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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

紫の布におおわれた十字架で表される、「対比」と「一致」とは?

2017年04月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月8日(土)に大阪で捧げた受難節の平日のミサのお説教をご紹介いたします。

ここでは、2つのコントラストについて黙想しました。イエズスの悲しみと喜びです。
何故なら、ファリザイ人や司祭長たちの盲目さ頑なさと一般民衆や子供らの大歓迎とをイエズス様はご覧になるからです。

これは、イエズスの苦しみと栄光につながります。何故なら、イエズス様は「地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ」と言い、ご自分の苦しみと栄光について語るからです。

これは、聖金曜日と復活の主日につながります。何故なら、十字架の苦しみを通して復活の栄光と救いと贖いの実りをもたらすからです。イエズス様は言います。「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

これは受難週の紫の布に被されている十字架、しかし宝石の黄金の貴重な十字架につながります。何故なら、聖金曜日と復活の主日は二つで一つだからです。

これは、聖母の御悲しみと聖母の喜びとにつながります。何故なら、マリア様の七つの御悲しみは同時に、その御心の奥底にあった聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と平和と喜びがあったからです。

では、弱い私たちは、どうすれば良いのでしょうか? 相応しくない私たち、力の無い弱い私たちは?どうしたら弱さが力となり、苦しみを栄光へとつなげることが出来るでしょうか? 使徒聖ヨハネに倣いましょう!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年4月8日(土)受難節の平日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2017年4月8日、受難の節の土曜日のミサをしております。

明日は枝の主日という特別の日で、大きな荘厳な主日になっています。レネー神父様が夕方の18時からここで御ミサをして下さいます。

枝の主日のこの準備の為に、今日御ミサの後の公教要理の時には、その典礼について皆さんと一緒に黙想したいと思っています。一緒に聖歌の練習したり、その意味を黙想したいと思っています、どうぞいらして下さい。

来週の主日は復活祭です。復活祭にも夕方の18時からここでミサがあります、どうぞいらして下さい。

聖金曜日はこの来週の金曜日は、カトリック教会によると大小斎を守らなければならない日です。21歳から59歳までの健康な男女の方々は、どうぞイエズス様の御受難に合わせて大小斎を捧げて下さい。小斎は14歳以上の方は全て守らなければなりません、健康な方はどうぞ守って下さい。



「私が上にあげられる時、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日のミサでは教会は、私たちが明日の典礼と、それから聖週間、イエズス様の御受難について深く理解するように、その中に深く入るようにと招いています。今日私は、是非、3つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは、指定巡礼教会。今日はラテラノ門にある聖ヨハネ教会です。

次に、イエズス様のその御受難の、 御受難に向かおうとするその心構え、一体何の為に、一体どうやってイエズス様は御受難に向かおうとされたのか、

そして最後に、この聖ヨハネ教会とイエズス様を結ぶ第3のポイントとして、マリア様について黙想して、

そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の指定巡礼教会は聖ヨハネ、使徒聖ヨハネ教会です。これはちょうど1週間前の今日、聖ヨハネの福音について黙想した時に、「実は聖ヨハネが、エフェゾからドミティアヌス 皇帝によってローマに呼び出されて、そして燃えたぎるぐつぐつとしている油の窯の中に入れられた。しかしそれにもかかわらず、怪我ひとつせずにそこから出てきた」という事を知りました。ちょうどその聖ヨハネが燃えたぎる油の中に入れられて、そして殉教をする、命を落とさなかったけれども拷問を受けた、その場所に建てられたのがこの聖ヨハネ教会です。

ちょうどこれを以って、「イエズス様の十字架の足もとに留まった弟子、唯一の弟子聖ヨハネの元に私たちは行こう。聖ヨハネと共にイエズス・キリストの十字架のもとに留まろう。そしてイエズス様と共に、聖ヨハネのようにたとえ命を失わないとしても、イエズス様の為に油を、燃えたぎる油を受けて、そのような苦しみを受けても、イエズス様の為にこれを捧げよう。そしてイエズス様の御受難に私たちの苦しみを合わせてお捧げしよう」と教会は私たちを招待しています。ですから聖ヨハネと一緒にイエズス様の十字架の足もとに立ち、イエズス様の心の中に深く入って行く事にしましょう。

第2のポイントで、教会はその「典礼の読誦を見て、イエズス様の心を深く知るように」まず言います。昨日の金曜日と受難の金曜日と同じ入祭誦、或いは昇階誦、或いは聖体拝領の詩篇が唱えられます、歌われます。「私」と一人称になっているのは、これはイエズス様が私たちに語っているのです。イエズス様の心を聖心を、聖霊が詩篇を通して私たちに語っているので、「その中に、その聖心をよく知るように」と招いています。

イエズス様の心の中に入る手段として、次に教会が私たちに提案するのは、預言者エレミヤです。受難の金曜日にも同じくエレミヤが出ましたけれども、エレミヤは民の、ユダヤ人たちの罪を回心する為に送られて説教するにもかかわらず、救いの為に送られたにもかかわらず、却ってエレミヤは迫害を受け、苦しみを受けます。そしてこのエレミヤを亡き者にしようと企む人々の事が、今日エレミヤの中で読まれます。ちょうど今日読まれたエレミヤの預言がイエズス様において、そしてイエズス様を迫害するしようとする人々において成就するのを、私たちは目を見張る思いで読みました。

イエズス様のその聖心の中に深くエレミヤを通して入らされた私たちは、遂に福音を通して、イエズス様のその聖心を聞かせようと、聖心からの叫びを聞かせようとします。天の聖父からの叫びを聞かせようとします。

見て下さい。ラザロを生き返らせた、もう腐って腐って臭くて臭くてたまらなかったはずの、腐敗したラザロをイエズス様がたった一言、「ラザロ、起きて来なさい。外に出て来なさい」と言う事によって生き返らせたイエズス様を信じる反対に、多くの人々がイエズス様の方に行ってしまうのを見て、イエズス様のみならずラザロさえも殺そうと決意しました。

聖アウグスティヌスは言っています、「何と愚かな事だろうか。たとえラザロを殺害したとしても、ラザロをイエズス様が復活させたという事は消す事ができない、無きものにする事ができない。ラザロを復活させた方がたとえ殺されたとしても、御自身を復活する事ができないとでも思っていたのだろうか」と。

聖アウグスティヌスは言っています、「そんなに盲目にならずに、イエズス様の事を素直に『メシアだ』と見るべきではなかったのか。救う為に送られたイエズス・キリストを、『まさにこの方こそ私たちを救うべきメシアだ』と素直に受け入れるべきではなかったのか。」

そのファリザイ人や司祭長たちの盲目さ、頑なさをまず福音は私たちに語るのです。

その直後に、何という対照でしょうか、何という大きな隔たりでしょうか、その対極にあるのは一般民衆でした。素直にイエズス様がなさった奇跡、ラザロの復活を見た、目撃した人々でした。彼らは、「イエズス様こそが主の聖名によって来る御方だ!ダヴィドの子だ、ホザンナ!」と「イスラエルの王だ!」と大歓迎をしました。

イエズス様はこのその2つの両極を見て、同時に、この群衆が御自分の事を「メシアだ」と見て、自分の方にやって来るのを見て、きっとお喜びになった事でしょう。何という喜びであったでしょうか。彼らは救い主を救い主と認めて、自分が救われようとされる、イエズス様の目的はこれで達成される。

それと同時に、イエズス様は頑なな司祭長たちを見てどれほどお悲しみになった事でしょうか。彼らがイエズス様の為に企んでいる恐ろしい死、或いは苦しみ、或いは辱しめ、冒瀆、冒辱などを考えると、どれほど心には悲しみに満ちておられたでしょうか。

この2つのコントラストがイエズス様にはありました。もしも一粒の麦が落ちて死ななければ、それはそのまま残るけれども、もしも地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ。悲しみと喜び。

イエズス様は御自分が「地に落ちて実を結ぶ為の一粒の麦となろう」と思われました。「十字架の苦しみを通して復活の栄光を、そして救いと贖いの実りをもたらそう」と思われました。

イエズス様は言葉を続けます、「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

「悲しみ」と「喜び」、「苦しみ」と「栄光」、これが2つ重なっています。聖金曜日を通して、復活の主日に至ろうと。

その事を考えると、イエズス様の一目見ただけでは、悲しみや苦しみ、十字架の苦しみがあるにもかかわらず、その内には、天主聖父を求めるその愛徳と、霊魂を救おうとするその愛、私たちに対する愛が隠されている事が分かります。

ちょうど「私たちの十字架が紫の布に、喪に服すように被されているけれども、しかしたとえ被されたとしても、十字架は十字架として、栄光の十字架としてそのまま留まる。宝石に散りばめられた、黄金と、銀と、最も貴重な救いの手段として、栄光の元として残る」と「この2つが重なっている」という事が分かります。

イエズス様は今日、聖書学者の研究によれば、弟子たちと共に居たエフレムという砂漠の所から、数日間居た後に、今日エリコに来られて、エリコから明日エルサレムに登ろうとされます。エリコという街を聞くと、私たちは有名なザケオの話を思い出します。ザケオは背の小さい者だったのですけれども、イエズス様を見ようとして木の上に登りました。その事に気が付いたイエズス様は、「ザケオ、早く降りて来なさい。今日私はお前の家に行く」と、ザケオの家に救いが来ました。

イエズス様が今日エリコに来られたので、私たちもザケオのようにイエズス様を拝見しようとイエズス様の方に、イエズス様の十字架の木に登る事に致しましょう。イエズス様と同じく私たちの苦しみをお捧げする事に致しましょう。イエズス様は私たちの家に留まって下さるに違いありません。

イエズス様は明日、エリコからエルサレムに行きます。そして大歓迎を群集から受けて、また盲目の人を、エルサレムでは盲目の人を治したりもします。この治したが為にユダヤ人から更に反感を受けるのですが、夕方にはベタニアの家に行きます。ベタニアの家に行って、マルタとアリアそしてラザロからの歓迎を受けます。マリアは貴重な香油をイエズス様の足に塗って、そしてその匂いは部屋中に広がった、それを見たユダは決定的にイエズス様に反感を起こして、「何でこんな事をさせるのか」とイエズス様を離れる事になります。私たちもそのイエズス様に愛の香油を塗りましょう。

この黙想を終わる前に是非、イエズス様と、十字架に架かろうとするイエズス様と、イエズス様の十字架の足もとに留まったヨハネの隣に居た、もう一人の重要な方を黙想する事に致しましょう。

イエズス様がもしも私たちの為に、私たちを愛するが為に、私たちの贖いの為に十字架に付けられたとしたら、それに最もよく一致しているのは、聖ヨハネよりももっとよく一致していたのは、罪無く苦しみを受けて、やはり十字架に留まった、汚れなき御母マリア様でした。

イエズス様の聖心の苦しみ、張り裂ける思いの、この愛の火に満ちた聖心と同じ心を持っていたのが、マリア様の汚れなき御心でした。天主様は、このイエズス様とマリア様のこの2人が恐ろしい残酷なやり方で苦しむのをお許しになり、それをお望みになりました。

イエズス様のその苦しみを理解する為には、私たちはマリア様の御心をよく理解しなければなりません。何故かというと、2人のこの聖心は、この2つの聖心の中には同じ聖霊の火で燃えていたからです。

イエズス様の聖心には、聖霊の火が燃えていました。聖父を愛する火が燃えていました。三位一体のその愛の火が燃えていました。イエズス様の聖心の中で燃えていた、聖父の栄光を求めるその愛の火。

すると聖父もそれに応えて、今日福音の中で声を聞かせます、「私は栄光をお前に与えたが、更にもっと栄光を与えよう」と。イエズス様は「この声を聞かせたのは、それは多くの人が信じる為であった」と聖ヨハネは証言します。

聖父の為に燃えるこの愛は、イエズス様の御受難の第1の動機である聖父への愛は、それと同時に、「多くの霊魂を聖父の元に引き寄せたい」という動機に繋がります。私たちを憐れんで、聖父の元に呼び寄せるという動機に繋がります。それがイエズス様の私たちに対する憐れみの聖心の動機です。

これと全く同じ心を、マリア様が持っていました。聖霊の浄配として、聖父への愛、天主三位一体への愛に燃えるマリア様は同時に、罪人である私たちをも、「聖心の方に持って行きたい」と思っていました。そこでイエズス様によって贖われた最初の霊魂である、完璧に贖われた霊魂である罪の無い霊魂であるマリア様は、「聖父への愛に私たちを全て引き寄せたい、持って行きたい」と思っています。

こうして見ると、イエズス様の一つの落ちる粒、十字架に上げられた、「上げられよう、そして私の元に引き寄せ、そして聖父の元に連れて行こう」とするその愛は、マリア様と共に分かたれていたという事がよく分かります。イエズス様は憐れみに満ちた御方であって、マリア様はその憐れみを共にして、イエズス様と同じ苦しみと、同じ愛を持った方であるからです。

イエズス様は確かに十字架の上で亡くなりましたが、マリア様は同じような苦しみを、残酷な苦しみを受けつつも生き残ります。マリア様はたとえ命を失わなかったとしても、ほとんど命を絶えてしまうかのように、息絶えてしまうかのように苦しまれました。マリア様は十字架の足もとで、ご自分の全てをイエズス様と共に聖父に捧げられたからです、「霊魂を救おう」と「イエズス様と共に霊魂を救おう」とされたからです。

マリア様の事は特に、イエズス様と共に「憐れみの御母」「殉教者の元后」と私たちが言っている通りです。

もしもマリア様が十字架のもとにこうやって佇む事ができたとしたら、これはまさにイエズス様と同じ心を持っていたからでしか有り得ません。つまり、ただマリア様の心には悲しみ、苦々しい悲しみ、「自分の子供が、自分の財産が、自分の思いが、これで打ち砕かれた。だからもう駄目だ、もう絶望だ。もう、あぁもぅ」という悲しみではありませんでした。マリア様の心を動かしていたのは、マリア様が立ち佇んでいたのは、イエズス様と同じく、天主を愛する愛があったからです。そうでなければ、とてもマリア様はそこにいる事ができませんでした。「天主聖父を愛そう。そして天主聖父を愛するが為に、霊魂への憐れみと、霊魂を救おう」というその愛があったからです。イエズス・キリストへの信仰と、復活への希望があったからです。「イエズス様と共に聖父に栄光を与えて、そして霊魂を救う事ができる」というその喜びがあったからです。

ですからマリア様の苦しみ、外見上の苦しみの心の奥底には、やはりイエズス様の心の奥底にあった、平和と、「天主の御父の御旨を果たしている」「霊魂を救う」という喜びと、平安な気持ちがありました。聖なる希望、聖なる喜びがありました。

ですからこそマリア様は、イエズス様と共に立ち留まり、それをお捧げする事ができたのです。これがマリア様の御悲しみの秘密でした。マリア様の七つの御悲しみ、マリア様とイエズス様の悲しみを、苦しみを黙想するというのは、単なるセンチメンタルな、単なる感傷的なものではありません。「私たちの罪の為にこれほど苦しまれたそのイエズス様の深い動機を、愛の動機を、愛徳の動機を察するがあまり、私たちも自分の罪を償わなければならない。私たちも苦しんで、イエズス様とマリア様に倣って苦しまなければならない。そして私たちが苦しむ事を、天主が許したその送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様と共に喜んで、平和の内に聖なる喜びをもって、堪忍、忍耐する事を私たちが真似るように」と招いているのです。

ちょうどマリア様の御心も、この紫の布で被された黄金と銀と宝石で散りばめられた貴重な十字架のようです。悲しみのように見えるけれども、その奥底には聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と、平和と喜びで満たされていた。だからこそ、この苦しみを捧げる事ができたからです。

愛する兄弟の皆さん、ですから今日は、イエズス様の十字架の足もとに、聖ヨハネとマリア様と共に一緒に立ち佇む事に致しましょう。この佇む事ができる為には、同じ心を持っていなければなりません。聖なる愛と、イエズス様の為に何かする事ができるという喜び。願わくはマリア様が、悲しみのマリア様が、聖ヨハネが、私たちにそれを取り次いで下さいますように。そしてイエズス様が私たちに、いつもその十字架の近くにいる事を許して下さいますように、私たちが、弱い私たちが十字架から逃げてしまわないように、マリア様を通して力を下さいますように。相応しくない私たちですけれども、力の無い弱い私たちですけれども、御助けを以ってそれをする事ができますように、イエズス様とマリア様と共にする事ができますように、ヨハネに倣う事ができるように、今日は霊的に聖ヨハネの指定巡礼教会に共に行く事に致しましょう。

「もしも人の子が上にあげられるなら、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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