彦四郎の中国生活

中国滞在記

寅年に、虎を見に行く❺—干支を愛でる・新春特集展示「寅づくし」 於:京都国立博物館

2022-01-13 12:01:39 | 滞在記

 "京博物のお正月"新春特別展示—「寅づくし」干支(えと)を愛でる―2022年1月2日-2月13日。三連休となった二日目の1月9日(日)の午後に、この新春特別展を見るために京都国立博物館に行ってきた。2002年、雪舟没後500周年とにあたり、この京都国立博物館で「雪舟展」が開催された。これを見に行ったきりなので、ここに入るのは20年ぶりとなる。

 「雪舟展」の時は、なんと3時間待ちの長蛇の列だったことを思い出す。雪舟(1420年—1502年)は、遣明船に同乗し、1467年の応仁の乱(1467-1478)が始まった年に中国に渡航し、2年間、中国各地を廻り水墨画を学んでもいる。そして、京都が戦乱の巷になっていた1469年に日本に帰国。西国の周防(山口県)の大内氏のもとで創作活動に本格的に入った。「雪舟展」では特に、「秋冬山水図」(日本の中学の歴史教科書に掲載されている/東京国立博物館所蔵)や、四季山水図、天橋立図(京都国立博物館所蔵)などの名品が心に残った。(※とりわけ、「四季山水図(毛利博物館所蔵)」が好きだ)   すばらしい水墨画だと思う。私も9年間あまりの中国滞在で、中国の絵画や水墨画を見る機会もよくあるが、雪舟ほどの水墨画作品には出会ったことがまだない。

 さて、20年ぶりの京都国立博物館。京阪電鉄「七条駅」で下車し、鴨川に架かる七条大橋に出る。七条通りを東山に向かって進む。この道を歩くのも久しぶりだ。この七条通りに「七条甘春堂(本店)」という京菓子の老舗の喫茶室に入って珈琲(コーヒー)を注文したら、なんと、まずお茶が出された。タバコを吸いながらお茶を飲んでいると、コーヒーが出された。小さな落雁(らくがん)のような京菓子が二つついていた。これで500円という珈琲代金。「おもてなし」という言葉が思い出される喫茶店だった。

 「七条甘春堂」で一服したあと、すぐ近くの京都国立博物館に向かう。七条通りを挟んで向こうは三十三間堂。東山連峰の山麓には、名画の名品を多く所蔵している「智積院」や京都女子大学がある。京都女子大学の学生たちが登下校に行きかう道なので、大学構内へと至る坂道は別名「女坂」とも呼ばれる界隈だ。

 京都国立博物館は正門や建物が素晴らしい。赤レンガ造りの正門を入るとフランスの彫刻家ロダン(1840-1917)作の「考える人」が見える。特に背後から見る背中の筋肉の付き方がすばらしいブロンズ像だ。(このブロンズ像はレプリカではなく本物だ)

 博物館の本館の建物がまた素晴らしい(ネオ・ルネサンス様式)が、特に注目したいのが、建物中央の△屋根の壁面にあるレリーフ。「技芸天女」と「毘首羯摩(びしゅけつま)」のレリーフが絵描かれている。共にインド神話における工芸と彫刻の祖神だとされている。東洋的な趣がある意匠だ。この本館は1895年(明治28年)に完成した。

 今、京都国立博物館の展示は、全て新館(平成知新館)で行われている。1階ロビーに写真撮影可能の絵画が2点展示されていた。そのうちの1点は「韃靼狩猟・打毬図屏風」。蒙古(モンゴル)東部や中国東北部での騎馬民族の狩りの様子が描かれている。(※韃靼人[タタール人]とは、主に蒙古系騎馬・遊牧民族のこと)  騎馬による集団狩りのようすが描かれ、虎・イノシシ・鹿などの獲物を追い込んでいる。作者は、安土桃山時代の狩野永徳の弟・狩野宗秀筆とされている。馬上の敷物には、虎の毛皮が多く描かれていた。

 各室の展示は、写真撮影は禁止なので、このブログにも、「寅づくし」で展示されていた作品の写真はないが、尾形光琳の"竹虎図"など、36点が展示されていた。

 この新春特別展の開催にあわせて、1月9日(日)には「雅楽(ががく)演奏会」、1月10日(月)には「芸舞妓—春の舞」の新春イベントも行われていた。博物館の売店コーナーには、尾形光琳の"竹虎図"の虎をモチーフにした、「トラりん」(性格:やんちゃ、好奇心旺盛)が置かれていた。

 京都国立博物館に隣接している「豊国神社」。その超巨大な石垣が長く続く。かってはこのあたり一帯に「方広寺(ほうこうじ)」という巨大寺院があり、この巨大石垣群は「大仏殿」の建物があったところだ。

この方広寺は1591年に豊臣秀吉によって建立された。当時の境内は、今の豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂、智積院などの広域に及ぶ大寺院。大仏殿に安置された大仏は、奈良東大寺の大仏よりも大きかった。(かっての日本三大仏とは―①方広寺の「京大仏」・高さ19m[今はもうない]、②奈良東大寺の大仏・高さ18m、③鎌倉大仏・高さ13m) 

 かって方広寺があったところの一角に、明治時代になって豊国神社が建立された。神社の唐門(国宝)は伏見桃山城の遺構。「国宝三唐門」(他に、西本願寺唐門と大徳寺唐門)の一つだ。いずれも京都にある。

 この豊国神社唐門の前には、今年の干支の虎(白虎)と、虎の巨大絵馬が置かれていた。

 方広寺といえば、豊臣家滅亡を図るために徳川家康が起こした「国家安康の銘鐘」事件。1614年に豊臣秀頼により造られた方広寺の巨大な鐘の銘文の一節に、「国家安康 君臣豊楽」の八文字があった。この意味は、「君も民(臣)も豊かに楽しめ、国家が安泰になることを念願す」というものだが、これは、「家康」の名を分断し、徳川家の滅亡と豊臣家の繁栄を祈るという、呪詛(じゅそ)、呪の文言だとして、大阪城の豊臣家を攻撃するための口実とした事件だ。そして、1614年冬から1615年夏にかけて、大阪城を包囲攻撃し、豊臣家は滅亡に追い込まれた。

 徳川時代になり、この方広寺の鐘は、270年間あまり、徳川幕府により「呪の鐘」として野ざらし雨ざらしにされ、かっての方広寺の境内の一角に放置され続けていた。(※上記写真右端)   1884年(明治17年)に、寄進により鐘楼の建物が造られ、この鐘は吊るされ、現在に至っている。まあ、巨大な釣鐘(梵鐘)だ。日本で最も巨大に感じる梵鐘(ぼんしょう)ではないだろうか。現地で見るとその圧倒的な大きさに驚かされる。(※日本三大梵鐘とは―①方広寺[高さ4.1m、口径2.2m]、②東大寺[高さ3.8m、口径2.7m]、③知恩院[高さ3.3m、口径2.8m])

 この豊国神社から東山連峰の阿弥陀ケ峰を臨む。その山頂には豊臣秀吉の「廟墓」がある。ここも江戸時代には荒地の原野として荒れるに任せていた場所だったが、明治期になってから、再び整備された。

 また、豊国神社のすぐそばには、「耳塚(耳鼻塚)」がある。ここは、1592年~98年にかけて豊臣秀吉が行った「朝鮮侵略」(朝鮮の役)の際、首級のかわりに朝鮮人軍民男女の耳や鼻をそいで塩漬けにし、軍功の証として日本に持ち帰った耳や鼻が埋められている塚だ。秀吉がここに埋葬することを命じている。戦乱下における朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として今は伝える。

 京都国立博物感の売店で販売されていた、小さな「トラりん」のぬいぐるみを買った。この「トラりん」の性格は「やんちゃ、好奇心旺盛」と書かれていた。1歳と1か月の孫の「寛太(かんた)」とちょっと似てもいる。

 先日9日(日)、NKKの「ダーウィンが来た」では、虎が特集されていた。「なぜ、日本では虎が愛されるのか」というテーマだったが、日本は昔から虎が生息していなかったので、自由に虎を連想させ、さまざまなキャラクター化がされ続けてきた歴史が「愛すべき虎」というイメージが日本に生まれたと番組では語られていた。

 自宅からほど近いところにある石清水八幡宮山麓の「松花堂美術館」では、「いいことありそう、寅の年」展(1月8日-2月6日)が開催されているので、見に行こうと思っている。「龍虎図」の絵画が展示されているようだ。

 「いいことありそう、寅の年」、ほんとうにいいことがあってほしいと願いたい。1月1日には530人余りの新規感染者数が12日後の昨日、日本での1日新規新型コロナ感染者は1万3000人超になった。12日間余りで25倍余りの感染拡大だ。京都府でも500人超。この感染拡大スビートは、「感染爆発」といえる状況かと思う。えらい年明けとなってしまった感もある。

 3日ほど前に、担当した前期講義3教科の成績作成がようやく終わり、大学に送信した。今は、期末試験のB問題を作成している。1月15日から大学は1か月余りの冬季休業に入るので、私も冬休みに入る。今朝、木津川の堤防から京都市内を見ると、周囲の西山連山・北山連山の丹波山地や東山連峰の山々は白い雪に覆われていた。

 

 

 

 

 

 

 


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