彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都・下鴨神社でのお宮参り—春の季節が始まった

2021-03-05 16:53:34 | 滞在記

 娘の3人目の子ども(男児)が昨年11月29日に誕生した。一人目(現在4歳4か月・女児)、二人目(現在2歳2か月・女児)の時は私は中国にいたので、お宮参りには行けなかった。今回はコロナ禍で未だ中国への渡航はできなくて、日本から中国の学生たちへのオンライン授業を1年間あまり継続していて日本に滞在しているので、初めて孫のお宮参りに参加することとなった。

 お宮参りは日本の習俗・行事の一つだが、鎌倉時代から始まったとされる。室町時代になると、それが庶民の間でも行われるようになってきたらしい。最近では、生後1か月~三か月の期間中に、地域の神社の氏神さまに参列し、氏子となり、氏神さまの御加護を得るという日本伝統の習俗だ。

 三人目の子の寛太は、11月29日生まれなので、2月28日が3カ月目となる。当初は2月7日(日)に予定していたが、新型コロナの緊急事態宣言が京都府にも発令中ということもあり、2月28日(日)の大安の日に延期された。28日、晴れ時々曇りの日となった。久しぶりに京都の下鴨神社に行った。昨年の夏、この神社の境内で「京都下鴨古本市」が開催されているのを知り、出かけたことがあった。

 境内に入ると新しい看板が一つできていた。「下鴨城跡」の看板だった。そこには、「1568年に近江半国守護の佐々木(六角)常禎が築いたと言われる戦国時代の城郭」と書かれていて、その発掘写真も掲載されていた。城郭の跡地は、賀茂川と高野川が合流して鴨川となる鴨川三角デルタ▼と呼ばれる場所から下鴨神社入り口にかけての地域。1568年と言えば、織田信長が大軍を率いて、近江六角氏の居城・観音寺城を落城させて京都に上洛した年だった。この下鴨城もその時に落城させられたのか、城を放棄して城兵は逃げたのかと思われる。

 下鴨神社境内には桃色の椿や馬酔木(あせび)の花が咲いていた。

 境内の舞殿や本殿近くに、輪橋と光琳の梅と呼ばれる紅梅の老木が美しく花を咲かせている。安土桃山時代の三大巨匠(絵師)の一人・尾形光琳はここの梅をみて「紅白梅図屏風」を描いたと書かれていた。

 この日、大安の日ということもあるのか、下鴨神社での結婚・挙式が6組も行われていた。最近は若い人の伝統回帰もあり、神社での挙式も増えてきているのかもしれない。

 本殿の建物内は写真撮影禁止なので、宮司さんにお祓いを受けている寛太の写真はない。お祓いを受けて、この梅の前で記念写真撮影を行った。

 境内を流れる御手洗川の細い流れ。この川の水源は、なんと近くから地下水が湧き出ているところからだった。京都は盆地全体に地底に地下水が大量に溜っているところだ。この地下水をくみ上げて、料理、和菓子、豆腐、日本酒などが昔からつくられている。

 5月の葵祭の時、祭りの隊列は京都御所を出発し、ここ糺の森を経て下鴨神社に到着。ここの御手洗川で斎王代が手を濯ぐ。そして上賀茂神社まで行幸する。斎王代の絵がかかれたところで、孫娘2人が顔を出し記念写真。宮参りを終えた。コロナ禍下もあり、料理店での昼食は控えて、銀閣寺界隈の娘の家でみんなで仕出し弁当を食べた。(この日のお宮参り、娘夫妻や子どもたち・私と妻・娘の夫の滋賀県在住の両親が参加)

 下鴨神社にほど近い、出町柳駅近くの寺の早咲き桜は、2月下旬にはもう蕾を膨らませ、桜色に色づいていた。ここの桜は毎年、3月中旬には満開となる。鴨川三角デルタの木瓜(ぼけ)の花が開花し始めていた。

 暖かいこの日、三角デルタの水辺にて過ごしている人の姿もみられた。柳の大木も黄緑の芽を出し「柳青める」の春となり始めていた。

 鴨川の三条大橋のたもと、河津桜は満開。ここの柳の大木も「柳青める」。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さん像の前にはチューリップが美しく咲いていた。

 自宅の黄色いラッパ水仙も花が咲き満開に。クリスマスローズ(キンポウゲ科)の花も咲き始めた。12月中旬から咲き始めた水仙がいまも新しい花を咲かせ続けている。

 隣の家の雪柳の花や沈丁花(じんちょうげ)も開花し始めた。2月があっという間に終わり、春の季節に移り始めた。

 

 

 

 

 


陳さん、京都に来る―京都・乙訓の「楊谷寺(柳谷観音)」、「長岡天満宮(長岡天神)」

2021-03-05 07:51:50 | 滞在記

 東京の日本企業に勤めている中国の大学の教え子、陳佳秀さんが京都に4日間ほど観光に来た。彼女から「先生、2月26日(金)から3月1日(月)までの4日間京都に行く予定なんですが、会う時間はありますか」と、突然の連絡が入ったのは2月24日(水)の日だった。「そうですね。26日(金)の夕方なら大丈夫」と返答した。

 陳さんは中国河南省の古都・洛陽市の出身で、私が、今勤めている福建省の閩江大学の教え子の一人だった。彼女は外国語学部日本語学科の学生ではなく、他学部の学生だった。1回生の時から、私の授業に聴講生としてけっこう参加していて、それは彼女が卒業する時まで続いた。中国の大学は、担当教員の許可はなくても自由に聴講が可能なシステムとなっている。

 卒業後は日本に留学したいと希望をもっていたようだ。日本語や日本文化などに強い興味を抱いたきっかけは、アニメやファッションだった。日本アニメのコスプレ大好きで、私は彼女から何度も誘われて、福建省福州市内で開催されるコスプレ大会に一緒に行って、中国のアニメ市場やコスプレ市場のことについてかなり分かるようにもなっていった。

 ちなみに、彼女の閩江大学での卒業論文は、「日本と中国における化粧文化や化粧品とCM(コーマーシャル)方法の比較研究」。卒業後にすぐ来日し、東京の日本語学校に7カ月あまり通学し日本語検定1級にも合格、その間、寿司店などでアルバイトをしながら大学院試験を受け、東京の上智大学大学院に合格した。昨年3月の大学院修了後は日本の企業に就職している。コロナ禍の問題もあって、もう2年半以上、中国に帰国していないようだ。一人娘なので、両親はたまの帰郷を心待ちにもしているようだが。

 2月26日(金)の夕方、午後5時半に京都四条大橋東の京都南座前で待ち合わす。京都府の緊急事態宣言は28日(日)まで、26日の新規感染者は7人。行きつけの日本料理店や居酒屋は3月7日まで休業。祇園や先斗町界隈の店は、三分の一ほどが休業していた。先斗町の開店している日本料理の店に入る。居酒屋や日本料理などの酒食の店に入るのは、昨年の12月18日以来だった。ほぼ2カ月半ぶり。

 陳さんは昨年の冬にも友達と二人で京都に観光に来た際にも会って会食をした。彼女はプライベートの行動の時はコスプレもするようだ。この日は、コスプレとはちょっと違うが、中国の冬用民族衣装で現れた。顔の化粧はコスプレっぽい舞台化粧。2軒目は先斗町のカラオケ居酒屋に。午後7時を過ぎていたのでここでは酒の提供はなし。8時閉店なので、それぞれが2曲あまり歌って8時前に店を出た。陳さんはここから近い高瀬川沿いの宿泊先のゲストハウスに向かった。午後8時、四条大橋の上から鴨川の堤防を見ると、たくさんの人が間隔を開けて、三条大橋までずらっと並んで座っていた。まあ、ほんとうに久しぶりの家以外での酒だった。

 「先生、3月1日(月)に、時間は空いてますか」とのメールが27日(土)に入っていたので、「翌日の授業準備をその日にする予定なので、ちょっと今はわかりません」と返信。28日(日)の夕方に、「明日(月)の午後に時間が空きそうです」と連絡、3月1日(月)の午後1時すぎに、私の家の最寄り駅(京阪電鉄)に来てもらった。自宅で、中国の閩江大学の新たな健康状況連絡シフトの携帯電話操作方法を陳さんに教えてもらった。

 「今日はこれからどこに行きたいのですか」と聞くと、京都府長岡京市の山中にある「楊谷寺」との意外な答え。通称は「柳谷観音」と呼ばれる寺だが、名前は知っていたのだが、私もまだ行ったことがない寺だった。「なぜ、そこに行きたいのか」と聞くと、「この寺、花手水(はなちょうず)が有名なんです」とのことだった。

 陳さんは花が好きで、大きなデジタルカメラを抱えて、季節の花々を撮影することが一つの趣味だ。そしてインスタグラムにて中国のネットにも投稿(日本紹介)したりしているようだ。自宅から車で30分ほどで、楊谷寺に着いた。そこはもう京都府と大阪府の県境の山中で、すぐに大阪府高槻市だった。かなりの山中にある寺だ。創建は806年とある。ここに来るためのバスは無いが、毎月17日が縁日で、その日だけ最寄りの鉄道駅からの送迎マイクロバスが運行されているらしい。

  境内に入り、「花手水」を見る。山の中腹から山頂にかけて境内が広がっていた。なかなか大きな境内の寺だった。

 参観は無料で、自由に建物内に入れた。雛(ひな)飾りが座敷に置かれていた。3月1日はまだ花の季節ではないので、何箇所ある「手水鉢」のうち、花が生けられていたのは1箇所だけだった。「MAX6です」と陳さん。何のことかと聞くと、最も多い時期だと、この境内の6箇所に花手水が出現するのだとの意味だと言う。いかにも残念そうだった。毎日新聞に紹介されたこの寺の花手水の記事が置かれていた。境内の龍の周囲にも花手水がつくられるだそうだ。これは中国人にとっては一見の価値ありの光景かと思う。

 建物は長い階段廊下があり、山頂に続いていた。奥の院という建物が山頂にあった。この季節、馬酔木(あせび)が満開になっていた。

 自宅に戻る途中、午後4時頃に京都府長岡京市の「長岡天満宮(長岡天神)」に立ち寄った。ここに立ち寄るのはもう20年ぶりくらいだった。境内の紅梅、白梅が美しかった。池の畔に建てられている建物群がなかなか風情がある。「錦水亭」という料亭の建物だった。名物は日本屈指のタケノコ産地・乙訓地方で収穫される竹の子の料理。これからがその季節だ。

 山茱萸(サンシュユ)の大きな木があり、春到来を告げる黄色い花が満開となっていた。長岡天神の本殿に、初めて来た。本殿横の白梅が香りを漂わせていた。「清廉潔白  至誠一貫」の文字が刻まれた石碑が本殿横に。ふと、明智光秀や明智左馬助(光満)のことを思い浮かべた。

 丑(牛)の石像が2匹。天神さんは丑なんだ。梅の木の自然に同化したような本堂の狛犬。近くの小さな池には、北方ロシアなどからの鴨や雁などの渡り鳥がたくさん見られた。

 陳さんは、この日の深夜12時の夜行バスで東京に戻る予定だった。翌日2日の朝に東京に着き、アパートで少し休んで出勤予定だと言う。午後6時すぎに自宅に戻り、妻と久しぶりの再開。夕ご飯を一緒に食べることとなり、午後9時頃、京都市内に戻って行った。

 昨年の2月下旬に、陳さんの友人の馮(ひょう)さんとともに京都に来た時に、私の妻も一緒に4人で居酒屋で会食。馮さんも今年の4月から筑波大学大学院への進学が決まっている。陳さんの1年遅れで来日した馮さんも、陳さんと同じように、他学部から私の授業に時々、聴講生として3年間あまり授業を受けていた。馮さんは日本の剣道の愛好家で、福建省の福州にある剣道場に大学生時代には通ってもいた。