モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ

2008-11-14 09:51:24 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

国際港湾都市となった喜望峰・ケープ
喜望峰は、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて、
オランダ艦隊の補給基地を建設したことから植民地化が始まった。

ポルトガルが開拓した東洋への航路なのに、何故簡単に喜望峰をオランダに渡したのかが疑問だったが、その理由がわかった。
ポルトガルは、アフリカ西海岸にあるルアンダ(アンゴラの首都)と東海岸にあるモザンビーク以南では領土を占有しなかった。その理由は、
(1)1510年には、インド副王の任期を終えたフランシスコ・グルメイダがケープ半島北端のテーブル湾において地元の住民と争い殺された。
(2)モザンビークとケープの間の海は、嵐を呼びやすい海、激しい海流、危険な浅瀬があり経験上航海が危険であることを知っていた。
(3)金以上の価値があった東洋の胡椒を目指していたので、アフリカに余分な投資をする必然性がなかった。

一方、ポルトガルへの挑戦者オランダは、
1649年に船を失ってその冬にテーブル湾で過ごしたオランダの船員たちが
オランダ東インド会社に喜望峰の占有を提案したら、
その3年後の1652年にヤン・ファン・リーベックが艦隊の補給基地として砦を建設した。

この時代はまだ“壊血病”という存在を知らなかったが、
新鮮な野菜・果物・肉などが船乗り達の死亡を予防するという経験的な知識を持っていたのは
オランダとクック船長のようなごく一部のエキスパートだけのようだ。

オランダ東インド会社は、新鮮な野菜などを提供する補給基地が欲しくて喜望峰に目をつけた。

イギリスでも1620年にケープを占有するよう政府に提案した船長がいたようだが
無視されたほどで、イギリスでは喜望峰の価値を知らなかったようだ。

18世紀後半、マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃の喜望峰
スパルマンは、1765年に船医として中国に行きその体験から博物誌を書き、
1772年初めになんと家庭教師の職を見つけたので喜望峰にやってきた。
17世紀半ば以降は、家庭教師の職があるほどケープタウンは発展していたようだが、
発展のプロセスをプロットしてみると・・・

・1652年にヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて城砦を建設する。
・1659年東インド会社は従業員9人を解雇し、テーブル湾から10キロ南のロンデボッシュに20エーカーの土地を与え、穀物・野菜などを栽培し決められた値段で東インド会社に売る契約を結ぶ。
・これ以降積極的に従業員の解雇、オランダからの移民受け入れ、フランスからオランダに1685年以降移住したユグノー教徒を受け入れた。
・1679年まではケープ半島のみが入植地で、この年からテーブル湾から東へ48キロほどにあるステレンボッシュに入植地を拡大。
・原住民は土地を奪われたのでさらに遠くに移動するか、東インド会社の労働者として働くかの二者択一となるが身分的には奴隷ではなかった。
・1707年の入植者数(奴隷および原住民を除く)は、会社従業員700人、入植者2000人となった。
・これが、1793年には13,830人の自由市民(男4,032、女2,730、子供7,068)で入植者の多くは、オランダ、ドイツでは成功のおぼつかない低階層出身者だった。
・1793年の奴隷人口は、14,743人で自由市民を超える。ケープでの奴隷の移入は、1658年にリーベックが会社に提案した時からはじまる。東南アジア、中近東からの奴隷も多く、アフリカからの奴隷が多いアメリカ大陸と異なる。

マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃のケープ植民地は、
自由市民13,830人、奴隷14,743人と原住民で3万人を超える人口になっていたようだ。
この頃には貧富の格差がはっきりし、学校などの教育制度がしっかりしていなかったので
金持ちはヨーロッパから家庭教師を採用し、スパルマンがこれに応じた。

農業だけでは成長しないが、オランダ艦隊向けの港湾施設と船舶へのサービスが拡張し、
各国の船舶にサービスを提供する国際都市として成長したので3万人強の人口となったのだろう。

都市になるとあらゆる職業が出現し、犯罪者・逃げた奴隷などは、
ケープタウン背後の1000m級の山、テーブル・マウンテンに隠れたようで、
温暖な気候、豊かな自然は自給自足の逃亡生活には適していたようだ。
マッソンもテーブル・マウンテンにはよく行き、そこで山賊に襲われたという。

物価はイギリスと変わらないが、船舶関係の修理などはべらぼうに高かったようで、
ここで利益を出していたようだが、オランダ東インド会社はずさんな経理システムのため
世界初の株式会社として1602年に誕生したが、マッソンがこの地を去った直後の1799年に倒産し
オランダが世界の海を支配した時代は終わり、イギリスに取って代わられる。
このあとのオランダは、わずかに日本との交易が残るだけとなる。

(地図)マッソン及びツンベルクとのプラントハンティングの地域とケープ植民地

マッソン、ツンベルクが一緒にプラントハンティングをした旅程を描いてみたが、
ケープ植民地からかなり遠くまで旅したことがわかる。
のどかな旅でなかったことは確かだ。
自然が脅威だけでなく、人間が増えるとその人間が脅威ともなる。

プラントハンターにしろ植物学者にしろタフでなければ生き延びられなかった。

これからツンベルクとともに日本に旅しようと思うが、
文明が破壊した南アフリカの豊かさについてふれておきたい。


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