彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都大学の近くに佇む"廃墟と化した建物"―「日本・中国・台湾」の関係に翻弄された"光華寮"

2021-03-10 10:56:03 | 滞在記

 大学時代の3回生・4回生の時、銀閣寺境内に隣接する下宿に暮らしていたので、いつも通っていた京都大学に面する今出川通り。京都大学の北部構内から銀閣寺や大文字山に向かう今出川通りから、ちょっと細い路地を入った一角に"廃墟と化した建物"がある。建物の名前は「光華寮」。京都市バスの停留所としては、「京大農学部前」又は「北白川」からが近い。建物の近くの今出川通りには、鎌倉期に作られた大きな石仏「子安観世音」がある。そのすぐそばだ。

 私の学生時代の1970年代、この寮には中国や台湾の"中華圏"からの留学生などがここで生活をしていた記憶がある。建物の入り口にも行ったこともあるが、なかなかクラッシックかつモダンで、古色蒼然とした趣(おもむき)のある建物だった。何しろ立地条件が抜群によい。京都大学もすぐそこで、比叡山や大文字山、吉田山なども一望できる場所にある。ここに住んでみたいなあと感じもした。

 この「光華寮」は、日本と中国、台湾との国交関係の変化が大きく影響を及ぼしたというか、翻弄されてきた建物だ。この建物の設計者は、日本の初期モダニズム建築を多く設計した有名な建築家・土浦稲城。大規模な昭和初期モダニズムの集合アパートメントは東京にも建てられたが、取り壊しとなったところがほとんどで、現在はこの「旧・光華寮」の建物は、日本の建築史上でも貴重な建築物でもあるようだ。

 1931年に集合アパートメントとして民間資本により建てられ、当時の専門雑誌にはモダニズム建築として紹介・掲載されてもいたようだ。建築後、京都帝国大学が建物を民間から買い上げ、主に中国(日本の統治下にあった満州国・台湾含む)などから京都大学へ留学している学生たちを住まわせる寮となった。1931年に日本の関東軍による満州事変が勃発(中国との15年戦争の始まり)、1932年には日本軍は満州(現・中国東北地方の黒竜江省・吉林省・遼寧省の三省)を占領し満州国の成立を宣言した。そして、1937年からは中国との全面的な「日中戦争」突入となる。

 1945年8月、日本の敗戦。中国は1946年から中国国民党軍(蒋介石)と中国共産党(毛沢東)との内戦が始まり、1949年には国民党政府は敗色が濃くなった。1949年10月1日、中国共産党は中国国内の多くを占拠し、「中華人民共和国」の成立を毛沢東は北京・天安門にて宣言。この年の12月、蒋介石の中国国民党政府や国民党軍は台湾に逃れた。(「中華民国」)

 日本の「光華寮」は、その後の1950年、台湾に拠点を置く「中華民国」(国民党政府)が京都大学より買い取ることとなる。1949年以降、アメリカの影響下にあった日本は「中華人民共和国」(中国共産党政府)を承認せず、台湾の国民党政府を承認し、国交関係を結んでいたのだ。したがって、1972年までは台湾からの留学生や各国出身の華僑の学生たちがこの寮で留学生活を送っていたこととなる。

 しかし、1960年代に入り、中国大陸での中国共産党政権と毛沢東思想や文化大革命を巡って、寮生の間で深刻な対立が起こって来た。この寮には当時、台湾だけでなく華僑(アジア各国の国にいる)も住んでいたが、「毛沢東思想を支持するか否か」を巡っての寮生間の分断が起きていた。この問題は、1960年代から70年代における日本の学生運動間でも分断が起きていた問題だった。私の周辺にも激烈な毛沢東思想に心酔していた人もけっこういて、「毛沢東思想に学べ」と中国に行ってきた(1972年以降だが)学生たちもいたぐらいだ。

 このような分断は、日本の大学の寮でもさまざまなところで深刻化もしていた。そんな時代だった。(※私は、大学の入寮を申し込んだが、寮の2つの建物群[東寮と西寮]はそれぞれに相互対立する寮自治委員会があり、その両方から政治信条を入寮審査の際に問われた。どちらの寮の政治方針にも賛同しなかったので、結局、家からの仕送りがなく、学費・生活費ともにバイトでなんとか稼いでいた生活困窮学生状況を話したが、どちらも入寮審査にはパスしなかった。そんな時代だった。偏狭な思想というものの怖さ理不尽さを思い知る体験の一つとなった。)

 1967年に、光華寮の所有者である台湾政府が、毛沢東を支持する学生に寮からの立ち退きを求めて裁判を起こす事態となった。そんな中、歴史的に日本と台湾政府と中国共産党政府との関係が大きな転換点を迎えることとなった。1972年、日本の田中角栄総理の時代、日本はアメリカのニクソン政権とともに中国共産党政府(中国)を承認し、国交を樹立、台湾政府(中華民国)との国交を断交することとなった。これにより、光華寮の裁判は「寮が台湾のものか中国のものか」に争点が変わっていった。

 1977年、一審の京都地裁は「寮は中国のもの」と判断し、中国側が勝訴することに。しかし、10年後の1987年、二審の大阪高裁は一転「日本との断交はあっても寮は台湾のもの」と、台湾が逆転勝訴した。そして、それから20年後の2007年、最高裁が「日本と国交を断絶している台湾にはそもそも原告としての資格はない」と切り捨て、原告を台湾ではなく中国とした上で裁判をやり直すよう命じることとなる。事実上の中国側勝訴だった。

 その後、裁判のやり直しは行われておらず、所有権があいまいなまま、2010年ころまでは留学生などがいたが、寮は閉鎖され誰も住まなくなったようだ。そして、この10年間あまりで廃墟化がすすむこととなる。日本、台湾、中国の国交関係の政治状況の歴史に翻弄され続けてきたこの「光華寮」の歴史である。

 2016年頃から、台湾は民進党の蔡英文総統のもと、中国・習近平政権との関係は緊張の度合いが高まり「台中戦争」の危機もはらむ。日本と中国との関係も尖閣諸島の領有問題や新型コロナウイルスの発生源と中国政府の対応を巡り国民の対中国感情も悪化し、緊張関係が続く現在、ますますこの建物の所有権を巡る裁判のやり直しは日本政府や裁判所としても難しくなってきているのが現状かと思われる。

 誰もこの建物に住むことがなくなってから、無人となった建物には、所有権の問題が未決着のままとなり、京都市ですら敷地内に立ち入ることができなくなっている。完全な治外法権的な建物と敷地の「旧・光華寮」に、夜間には肝試しを試みる人があとをたたなくなった。そして、「心霊スポット in 光華寮。 今回は最高にヤバい!」「光華寮見に行った!怖い(笑い)」などのネット投稿も増えてくることになる。不法侵入で警察に逮捕される人も出てきたようだ。

 このため、京都市は建物の周囲を鉄製の白く塗られた高い壁でぐるりと囲み、敷地内に入れないようにしていたようだ。私の娘の家が銀閣寺・吉田山界隈にあるので、しょっちゅう行き帰りにこの建物を見るが、この2月中旬に久しぶりにこの建物のある路地に入り、建物の現状を詳しく見に来た。この高い壁の入り口は頑丈に施錠され、人が入れる隙間はない。鉄板壁には、「立ち入り禁止」や「警告 当建物に侵入した為 逮捕者が出ています」の貼り紙が貼られていた。

 近くに隣接するアパートの階段や廊下、屋上に登ってこの旧・光華寮の6階建ての建物を眺めた。この季節、まだ冬なので、建物を覆う蔦(つた)の葉は枯れているが、春から夏、秋にかけては緑の蔦に覆われる。

 窓は大型台風時の時によるものかガラスが割れている部屋も多い。廃墟蒼然としている。部屋数は100ほどあるとされる。ちょっと建物内に入ってみたくもなる雰囲気がある。何か面白いものが部屋に残されているかもしれない。学生時代の京都大学の11月祭(大学祭)の時、中国からの留学生が大学構内の一角に座って中国から持ち込んだものを売っていたので買ったことがあった。文化大革命時の紅衛兵の赤い腕章や毛沢東語録の小冊子など。なんと銃の実弾まで売っていたのには驚いた。手に取ってみて、「これ一発で人間はいとも簡単に死ぬのか」と感じ入った記憶がある。

 光華寮に隣接しているアパートの屋上に上がると、比叡山、大文字山、吉田屋山が一望できる。いい景色だ。

 また、京都大学のシンボルの時計台がある本部構内や農学部や理学部のある北部構内なども一望できる。旧・光華寮の建物の各部屋からの景色もさぞかし良いのだろうと思われる。屋上からは360度の視界が広がるのだろう。残念ながら、立ち入り禁止だ。

 

 

 

 

 


福原愛の離婚?報道―中・台・日での報道に差異―小愛を支持する中国人、中国・台湾対立も影響か

2021-03-08 10:43:47 | 滞在記

 3月に入り、元卓球日本代表の福原愛さんと、元卓球台湾代表(チャイニーズ・タイペイ)の夫・江宏傑さんとの夫婦関係の亀裂に関する報道が、台湾だけでなく、中国、日本でも過熱している。週刊文春の最新号では、「福原愛離婚 全真相―モラハラ"台湾"夫とモンスター家族」と題した特集記事が組まれていた。

   また、週刊セブンの最新号では「福原愛 台湾に夫も子も残して 里帰り不倫」と題した特集記事が組まれていた。それぞれの週刊誌の記事を読むと、週刊文春の記事は「夫と彼の家族のモラハラ(モラルハラスメント―言葉や態度によるハラスメント)のこと」が中心に書かれていた。週刊女性セブンの記事は、「妻である福原愛さんの不倫疑惑のこと、夫とその家族のモラハラのこと、福原愛さんの両親のこと」が書かれていた。それによると、愛さんの両親は離婚していて、すでに父は死去、母親は愛さんと共に台湾で暮らしているが車椅子を必要ともする身体状況とも書かれていた。

 夫婦間の問題は、その当事者にしかわからないことが多く、他者が論評してもその深い真相を理解することはなかなか難しい。2016年の結婚当初「格差婚」とも言われた二人。福原愛さんの卓球ランキングは当時は世界9位であったが、江さんの方は世界79位だった。年収的にも大きな隔たりがあり、江さんの方は350万円ほど、一方の愛さんの方は何千万円もの年収だったようだ。週刊誌の報道記事で、福原愛さんの方の心理・気持ちについてはかなり分かったし、もし報道されているモラハラが事実とすれば、日本での不倫疑惑行動も理解できないわけではない。しかし、夫である江さんの方の心理・気持ちについて報道されていることはまだ少ない。

 二人のまだ幼い子ども(女児4歳・男児2歳)に恵まれたが、子供のこと、愛さんの母親のこと、夫とのことなどなど、結婚生活を続けるか離婚するのか、なかなか難しい問題だが、愛さんの方は離婚を決意しているとも報道されている。

 3月に入ってからのこの1週間あまり、日本でも台湾でも中国でも、インターネット記事のトップニュースとしてこの福原愛さんの夫婦問題、モラハラ問題、不倫疑惑問題が、連日紙面に掲載されている。中国の各種ネット記事でもこの1週間、トップ記事だ。週刊文春の記事を部分的にそのまま中国語に翻訳して掲載している記事もあった。

 福原愛さんは、中国の通信アプリ「微博(ウイチャット・ウエボウ)」では500万人のフォロアーをもつと言われ、今でも高い人気をもっている。中国の各種インターネット記事での、読者の投稿には次のようなものがあった。

 「離婚しようが、しまいが、我々は愛ちゃんを応援するのみだ!」「愛ちゃんが、無名だった台湾夫にいじめられて、ひどい目に遭っている!」「愛ちゃん、あなたは謝る必要なんかないよ!」「終わったな。江宏傑さん。ご愁傷様!」「報じられている夫とその家族からのモラハラが事実だとしたら、私だったら耐えられない!」「男の方に問題があるから不倫したんだろう!」「愛ちゃん、あんなヒモ男とはさっさと別れた方がいいよ!」

 「夫にはすでに離婚の意志を伝えてあるんだから、裏切りにはならない。気持ちの上ではもう別れているんだから、恋人を作ってもいいだろう!」「これが過ちだとしたら、彼女は全世界の女性が犯す過ちを犯したにすぎない。別にどうってことはない!」「中国はいつでもあなたの故郷だよ」「子供と一緒に中国においで!」「「ずいぶん堂々と撮られているし、本当に不倫なのかな?」「ベイビー、このままでいいんだよ。むりせずに中国に帰っておいで」「幸せじゃなければ、結婚なんてやめてしまえばいいんだよ」「あの台湾野郎め!」「お前は愛ちゃんに値しない男だ!」「俺たちの愛ちゃんを罵ったその口をつぶしてやる!」などなど。

 福原愛さんに関する、3月3日に配信されたNEWSポストセブン記事は、中国では、「#福原愛回応与男子密会(男性とのデートについての福原愛の反応・釈明コメント)」というハッシュタグが付けられ、一夜にして閲覧回数7億回を突破したと伝えられる。一時、中国版ツイッター「微博」のホットランキングで1位となり、14億人の中国人の間でも相当の大きな話題となっていることが伺える。

 しかし、日本や台湾では福原愛さんに対しての厳しい批判の声も少なくはない。例えば、台湾では、「これまでの彼女の笑顔にすっかり騙されていた。魔性の女だったとは‥‥!」「なんか裏切られた気分だな!」「母親や子供を台湾の夫に預けて不倫とは‥」「家電のCMに出る資格なんてないわ!」など、夫の江さんよりも福原愛に対するパッシングの方が多いと伝えられている。日本では、福原愛に対する同情の方が強いようだが、「子供を預けての不倫報道」を受けて、福原愛さんに対する、「そりゃまずいだろう」という見方も多いようだ。

 福原愛さんが以前から中国でも人気が高いことは、日本でも知られていたが、それにしても、今回の報道の反応により、改めて、中国での「盲目的」と言ってもいいような、日本や台湾で彼女が厳しい立場に置かれていることに憤りを感じ、むしろ「自分たち中国人だけは、何があっても愛ちゃんを応援するから!」といった"全面支援"の論調、それはなぜだろうか? そこには、彼女の中国での存在感、そして卓球王国・中国との関係がある。

 彼女は今でも中国人にとっては「小愛(シャオ・アイ)=愛ちゃん」、「人民の妹妹」なのだ。さらには、台湾と中国との政治的緊張関係の激化がここ6年以上にわたって高まっていることもその背景にあるかと思われる。その愛ちゃんの幸せをだいなしにし奪っているのが、台湾人夫であり、夫の家族、特にその夫の姉や母、台湾社会であるとの憤りかと思われる。

 なぜ、「小愛」、「人民的妹妹(レンミン・ドゥ・メイメイ)」なのか。福原愛さんと中国の関係が始まったのは、彼女がまだ幼い頃からだ。報道によれば、彼女の兄(10歳年上)が最初に卓球を始めたが、兄のコーチが中国人だったので、愛ちゃんにとっても中国人は身近だった。彼女が初めて中国に渡ったのは6歳の時だった。

 2005年、17歳の時に中国卓球超級リーグの中国東北部の遼寧省チームに入団したことは、日本でも報道されたことがあった。中国卓球超級リーグといえば、日本の「プロ野球」のようなもので、中国では憧れのリーグ・スポーツだ。いや、今の日本のプロ野球人気の比ではない。10倍くらいの憧れのリーグとも言える。福原愛さんは、外国人でありながらチームのメンバーたちと寝食をともにし、東北訛りの中国語をほぼ完璧にマスターし、チームに溶け込んだ。これにより、彼女は中国人から、身内のように受け止められ、受け入れられたのだ。「まるで自分の妹のような」同じ目線で受け止められたただ一人の有名日本人となった。

 流暢だが中国東北地方の田舎訛りのある中国語を話す愛さんへの中国人の親近感は半端なく、あの可愛らしいお人形のような顔と笑顔、時には泣き虫となる、そして福原愛というなにかとても中国人にとっても愛でたい名前。中国人にとって、身内である特別な日本人となった。

 さらに、福原愛さんを、中国人に深い印象を残したテレビ番組があるようだ。超級リーグに入った17歳の頃に出演した、中国のCCTV(中国中央電視台・日本のNHKのようなテレビ局)の名物番組「面対面」だ。この名物番組は今でも続いていて、私も中国で何度もみているが、とても有名な番組だ。

 この番組の中で、「福原さんは、自身が受けた卓球のスパルタ教育や、中国のチームの印象などについて率直に語っているのだが、その際、複雑な家族関係や、彼女が経済的に一家を支えているか?といった難しい質問が飛び、"そんな難しいことを私に聞かないで。今、私の財布には15元(300円)しか入っていません‥"と言いながら、涙を流したことがあった。これは一部、日本でも報道されたが、中国人にとっても強烈な印象を残し、これを機に、彼女に共感する人が増えた」ともされている。

 福原愛さんは、日本人にとっても、幼いころからメディアで見てきた「泣き虫愛ちゃん」イメージが強く残っているが、中国人にとっては、子どもの時から、日本から中国に来てくれ、見続けて来た可愛い妹、可愛い娘のイメージが強く残っている人なのだ。そして、もう一つ、中国人が福原愛さんを強烈に、何があっても支持する理由はとして、他のスポーツではなく、卓球の選手だった、という点にある。

 中国人にとって、卓球は特別なスポーツだ。「中国の国球(国の球技)」となり、現在の競技人口は約3000万人と言われる。私もアパート近くにある、かって勤めていた福建師範大学の体育館の貸し卓球コーナーで、時々、卓球をしている親子たち(子供は小学の低学年・中学年の年齢が多い)のようすを見ているが、それはまさに、遊びではなく、スパルタ練習の光景。あの愛ちゃんの母が幼い愛ちゃんと練習した光景そのものだ。

 2008年、中国の胡錦濤国家主席が来日した際、早稲田大学で講演を行い、その後、福原さんと卓球の交流試合をしたことがあった。そこで、胡錦濤氏は福原さんに、「あなたは私のことを知らないかもしれないが、私はあなたのことをよく知っていますよ」と話しかけたのは有名なエピソード。

 日本・台湾・中国で大きく知られている福原愛さんは、これからどんな選択をするのだろうか。

◆福原愛さんは、1988年生まれの現在32歳。兄は10歳年上で日本在住。母は現在70歳。父は不動産業を営んでいたが、1億4000万円の負債を抱え、その借金が愛さんや兄に及ばないようにすることもあり、2008年頃に母親協議離婚。愛さんとの親子関係や音信もそのころからなくなったようだ。2013年にガンで亡くなっている。享年71歳だった。母親は昨年の2020年から腰の問題からこの1年間あまり車椅子が必要な生活となっているようだ。福原愛さんの人生もいろいろ苦労も多く、これまでも大変だったかのかと改めて知った。

◆週刊文春の記事では、夫の母親が愛さんに対して、「あなたは金の卵よ」と言ったことに、愛さんが相当なショックを受けたことも書かれていた。だが、中華圏の家族関係では、何よりも親族・家族での経済的な相互扶助が重要視される社会。家族や親族の誰かが経済的に成功した場合、他の家族や親しい親族を助けるというのが重要な価値観となっている社会である。日本人がこの記事を読むと驚くが、中華圏では特別に驚くべきことではないかと思う。

※前前号のブログ記事で、尾形光琳を「安土桃山時代の絵画三大巨匠の一人」と書いてしまいましたが、間違いです。「江戸時代中期の絵画の巨匠」です。訂正します。

 

 

 


大学後期授業始まる、コロナ防疫のため2週間全講義オンライン―中国のコロナ防疫、水一滴も漏らさず

2021-03-06 21:50:27 | 滞在記

 今年の中国の春節は2月12日に始まり、全国的には10日間ほどの休暇をとる人が多かった。二週間後の2月26日は元宵節(げんしょうせつ)。ランタンが家々や広場に飾られ、ランタン龍が町を練り歩き、その周囲では爆竹がバンパンバンバン鳴らされる。これをもって2週間の春節期間が終わった。

 中国の大学の今年の冬休みは、1月20日頃から始まった大学が多い。この1月20日前後に、学生たちは全国各省の故郷に帰省していった。2月28日(日)までが冬休みで、3月1日(月)から後期授業(2学期)開始となった大学が多いようだ。私が勤務する福建省福州市の公立・閩江大学でも3月1日から新学期授業が始まった。

 中国での新型コロナウイルスの新規感染者は、昨年の12月中旬ころから河北省と北京市、東北3省の黒竜江省・吉林省・遼寧省などで、第二次感染拡大が発生した。このため、例年の春節期間は約8億人が故郷や旅行などで移動するが、今年は省をまたぐ移動には特別の許可が必要とする強い制限をかけた。1月下旬ころまでは感染拡大が継続したが、春節直前の2月上旬までに、発生地域や都市の封鎖、全市民のPCR検査実施などにより感染をほぼ抑え込んだ。

 3月1日からの2週間は、全国的に大学での全ての授業はオンラインで実施されることとなっている。だから、学生たちはまだ故郷の家いてオンライン授業を受講している。「いつ、大学に戻りますか?」と学生たちに聞くと、3月13日(土)と答える学生が多い。大学に戻る2日前以内に故郷でPCR検査を受け、陰性証明がなければ大学には戻れない。

 閩江大学の所在地、亜熱帯気候の福建省福州は、3月上旬にはもう春の盛りとなっている。大学構内では桃の花が満開となる。

 そして、蓮華(レンゲ)も開花し始め大学構内の中央広場は広大な蓮華に覆われ始める。中旬には蓮華の桃色に広場は染まる。菫(スミレ)の紫の花も大きくなる3月上旬。

 3月上旬、白や紫の木蓮(もくれん)は満開となる。亜熱帯の樹木である「刺桐(さしきり)」のオレンジ色の花も開花し始める。この刺桐花はデェイゴとも呼ばれ、沖縄でも多い樹木だ。

 アメリカ・デェイゴの花も開花し始める。日本人にとっては、ちょっと驚くが、ツツジの花が2月下旬頃からぽつぽつと開花し始め、3月上旬には満開となるのだ。日本では4月下旬から5月上旬なのだが。また、ハイビスカスの花も開花し始めて来る3月上旬。福州では2月中旬から4月下旬までがほぼ春の季節、5月上旬から10月下旬までの半年間が夏の季節、11月が秋の季節、12月から2月上旬ころまでが冬の季節となる。

 中国全土か大学に来ている学生たちにオンライン授業で、今、気候は?気温は?」と聞いてみると、ミャンマーと国境が近い雲南省の学生は、「昨日は32℃でした。暑いです。」とのこと。中国北西の新疆ウイグル自治区や陝西省の学生、北京周辺の河北省や山西省の学生たちは、「まだまだかなり寒いです」とのこと。

 今学期の担当教科は2教科。3回生の「日本文化名編選読(日本文化論)」と2回生の「総合日本語・日本語会話4」だ。それぞれ、90分単位授業が週に6回の実施となる。私たち外国人教員は、まだしばらくは中国渡航は制限されていて、とうぶん日本からのオンライン授業になるだろう。昨年3月からオンライン授業を自宅から、ソファーに座って1年間もやり続けたためか、最近、腰の問題が起きてきて、ここ1か月ほど針針灸の医院に2週間に1度、通院し治療をしてもらっている。

 3回生の学生たちとは、彼らが2回生の前期に「日本語会話3」の授業を大学教室で担当した。2回生の後期の「日本語会話4」は日本からのオンライン授業だった。まあ、よく知っている学生たちだ。現在、3回生40人ほど(2クラス)の学生のうち、4人は、広島大学や神戸松蔭女学院大学に1年間の交換留学に来ている。

 彼らが2回生の前期がほぼ終了した1年と少し前の2019年12月下旬、私のアパートの部屋に40人ほどが来て、激辛鍋大パーティをしながら乾杯をした。そんな私との付き合いのある3回生たちだ。まあ、このコロナ禍下、中国でもちょっとこのような超超密な宴会はしばらくはできないかと思う。

 現在はほぼ、新型コロナウイルスの新規感染者がなくなっている(抑えられている)中国だが、依然として警戒は強く、おそらく世界一厳しい感染対策を取り続けている。厳しさにおいては日本と比べることもできない。まあ、水一滴も漏らさずという感がある。まあ、「情報・言論統制」と「コロナ」は水一滴も漏らさず政策の中国だ。コロナ新規国内(市中感染)感染者が2〜3人でも出たらその市や省は即座にロックダウンの厳戒態勢となる。

 昨年の2月上旬から、ずっと日本に滞在し続けている私であっても、毎日、体温報告を大学の担当者にしなければならなかった。毎日欠かすことなくもう11か月連続で中国に連絡し続けている。そして、さらに、この3月1日からは、大学は新健康報告システムを始めた。毎日、午前と午後の2回の体温と健康状況を報告。体温検測は1日に2回となった。さらに、本日の所在地、PCR検査の検査予定や結果、ワクチンの接種予定なども連日報告しなくてはならない。

 だから、毎日、午後12時から午後4時までの間に、新たなシステム報告を中国に送信し始めている。これは、教員や職員だけでなく、学生たちも全てだ。報告が遅れると催促の連絡が送られてくる。この新健康報告システムは、大学だけでなく、高校でも中学でも小学校でも幼稚園でも(小・幼は保護者が)実施されているかと思うし、会社などの職場でも実施されているのではないかと思われる。

 昨日3月5日付のさまざまな中国のインターネットサイトの記事を閲覧する。「日本、変異ウイルスが拡散 東京五輪開催に影響か」「韓国 3/4新規感染増424例」「天津市(中国) 3/4 新規感染6例 全越境(全て国外からの入国者)」「香港3/4 新規11例」「徳国(ドイツ)  輸入加工肉類工場で200人感染」などの、新型コロナウイルス関連の記事が。

 中国の武漢などで、WHOによる形式的な調査がこの2月に行われた。中国政府の主張「①コロナの発生源は中国国内からではなく外国から輸入した食品による可能性が大きい。中国も被害者だ。②ましてや、武漢のウイルス研究所からの流失などありえない」にほぼ沿った調査結果報告がWHO調査団の代表により行われた。まったくの、多くの疑念の残る結果報告、何のための調査だったのかと世界各国は受け止めたが‥。

 中国では昨年秋から、コロナの発生源は輸入食品とのキャンペーンを国内外で強めてきている。そしてもう一つは、外国からの入国者に対しての超厳しい水も漏らさぬの入国検査審査・隔離政策のさらなる強化。昨日の日本の夕刊紙「夕刊フジ」には一面に、「習 人権軽視 入国者に肛門PCR」の見出し記事が掲載されていた。記事によると、従来の鼻やのどにPCR検査に加え、今年1月から肛門からの検体採取が一部で行われ始めたとのこと。消毒された綿棒を3~5cm挿入して検体採取する方法のようだ。日本政府によると中国以外でこの方法を実施している国はなく、3月1日に加藤官房長官は日本にある中国大使館に肛門PCR検査の中止を申し入れたことを明らかにした。しかし、4日時点で中国側からは何の回答も寄せられていないとのことだった。

 私もいつ中国に渡航しなくてはならなくなるか、今のところは不明だが、もし渡航するとなると、①週に数便限定の日本—中国の飛行機(通常の10倍以上の値段)をなんとか予約確保し、②飛行機出発48時間以内のPCR検査を受け結果を受け取り、翌日に日本の空港にて検査の陰性結果を渡して飛行機に搭乗。③中国の空港で再びPCR検査を受け、陽性の場合は病院隔離、陰性の場合は空港近くのホテルで2週間隔離、④再びPCR検査を受け、陰性の場合は福建省福州のアパートに行くことが許可され、⑤飛行機などを予約し福州へ。

 ⑥福州の場合は今年の1月から1週間でなく、自宅アパートでの2週間の隔離生活(アパートドアから絶対出られない監視システムをとられる。食料の買い出しには行けない。また知人もアパートには入れない。だから部屋に保存しているはずの40個あまり缶詰食品を食つなぐ。)、⑦2週間後にPCR検査を受け陰性ならば外出許可の証明書を発行してもらうという約1カ月間のやりたくもない体験となる。

 中国では、日本とは比較できないくらい外国からの入国者に対してかなり厳しい居住地区の人々の眼が注がれることとなる。中国での現在の政策は、もし仮に、居住地区から一人でも感染者が出たら、その地区の人々は全て2週間の隔離となるし、もちろん全員が隔離前後2回のPCR検査となる。私が暮らすアパート団地には約2万人以上が生活している(団地の出入り口は以前から二ヵ所の門があり、監視員が24時間常駐している。団地の居住区は、中国共産党の末端組織である地区委員会[自治会」が管轄している。)ので、一人でも感染者が出れば、即刻2万人は2週間自宅隔離される。だから、今、外国人が中国に戻るということはかなり精神的にも大変なことになるかと思う。夏休み・冬休みの中期休業になっても、日本に一時帰国できるかどうかは分からなくなる。まあ、とてつもなくリスクの大きいことではある。

 この3月5日から、中国・北京で全国人民代表者大会(全人代)が開催されている。中国のインターネット記事を閲覧していると、今日6日には、現在の学校の年限(小学校6年・中学校3年・高校3年)、いわゆる「六・三・三」制を、変更するという提案この大会で行われたようだ。「五・三・二」制にするという提案だ。その提案理由として、大学4年と大学院修士課程3年(日本では2年)を修了すると、年齢が24歳くらいとなる。とくにIT関係の分野などでの優秀な人材は20歳前後から社会で活躍してほしいが、現状では24歳以降となっているためだ。だから、小学と高校を1年ずつ少なくする」としている。2025年には、ITやAI関係ではアメリカを完全に追い越して世界第一の地位を確立するという中国政府の国策に沿った学制改革の提案かと思われる。

 ここ10年あまりの中国の教育を一言で表せば、「全ての道は大学受験に通じる」だ。日本の教育では、「知・徳・体」の三本柱が伝統だが、中国では「徳・体」はほとんどなく、「知」。その「知」も大学受験に向けた競争を教師も親もひたすら追求する。

 昨年4月ころ、日本の教育評論家の尾木直樹氏らが、コロナ禍下でのITオンライン授業などの日本の教育界の対応の手間取りを評して「日本の教育は世界の最低辺にある」と中国などのITの異常な発達国を念頭において批判していたことがあった。尾木氏らの批判は、あまりにも中国の教育事情に無知で勉強不足で、教育評論家として恥ずかしい論評だと昨年のブログで私は書いたことがあった。「六・三・三」制は学校教育に関しての子供たちの発達における根拠があるものだが、国家戦略のためにいとも簡単にこれを変更するのもまた今の中国だ。「知・徳・体」の人間の全面的人格形成の視点を今の中国の教育界に探すのは難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


京都・下鴨神社でのお宮参り—春の季節が始まった

2021-03-05 16:53:34 | 滞在記

 娘の3人目の子ども(男児)が昨年11月29日に誕生した。一人目(現在4歳4か月・女児)、二人目(現在2歳2か月・女児)の時は私は中国にいたので、お宮参りには行けなかった。今回はコロナ禍で未だ中国への渡航はできなくて、日本から中国の学生たちへのオンライン授業を1年間あまり継続していて日本に滞在しているので、初めて孫のお宮参りに参加することとなった。

 お宮参りは日本の習俗・行事の一つだが、鎌倉時代から始まったとされる。室町時代になると、それが庶民の間でも行われるようになってきたらしい。最近では、生後1か月~三か月の期間中に、地域の神社の氏神さまに参列し、氏子となり、氏神さまの御加護を得るという日本伝統の習俗だ。

 三人目の子の寛太は、11月29日生まれなので、2月28日が3カ月目となる。当初は2月7日(日)に予定していたが、新型コロナの緊急事態宣言が京都府にも発令中ということもあり、2月28日(日)の大安の日に延期された。28日、晴れ時々曇りの日となった。久しぶりに京都の下鴨神社に行った。昨年の夏、この神社の境内で「京都下鴨古本市」が開催されているのを知り、出かけたことがあった。

 境内に入ると新しい看板が一つできていた。「下鴨城跡」の看板だった。そこには、「1568年に近江半国守護の佐々木(六角)常禎が築いたと言われる戦国時代の城郭」と書かれていて、その発掘写真も掲載されていた。城郭の跡地は、賀茂川と高野川が合流して鴨川となる鴨川三角デルタ▼と呼ばれる場所から下鴨神社入り口にかけての地域。1568年と言えば、織田信長が大軍を率いて、近江六角氏の居城・観音寺城を落城させて京都に上洛した年だった。この下鴨城もその時に落城させられたのか、城を放棄して城兵は逃げたのかと思われる。

 下鴨神社境内には桃色の椿や馬酔木(あせび)の花が咲いていた。

 境内の舞殿や本殿近くに、輪橋と光琳の梅と呼ばれる紅梅の老木が美しく花を咲かせている。安土桃山時代の三大巨匠(絵師)の一人・尾形光琳はここの梅をみて「紅白梅図屏風」を描いたと書かれていた。

 この日、大安の日ということもあるのか、下鴨神社での結婚・挙式が6組も行われていた。最近は若い人の伝統回帰もあり、神社での挙式も増えてきているのかもしれない。

 本殿の建物内は写真撮影禁止なので、宮司さんにお祓いを受けている寛太の写真はない。お祓いを受けて、この梅の前で記念写真撮影を行った。

 境内を流れる御手洗川の細い流れ。この川の水源は、なんと近くから地下水が湧き出ているところからだった。京都は盆地全体に地底に地下水が大量に溜っているところだ。この地下水をくみ上げて、料理、和菓子、豆腐、日本酒などが昔からつくられている。

 5月の葵祭の時、祭りの隊列は京都御所を出発し、ここ糺の森を経て下鴨神社に到着。ここの御手洗川で斎王代が手を濯ぐ。そして上賀茂神社まで行幸する。斎王代の絵がかかれたところで、孫娘2人が顔を出し記念写真。宮参りを終えた。コロナ禍下もあり、料理店での昼食は控えて、銀閣寺界隈の娘の家でみんなで仕出し弁当を食べた。(この日のお宮参り、娘夫妻や子どもたち・私と妻・娘の夫の滋賀県在住の両親が参加)

 下鴨神社にほど近い、出町柳駅近くの寺の早咲き桜は、2月下旬にはもう蕾を膨らませ、桜色に色づいていた。ここの桜は毎年、3月中旬には満開となる。鴨川三角デルタの木瓜(ぼけ)の花が開花し始めていた。

 暖かいこの日、三角デルタの水辺にて過ごしている人の姿もみられた。柳の大木も黄緑の芽を出し「柳青める」の春となり始めていた。

 鴨川の三条大橋のたもと、河津桜は満開。ここの柳の大木も「柳青める」。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さん像の前にはチューリップが美しく咲いていた。

 自宅の黄色いラッパ水仙も花が咲き満開に。クリスマスローズ(キンポウゲ科)の花も咲き始めた。12月中旬から咲き始めた水仙がいまも新しい花を咲かせ続けている。

 隣の家の雪柳の花や沈丁花(じんちょうげ)も開花し始めた。2月があっという間に終わり、春の季節に移り始めた。

 

 

 

 

 


陳さん、京都に来る―京都・乙訓の「楊谷寺(柳谷観音)」、「長岡天満宮(長岡天神)」

2021-03-05 07:51:50 | 滞在記

 東京の日本企業に勤めている中国の大学の教え子、陳佳秀さんが京都に4日間ほど観光に来た。彼女から「先生、2月26日(金)から3月1日(月)までの4日間京都に行く予定なんですが、会う時間はありますか」と、突然の連絡が入ったのは2月24日(水)の日だった。「そうですね。26日(金)の夕方なら大丈夫」と返答した。

 陳さんは中国河南省の古都・洛陽市の出身で、私が、今勤めている福建省の閩江大学の教え子の一人だった。彼女は外国語学部日本語学科の学生ではなく、他学部の学生だった。1回生の時から、私の授業に聴講生としてけっこう参加していて、それは彼女が卒業する時まで続いた。中国の大学は、担当教員の許可はなくても自由に聴講が可能なシステムとなっている。

 卒業後は日本に留学したいと希望をもっていたようだ。日本語や日本文化などに強い興味を抱いたきっかけは、アニメやファッションだった。日本アニメのコスプレ大好きで、私は彼女から何度も誘われて、福建省福州市内で開催されるコスプレ大会に一緒に行って、中国のアニメ市場やコスプレ市場のことについてかなり分かるようにもなっていった。

 ちなみに、彼女の閩江大学での卒業論文は、「日本と中国における化粧文化や化粧品とCM(コーマーシャル)方法の比較研究」。卒業後にすぐ来日し、東京の日本語学校に7カ月あまり通学し日本語検定1級にも合格、その間、寿司店などでアルバイトをしながら大学院試験を受け、東京の上智大学大学院に合格した。昨年3月の大学院修了後は日本の企業に就職している。コロナ禍の問題もあって、もう2年半以上、中国に帰国していないようだ。一人娘なので、両親はたまの帰郷を心待ちにもしているようだが。

 2月26日(金)の夕方、午後5時半に京都四条大橋東の京都南座前で待ち合わす。京都府の緊急事態宣言は28日(日)まで、26日の新規感染者は7人。行きつけの日本料理店や居酒屋は3月7日まで休業。祇園や先斗町界隈の店は、三分の一ほどが休業していた。先斗町の開店している日本料理の店に入る。居酒屋や日本料理などの酒食の店に入るのは、昨年の12月18日以来だった。ほぼ2カ月半ぶり。

 陳さんは昨年の冬にも友達と二人で京都に観光に来た際にも会って会食をした。彼女はプライベートの行動の時はコスプレもするようだ。この日は、コスプレとはちょっと違うが、中国の冬用民族衣装で現れた。顔の化粧はコスプレっぽい舞台化粧。2軒目は先斗町のカラオケ居酒屋に。午後7時を過ぎていたのでここでは酒の提供はなし。8時閉店なので、それぞれが2曲あまり歌って8時前に店を出た。陳さんはここから近い高瀬川沿いの宿泊先のゲストハウスに向かった。午後8時、四条大橋の上から鴨川の堤防を見ると、たくさんの人が間隔を開けて、三条大橋までずらっと並んで座っていた。まあ、ほんとうに久しぶりの家以外での酒だった。

 「先生、3月1日(月)に、時間は空いてますか」とのメールが27日(土)に入っていたので、「翌日の授業準備をその日にする予定なので、ちょっと今はわかりません」と返信。28日(日)の夕方に、「明日(月)の午後に時間が空きそうです」と連絡、3月1日(月)の午後1時すぎに、私の家の最寄り駅(京阪電鉄)に来てもらった。自宅で、中国の閩江大学の新たな健康状況連絡シフトの携帯電話操作方法を陳さんに教えてもらった。

 「今日はこれからどこに行きたいのですか」と聞くと、京都府長岡京市の山中にある「楊谷寺」との意外な答え。通称は「柳谷観音」と呼ばれる寺だが、名前は知っていたのだが、私もまだ行ったことがない寺だった。「なぜ、そこに行きたいのか」と聞くと、「この寺、花手水(はなちょうず)が有名なんです」とのことだった。

 陳さんは花が好きで、大きなデジタルカメラを抱えて、季節の花々を撮影することが一つの趣味だ。そしてインスタグラムにて中国のネットにも投稿(日本紹介)したりしているようだ。自宅から車で30分ほどで、楊谷寺に着いた。そこはもう京都府と大阪府の県境の山中で、すぐに大阪府高槻市だった。かなりの山中にある寺だ。創建は806年とある。ここに来るためのバスは無いが、毎月17日が縁日で、その日だけ最寄りの鉄道駅からの送迎マイクロバスが運行されているらしい。

  境内に入り、「花手水」を見る。山の中腹から山頂にかけて境内が広がっていた。なかなか大きな境内の寺だった。

 参観は無料で、自由に建物内に入れた。雛(ひな)飾りが座敷に置かれていた。3月1日はまだ花の季節ではないので、何箇所ある「手水鉢」のうち、花が生けられていたのは1箇所だけだった。「MAX6です」と陳さん。何のことかと聞くと、最も多い時期だと、この境内の6箇所に花手水が出現するのだとの意味だと言う。いかにも残念そうだった。毎日新聞に紹介されたこの寺の花手水の記事が置かれていた。境内の龍の周囲にも花手水がつくられるだそうだ。これは中国人にとっては一見の価値ありの光景かと思う。

 建物は長い階段廊下があり、山頂に続いていた。奥の院という建物が山頂にあった。この季節、馬酔木(あせび)が満開になっていた。

 自宅に戻る途中、午後4時頃に京都府長岡京市の「長岡天満宮(長岡天神)」に立ち寄った。ここに立ち寄るのはもう20年ぶりくらいだった。境内の紅梅、白梅が美しかった。池の畔に建てられている建物群がなかなか風情がある。「錦水亭」という料亭の建物だった。名物は日本屈指のタケノコ産地・乙訓地方で収穫される竹の子の料理。これからがその季節だ。

 山茱萸(サンシュユ)の大きな木があり、春到来を告げる黄色い花が満開となっていた。長岡天神の本殿に、初めて来た。本殿横の白梅が香りを漂わせていた。「清廉潔白  至誠一貫」の文字が刻まれた石碑が本殿横に。ふと、明智光秀や明智左馬助(光満)のことを思い浮かべた。

 丑(牛)の石像が2匹。天神さんは丑なんだ。梅の木の自然に同化したような本堂の狛犬。近くの小さな池には、北方ロシアなどからの鴨や雁などの渡り鳥がたくさん見られた。

 陳さんは、この日の深夜12時の夜行バスで東京に戻る予定だった。翌日2日の朝に東京に着き、アパートで少し休んで出勤予定だと言う。午後6時すぎに自宅に戻り、妻と久しぶりの再開。夕ご飯を一緒に食べることとなり、午後9時頃、京都市内に戻って行った。

 昨年の2月下旬に、陳さんの友人の馮(ひょう)さんとともに京都に来た時に、私の妻も一緒に4人で居酒屋で会食。馮さんも今年の4月から筑波大学大学院への進学が決まっている。陳さんの1年遅れで来日した馮さんも、陳さんと同じように、他学部から私の授業に時々、聴講生として3年間あまり授業を受けていた。馮さんは日本の剣道の愛好家で、福建省の福州にある剣道場に大学生時代には通ってもいた。