【撮影地】神奈川県鎌倉市七里ヶ浜(2009.2月撮影)
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波間にきらめくサーファーたち、風に乗るトビ、護岸壁から足を投げ出して海を見ている女。国道134号線沿いへ目を移せば、かわいらしい店が立ち並ぶ。何もかもが、おだやかな春の光の中で輝いている。
海からの春風が吹き抜けていく。暖かな日差しと、2月の浜を散歩する人たちに、元気をもらって歩き続ける。
海に流れ込む小川が何箇所か行く手をさえぎる。だが、コンクリート橋が架けられているので難なく渡れた。
中国からの観光客だろう。女たちが止めるのを振り切って、中年の男が助走をつけて1mぐらいの小川を飛び越した。まぶしいぐらいの順光の中、はずみをつけた男の体は砂浜から舞い上がり、川を飛び越してぎりぎりの端へ着地。
女たちから中国語の歓声があがる。国道沿いを見上げれば、かわいい江ノ電と道行。
波打ち際をぶらつくぼくに、若い女性からレンズを向けられた。きっと、ぼくは光にきらめく海をバックにシルエットで浮かび上がっているのだろう。すかさず、ぼくもシャッターをおして返礼。
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でも、北海道でもこの寒い冬は波が荒れて絶好というサーファーがいると風の噂で聞いたことがあります。
ところで、コメントありがとう。一つ下の記事にコメント場所がずれていたようですので、探す時は気をつけてね。
tetujin節全開ですね(^O^)/
1枚目の写真はtetujinさんらしくていいですねー。
で、明日はラブ・ストーリーが読めるのですね!うひゃうひゃ
私は常に3枚目みたいな片岡義男の文庫本に表紙になりそうな、そんな写真を目指しているのですが、どこでどう道を踏み外してしまったんでしょうか???
ってか、明日はラブ・ストーリーというよりも
「かふして私は堕ちていくのだらうか・・・」みたいなwww
サーファーが言う風波(rough)とは、うねりではなく、風の影響で立った波のことを言うんですが、冬の北海道のはんぱない北風は、いくらドライスーツを着ているとは言え、相当の勇気が必要でしょうね。先日、1月の御宿で夜明け前の海に入っていくサーファーを見かけました。砂浜が凍りつくほどの寒さの中、本気モードのサーファーはすんごいですね。
コメントをつける場所を間違えてごめんなさい。
>あららぁ~遊びすぎですね
さすが、umeちゃん、わかってらっしゃる。15時間寝たら、何事もなかったように全開(全壊)しますた。・・・遊びすぎっつうか、寝てねえっつうか。。
えーっと、再来週の週末に、雲見を目指してちゃりんこのロードに出る予定です。
今週(13日の金曜日)は避けて。。ジェーソン氏とはどうやら相性が悪いようで。詳しくは、拙作の”ジェーソン氏へ”をご参照ください。
ここね→
http://pub.ne.jp/tetujin/?daily_id=20070719
天候不順でも、雲見には絶対に行きますので、よろしく。
1枚目の写真。けっして、tetujinらしいわけではなくて、逆光で写真は難しいので素人は手を出しちゃダメという基本がわかってないだけで・・・。
えーっと、Daiさんお勧めの山頭火はもちろんのこと、太宰治や (削除)宮沢賢治(削除)など身を持ち崩した不幸の作家たちさへも、らぶ・すとーりーは書いてないよふなので、大先輩をさしをいて、てつじんごときが、らぶ・すとーりーを書くなんて言語道断かと。。
っていうか、”ほしくず”ノート(アイコ)と、振られた数は”ほしのかず”というよふに、韻を踏んでみただけで・・・。
おやぢギャグにならないところが、tetujinの人徳のなせる業なのですが、いつも解説をしないと、その文学的な価値を、誰もがわかってくれなくて・・・。まあ、自分さへもわかっていないようなんですが。
っつうか、こないだ、失恋で涙している女性に、”俺なんか振られた数は星の数”ってなぐさめたら、”お前はそんなに女を泣かしているのか”と素朴に質問されて、”おめえ、日本語がわかってるのか”と思わず、聞き返しちまいました。
”彼女の視線を吸い込んで話さないだけの奥行きさをたたえて、夜のはじまりの空が頭上に広がった。”
学生のころ、片岡義男を片っ端から読んでいました。いつか、あんな恋愛をしてみたいと。片岡義男は、それまでのドロドロした恋愛小説とは一線を区画した、新しいレンアイのジャンルを創造したのかもしれませんね。”一日じゅう空を見ていた”で描かれたあのシーンは、幸福のひとつの理想形なのですかね。
恋人の運転するオープンカーで一日じゅう空をみた誕生日の物語。80年代のまだバブルを知らなかった頃。
あまりにも、新しすぎたがゆえに、激しくきらめいた分、彼の恋愛小説は燃え尽きてしまったのでせうか。
女心などわからなかった男は、それから何十年も経ってやっと知ることになるはず。
どんなに用心しようとも、恋はするものではなく堕ちるものであること。そして人生が限りあるものであるということも。
こんな片岡義男の小説を、今、読んでみたいですね・・・。
「かふして私は堕ちていくの・・・でしょう。どこまでも。一枚の写真とともに」