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本郷を歩く

2012-11-03 13:01:51 | 東京散策
               文化・文学と歴史を感ずる「文教」の町・本郷


駒込界隈に別れ、本郷通りを南下して本郷に向かう。
散策の計画表に『しばらく歩く』と記したが、そのしばらくが本当に長い。沿道は寺院がいやに多いのだが何故だろうかと思いながら歩く。
東京メトロの「東大前駅」に到着してホッとする。
40分ほど歩いてようやく目的地に着いた。

         

東大農正門
農正門は、1935(昭和10)年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937(昭和12)年に創建された。
現在の門は2003(平成15)年に木曾ヒノキ材を用いて復元された。
          

弥生式土器発掘ゆかりの地  文京区弥生2-11
弥生式土器の発見は、1884(明治17)年。東大の学生が、根津の谷から、赤焼きの壺を発掘した。後に、縄文土器と違うことが認められ、弥生式土器と命名され、このことからこの時代を弥生時代と呼ばれるようになった。彼らは発掘地を正確には書き残していなかっので、候補地は数カ所ある。
         

                   
記念碑の裏面には建立の主旨が書かれている。それによると、
『(前略)むかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げた。弥生時代という重要な文化期の存在が知られた。
私たちは、こうした歴史の壮大で匂(にお)やかなロマンを憶(おも)いふるさとわが町の誇りを語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この碑を建てた。(後略)        向ヶ丘弥生町有志』
向ヶ丘弥生町とは、1965(昭和40)年までの町名で、
江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷があった。1872(明治5)年、町名ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。町名は水戸家九代斉昭(なりあき)が屋敷内に建てた歌碑からとった。
とある。現在の町名は弥生二丁目。

 
東大正門
築地本願寺の設計等で著名な伊藤忠太氏のデザインによるもので、赤門ほどの派手さはないものの、花崗岩を貼った重厚な門柱がアカデミックな雰囲気を漂わせている。
正門を入ると安田講堂に向かって銀杏並木がまっすぐ続いているようだ。
         

東大赤門(旧加賀藩前田家上屋敷御守殿門)  文京区本郷7-3
1615(元和元)年の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家(前田利長)が幕府から現在の東京大学の敷地を賜り加賀藩の下屋敷が置かれた。1683(天和3)年には上屋敷となり、江戸時代を通じて加賀藩の上屋敷が置かれ、江戸時代を代表する大大名の広壮な大名屋敷がこの地に築かれた。
1827(文政10)年加賀藩十三代藩主前田斉泰(なりやす)は、徳川十一代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えるに当たり、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際の慣例に従い、朱塗りの門を創建した。
江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を朱塗りにしたところから、表門の黒門に対して赤門と呼ばれた。赤門は焼失に際して再建を許されない慣習があり、前田家はこの赤門を消防隊「加賀鳶」を置いて守ったという。この御守殿門は往時の原型を残す唯一の門である。
建築様式は切妻作りの薬医門で、左右に唐破風の番所を置く。屋根上部の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢を配する。
1877(明治10)年東京大学に移管され、1961(昭和36)年に解体修理、現在は国の重要文化財に指定されている。
安政の大地震や1868(明治元)年の火事によりそのほとんどが焼失し、当時を偲ばせる建物として現在本郷キャンパスに残っているのは、赤門だけとなった。
         

         

東大の塀が永遠と続く。


本郷かねやす  文京区本郷2-40-11(本郷通り本郷三丁目交差点角)
「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医(歯医者)をしていた。徳川家康が江戸入府に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。
元禄年間(1688~1703)に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。
1730(享保15)年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があった辺りから南側の建物には塗屋(ぬりや・外壁を土・モルタル・漆喰(しっくい)などで厚く塗った建物のこと)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。
         

                     

                 
東京メトロ丸の内線本郷三丁目
駒込から本郷への散策も終わりとなった。季節がら日暮れが早いのでここまで来れるか分らなかった。実に歩いたものである。歩数計で33千歩余であった。
          
    
『本郷を歩く』といっても東大周辺を歩いたにすぎなかったが、このあたりは樋口一葉の旧居跡などもあって、文化・文学と歴史を感ずる「文教」の町だという。
本来は谷根千を回った際に立ち寄る予定の町であったが、その時は、本郷の手前で限界となり、今回の「駒込から本郷に」に結びつけたが、少々きついコースだった。何しろ40分もただ歩くだけの時間が生じてしまったからである。
その「谷根千の散策(ちい散歩最後の谷根千を歩く)」だが、偶然の出来事を生んだ散策となった。その後も「谷根千の散策」にまつわる『偶然』が起きていた。
谷中銀座の「夕やけだんだん」で見かけた学者先生が、2~3日後に写真付きの記事で新聞に載った。
その後、湯島から上野、谷根千、本郷の地図が「上野寄り道のススメ」として見開き2頁で新聞に載った。それはまさに私が計画した散策コースそのものであった。
偶然の出来事とは面白い。『人生とは、偶然の積み重ね』と、どこかで読んだことがある。人生とは、偶然があるから面白いともいわれる。これまでも、町を歩いていて多くの偶然と思えることに出会った。

それでは、今回の「駒込から本郷へ」の散策では『偶然』はあったのだろうか。
それが、あったような・・・・。
                 

このオリンピックの招致のポスター、六義園で撮ったものである。
入る際には気にならなかったポスターなのに、何故か出るときに写した。これまで東京の名所や町を色々と歩いているので何所かで眼についたポスターのはずなのに、今回は何故に気になったのかは不思議である。
この写真を撮った1時間後にオリンピック招致の旗振り役である石原都知事が辞任の記者会見を行った。偶然。
「任期を余し、五輪を残し突然に」と、任期2年余りを残して辞任した都知事の記事が新聞には載っていた。
偶然の出来事とは面白いものだ。


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