彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智の宿老・斎藤利三―京都の市中引廻し、粟田口で晒される―友の海北友松、夜間に首を奪い葬る

2021-03-02 17:20:42 | 滞在記

 天正十年(1582)6月2日の本能寺の変、続く13日の山崎の戦い(天王山合戦)において、明智軍の侍大将として奮迅した斎藤利三(内蔵助)。山崎の戦いに敗北し、明智軍1万6000は壊滅、利三は落ち武者となり坂本城に向かって逃れて行った。14日には坂本城にほど近い堅田に着く。坂本城は目前だ。が、しかし、ここ堅田の土豪で明智軍の重臣の一人であった猪飼一族の裏切りにあい捕えられてしまう。

 この猪飼一族は琵琶湖水軍の堅田衆を率いる一族だった。南近江の戦国大名・六角家に属していたが、六角家没落後、北近江の戦国大名・浅井家の琵琶湖水軍の一翼を担っていた時期もあった。織田信長による浅井家滅亡後は信長に従う。そして、琵琶湖西岸の志賀郡を領することとなった明智光秀の重臣の一人となっていた。本能寺の変に際して、猪飼一族の頭領・猪飼昇貞(明智家重臣)が戦死した。その後、嫡男の猪飼光貞が堅田城で頭領となっていたのだが、坂本城に行く途中の斎藤利三がここに立ち寄った際に、言葉巧みにだまして利三を生け捕ってしまった。戦国無常とは言え、なんともあさましい感のある裏切りである。

 捕えられた斎藤利三は京都に護送され、裸馬に乗せられての市中引廻しとなり、刑場の六条河原で首を切られた。(一説には「車沙汰」、つまり車裂きの極刑に処せられたともある。) その後、首は本能寺に晒され、明智光秀らとともに粟田口の磔柱の上に胴と首が縫い合わされ晒されることとなる。同じ時に、明智秀満(左馬助)の父で、丹波福知山城の留守を預かっていた三宅出雲もここで磔となる。坂本城落城の15日の翌日、16日~22日ごろの京都市中での出来事であった。斎藤利三の極まる無念、やるかたなしだったかと思う。非業の死であった。山崎の合戦・坂本城落城における明智方の首3000あまりもここに晒され、のちに埋められ塚がつくられた。壮絶な光景だったのだろう。

 『明智光秀と斎藤利三―本能寺の変の鍵を握る二人の武将』桐野作人著(宝島新書)。—新史料から明らかになった、「本能寺の変」438年目の真実。政変の決断はわずか3日前だった—。昨年の2020年3月に出版されたこの書籍は、斎藤利三と明智光秀、本能寺の変に至る真相について書かれた書籍。なかなか秀逸な書籍だ。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤利三を須賀貴匡が演じていた。

   粟田口での磔柱の斎藤利三の首を夜間の闇に紛れて侵入し、運び出した者があった。斎藤利三の親友であった絵師の海北友松と京都・真如堂の住職・東陽坊長盛であった。友松らは、長槍を用いて磔柱の利三の首を下に落としたと伝わる。二人は奪った首を真如堂に持ち帰り手厚く葬っただけでなく、海北友松に至っては利三の娘たちを匿って逃す手引きまでしている。

 粟田口の刑場から北方に2kmほどのところにある吉田山の中腹に真如堂はある。ここに斎藤利三の首は友松と東陽坊によって隠し葬られた。真如堂は私の娘の家に近いので、孫たちとここに歩いて散歩に来ることもよくある。三重の塔や手水花も生けられる。3月上旬にこの寺に来ると、山茱萸(サンシュユ)の大木が数本あり、黄色い花が開花し、春はもうそこまで来たと感じる。秋は紅葉の名所でもある。

 境内の本堂近くに、矢印➡看板で「戦国武将・斎藤利三 海北友松の墓」と書かれた標識が立つ。その方向に進むと墓地の入り口の小さな門がある。そう大きな墓地ではないので、しばらく探してみると「戦国武将・斎藤利三 海北友松」と書かれた小さな標識もあるので、墓が見つかるだろう。東陽坊の墓も隣に並ぶ。墓には「斎藤内蔵介利三墓」と刻まれている。その右となりが海北友松の墓。今も三人の墓が並ぶ。この三人の生前の親交の深さが推定される。

 この海北友松(かいほう ゆうしょう  1533-1615)は桃山時代最後の巨匠とも呼ばれる絵師。父は織田信長に滅ぼされた湖北・浅井家の重臣だった。父の戦死を機に、幼少にして京都の東福寺に入り、和尚の勧めもあって狩野派の絵を学んだと伝わる。

 友松は武家の出身だが、何よりも画人であり、東福寺で禅を学び、お茶をたしなみ、武士や公卿たちなどとも交流した。狩野派の豪胆さにしっとりとした大和絵風の叙情性を加えた画風は、武家を彷彿させる勢いの激しさ、スケール感を持ちながらしなやかさがあり、余白をうまく使ってもいる。同じ時代の桃山時代を代表する絵師・狩野永徳ともまた違った画風がある。

 友松の作品は、京都建仁寺の龍雲図などや京都・妙心院の牡丹・梅・椿図などに残る。慶長20年(1615)、83歳で没した。斎藤利三の非業の死から38年のちのことである。(狩野永徳・長谷川等伯と並ぶ桃山画壇三大巨匠)  2017年の春、京都国立博物館にて「海北友松展」が開催された。

 斎藤利三の娘・福は、後に徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸幕府で権勢をもった春日局。友松亡きあと、一介の絵師として不遇をかこっていた友松の息子・友雪を幕府の絵師に推挙したのは春日局だった。戦国時代の濃密な人間関係の中に生きた海北友松・斎藤利三・東陽坊長盛の姿が浮かんでくる。