。」

それで、ナアマンという癩病の大将軍はヨルダン川に入ったのです。半信半疑で、「騙されたんじゃないか」と思いながら。

入ってみると、「あっ!!きれいになっている!癩病が治った!」あっという間に治ってしまったのです。

そこでその事を喜び勇んでシリアに帰って報告すると、シリアの王様は、「あぁ、イスラエルの天主こそ本当の天主だ!真のこの世の創り主だ!」と言ってその讃美した、という歴史の事実がありました。

それと同じような事を今回も、イエズス様は私たちを通してやろうと思っています。
「え?」
「マリア様の汚れなき御心の信心を通して、世界に平和を起こす。霊魂を救う!」
「え?本当かな?」本当です。

ではどうやったら良いのでしょうか?

とっても簡単なのです。イエズス様は子供たちにこう言いました、「月の最初の土曜日に 、5回続けてミサに与って、それから告解をして罪の告白をして、そして5回続けてミサに与って聖体拝領をして、そしてその月の最初に5連ロザリオを唱えて1環ロザリオを唱えて、それから15分間マリア様のロザリオの玄義を何か黙想しなさい。それだけで良いのだ。」

そしてその事を、その「5ヶ月間最初の土曜日にやる」という事を聞いて、その事をルシアが自分の神父様に言うと、指導司祭に言うと神父様は、「え!?でももう既にそのような信心はある。イエズス様の初金曜日にならって、そしてマリア様の15の玄義を記念して、初土曜日に15回聖体拝領をして、告解して、ロザリオを唱えるという信心がもうあるから、そんなものは必要じゃない」と答えたのです。

すると後にイエズス様がポンテベルデという所に現れて、シスタールチアに言うのです、「私は15回やるというよりも5回を望む。何故かというと、人々は最初はたくさん始めるけれども、最後まで根気よくやる人はいないから。15回もやると長すぎる。また15回無関心に形だけやるよりも、5回熱心にやる方が私にとってもっと心に気に入る。」

イエズス様は私たちの弱さをよく知っていて、子供である私たちが「5回もやればそれで十分だ。5回さえやってくれれば良いんだ」と、一番簡単な方法を選びました。

イエズス様は、たくさん要求をしようとしませんでした。ちょうど「ヨルダン川で体を洗え」と言ったのと同じようです。「5回、たった5回、月の最初の土曜日に告解をして、聖体拝領をして、ロザリオを5連唱えて、15分間黙想をする。これを5回すればいいんだ。そうしたら世界に平和が来る。多くの霊魂が救われる。教会が昔のように栄光を受ける」と約束されたのです。

何故なのかというと、イエズス様はこの特別の御恵みを、「マリア様の汚れなき御心を通して与えたい」と思っているからです。そしてマリア様の汚れなき御心を通して祈りと犠牲を捧げる事によって、この特別の御恵みを与えたいという蛇口を作ったからです。

でもマリア様はそのイエズス様に取り次ぎをする為に、私たちの小さな協力が必要なのです。そしてその小さな協力がこの聖母の汚れなき御心への信心なのです。5回の初土曜の信心なのです。

秋田でもマリア様は同じ事を言いました、「私は御子と共に、この天主の怒りの手を、正義の手を止めるように一生懸命してきました。今、祈りと犠牲をする霊魂を求めています、慰める霊魂を求めています。そして今それは集められています。」そしてその祈りと犠牲をマリア様と共にする霊魂を求めているのです。

私たちが初土の信心をする事によってマリア様は、この私たちのこの小さな祈りと犠牲です。それを効果的に使って、ピタリと止めて、世界に平和を与える事ができます。ですから今日は特別な日で、特に小さな子供たちがここで「マリア様の御心の信心をしよう」と来てくれた事を本当に嬉しく思っています。

では私たちは今日どういう遷善の決心をしなければならないでしょうか?

私たちはですから今日、初土の信心を致しましょう。そして告解をして、そして御聖体拝領をして、そしてロザリオを唱えて、もう既にこれはしました。あと15分間の黙想を致しましょう。今日はでは、「マリア様が御告げを受けた」という事を黙想をするのはどうでしょうか。マリア様がイエズス様の婢女として、イエズス様の救霊の道具として、「はい、私に御言葉の通りになりますように」と言われたマリア様のご謙遜、マリア様がイエズス様をお喜ばせする為に、霊魂の救いの為に、全ての犠牲を受け入れようとしたそのご謙遜、私たちはどうやったら倣う事ができるだろうか、等と黙想致しましょう。

そして第2は、この四旬節をマリア様の汚れなき御心と共に過ごして下さい。復活祭までいつも、マリア様の汚れなき御心の事を考えて下さい。シスタールチアは、「子供の頃からファチマのそのマリア様を見た時から死ぬまで、全ての事をマリア様の汚れなき御心の為にしてきた」と言っています。

「マリア様の汚れなき御心の為でなければ何もしなかった」と言います。私たちもそれを真似て、全てマリア様の汚れなき御心にその為にする事に致しましょう。そして良い四旬節を送る事をマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年3月17-21日の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?この前のミサ聖祭のご報告やお便りをいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介させてください。このようなお便りをいただき大変感謝しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

3月18日の御ミサのお説教で心に残ったことを書きたいと思います。
この日の書簡はヤコボとエザウの兄弟の話、聖福音では放蕩息子が父のもとに帰ってきた話で、両方ともよく知っている内容のものでした。
でも、この話が現代の私たちに何のメッセージを伝えているのか、四旬節とどのように関係しているのかをよく理解していませんでした。
そのことについて神父様がわかりやすくお話してくださいました。

書簡  弟→天主様から選ばれ特別の愛を頂き、天からの祝福をもらった。超自然的のお恵み
    兄→この世の、地上だけの祝福だけだった。
聖福音 弟→放蕩息子だったが回心し父の元に帰ってきたら喜び迎えられ大宴会を開いてもらえた
      (異邦人のかたどり)
    兄→今までずっと父の側を離れず働いてきた尊重される兄より、弟の方が可愛がられた。
      (ユダヤ人のかたどり)

そして四旬節とどのように関係しているかというと、3つのグループにわけて意識することができます。
①洗礼志願者
②痛悔者(罪を犯した人が痛悔して御聖体を頂きたいと準備する、教会から離れてしまったかのような方など)
③一般の信者

これらのことからわかることは、天主様御父の子どもとなるため、回心の恵みを頂ける。
後から来たが、超自然の恵みを頂けることができる(帰ってきたヤコブのように)
そして、私たちに御子イエズス様もくださる素晴らしさ。
私たちは召し出されたのだということ。
御父は私たちの帰りをまっておられて、大きな悔悛をし、自分を下にへりくだった時に大きなお恵みを頂けること。(例え話のように)

天主さまの御憐みは本当に深いと心から感謝いたしました。感謝だけじゃなく、罪を忌嫌いて、心から痛悔しへりくだり、
マリア様に御取次ぎを願って天主様からたくさんのお恵みや聖寵をいただけるように力を尽くそうと思いました。



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ

いつもお忙しい中、毎日のようにブログを更新して下さりありがとうございます。
御ミサに与ることができませんが、夫と二人して神父様のブログを読み、毎日力づけられたり、身の引き締まる思いです。
3月20日の聖ヨゼフ様の祝日に御ミサに与りたかったのですが、家の事情で参ることができません。
残念ですが、守護の天使様に代わりに行っていただくことにいたします。

どうぞ御身体無理なさいませんように。

悲しみを極みませる我等が御母聖マリア我らのために祈り給え。



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ヨゼフ様にひたすらに祈って、この私たちの為にも、また私たちを取り巻く全ての日本の人々の為にも、御聖体に対する愛と、マリア様の汚れなき御心に対する愛を配って、私たちに分け与えて下さいますように!そしてそうする事によってますます、ヨゼフ様の栄光の冠が輝き出ますように、私たちがますますヨゼフ様の冠に付けられる宝石、きれいな宝石の一粒一粒となりますように!



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(*^▽^*)

童貞聖マリア様のお告げの大祝日おめでとうございます!!
マリア様のこのフィアットによって全人類は救いを得る事ができたのだと思うと、感謝してもし尽くせません。マリア様の道具として、その霊魂の救霊の為によく働く事ができますように。
また今日はルフェーブル大司教様が霊魂を天にお返しされた日でもありますので、ファチマ100周年のこの2017年を、特にロザリオの十字軍によって、ルフェーブル大司教様のように悪の勢力に立ち向かって打ち勝つことができますように、御取り次ぎを乞い求めたいと思います。

マリア様の汚れなき御心の御憐れみによって、多くの日本の霊魂が、全世界の方々が、私のような放蕩娘でもこのように受け入れて下さった憐れみ深い聖父の元に帰る事ができますように。この四旬節の御恵みが多く伝わりますように。


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは😃
日本のミッションのために いつもありがとうございます。
日本はこの金土は どうやら花冷えのようです💮❄。

「報告」のことに関してです。大阪の方のご報告のなかで とても詳しく神父様のお話しされたことを書いてくださった方がいらっしゃって、私が知りたいと思っていたことを分かりやすく教えていただけて うれしく思いました。
(今回 3月17日から21日までのご報告の四番目の方です。)

神父様のお説教を 大阪の教会で拝聴できなくてとても残念ですが、
このように丁寧に報告を書いてくださる方がたのおかげさまで
少しでも大阪でのお話しに触れさせていただくことができます。
また大阪では 以前よりも多くの方が書いてくださるので、よりうれしく思います。
雰囲気が伝わってまいりますし、大阪の方がたの熱心な信仰と神父様を大切に思われているご様子が伝わってまいります。
そして大阪の御ミサに与ることができませんが お説教を読みながら お恵みのおこぼれに与っています。

大阪のお説教「聖ヴィタリス、太祖ヨゼフに共通していること。それが指し示していることは?」を拝読して
聖ピオ十世会は ご聖体をわたしたちのために保ってくださいまして、まるで聖ヨゼフ様のように思いました。
(穴に入れられて)殺そうとされたことも 何か似通っておられます。
「モーゼとイエズス」も とてもよかったです。
そして 神父様の宣教でのご様子を具体的に教えていただいたこともあって
「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え!」
と たびたび 唱えてます。
中国人の方の「ファチマのアヴェ・アリア」の歌はとてもきれいでした。

とりとめのないことをお手紙してしまいました。
御ミサにお会いできますこと 楽しみです。いつも本当に ありがとうございます。
汚れなき御心のマリア様と浄配聖ヨゼフ様がいつも小野田師神父様をお守りくださいますように!

デオ・グラチアス!



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ブログのファチマのアヴェ・マリアの小野田神父様作の歌詞を拝見させて頂きました!ファチマのマリア様のメッセージがより伝わる内容で、実際ちょっと歌ってみましたら、言葉もピッタリはまっていました!すごいです!是非御聖堂でも歌えたら良いなと思います♪(*´艸`*)

デオ・グラチアス!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】