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丹沢・大山を登る

2013-10-10 13:47:21 | 丹沢
大山詣
享保年間(1716~35)以降、幕末にかけて江戸の人々の信仰熱が高まり、旧暦の6月27日(新暦8月3日)の山開きから7月17日(新暦8月23日)までの期間に大山へ登ることが人気となった。
そこで江戸っ子たちは、講中(こうじゅう)を集めて大山詣(おおやまもうで)へと出かけた。
このことを特別に盆山と云ったそうだ。
盆山とは大山山頂の阿夫利(あふり・雨降りのなまりと伝えられる)神社まで詣で、ここに8寸(24cmほど)から1丈(3mほど)の納太刀(おさめだち)を奉納して、他の講中が納めた別の納太刀をもらって帰る参詣であった。
源頼朝が、武運長久と除災を祈願して剣を供えたことが、納太刀の起源とされる。
体力のなくて山頂まで登れぬ参詣者は、中腹にある石尊不動堂で終わることも少なくなかった。今で云うと、700mの阿夫利神社(大山石尊)や520mの大山寺(不動堂)までということだった。
参詣が終わると江戸っ子たちは、帰りに江の島参詣や鎌倉見物などをする、3~4日の小旅行をして楽しんだようだ。
それが落語・大山詣のはなしである。
また、時代ドラマ「陽炎の辻」で主人公の坂崎磐音とおこんが今津屋吉右衛門夫婦のお供で大山詣でをしたシーンもありましネ。
当時は、富士登山の富士講もあったが、気軽に登れる大山詣では人気が高かったようだ。

あとで知ったことだが「大山は富士山のお父さん」だと云う。
これは何なのかと云うと
阿夫利神社に祀られている神様、大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)と富士山に祀られている木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は父と娘の関係に当たると云う。
それで昔から、大山と富士山のひとつだけに詣でるのは片参りと云われ、両方に詣でるのが良いとされていたようだ。

今回の雨降山(大山・1,252m)山頂へハイクは、当時の江戸ッ子がうらやむ中間をパスしてヤビツ峠(761m)からの登山であった。
と、云うことで阿夫利神社よりちょっと高いところから登り始めた。
明け方に雨が降ったのか山道(参道)はもとより草木までも露に濡れていた。
その名の通り、雨降山であった。

         




すぐに深くえぐれている山道に


鎖を手繰って登る鎖場もある


阿夫利神社下社からの山道との合流後はすぐに大きな石ばかり


グレーチングの階段 鹿が山頂に行かぬように設けた


グレーチングの階段を過ぎたら山頂はまもなく


阿夫利神社本社 一の鳥居 寄進者は今は消えた神田の町名がぎっしり記す


阿夫利神社本社 二の鳥居 初代は1798(寛政10)年と記す


二の鳥居の脇には最後の道標二十八丁目の石柱も


雨降り神社と云うことで火消しや鳶の信仰が篤かった


阿夫利神社本社 拝殿




奥の院はシャッターが閉じていた だが休日は開いている(右)

                  
「ご神木 雨降の木」 一説にはブナの木のようだ

 

山道で出会った花々

フジアザミ
表尾根では見かける花だが大山で出会うとは思わなかった



センブリ
薬用として胃の万能薬と云われるが苦いだけで効果がないとの説も



ノコンギク


ノハラアザミ


リンドウ
りんりん りんどうは 濃むらさき



ホトトギス



大山詣について御託を並べたが、今回の大山ハイクは、この夏あまりにも暑くて行動しないことで、足がなまってしまったからである。
何せ、関東大震災の関係場所散策で元町から山手の丘を登るだけでフーフーしてしまうほどであった。
足慣らしが今回の目的である。
        

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