アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月20日(月)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年3月20日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。
今日は聖ヨゼフの霊名を持った霊名の祝日のお祝いも申し上げます。
このミサの直後に司祭が退場する前には、聖ピオ十世会を聖ヨゼフ様にした奉献の更新式、今年で奉献の4年目だと思います。その更新式を行いたいと思います、それから退場を致します。
“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”
「あなたは、彼の頭に貴重な宝石の冠を被せた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヨゼフの祝日にあたって、教会は私たちにとてもきれいな昇階誦という歌を歌いました。その中では、「聖ヨゼフの頭に貴重な宝石の冠を被せた。」その聖ヨゼフの栄光を讃えて歌を歌うように、と言っています。
そこで私たちも、聖ヨゼフの冠に飾られた宝石とは一体何なのか?一体聖ヨゼフにどのような栄光が与えられたのか?
その冠とは何なのか?聖ヨゼフのその冠の素晴らしさ、その栄光の素晴らしさ、与えられた御恵みの素晴らしさというのは一体何だったのか?という事を黙想して、
その後に私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。
では私たちは聖ヨゼフに倣って、聖ヨゼフのこの祝日にあたって、何をどのように決心を立てたら良いだろうか、と遷善の決心を立てましょう。
天主様の御摂理は、非常に深いものがあると思っています。今日今回ミサを捧げる為に、四旬節の第2主日の後の金曜日にここでミサを捧げました。その時に旧約の聖ヨゼフの話が出てきました。
旧約の聖ヨゼフは、イエズス様の前表です。つまり兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけて、そして奴隷として売られて、そしてエジプトに行って、しかしその奴隷となったその主人のポティファルの妻から誘惑を受けるのです。ヨゼフはそれを断り、捕まったにもかかわらずその服を置いたまま、捕まったままそのまま逃げた。しかしその自分の主人の妻から濡れ衣を着せられて、告発されて、本当は無実にもかかわらず投獄されたそのヨゼフ。
そのヨゼフはしかしファラオの夢を解いて、「エジプトに飢饉が来る」という事を知らせ、そしてエジプトのファラオのすぐ下において宰相となって、ファラオは全幅の信頼をおいて、「私のエジプトの地は、私の許可なしには何も動かない。しかしこのヨゼフに全てを委ねる。ヨゼフに行け、もしも何か求めるならヨゼフの元に行け」と命じたほどでした。
そのヨゼフがどうやって殺されかけたかという、「穴に捨てられた」という話を私たちが読んで、まさにこの聖ヨゼフの新約のこのヨゼフの準備をしたかのようです。
ヨゼフ様、私たちの今日祝う聖ヨゼフは、この旧約の太祖ヨゼフ第1のヨゼフによって予告されたかのようです。
何故かというと、旧約のヨゼフは兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけてエジプトに行きましたが、私たちの聖ヨゼフはヘロデの嫉妬によって、「自分の王位が奪われるのではないか」と恐れ、「ユダヤの王が来た、そのユダヤの王を亡き者にしよう」とするヘロデの嫉妬の手から、イエズス・キリスト様を、太祖ヨゼフによって預言されたイエズス様を、私たちのヨゼフはエジプトへと運んで、その命を救おうとされたからです。
しかもエジプトでヨゼフは貞潔を守り、自分の主人に対する忠実を守りました。
それと同じように聖ヨゼフは、童貞中の童貞であるマリア様の貞潔の証人となって、しかも自分の主の主であるイエズス・キリストに忠実を尽くす養父となりました。
さらにヨゼフはエジプトでファラオの夢を解いて、「飢饉が来る。さぁ、今豊作の7年の間にエジプトの小麦を全て蓄えるように。7年の飢饉に備えるように」と進言しました。実際その通りになるのです。ヨゼフは夢のそういう神秘を説く特別の力を与えられました。
しかし新約のヨゼフは、神秘を解釈するのみならず、神秘を、天主の天上の神秘をそのまま生きて、それに参与して、それの目撃証人となりました。
ヨゼフがいたからこそ、ヨゼフのこの非常に苦しみ、悩みがあったからこそ、義人のこの悩みがあったからこそ私たちは、「確かに、マリア様が童貞中の童貞にして、イエズス様が本当に聖霊によって懐胎された」という事が分かります。もしもそうでなかったら、ヨゼフはそのようなそうでないような女性を、石殺しにしたか、或いは何らかの形によって、義人であったヨゼフは別の行動をしていたはずです。
しかし、あまりにもマリア様をよく知り過ぎていて、そしてマリア様のその貞潔と、そしてその天主への愛と、その祈り、その奉献、その心をあまりにもよく知っていて、そして決して嘘をついたり人を裏切ったりする事がない、という事をあまりにもよく知っていた為に、マリア様を疑う事ができなかったのです。皆さんも一緒に生活している人がどのような人か、その人柄が皆さんがよく分かるのと同じです。
それにもかかわらずこの目に見える現実は、マリア様のお腹が大きくなっている。「一体何なのか。」
「マリア様を疑う事はできないし、しかし自分の目は別の事を言っている。理解できない、一体何なのか。」苦悩に苦悩を重ねました。「石殺しにするべきか、律法に従うべきか。いやしかし、マリア様はそのような事はできない人だ。では私はどうするべきだ。この親愛なる、自分の尊敬する愛する、敬愛する自分の妻となるべきマリア様を離れる事は非常に辛いけれども、自分にする事ができる唯一の事は、このまま自分はそのまま消え去る事ではないか、それしかないではないか」と。
そのそこで覚悟を決めたその瞬間、その時、夢で天使の告げを受けたのです、「ヨゼフ、恐れるな。マリアは聖霊によって懐胎しているのだ。その子はこの世を救う為に来られる、生まれる。この生まれる子は救い主となる。イエズスと名付けよ。」
それを朝起きて、平和に満たされて安心して、「あぁ、そういう事だったのか」という事を理解したヨゼフ様の顔を見たマリア様は、どれほどほっとされた事でしょうか。ヨゼフ様もマリア様に、「何で一言言ってくれなかったのか」などと野暮な事は言いませんでした。ニコリと笑って、「全ては分ったよ」という事を伝えて、マリア様もそのヨゼフの安心した平和な顔を見て、「あぁ、分かってくれたのだ。何か特別の恵みがあったのだ」という事を知り、やはりニコッと笑って、そしてあたかも何もなかったかのように理解し合ったことでしょう。
ヨゼフがイエズス様の割礼に与かった時。或いはイエズス様の名前を、「イエズス」と「救い主」と「ヤーウェは救う」という名前を付けた時。或いはイエズス様の御降誕の時、その宿を探そうと一生懸命になった時。またイエズス様がお生まれになったその喜び。或いはシメオンの預言を聞いた時。或いはイエズス様の命が狙われているという事を聞いて、エジプトまで天使の告げを以て行った時。誰も知らないエジプト、自分の知ってる人もいないし、言葉も知らない、全く外国で行ったそのエジプト。夜中に行ったそのエジプト。イエズス様を助ける為に、マリア様を保護する為だけに従ったそのエジプト。またエジプトから帰って来た時の事。或いは12歳のイエズス様を見失なった時のその苦難。
聖ヨゼフは神秘を解釈したのみならず、まさにその神秘を生きて、目撃して、その深みの中に入って行ったのでした。
旧約のヨゼフはエジプトで、「今、豊作の時に小麦を蓄えよ」として、ファラオの小麦を全て蓄えるように言いました、それはエジプトの国民の為でした。私たちの聖ヨゼフは、天から下った生けるパンを私たちの為に保護して下さっていました。それは私たちに、遂に十字架の上で屠られて、そして私たちによって食させる為でした。聖ヨゼフが私たちの為に守って下さらなかったら、私たちにはその天からのパンは有り得ませんでした。
ちょうどファラオが国民に、「もしも何かあれば、困った事があれば、必要なものがあれば、皆国民は全てヨゼフに行くように。お前たちの為にヨゼフがいる。ヨゼフに行け」と言ったように、天主御父はピオ九世、福者ピオ九世の口を通して、「聖ヨゼフこそ教会の最も大切な宝を委ねられた、普遍教会の守護者、全世界に渡る教会の守護者である。ヨゼフに行け、聖ヨゼフに祈れ」と私たちに命じ、勧めてくれました。
歴代の教皇様は、聖ヨゼフに対する特別の信心をもって、私たちに聖ヨゼフに対しての信心をますます高めるように教えて下さっています。一体何故でしょうか?
何故かというと、教皇様たちの話をまとめると、「特別の使命が天主から与えられると、天主はそれに適応するそれに相応しい特別の御恵みを与えるから」です。
イエズス様が受けた人類の贖いのその使命の為には、「天主の本性と人間の本性が、天主の第2のペルソナにおいて一致する」という特別の恵みが与えられました。位格的結合といわれる、もうこれ以上の一致が無いという御恵みが与えられました。
マリア様が天主の御母となるという時には特別の恵みが与えられました、「無原罪の御宿り」、「聖寵の充満」、天主の御母となるべきその準備が与えられました。
聖ヨゼフも、イエズス・キリストの養父、童貞天主の御母の浄配となるべき特別の使命を与えられて、それに相応しい選びの御恵みを与えられました。
教皇様たちによると、「もはや人類において 聖ヨゼフの受けた御恵みと栄光よりも上の者は、イエズス様とマリア様しかいない。洗者聖ヨハネや聖ペトロ、パウロ、或いは使徒たちをはるかに勝る御恵みを、聖ヨゼフは受けた」と言います。
イエズス・キリストとマリア様にあまりにも近く密接に居たそのヨゼフが受けて当然の御恵みと栄光でした。それが天主御父が特にヨゼフ様に与えようとした宝石であり、王冠であり、栄光でありました。
では私たちは今日その聖ヨゼフ様の祝日において、一体どんな決心を立てたら良いでしょうか?
旧約のヨゼフもそうですし、新約の聖ヨゼフ様もそうですが、「天主様は全て御恵みを、その喜びも栄光も、苦しみと共に与えて下さる」という事です。たとえ私たちにとって何か禍であるかのように思われるような事も、一見何か「何でこんな事が起ったのだろうか」と思うような事も、実は霊魂の救いの為にとっては非常に貴重な、とてもこれ以上ない貴重な機会である、という事が分かります。
旧約のヨゼフも新約のヨゼフもそうでした。まさにその苦しみがあったからこそ、それに対応する喜びと、それに対応する栄光が与えられるという事です。贖いにますます参与する事ができるという事です。
ですから今日今回、その四旬節はあたかも中断されたかのように、私たちは聖ヨゼフの祝日を祝っていますが、この四旬節の、与えられた四旬節という機会もどうぞよく利用して、ますます贖いの業に参加する事に致しましょう。
第2は、聖ヨゼフ様は非常に御謙遜で沈黙を守り、聖ヨゼフの言葉が聖書の中に一言も無い。ただ私たちが知っているのは、イエズス様の養父で、マリア様の浄配であり、そして大工であり、義人であるという事です。しかしこの時代が経てば経つにつれて、ヨゼフ様の栄光がますます明らかになり、教皇様たちが口を揃えて、「ヨゼフの方に行け」と。「教会が攻撃を受ければ受けるほど、ヨゼフの方に走り寄るように。ヨゼフに奉献するように、私たちを奉献するように。ヨゼフ様に教会の保護者として委ねるように」言っています。
教皇様だけではありません。ファチマのマリア様も、最後の10月の最終の大奇跡の時には、「ヨゼフ様もいらっしゃる」とヨゼフ様も連れて来ました。ヨゼフ様はイエズス様を抱えて、この地上を祝福させました、ヨゼフ様が。
ですから現代に生きる私たちとって、ヨゼフ様の価値が、ヨゼフ様の必要性がますます大きくなっています。教会が、カトリック教会が、イエズス・キリスト様の真の教会が、攻撃や迫害を受ければ受けるほど、ヨゼフ様にひたすら頼まなければなりません。
天主様の御摂理は、ヨゼフ様の御生涯によれば、天主様の御摂理は全て救いの為になっているという事と、ますますヨゼフ様が必要になっているという事を見ると、最後に私たちは、もしも現代、御聖体に対する危機があって、今御聖体がどこでも無くなってしまっている、ちょうどファラオの時代に危機が来て、どこを探してもパンが無い、ぜひ私たちはもう霊的に飢え渇いている、イエズス様を欲しい、或いはマリア様に対する信心が今どこにも無くなっている、という時には、ますますヨゼフ様の元に行きましょう。ヨゼフ様はその宝庫の中に有り余る、御聖体に対する、イエズス・キリストに対する信心と、マリア様に対する信心を持っています。ヨゼフ様こそ、生涯をイエズス様とマリア様の奉仕の為に使った男でした。
ヨゼフ様にひたすらに祈って、この私たちの為にも、また私たちを取り巻く全ての日本の人々の為にも、御聖体に対する愛と、マリア様の汚れなき御心に対する愛を配って下さるように、私たちに分け与えて下さるように、ヨゼフ様に乞い求めましょう。そしてそうする事によってますます、ヨゼフ様の栄光の冠が輝き出ますように、私たちがますますヨゼフ様の冠に付けられる宝石、きれいな宝石の一粒一粒となりますように、その御恵みを乞い求めましょう。
“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月20日(月)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月20日(月) 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフのミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年3月20日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。
今日は聖ヨゼフの霊名を持った霊名の祝日のお祝いも申し上げます。
このミサの直後に司祭が退場する前には、聖ピオ十世会を聖ヨゼフ様にした奉献の更新式、今年で奉献の4年目だと思います。その更新式を行いたいと思います、それから退場を致します。
“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”
「あなたは、彼の頭に貴重な宝石の冠を被せた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヨゼフの祝日にあたって、教会は私たちにとてもきれいな昇階誦という歌を歌いました。その中では、「聖ヨゼフの頭に貴重な宝石の冠を被せた。」その聖ヨゼフの栄光を讃えて歌を歌うように、と言っています。
そこで私たちも、聖ヨゼフの冠に飾られた宝石とは一体何なのか?一体聖ヨゼフにどのような栄光が与えられたのか?
その冠とは何なのか?聖ヨゼフのその冠の素晴らしさ、その栄光の素晴らしさ、与えられた御恵みの素晴らしさというのは一体何だったのか?という事を黙想して、
その後に私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。
では私たちは聖ヨゼフに倣って、聖ヨゼフのこの祝日にあたって、何をどのように決心を立てたら良いだろうか、と遷善の決心を立てましょう。
天主様の御摂理は、非常に深いものがあると思っています。今日今回ミサを捧げる為に、四旬節の第2主日の後の金曜日にここでミサを捧げました。その時に旧約の聖ヨゼフの話が出てきました。
旧約の聖ヨゼフは、イエズス様の前表です。つまり兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけて、そして奴隷として売られて、そしてエジプトに行って、しかしその奴隷となったその主人のポティファルの妻から誘惑を受けるのです。ヨゼフはそれを断り、捕まったにもかかわらずその服を置いたまま、捕まったままそのまま逃げた。しかしその自分の主人の妻から濡れ衣を着せられて、告発されて、本当は無実にもかかわらず投獄されたそのヨゼフ。
そのヨゼフはしかしファラオの夢を解いて、「エジプトに飢饉が来る」という事を知らせ、そしてエジプトのファラオのすぐ下において宰相となって、ファラオは全幅の信頼をおいて、「私のエジプトの地は、私の許可なしには何も動かない。しかしこのヨゼフに全てを委ねる。ヨゼフに行け、もしも何か求めるならヨゼフの元に行け」と命じたほどでした。
そのヨゼフがどうやって殺されかけたかという、「穴に捨てられた」という話を私たちが読んで、まさにこの聖ヨゼフの新約のこのヨゼフの準備をしたかのようです。
ヨゼフ様、私たちの今日祝う聖ヨゼフは、この旧約の太祖ヨゼフ第1のヨゼフによって予告されたかのようです。
何故かというと、旧約のヨゼフは兄弟たちからの嫉妬によって殺されかけてエジプトに行きましたが、私たちの聖ヨゼフはヘロデの嫉妬によって、「自分の王位が奪われるのではないか」と恐れ、「ユダヤの王が来た、そのユダヤの王を亡き者にしよう」とするヘロデの嫉妬の手から、イエズス・キリスト様を、太祖ヨゼフによって預言されたイエズス様を、私たちのヨゼフはエジプトへと運んで、その命を救おうとされたからです。
しかもエジプトでヨゼフは貞潔を守り、自分の主人に対する忠実を守りました。
それと同じように聖ヨゼフは、童貞中の童貞であるマリア様の貞潔の証人となって、しかも自分の主の主であるイエズス・キリストに忠実を尽くす養父となりました。
さらにヨゼフはエジプトでファラオの夢を解いて、「飢饉が来る。さぁ、今豊作の7年の間にエジプトの小麦を全て蓄えるように。7年の飢饉に備えるように」と進言しました。実際その通りになるのです。ヨゼフは夢のそういう神秘を説く特別の力を与えられました。
しかし新約のヨゼフは、神秘を解釈するのみならず、神秘を、天主の天上の神秘をそのまま生きて、それに参与して、それの目撃証人となりました。
ヨゼフがいたからこそ、ヨゼフのこの非常に苦しみ、悩みがあったからこそ、義人のこの悩みがあったからこそ私たちは、「確かに、マリア様が童貞中の童貞にして、イエズス様が本当に聖霊によって懐胎された」という事が分かります。もしもそうでなかったら、ヨゼフはそのようなそうでないような女性を、石殺しにしたか、或いは何らかの形によって、義人であったヨゼフは別の行動をしていたはずです。
しかし、あまりにもマリア様をよく知り過ぎていて、そしてマリア様のその貞潔と、そしてその天主への愛と、その祈り、その奉献、その心をあまりにもよく知っていて、そして決して嘘をついたり人を裏切ったりする事がない、という事をあまりにもよく知っていた為に、マリア様を疑う事ができなかったのです。皆さんも一緒に生活している人がどのような人か、その人柄が皆さんがよく分かるのと同じです。
それにもかかわらずこの目に見える現実は、マリア様のお腹が大きくなっている。「一体何なのか。」
「マリア様を疑う事はできないし、しかし自分の目は別の事を言っている。理解できない、一体何なのか。」苦悩に苦悩を重ねました。「石殺しにするべきか、律法に従うべきか。いやしかし、マリア様はそのような事はできない人だ。では私はどうするべきだ。この親愛なる、自分の尊敬する愛する、敬愛する自分の妻となるべきマリア様を離れる事は非常に辛いけれども、自分にする事ができる唯一の事は、このまま自分はそのまま消え去る事ではないか、それしかないではないか」と。
そのそこで覚悟を決めたその瞬間、その時、夢で天使の告げを受けたのです、「ヨゼフ、恐れるな。マリアは聖霊によって懐胎しているのだ。その子はこの世を救う為に来られる、生まれる。この生まれる子は救い主となる。イエズスと名付けよ。」
それを朝起きて、平和に満たされて安心して、「あぁ、そういう事だったのか」という事を理解したヨゼフ様の顔を見たマリア様は、どれほどほっとされた事でしょうか。ヨゼフ様もマリア様に、「何で一言言ってくれなかったのか」などと野暮な事は言いませんでした。ニコリと笑って、「全ては分ったよ」という事を伝えて、マリア様もそのヨゼフの安心した平和な顔を見て、「あぁ、分かってくれたのだ。何か特別の恵みがあったのだ」という事を知り、やはりニコッと笑って、そしてあたかも何もなかったかのように理解し合ったことでしょう。
ヨゼフがイエズス様の割礼に与かった時。或いはイエズス様の名前を、「イエズス」と「救い主」と「ヤーウェは救う」という名前を付けた時。或いはイエズス様の御降誕の時、その宿を探そうと一生懸命になった時。またイエズス様がお生まれになったその喜び。或いはシメオンの預言を聞いた時。或いはイエズス様の命が狙われているという事を聞いて、エジプトまで天使の告げを以て行った時。誰も知らないエジプト、自分の知ってる人もいないし、言葉も知らない、全く外国で行ったそのエジプト。夜中に行ったそのエジプト。イエズス様を助ける為に、マリア様を保護する為だけに従ったそのエジプト。またエジプトから帰って来た時の事。或いは12歳のイエズス様を見失なった時のその苦難。
聖ヨゼフは神秘を解釈したのみならず、まさにその神秘を生きて、目撃して、その深みの中に入って行ったのでした。
旧約のヨゼフはエジプトで、「今、豊作の時に小麦を蓄えよ」として、ファラオの小麦を全て蓄えるように言いました、それはエジプトの国民の為でした。私たちの聖ヨゼフは、天から下った生けるパンを私たちの為に保護して下さっていました。それは私たちに、遂に十字架の上で屠られて、そして私たちによって食させる為でした。聖ヨゼフが私たちの為に守って下さらなかったら、私たちにはその天からのパンは有り得ませんでした。
ちょうどファラオが国民に、「もしも何かあれば、困った事があれば、必要なものがあれば、皆国民は全てヨゼフに行くように。お前たちの為にヨゼフがいる。ヨゼフに行け」と言ったように、天主御父はピオ九世、福者ピオ九世の口を通して、「聖ヨゼフこそ教会の最も大切な宝を委ねられた、普遍教会の守護者、全世界に渡る教会の守護者である。ヨゼフに行け、聖ヨゼフに祈れ」と私たちに命じ、勧めてくれました。
歴代の教皇様は、聖ヨゼフに対する特別の信心をもって、私たちに聖ヨゼフに対しての信心をますます高めるように教えて下さっています。一体何故でしょうか?
何故かというと、教皇様たちの話をまとめると、「特別の使命が天主から与えられると、天主はそれに適応するそれに相応しい特別の御恵みを与えるから」です。
イエズス様が受けた人類の贖いのその使命の為には、「天主の本性と人間の本性が、天主の第2のペルソナにおいて一致する」という特別の恵みが与えられました。位格的結合といわれる、もうこれ以上の一致が無いという御恵みが与えられました。
マリア様が天主の御母となるという時には特別の恵みが与えられました、「無原罪の御宿り」、「聖寵の充満」、天主の御母となるべきその準備が与えられました。
聖ヨゼフも、イエズス・キリストの養父、童貞天主の御母の浄配となるべき特別の使命を与えられて、それに相応しい選びの御恵みを与えられました。
教皇様たちによると、「もはや人類において 聖ヨゼフの受けた御恵みと栄光よりも上の者は、イエズス様とマリア様しかいない。洗者聖ヨハネや聖ペトロ、パウロ、或いは使徒たちをはるかに勝る御恵みを、聖ヨゼフは受けた」と言います。
イエズス・キリストとマリア様にあまりにも近く密接に居たそのヨゼフが受けて当然の御恵みと栄光でした。それが天主御父が特にヨゼフ様に与えようとした宝石であり、王冠であり、栄光でありました。
では私たちは今日その聖ヨゼフ様の祝日において、一体どんな決心を立てたら良いでしょうか?
旧約のヨゼフもそうですし、新約の聖ヨゼフ様もそうですが、「天主様は全て御恵みを、その喜びも栄光も、苦しみと共に与えて下さる」という事です。たとえ私たちにとって何か禍であるかのように思われるような事も、一見何か「何でこんな事が起ったのだろうか」と思うような事も、実は霊魂の救いの為にとっては非常に貴重な、とてもこれ以上ない貴重な機会である、という事が分かります。
旧約のヨゼフも新約のヨゼフもそうでした。まさにその苦しみがあったからこそ、それに対応する喜びと、それに対応する栄光が与えられるという事です。贖いにますます参与する事ができるという事です。
ですから今日今回、その四旬節はあたかも中断されたかのように、私たちは聖ヨゼフの祝日を祝っていますが、この四旬節の、与えられた四旬節という機会もどうぞよく利用して、ますます贖いの業に参加する事に致しましょう。
第2は、聖ヨゼフ様は非常に御謙遜で沈黙を守り、聖ヨゼフの言葉が聖書の中に一言も無い。ただ私たちが知っているのは、イエズス様の養父で、マリア様の浄配であり、そして大工であり、義人であるという事です。しかしこの時代が経てば経つにつれて、ヨゼフ様の栄光がますます明らかになり、教皇様たちが口を揃えて、「ヨゼフの方に行け」と。「教会が攻撃を受ければ受けるほど、ヨゼフの方に走り寄るように。ヨゼフに奉献するように、私たちを奉献するように。ヨゼフ様に教会の保護者として委ねるように」言っています。
教皇様だけではありません。ファチマのマリア様も、最後の10月の最終の大奇跡の時には、「ヨゼフ様もいらっしゃる」とヨゼフ様も連れて来ました。ヨゼフ様はイエズス様を抱えて、この地上を祝福させました、ヨゼフ様が。
ですから現代に生きる私たちとって、ヨゼフ様の価値が、ヨゼフ様の必要性がますます大きくなっています。教会が、カトリック教会が、イエズス・キリスト様の真の教会が、攻撃や迫害を受ければ受けるほど、ヨゼフ様にひたすら頼まなければなりません。
天主様の御摂理は、ヨゼフ様の御生涯によれば、天主様の御摂理は全て救いの為になっているという事と、ますますヨゼフ様が必要になっているという事を見ると、最後に私たちは、もしも現代、御聖体に対する危機があって、今御聖体がどこでも無くなってしまっている、ちょうどファラオの時代に危機が来て、どこを探してもパンが無い、ぜひ私たちはもう霊的に飢え渇いている、イエズス様を欲しい、或いはマリア様に対する信心が今どこにも無くなっている、という時には、ますますヨゼフ様の元に行きましょう。ヨゼフ様はその宝庫の中に有り余る、御聖体に対する、イエズス・キリストに対する信心と、マリア様に対する信心を持っています。ヨゼフ様こそ、生涯をイエズス様とマリア様の奉仕の為に使った男でした。
ヨゼフ様にひたすらに祈って、この私たちの為にも、また私たちを取り巻く全ての日本の人々の為にも、御聖体に対する愛と、マリア様の汚れなき御心に対する愛を配って下さるように、私たちに分け与えて下さるように、ヨゼフ様に乞い求めましょう。そしてそうする事によってますます、ヨゼフ様の栄光の冠が輝き出ますように、私たちがますますヨゼフ様の冠に付けられる宝石、きれいな宝石の一粒一粒となりますように、その御恵みを乞い求めましょう。
“Posuisti in capite ejus coronam de lapide pretioso.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。