チューリップが咲くと春という実感がわく。
花の少ない時期・地域での花=春の訪れはものすごい喜びであり
クロッカスが春の兆しを示し、チューリップが春のシーズンインを確実に保証をしてくれる。
こんな微妙な感覚が薄れつつあるが、
それにしてもこの数日間は、春というよりも初夏を思わせる。
(写真)チューリップの花
野の花にも、レンブラントが購入した大邸宅と同じ値段のチューリップの球根にも
春が来ると等しく花が咲く。
春の価値は大きい。花の値段にかかわらず、希望というものが湧いてくる。
チョッと異様なチューリップの歴史を垣間見てみよう。
チューリップの伝播
チューリップは、天山山脈付近が原産地といわれ、北緯40度周辺で生育が広がって行った。
栽培種は、16世紀にトルコからウィーンに伝わり、ここからヨーロッパに、アメリカにと広がった。
トルコへの伝播は、15世紀末頃といわれここで様々な栽培の工夫がされ門外不出とされていた。
トルコのオスマン家の紋章がチューリップであることからも大事にされていたことがわかる。
ヨーロッパへの伝播は、
神聖ローマ帝国のトルコ大使オジエ・ギゼリン・ブスベックが1554年にウィーンに種子・球根を持ち帰り
チューリッヒの医者・植物学者コンラート・ゲスナー(Konrad Gesner)がこの園芸種の栽培に絡んでいる。
ブスベックはチューリップを手に入れるのに“すくなからず出費があった。”
と書き残しており、内緒での持ち帰りがあったのだろう。
ヨーロッパでのチューリップの栽培の歴史
チューリップの原種の学名をチューリッパ・ゲスネリアーナ(Tulipa Gesneriana)というが、
植物学者ゲスナーの名前を冠しており命名者はリンネである。
ゲスナーは1561年パヴァリアの豪商フガー(Fugger)の依頼で、チューリップのバルブ(鱗茎=球根)を
アウグスブルグにもって行き、この球根が園芸種の原種となる。
1562年には、大量に球根が作られ、コンスタンチノーブルからベルギーのアントワープへ運ばれ
フランドル地方がチューリップ栽培の中心となる。
そしてオランダに伝わり、いまではチューリップ生産の世界の中心となっている。
イギリスへの伝播には、いくつかの説があり、
アメリカ大陸植民地作りで活動したローリー卿などが絡んでくる。
この説は、
1593年ウイーンの皇室庭園監督者で『珍植物誌』の著者 シャルル・ド・レクルーズ(=クルシウス)が
ライデン大学植物園でチューリップを育てていた。
クルシウスは、イギリスに行き海賊で後の提督ドレーク、探検家ローリー卿と会っており
自慢としてもチューリップの球根を持って行ったと推測されている。
もう一つの説は、
16世紀後半以降、宗教上の理由で迫害された多くのヒトの移動地図とチューリップの移動地図が重なるという。
球根は高価で、逃亡者が持ち歩くには都合がよかった。
チューリップは、オランダがヨーロッパの市場を独占するまでは、フランドル地方が重要な生産地だったが、
フランドルやフランスからの追放者ユグノー派の新教徒がイギリスにチューリップをもたらした。という説だ。
そして、チューリップは、新大陸アメリカへ、世界へと普及していく。
世界初のバブル:チューリップのバブル
オランダで起きたチューリップのバブルの話はこちらをご覧ください。
チューリップ(Tulipa)
・ユリ科チューリップ属の多年草球根
・原産地は、天山山脈周辺の半乾燥の砂漠・草原
・学名はチューリッパ・ゲスネリアーナ(Tulipa Gesneriana)
・江戸時代に日本に伝播し、和名は、ウッコンソウ
・地下に球根といっている鱗茎(りんけい)をもち、茎は直立で、20~30cm程度
・花は、茎に1個がつき花色はバラエティに富む。
・日本でのチューリップ生産は、新潟・富山県でほとんど生産される。
花の少ない時期・地域での花=春の訪れはものすごい喜びであり
クロッカスが春の兆しを示し、チューリップが春のシーズンインを確実に保証をしてくれる。
こんな微妙な感覚が薄れつつあるが、
それにしてもこの数日間は、春というよりも初夏を思わせる。
(写真)チューリップの花
野の花にも、レンブラントが購入した大邸宅と同じ値段のチューリップの球根にも
春が来ると等しく花が咲く。
春の価値は大きい。花の値段にかかわらず、希望というものが湧いてくる。
チョッと異様なチューリップの歴史を垣間見てみよう。
チューリップの伝播
チューリップは、天山山脈付近が原産地といわれ、北緯40度周辺で生育が広がって行った。
栽培種は、16世紀にトルコからウィーンに伝わり、ここからヨーロッパに、アメリカにと広がった。
トルコへの伝播は、15世紀末頃といわれここで様々な栽培の工夫がされ門外不出とされていた。
トルコのオスマン家の紋章がチューリップであることからも大事にされていたことがわかる。
ヨーロッパへの伝播は、
神聖ローマ帝国のトルコ大使オジエ・ギゼリン・ブスベックが1554年にウィーンに種子・球根を持ち帰り
チューリッヒの医者・植物学者コンラート・ゲスナー(Konrad Gesner)がこの園芸種の栽培に絡んでいる。
ブスベックはチューリップを手に入れるのに“すくなからず出費があった。”
と書き残しており、内緒での持ち帰りがあったのだろう。
ヨーロッパでのチューリップの栽培の歴史
チューリップの原種の学名をチューリッパ・ゲスネリアーナ(Tulipa Gesneriana)というが、
植物学者ゲスナーの名前を冠しており命名者はリンネである。
ゲスナーは1561年パヴァリアの豪商フガー(Fugger)の依頼で、チューリップのバルブ(鱗茎=球根)を
アウグスブルグにもって行き、この球根が園芸種の原種となる。
1562年には、大量に球根が作られ、コンスタンチノーブルからベルギーのアントワープへ運ばれ
フランドル地方がチューリップ栽培の中心となる。
そしてオランダに伝わり、いまではチューリップ生産の世界の中心となっている。
イギリスへの伝播には、いくつかの説があり、
アメリカ大陸植民地作りで活動したローリー卿などが絡んでくる。
この説は、
1593年ウイーンの皇室庭園監督者で『珍植物誌』の著者 シャルル・ド・レクルーズ(=クルシウス)が
ライデン大学植物園でチューリップを育てていた。
クルシウスは、イギリスに行き海賊で後の提督ドレーク、探検家ローリー卿と会っており
自慢としてもチューリップの球根を持って行ったと推測されている。
もう一つの説は、
16世紀後半以降、宗教上の理由で迫害された多くのヒトの移動地図とチューリップの移動地図が重なるという。
球根は高価で、逃亡者が持ち歩くには都合がよかった。
チューリップは、オランダがヨーロッパの市場を独占するまでは、フランドル地方が重要な生産地だったが、
フランドルやフランスからの追放者ユグノー派の新教徒がイギリスにチューリップをもたらした。という説だ。
そして、チューリップは、新大陸アメリカへ、世界へと普及していく。
世界初のバブル:チューリップのバブル
オランダで起きたチューリップのバブルの話はこちらをご覧ください。
チューリップ(Tulipa)
・ユリ科チューリップ属の多年草球根
・原産地は、天山山脈周辺の半乾燥の砂漠・草原
・学名はチューリッパ・ゲスネリアーナ(Tulipa Gesneriana)
・江戸時代に日本に伝播し、和名は、ウッコンソウ
・地下に球根といっている鱗茎(りんけい)をもち、茎は直立で、20~30cm程度
・花は、茎に1個がつき花色はバラエティに富む。
・日本でのチューリップ生産は、新潟・富山県でほとんど生産される。
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