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御受難節に十字架を紫の布でおおい隠すのは何故か?

2017年04月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月2日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月2日(主日) 御受難の第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年4月2日、御受難の主日、第1主日のミサをしています。

14時30分から公教要理の話の続きをしたいと思っています。今日は聖ヨハネの福音書について、聖ヨハネという人が本当に書いたのか、一体どういう人だったのか、何でその事が分かるのか、一体他の福音書と比べたらどんな違いがあるのだろうか、どんな特徴があるのだろうか、という事についてお話したいと思っています。

16時からは晩課があります。

来週の4月9日もここで10時30分から枝の主日のミサがあります。いらして下さい。

それから来週もう一度皆さんにこの事を申し上げる予定ですけれども、日本の公教会の規定によれば、日本には大小斎を守る日が2日あって、1つは四旬節の最初の灰の水曜日、それからもう1つは聖金曜日です。あと10日の後には聖金曜日があります。大小斎を20歳以上59歳までの方は守るようになさって下さい。14歳以上の方は亡くなるまで、お年をいくら召されても小斎を守らなければなりません。

また公教会の規定によると、少なくともカトリック信者は1年に1度、御聖体拝領をする義務があります、また復活祭の頃に聖体拝領をするという規定があります。どうぞ復活祭の時に聖体拝領をするようになさって下さい。また告解の義務も1年に1度ありますので、この復活祭の義務をよく果たす為にも告解をなさって下さい。ちなみに大阪では復活祭のミサが夕方の18時からあります。



「天主からの者は、天主の言葉を聞く。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は多くの方が、たくさん新しい方がここにいらして下さって本当に嬉しく思います。

今日この御ミサの中で黙想を提案したいと思っています。それは、今日読んだ福音書と書簡書、それから指定巡礼教会というのは一体どんな関係があるのだろうか?何で受難節の最初にこのような書簡を読むのだろうか?一体この受難節というのは一体何なのだろうか?一体何が今までの四旬節と、その今までと変わった、何でこの2週間受難節というのがあるのだろうか?その目的とは何なのか?

一体何を教会は私たちに何を求めていて、一体何を私たちがするように求められているのか?何をするように招かれているのか?一体私たちはこの1週間に、また復活祭までの2週間に何をしなければならないのか?という事を黙想する事を提案します。

そして最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

まず今日初めて来られた方でも、このミサの会場に入って来ると、「あれ、何だ?何で紫の布が被せられている。十字架に布が被せられている?あれ、何かこの2つの所に紫の布が被っている。」と思うかもしれません。

はい、この紫の布が被っているのが十字架像で、そしてこの両脇の祭壇にあるのはイエズス様とマリア様の御影なのです。これは典礼の古代からの習慣に従って、この「復活祭の2週間前から、受難のこの主日から被せるように、隠すように」と規定があります。

「え?何で被すのですか?まぁイエズス様とかマリア様のこの御像を隠すというのは、まぁ気を散らさないように、イエズス様の御受難を思うという、思う事が雑念が入らないように被す、というのは理解できるけれども、何で十字架像まで被せちゃったのですか?」

非常に尤もな疑問です。何故かというと、教会は紫の布を被す事によって、「これから主が、私たちの主が私たちの為に受難をされる、苦難を受けられる。だから私たちはその喪に服さなければならない」という事を教えたいと思っているのです。

ですから教会のこのミサの時にはいつも、毎週いつも与っている方は気付かれたかもしれませんけれども、この階段祈祷文というものが一部省略されているのです。或いはグロリアというのが省略されます。これは全く死者ミサと葬儀ミサと同じ形をとっています。喪に服しているという事を意味します。

では、一体何で十字架像まで被せてしまうのですか?

何故かというと、古代、十字架というのは宝石で飾られていたからです。宝石が深く組み込まれていて、最も貴重な純金の、或いは銀の、或いはプラチナ、或いはダイヤモンド、ルビー、サファイア、もう貴重な大きな宝石をたくさん付けて、それはもう豪華で、栄光で、「この十字架こそ最も私たちの大切なものだ」というその象徴だったので、その栄光を隠す為に、教会は紫の布を被すように命令しました。何故かというと、教会は確かに四旬節に入りますけれども、四旬節というのは実は勝利の日である、勝利の為の日々である、準備の日々である、という事を教会はよく知っていたからです。





四旬節の第1主日に私たちは黙想しました、「イエズス様が40日間の断食の後にサタンから誘惑を受けてサタンを退けた。」

第3主日には、「悪魔は強いけれども、私は更に強い、私こそが勝利者だ。霊魂たちを悪魔の手から奪って、これを天国に持って行く勝利者だ。」

そして来週、私たちの王は勝利者として、教会の中に棕櫚の勝利の枝を持って入場します。「王たるキリスト、万歳!」という聖歌を歌いながら、私たちもここに入ります。そしてこの勝利を祝って後に、復活祭に来るのです。

ですからその復活祭まで、この栄光の勝利のしるしであるこの十字架は少し隠して、「イエズス様の苦難を、イエズス様の苦悩を黙想しようではないか」と招いているのです。

じゃあ一体何で福音はこのイエズス様の事を読むのでしょうか?

はい、イエズス様は今から受難の期節に入って受難節に入って、これから大司祭として、最高の司祭として、新約の司祭として至聖所に入り、そしていけにえを捧げて、霊魂の為に御自分の血をもってその教会の中に入る、という事を、「今から受難に入る」という事をここで福音では読もうとするのです。

ですからイエズス様は既にユダヤ人から、敵対するユダヤ人から囲まれて、何か言葉尻をつかもうと、或いはイエズス様を非難しようと狙っている人たちに囲まれている場面が読まれます。

しかしイエズス様はそのような敵に囲まれながらも、荘厳に威厳を持って立って宣言されます、「一体誰が私を罪に告発する事ができるだろうか。私は本当に言う、真に真に私は言う、私の言葉を守る者は死を味わない。アブラハムがあった前に私は居る」など、最高の司祭として、天主としての、真の天主、真の人である大司祭イエズス・キリストが今からいけにえを捧げようとして、ユダヤ人たちに立ち向かうその姿が描かれます。

「これからイエズス様は受難に向かって行くのだ」と言うのです。ですからこそ聖パウロもそれに倣って今日は、「大司祭イエズス・キリストは、旧約の司祭たちのように動物の血ではなく、御自分の血をもって至聖所に、天の最も高い至聖所に一人で入られて、そして贖いを完成させられた。今からこの贖いのいけにえの儀式が始まる。」

ちょうど3月25日には御告げの祝日でしたけれども、イエズス様はマリア様の胎内という香部屋で、大司祭の服を人間の服をまとって、そして「遂に、今からいけにえを捧げる時が来た、至聖所に入るその時が来た」とパウロは私たちに予告しています。

ですからこそ教会は、今日聖ペトロ大聖堂を、バチカンの丘の聖ペトロ大聖堂を指定巡礼教会に選びました。

何故かというと、「12使徒の中で、聖ペトロこそ最高大司祭イエズス・キリストの代理者であって、この聖ペトロ大聖堂に集まる事によって集う事によって、今から荘厳ないけにえの時期が、受難の時期が始まるのだ」と、求道者そして公の悔悛者、或いは信徒の人たちにそれを伝えようとしました。

「2週間後に復活祭が来る。」イエズス様は既に福音の中で仰っているのです、「アブラハムは私の日を見て、すなわち復活の日を見て喜んだ、既に」と。「私たちも既にイエズス様の復活を喜ぶ時が来た。2週間後だ。」

しかし教会はよく知っていました、「十字架こそが勝利の道である」という事を。「イエズス様は最終の勝利者であって、王の王であって、十字架という玉座に君臨し給う、十字架の木をもって統治し給う王の王である」という事をよく知っていました。

「最高の司祭であって、その十字架のいけにえを捧げる事によって贖いを完成させられた」という事を知っていました。ですから「この十字架こそが私たちにとって最も大切な宝であって、宝石であって、金銀よりも勝る、この地上の全ての黄金と比べても、それもこの地上の黄金が財宝が全く塵芥に等しい宝物である」という事よく知っていたのです。

ですから教会はこれほど十字架を飾って、これを隠さなければならないほど、その十字架のイエズス様のいけにえの価値を分かっていました。そして今日逆説的に、「だから私たちも、このイエズス様の宝に与る為に、復活の喜びに与る為に、このイエズス様と共に統治者となる為に、王となる為に、さぁ私たちも一緒に、私たちの日常の生活を十字架として捧げよう。私たちの義務を、苦しみを、十字架として捧げよう。イエズス様の苦しみを少し考えてみよう。確かに十字架はものすごい宝だ。その宝の影にどれほどの苦しみがあったかを考えよう」と招いています。

ですから今週の金曜日には、七つの御悲しみのマリア様の特別の記念もなされます。どれほどこの十字架という宝の陰に、イエズス様の苦しみがあっただろうか、と黙想するためです。

では私たちは一体今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

まず1つは、教会がよく理解したように、私たちも十字架の価値をよく理解しなければなりません。「十字架」というのは、「あぁ、嫌だ」ではなく、まさに私たちの宝の詰まった宝庫なのです。私たちを豊かにさせ、私たちを幸せにして、私たちに統治権を与える、天国への鍵を与える、全ての宝の源、祝福の源であるという事です。王の道こそ十字架の道です。

第2に、この十字架のこの価値は、そのイエズス様の大司祭としての価値に隠されていました。聖ペトロは言います、「お前たちは大司祭の民である。」

残念ながら近代主義の人たちがこの言葉を、或いはプロテスタントの人がこの言葉をおかしく解釈して、「だから、大司祭の民だから、平信徒も一緒にミサの中で聖書を読んだり、或いは聖体を配ったり、或いは司祭と一緒にこう…」

そうではなくて、教会が教えていたのは、「私たちが大司祭の民であるという事は、イエズス・キリストと共に、私たちの日常の生活をいけにえとして捧げる事ができる、私たちの苦しみは永遠の価値を持たせる事ができる、キリストと共に居る事によって、捧げる事によって、私たちの人生、儚い人生が永遠の宝となる。だからその犠牲をいけにえを捧げる事ができる、司祭職に参与できる、キリストの司祭職に参与できるのだ。特にミサに与る事によって参与できるのだ、御聖体を拝領する事によって与る事ができるのだ」と教えているのです。

何と素晴らしい事でしょうか。私たちの嫌な事、いじめられた事、或いは病気、苦しみ、或いは失敗、事故、或いは辛い出来事、悲しみが、永遠の価値を持つ宝になるとは、一体どれほどの喜びでしょうか。何という栄光ある司祭の民でしょうか。

第3に、教会の精神に従って、来たる金曜日が、この受難節にマリア様の事を考えさせる教会の精神に従って、私たちも今年のこの受難節中にはファチマのマリア様を考えましょう。ファチマのマリア様も同じ事を仰っていました、「いけにえと償いを捧げなさい」と。「そうする事によって多くの霊魂を救う事ができる、この世界に平和をもたらす事ができる。私たちのする祈りと犠牲によって、政治家よりももっと大きな平和の為の行為ができる」という事を私たちは知らされました。

ですから特にマリア様に、汚れなき御心のマリア様に、私たちのイエズス様の御受難の黙想と、祈りと犠牲を捧げる事に致しましょう。

「天主からの者は、天主の言葉を聞く。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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