彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都大学の近くに佇む"廃墟と化した建物"―「日本・中国・台湾」の関係に翻弄された"光華寮"

2021-03-10 10:56:03 | 滞在記

 大学時代の3回生・4回生の時、銀閣寺境内に隣接する下宿に暮らしていたので、いつも通っていた京都大学に面する今出川通り。京都大学の北部構内から銀閣寺や大文字山に向かう今出川通りから、ちょっと細い路地を入った一角に"廃墟と化した建物"がある。建物の名前は「光華寮」。京都市バスの停留所としては、「京大農学部前」又は「北白川」からが近い。建物の近くの今出川通りには、鎌倉期に作られた大きな石仏「子安観世音」がある。そのすぐそばだ。

 私の学生時代の1970年代、この寮には中国や台湾の"中華圏"からの留学生などがここで生活をしていた記憶がある。建物の入り口にも行ったこともあるが、なかなかクラッシックかつモダンで、古色蒼然とした趣(おもむき)のある建物だった。何しろ立地条件が抜群によい。京都大学もすぐそこで、比叡山や大文字山、吉田山なども一望できる場所にある。ここに住んでみたいなあと感じもした。

 この「光華寮」は、日本と中国、台湾との国交関係の変化が大きく影響を及ぼしたというか、翻弄されてきた建物だ。この建物の設計者は、日本の初期モダニズム建築を多く設計した有名な建築家・土浦稲城。大規模な昭和初期モダニズムの集合アパートメントは東京にも建てられたが、取り壊しとなったところがほとんどで、現在はこの「旧・光華寮」の建物は、日本の建築史上でも貴重な建築物でもあるようだ。

 1931年に集合アパートメントとして民間資本により建てられ、当時の専門雑誌にはモダニズム建築として紹介・掲載されてもいたようだ。建築後、京都帝国大学が建物を民間から買い上げ、主に中国(日本の統治下にあった満州国・台湾含む)などから京都大学へ留学している学生たちを住まわせる寮となった。1931年に日本の関東軍による満州事変が勃発(中国との15年戦争の始まり)、1932年には日本軍は満州(現・中国東北地方の黒竜江省・吉林省・遼寧省の三省)を占領し満州国の成立を宣言した。そして、1937年からは中国との全面的な「日中戦争」突入となる。

 1945年8月、日本の敗戦。中国は1946年から中国国民党軍(蒋介石)と中国共産党(毛沢東)との内戦が始まり、1949年には国民党政府は敗色が濃くなった。1949年10月1日、中国共産党は中国国内の多くを占拠し、「中華人民共和国」の成立を毛沢東は北京・天安門にて宣言。この年の12月、蒋介石の中国国民党政府や国民党軍は台湾に逃れた。(「中華民国」)

 日本の「光華寮」は、その後の1950年、台湾に拠点を置く「中華民国」(国民党政府)が京都大学より買い取ることとなる。1949年以降、アメリカの影響下にあった日本は「中華人民共和国」(中国共産党政府)を承認せず、台湾の国民党政府を承認し、国交関係を結んでいたのだ。したがって、1972年までは台湾からの留学生や各国出身の華僑の学生たちがこの寮で留学生活を送っていたこととなる。

 しかし、1960年代に入り、中国大陸での中国共産党政権と毛沢東思想や文化大革命を巡って、寮生の間で深刻な対立が起こって来た。この寮には当時、台湾だけでなく華僑(アジア各国の国にいる)も住んでいたが、「毛沢東思想を支持するか否か」を巡っての寮生間の分断が起きていた。この問題は、1960年代から70年代における日本の学生運動間でも分断が起きていた問題だった。私の周辺にも激烈な毛沢東思想に心酔していた人もけっこういて、「毛沢東思想に学べ」と中国に行ってきた(1972年以降だが)学生たちもいたぐらいだ。

 このような分断は、日本の大学の寮でもさまざまなところで深刻化もしていた。そんな時代だった。(※私は、大学の入寮を申し込んだが、寮の2つの建物群[東寮と西寮]はそれぞれに相互対立する寮自治委員会があり、その両方から政治信条を入寮審査の際に問われた。どちらの寮の政治方針にも賛同しなかったので、結局、家からの仕送りがなく、学費・生活費ともにバイトでなんとか稼いでいた生活困窮学生状況を話したが、どちらも入寮審査にはパスしなかった。そんな時代だった。偏狭な思想というものの怖さ理不尽さを思い知る体験の一つとなった。)

 1967年に、光華寮の所有者である台湾政府が、毛沢東を支持する学生に寮からの立ち退きを求めて裁判を起こす事態となった。そんな中、歴史的に日本と台湾政府と中国共産党政府との関係が大きな転換点を迎えることとなった。1972年、日本の田中角栄総理の時代、日本はアメリカのニクソン政権とともに中国共産党政府(中国)を承認し、国交を樹立、台湾政府(中華民国)との国交を断交することとなった。これにより、光華寮の裁判は「寮が台湾のものか中国のものか」に争点が変わっていった。

 1977年、一審の京都地裁は「寮は中国のもの」と判断し、中国側が勝訴することに。しかし、10年後の1987年、二審の大阪高裁は一転「日本との断交はあっても寮は台湾のもの」と、台湾が逆転勝訴した。そして、それから20年後の2007年、最高裁が「日本と国交を断絶している台湾にはそもそも原告としての資格はない」と切り捨て、原告を台湾ではなく中国とした上で裁判をやり直すよう命じることとなる。事実上の中国側勝訴だった。

 その後、裁判のやり直しは行われておらず、所有権があいまいなまま、2010年ころまでは留学生などがいたが、寮は閉鎖され誰も住まなくなったようだ。そして、この10年間あまりで廃墟化がすすむこととなる。日本、台湾、中国の国交関係の政治状況の歴史に翻弄され続けてきたこの「光華寮」の歴史である。

 2016年頃から、台湾は民進党の蔡英文総統のもと、中国・習近平政権との関係は緊張の度合いが高まり「台中戦争」の危機もはらむ。日本と中国との関係も尖閣諸島の領有問題や新型コロナウイルスの発生源と中国政府の対応を巡り国民の対中国感情も悪化し、緊張関係が続く現在、ますますこの建物の所有権を巡る裁判のやり直しは日本政府や裁判所としても難しくなってきているのが現状かと思われる。

 誰もこの建物に住むことがなくなってから、無人となった建物には、所有権の問題が未決着のままとなり、京都市ですら敷地内に立ち入ることができなくなっている。完全な治外法権的な建物と敷地の「旧・光華寮」に、夜間には肝試しを試みる人があとをたたなくなった。そして、「心霊スポット in 光華寮。 今回は最高にヤバい!」「光華寮見に行った!怖い(笑い)」などのネット投稿も増えてくることになる。不法侵入で警察に逮捕される人も出てきたようだ。

 このため、京都市は建物の周囲を鉄製の白く塗られた高い壁でぐるりと囲み、敷地内に入れないようにしていたようだ。私の娘の家が銀閣寺・吉田山界隈にあるので、しょっちゅう行き帰りにこの建物を見るが、この2月中旬に久しぶりにこの建物のある路地に入り、建物の現状を詳しく見に来た。この高い壁の入り口は頑丈に施錠され、人が入れる隙間はない。鉄板壁には、「立ち入り禁止」や「警告 当建物に侵入した為 逮捕者が出ています」の貼り紙が貼られていた。

 近くに隣接するアパートの階段や廊下、屋上に登ってこの旧・光華寮の6階建ての建物を眺めた。この季節、まだ冬なので、建物を覆う蔦(つた)の葉は枯れているが、春から夏、秋にかけては緑の蔦に覆われる。

 窓は大型台風時の時によるものかガラスが割れている部屋も多い。廃墟蒼然としている。部屋数は100ほどあるとされる。ちょっと建物内に入ってみたくもなる雰囲気がある。何か面白いものが部屋に残されているかもしれない。学生時代の京都大学の11月祭(大学祭)の時、中国からの留学生が大学構内の一角に座って中国から持ち込んだものを売っていたので買ったことがあった。文化大革命時の紅衛兵の赤い腕章や毛沢東語録の小冊子など。なんと銃の実弾まで売っていたのには驚いた。手に取ってみて、「これ一発で人間はいとも簡単に死ぬのか」と感じ入った記憶がある。

 光華寮に隣接しているアパートの屋上に上がると、比叡山、大文字山、吉田屋山が一望できる。いい景色だ。

 また、京都大学のシンボルの時計台がある本部構内や農学部や理学部のある北部構内なども一望できる。旧・光華寮の建物の各部屋からの景色もさぞかし良いのだろうと思われる。屋上からは360度の視界が広がるのだろう。残念ながら、立ち入り禁止だ。

 

 

 

 

 


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