彦四郎の中国生活

中国滞在記

白洲正子の「かくれ里」を訪ねる❶—「久多」は高い山々に囲まれ外から隔絶された里だった

2019-08-04 06:36:27 | 滞在記

 NHK・BSプレミアムで「白洲正子が愛した京都」と題されたドキュメンタリー番組が再放送されたのは今年の5月頃だった。私はそれを中国で見た。この番組の初回放送は2008年とのことだった。この番組で紹介されていた「白洲正子が愛した京都」の「京都」とは久多という地区(里)。南北に細長く広い京都市の中でも もう福井県に近い山里である。

 白洲正子は、滋賀・京都・奈良の地を多く訪れ、随筆を書いてきた。そして、彼女は『かくれ里』という著書を書き第24回「読売文学賞」を受賞している。この著書の中で、「市街地の火祭りが失ったものがここに残っている」と"山国の火祭りとしての久多地区などの「松上げ」について語っている。

 白洲正子(1910―1998)は樺山伯爵家の令嬢として東京に生まれた。19歳で白洲次郎(当時27歳)と結婚し白洲正子となった。白洲次郎はのちに吉田茂の側近となり、日本の戦後復興と講和独立をめざして、GHQ(米国日本統治委員会)との折衝の矢面にたち、米国側に「従順ならざる日本人」と言わしめた男だった。白洲次郎については2009年、NHKドラマスペシャル「白洲次郎」でも放映されている。白洲次郎役は「伊勢谷友介」、正子役は「中谷美紀」だった。※白洲次郎(1902―1985・享年83才)

 白洲正子は、古美術骨董・伝統芸能などに強い関心を持ち続け、全国各地を訪ねた人だった。人は彼女のことを「韋駄天お正」と称した。「日本の美」についての随筆を多く残した。その代表的なものが『かくれ里』だった。1998年、享年88才で亡くなった。

 久多は京都の市街地からそう遠くはないのだが、「近くて遠い」場所。800m〜1000mのいくつもの山々に取り囲まれ、道路地図を見ると、久多への交通道路には✖✖印が多くつけられている。西の入り口は人々がよく行き来する京都市の「鞍馬や花背」から到る峠を越えるのだが、この峠は難所のようで✖✖が特に多い。冬は積雪で通行止めとなることが多い峠道らしい。東の入り口は、鯖街道から安曇川に架かる橋を渡って、渓谷沿いに道をいくらしいが、ここもかなり狭い道の連続らしい。

 という場所が久多なので、ここ30数年来、近くはよく往来してきているが、久多には気になり「行ってみたいなあ」と思いながらついぞ行きそびれていた場所だった。今年の7月16日(火)、福井県の自宅から京都の自宅に戻る際に、思い切ってここに行ってみることにした。滋賀県朽木から安曇川沿いに京都方面に向かう。葛川梅の木という地区で、ちょうどスクールバスを降りた小学生に久多方面に行く道を聞くことができた。

 安曇川の橋を渡って、安曇川の支流の一つ「久多川」沿いの車のすれ違いができない細く狭い道を行く。渓谷が美しいが、渓谷がけっこう深くなってくる。その渓谷沿いに道がつくられている。昨年の大風で杉の木の倒木があちこちの山にある。この渓谷道は距離にして2〜3kmほどだったが難所だった。ようやく開けた場所に着くとそこが「久多」だった。

 久多川沿いに開けた場所なのだが、イメージしていた狭い渓流ぞいの地区ではなかった。周りを高い山々に囲まれてはいるが、その山々から何本かの小川がこの地区に流れ込み、広い平地(盆地)をつくっていた。「けつこう開けた 広い里」という感じだった。

 地区には「下の町、中の町、上の町、宮の町、川合町」のそれぞれの地域区があり集落が。「久多文化遺産散策マップ」という大きな案内看板。それを見て、この地区のさまざまな自然や文化のことが少しわかってきた。7月中旬から8月中旬にかけて咲く北山友禅菊、土豪の城・久多城跡、川地蔵(8月14日・15日のお盆になると、近くの小川に下りて、小さな中州を作り、そこに川の石を積み地蔵を六体作る。そして、ご飯や野菜や花などを供えて祈る。)、8月23日から24日の夜にかけて毎年行われる「松上げ(火祭り)」や花笠踊りのことなどが‥‥。

 さて、峠をこえて、広河原・花背に向かうために車を走らせ始めた。途中で、父親ととともに田圃仕事をしていた若い娘さんに、「この道は広河原にいけますか」と聞いてみたら、「いいえ、行き止まりですよ。ここにくるまでに神社があったと思いますが、あの分岐路まで戻って、もう一つの道を行ってください」と教えられた。延々と30分ほど走って行き止まりの道に行ってしまうところだった。

 広河原や花背、京北町方面に至る西の入り口の峠道。これは、かなりの難所だった。もちろん車のすれ違いはできない。延々と800mくらいの標高の峠をめざす狭く暗く危ない峠道が九十九折に続く。道路地図に✖✖印がここに多いわけだ。ようやく峠を越えて下り道になった。くねくねとハンドルをきって、峠の麓に近い場所に着いた。山からの渓流が流れ山アジサイの白い花がきれいだった。

 思うに、やはり「久多」は「かくれ里」だった。夏はひときわ涼しく冬は寒さが厳しい里だという。京の都からの「平家の落ち武者たちの里」伝説も残る久多。携帯電話も高い山々に囲まれている地区だけに、最近でも「圏外」表示だという。(なにかの特別な携帯電話電波の受信機能をつければ、携帯電話が最近使用可能になったようだ。普通の携帯電話だけでは今も使用不可らしい。)

 

 

 

 

 


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