モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その50:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相④

2008-08-18 08:14:57 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~フランシス・マッソンとバンクス卿
フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)をレゾルーション号に押し込んだのは、
ジョセフ・バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 -1820)だった。

ところが、キャプテン・クックの航海日誌にはマッソンのことは何も書かれていないだけでなく、
幽霊人員が1名いた。

第二回航海の旗艦レゾルーション号と僚船のアドヴェンチャ号の人数・役職などを確認すると
プリマス出港時の1772年7月13日時点では、レゾルーション号の乗員は、士官92名、海兵隊20名で定員計112名。
ジェントルマンと従者は定員外で、天文学者と従者1名。ドイツの植物学者フォスター父子と従者1名、
風景画家ウイリアム・ホジスの6名で乗員合計118名となる。
アドヴェンチャ号は全部で83名で、天文学者ベイリと従者1名がその中に含まれる。

7月15日に船の全乗員を点呼したところ、定員より1名多いことを発見。
これは秘書官が誤りを犯したためだ。と書かれているが、
この1名がマッソンのようだ。

このような乗員名簿に載らずに乗船する無茶が出来たのにはワケがあり、バンクスを説明する必要がある。

キュー植物園の戦略的なポジションを創始したバンクス
バンクスは、クック探検隊が出発した翌年の1773年にキュー植物園の責任者になり、
その後英国の科学技術の総本山である王立協会の会長として
英国の科学技術を推進した人物であり、英国の躍進を支えたキーマンでもあった。

彼は、膨大な資産を相続し、腕白そのもので、学歴というものがなく、
私費で興味を持った植物学の一流の学者を雇い勉強するような型破りの人物でもあった。

彼が25歳の時、キャプテン・クックの第一回の太平洋航海に膨大な寄付を行い
博物学者・植物学者そしてパトロンとして同行した。

帰国後は、時代の寵児として宮廷・社交界などでもてはやされたが、
科学的な思考とそのマネジメントはこの時代をリードできるモノがすでにあった。
いまの時代は当たり前だが、情報を集めるために自前の金を使い
組織的に人材とシステムを整備していくところが素晴らしい。

そして集まった情報は秘匿せずにオープンに公開したので、利用者は、お礼の情報を持ってくるので、
植物の情報が集まるセンター化していった。
これがバンクスの書斎であり、そして、キュー王立植物園だ。

マッソンが名簿に載っていないのは?
バンクスは、太平洋探検の第二回は自分が指揮者と決めていた。
快適に船旅が出来るように自分の船室の大改造を希望し、そのとおり改造したところ
バランスが悪くなり沈没しかねなくなったので、バンクスに断りなく元に戻した。

これがバンクスの怒りをかい、ドタキャンとなった。
バンクスは、16名もメンバーをそろえていたので、このメンバーとフィンランド探検に出かけた。

かわりに、マッソンを押し込んだ。というのが流れだが、
このときは、バンクスはキュー植物園の責任者でもないので、
自分のお金でマッソンを押し込み、翌年1773年にキュー植物園の責任者になったので、肩書きを後日修正したというのが筋のようだ。

わがままなバンクスがイギリスの科学技術の基盤を創ったというから面白い。

キャプテン・クックは、わがままなバンクスの上を行っているようで、
バンクスのわがままに反論せず、船が沈没する可能性が高いのを承知していたのではないかと思われる。
当時の海軍大臣サンドゥイッチ候は、バンクスの幼少からの無二の友だが、
最後は、キャプテン・クックを取らざるを得なかったようだ。

こんなドタバタ劇があったからマッソンが歴史に登場し記録として残るチャンスが出たともいえる。
マッソン、クック、バンクスとも損のなかったドタバタ劇のようだ。

成長・発展などは、振り返ってみるとこんな個人の、わがままの争いを内包しており
それぞれが生き残るから成長したのだろう。
余裕がないところは、資源を配分しない理屈として“選択と集中”を採用するのでわかりやすい。


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