彦四郎の中国生活

中国滞在記

やはらかに 柳あをめる かも川の 岸辺目に見ゆ 春おとづれる―石川啄木、吉井勇、谷崎潤一郎

2021-03-13 08:42:10 | 滞在記

 京都の鴨川(賀茂川)河畔の柳が芽をふき いつのまにか青めいてきた。出町柳橋のたもとにはレンギョの黄色い花も開花してきている3月10日。鴨川べりの河畔には柳の大木が多い。ここ出町柳橋から五条大橋あたりまでの2kmほどの川辺に間隔をとって柳のけっこうな大木が並んでいる。四条大橋たもとの柳から大橋の向こうに東華菜館の建物。

 石川啄木(1886-1912)の歌集で、春の訪れの光景を詠んだ歌が何篇かある。

 やわらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 

 こころよく 春のねむりをむさぼれる 目にやはらかき 庭の草かな

 何処(どこ)やらに 若き女の死ぬごとき 悩ましさあり 春の霙(みぞれ)降る

 そんな啄木の歌にあるような春が今年も京都にやってきてくれた。啄木の歌を借りれば、やわらかに 柳あをめるかも川の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに‥。啄木の「泣けとごとくに」の一句は、喜び・悲しみなど、さまざまな思いがくみとれる。3月上・中旬、日本でのコロナ禍下も1年が経過した。今年も鴨川べりの柳が青めいてきてくれた。

 3月11日は東日本大震災がおきて10年目となる節目の日となった。石川啄木の故郷・渋民村は岩手県盛岡市の北方にある村だが、村内を北上川が流れる。啄木の生家の近くには狼峠山など300~500mの低山の山々があり、北上川流域の平地が広がる。

 ふるさとの 山に向かひて言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな   (啄木)

    やはらかに 積もれる雪に熱(ほ)てる頬を 埋づむごとに恋してみたし (啄木)

    東北岩手の桜は4月下旬ころに例年満開を迎える。かって宮沢賢治が教鞭をとったことのある岩手大学構内を5月上旬の訪れたとき、枝垂れ桜が満開となっていた。そのことから考えると、北上川流域の柳が青めるのは京都よりも1か月ほど遅い4月上旬・中旬ころなのだろうか。

 東日本大震災のあと、河津桜などの早咲きの桜を植えたところがこの岩手県の太平洋沿岸の町にあると聞く。大津波に呑まれたくさんの人が亡くなった町々。大津波が町の山の麓の上まで押し寄せた。津波がきたその地点の高さの山の傾斜地にずらっと河津桜を植樹したのだと言う。この桜より上に逃げよと後世に伝え、津波で命を呑まれた人々の鎮魂ともなる桜。東北岩手では3月11日ころには河津桜は5分咲きを迎えるころとなるのかと思う。

 3月10日、立命館大学に用があって、鴨川べりの出町柳ちかくのバス停に向かう。京阪電鉄の出町柳駅近くの長徳寺の塀沿いにこれも早咲きの桜がもう満開となっていた。桜の名前は「おかめ桜」。桜の幹枝に桜の名前が書かれた札(ふだ)が吊り下げられていた。万葉集か何かの歌も記されている。

 我が恋に くろぶの山のさくら花 まなく散るとも 数はまさらじ

 このおかめ桜は なんでもイギリス人の桜研究家の人が、寒緋桜(かんひざくら)と豆桜(まめざくら)を交配して作出した品種のようだ。桜の名前「おかめ」の由来は、その名の通りお面の「おかめ」。日本の美人の「おかめ」にちなんで名づけられたのだという。花は小さく、下を向いている。花言葉は「しとやか」「高尚」。

 日本の桜前線は例年、2月中旬に沖縄や九州・四国・本州で寒緋桜が咲き始め、2月下旬には河津桜が咲き始め、そしてこのおかめ桜が3月上旬から咲き始める。今年の染井吉野(ソメイヨシノ)の桜開花予想は、例年より少し早く、この京都市では3月19日開花、3月下旬には満開となるようだ。コロナ禍下、2度目の桜前線がやってきてくれた。ありがたきかな日本の桜だ。

 このおかめ桜が咲いている長徳寺のとなりの寺は通称・萩の寺。ここの白木蓮も開花し始めていた。今の季節、まだ椿の花も美しい。幕末の幕臣・勝海舟の京での定宿となっていた寺のようで、海舟を訪ねてここに坂本龍馬も来たようだ。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝く」の主人公・渋沢栄一と龍馬とは、日本の未来へのその志向性として共通したものがある。海舟や龍馬もこの白木蓮を見ているかも知れない。

 昨日の12日、家からほど近い木津川・桂川・宇治川の三川合流地(合流して淀川となる)である「背割堤」に早朝の散歩に行ってきた。1.4kmの背割堤防に221本の染井吉野の大木がずらりと堤防道の左右に並ぶ。ここは、全国桜名所人気ランキング5位となっているところ。堤防沿いの河川敷では桜の下でバーべーキューが許可されているので、毎年、関西各地から人々が来て楽しむ。

 昨年は全国的にコロナ緊急事態宣言が出されていたので、バーベキューはここでも自粛となっていた。今年はどうなるのだろうか。昨日見た染井吉野は、蕾(つぼみ)はまだ小さく固いが、少しだけピンクがかっている蕾も見られた。4月上旬頃には満開となる今年の予想のようだ。

 今、ここの「花桃」の2本の大きな木が開花していて3分咲きといったところ。あと1週間もすれば満開となりそうだ。桃の原産地は中国の黄河上・中流域。中国由来の「桃源郷」という言葉があるが、桃は中国では梅花・桃花・牡丹(ぼたん)花と中国三大名花の一つ。日本には飛鳥時代頃に中国より早くに伝わったとされる。花も綺麗だが果実が美味しいからでもある。染井吉野の桜の開花や満開のほぼ2週間前に開花・満開となるのが桃とされる。

 背割堤から木津川の向こうに石清水八幡宮のある男山、宇治川や桂川の向こうに天王山が見える。昔は、この背割堤で三川が合流する地に橋本宿があった。今でも遊郭だった建物が数軒現存する。まだ30歳の若い頃、ここ八幡市にある学校に赴任することが決まり、その学校の校長に最初に住まいとして紹介され連れていかれたのが元遊郭の建物内の一室だった。

 ここ八幡の橋本と対岸の天王山の麓の大山崎の水無瀬を結ぶ淀川の渡し舟があった。川の中に中洲がある。ここを舞台にした小説・文学が谷崎潤一郎の『蘆刈(あしかり)』。男山の中腹に文学碑がある。碑は『蘆刈』の一節が刻まれている。次の一節だ。

 わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるようにまんまるな月を背にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのようなつやを含み、まだどこかに夕ばえの色が残っている中空に黒く濃く黒ずみわたっていた。

 また、谷崎潤一郎と親交のあった歌人の吉井勇(いさむ)[1886-1960・享年74]は、この男山の山麓にある月夜田というところに住んでいたことがあるので、ここ八幡や男山にちなんだ歌もけっこう多い。

 蘆を刈る ころ越後より うつり来て すでに六月の月夜田の里

 石清水 八幡みちを往くときは 雄(おす)ごころ起る何か知らねど

 ここ男山山麓月夜田の吉井の家には、親交のある志賀直哉・谷崎潤一郎・画家の梅原龍三郎などがよく来たようだ。この吉井勇は、石川啄木と同じ年に生まれた。そして1909年に、啄木らと歌集雑誌の『スバル』を創刊している。吉井勇は、京都の北白川界隈などにも長年居を構えていた。そしてそこからよく祇園や木屋町に通っていた。有名な歌に「かにかくに」があり、今は歌碑となって祇園白川石畳の通りに置かれている。

 かにかくに 祇園は恋し 寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる

 この歌は『スバル』に掲載された。この「かにかくに」の歌碑のある付近に昔、「大友」という茶屋があった。ここの芸妓にお多佳さんという人がいて、彼女は小説が好きで、俳句や書画を心得、三味線の名手でもあったようだ。このこともあり、「大友」には夏目漱石や谷崎潤一郎や吉井勇など有名な作家文人や画家などがよく来たと伝わる
。吉井の歌は、ここ祇園や鴨川沿いの木屋町界隈にちなんだものも多い。たとえば。

 京の夜(よ)や 遊びのはての寂しさを  かたるがごとき宗達の幅 (※宗達の幅とは、安土桃山時代の絵画三大巨匠の一人・俵屋宗達の絵のこと)

 木屋町の 酔へるがごとき夜のいろに 見惚れて君を忘れし子なり

 女紅場(にょこうば)の 提灯あかきかなしみか 加茂川の水あおき愁(うれ)いか

 いさぎよく われの心を擲(なげう)たむ 祇園の一夜(ひとよ)見し君のため

 香煎(こうせん)の にほひしづかにただよへる 祇園はかなし一人歩めば

 清水(きよみず)へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき

  吉井はまた、森繁久彌らが歌った「ゴンドラの唄」の作詞をした人でもある。

 「ゴンドラの唄」

一、いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを

二、いのち短し 恋せよおとめ いざ手を取りて彼(か)の船に いざ萌ゆる頬をきみが頬に ここにはだれも来ぬものを 

三、いのち短し 恋せよおとめ 波に漂(ただよ)う舟の様(よ)に 君が柔手(やわて)を我が肩に ここには人目も無いものを

四、いのち短し 恋せよおとめ 黒髪の色あせぬ間に 心のほのお消えぬ間に 今日はふたたび来ぬものを

 天王山の見える宇治川に黒い水鳥が数羽、ここをねぐらにしているのか、蘆の繁みから小さな小鳥とともに浮かぶすがたを早朝に眺める。

 祇園の吉井勇の「かにかくに」歌碑のあるそばに、いきつけの赤提灯「侘助(わびすけ)」がある。コロナ緊急事態宣言があけて、3月8日から営業を再開しますとの連絡があった。ひさしぶりにちょっと飲みに行こうかな。侘助の前の祇園白川石畳に数本ある柳の大木も"柳あをめる"となっているだろうな。

◆吉井勇の「かにかくに」歌碑は、昭和30年(1956)に勇の70歳の古希の祝いに、友人の谷崎潤一郎らによって建立された。この歌碑の建立から4年後に勇は没した。祇園にある建仁寺の僧堂で営まれた告別式の際には、式場まで100メートル余りの道の両側に喪服姿の祇園関係の女たちがぎっしりと立ち並び会葬者を驚かせたという逸話がある。毎年11月8日には「かくかくに祭」が祇園のお茶屋組合の人たちによって行われている。祇園を愛し、祇園から愛された吉井勇。

 吉井勇の歌で、「かにかくに」とともに、次の歌のまた秀逸だ。

 美しき人みな悲し祇王寺に 祇王を思い君に及ばぬ

この歌の意味は、「その昔、平家の平清盛が惚れた京都一の美女・祇王より、あなたの憂いを含んだ横顔は私をうっとりとさせ恋焦がれてしまいます。疲れて京都の宿で寝ていたが、さっきまでの人との淫らなときを思い出すとまた抱きたくなる。たえまなく流れる加茂川のせせらぎのようにはてることのない流れのように、あなたへの思いは、祇王も及ばない」との深読みの意味になるだろうか。

 吉井勇は50歳ころまでは漂泊の詩人ともよばれた波瀾の人生でもあったが、京都に居をかまえてからはそれなりに平穏な日々を送るようにもなった。勇、晩年のころの歌。

 京に来て わが世はげしき起伏(おきふし)を 思ひかえしぬ秋のころに

 われ老いて 心やうやく和(なご)めるや   世をいきどほることすらも稀(まれ)

    京に老ゆ 如意嶽(にょいだけ)ちかきわびずみも あと二三年のことにあらむか (※如意嶽は大文字山の背後の山)

    私もあと1年半で古希となる。世をいきどおることも 稀ではないが、吉井勇のような歌もちょっと詠みたくもなった。