彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都・吉田神社の節分祭―日本一、約800もの露店がずらりと続くさまは壮観です

2024-02-06 05:29:01 | 滞在記

 冬至(2023年は12月21日)と春分(2024年は3月20日)のちょうど中間の日が立春(今年2024年は2月4日)。その前日に行われるのが日本の伝統行事の「節分祭」。全国津々浦々の大きな神社などで行われる「節分祭(会)」だが、京都では壬生寺の節分会、八坂神社の節分祭、北野神社の節分祭などが有名だが、最も大規模で全国的にもとても有名なのが吉田神社の節分祭だ。今年は、2月2日(節分前夜祭)・3日(節分祭)・4日(後祭/特別参拝)となった。

 吉田神社の節分祭は室町時代から始まった。2日・前夜祭での「追儺式(ついなしき)」[別名:鬼祓い(おにやらい)]の行事、3日・節分の日にも別の3匹の鬼たちが登場する。特に吉田神社の節分祭は、吉田山山頂付近の参道から京都大学正門前の通りにかけて、露店がずらりと建ち並び、その露店は東大路通りまで続く。その数は約800露店で、ダントツの日本一の露店数となっている。(※日本第二・第三の露店数は、富山市の「日枝神社祭礼[山王祭り](5月30日~6月1日)」の約550露店、新潟市の「蒲原神社祭礼」(6月31日~7月2日)の約450露店となっている。)  まあ、吉田神社の露店のさまを見るのは壮観だ。日本の露店文化ここにありという感がする。そして、この節分祭には例年、約50万人の参拝者が訪れる。

■吉田神社の由来と節分祭:平安時代の859年に、平安京の守護神として、都の東北鬼門に位置する吉田山に創建された。1明治時代の1872年に、「国家神道」として伊勢神宮が日本で最上位の神社となったのだが、それまではこの吉田神社が日本最上位の神社だった。吉田山は標高102m、南北400mにわたる孤立丘陵。丘陵一帯は吉田神社の境内となっている。神坐のおわす岡から、吉田山の別名は「神楽岡(かぐらおか)」の名で親しまれている。

 この吉田山周辺の家々が立ち並ぶ町名は「吉田神楽岡町」。この町の住民が吉田神社の氏子(うじこ)となっていて、この吉田の節分祭でも鬼の装束をつけた3匹の鬼たちや、山伏の法螺貝(ほらがい)、巫女的な子供たち、松明(たいまつ)の行列などの行事を代々担当している。私の娘の家もこの神楽岡町なので、娘婿も2020年には青鬼に扮していた。今年は、羽織袴を着て鬼の先導(付き添い)役とのこと。

 2月3日付京都新聞には、「幸福来たれ 3匹の鬼退散 吉田神社"追儺式"」の見出し記事が掲載されていた。記事には次のように書かれていた。「節分前夜の2日、京都の東鬼門とされる吉田神社で鬼を追い払う神事"追儀式"が営まれた。雄たけびを上げて暴れる鬼を四つ角の仮面をかぶった"方相氏(ほうそうし)"が追い詰めて退け、人々の幸福を願った。日没後、赤・青・黄の3匹の鬼が境内に現れた。それぞれの色は、怒り、悲しみ、苦しみを表しており、鬼はうなりながら、参拝者の前で金棒を振り回した。‥‥(中略)‥‥追儀式は平安時代から宮中で営まれた行事に由来し、現在は地元の保存会が継承している。」(※平安時代の宮中での追儀式は、陰陽師たちが担当していた。) 

 2日の追儀式(鬼祓い)を見るために、私の娘と3人の孫と私の妻の5人は、午後5時30分頃に吉田山に行ったようだった。夕暮れとなり暗くなった午後6時頃、吉田山の山頂付近の建物から山道の参道を下ってきた白装束に松明(たいまつ)を持った一団や白装束の巫女的な少女たち、そしてその後方に3匹の鬼たちのうなり声。

 参道の山道でこの一行を待っていた娘の腕に抱かれていた3歳の孫(寛太)や二人の孫娘(7歳と5歳)は、鬼たちのかっこうの餌食(えじき)となったようで、寛太に向かって3匹もの鬼がそろって寛太にうなり声や金棒を振り上げて迫ったらしい。「怖い!怖い!いやや!幼稚園に来た鬼の方がいい!」などと泣き叫んでいたとのことだった。暗闇と松明と鬼、そりゃ3歳の子にはさぞ怖いだろう。このようすを妻は動画にとっていて私に見せた。

 2月3日の節分祭の日、私も吉田神社にいくことにした。まず、神楽岡町にある娘の家に行き、私の妻や娘、3人の孫たちとともに、吉田山の山頂付近にある竹中稲荷神社に向かった。吉田神社の末社である朱の鳥居の竹中稲荷神社は、春は桜、秋は紅葉がとても美しいところだ。この神社の建物(社務所)から鬼たちが出てくる。(3日の日は、午後3時と6時の二回) 午後3時すぎ、竹中稲荷の入り口の鳥居の前で待つ。外国からの観光客も、何が始まるんだろうと足をとめて、カメラを構えて待っている。(寛太は、「今日の鬼はやさしいよ」とさとされて、ついてきていた。)

 白装束の人たち、それに続く山伏(やまぶし)たちの法螺貝(ほらがい)の音(ね)、そして梔子(くちなし)色の巫女的な装束をまとった四人の少女たち。その背後に3匹の鬼たちが雄たけびを上げている。

 娘婿は今年は、羽織袴姿で鬼の世話(付き添い)をする役をしていた。鬼たちは金棒を振り回しながら山道の参道を下り、吉田神社の本宮を目指して立ち去って行った。山頂から本宮に至る山道の参道にも露店が両側に立ち並び、人波で埋め尽くされていた。

 約800もの露店には様々なものが売られている。囲炉裏火に串に刺された鮎の塩焼きがおいしそうだ。孫たちはまず、みそ団子を1串買ってもらい3人で口の周りに味噌をつけまくりながら食べていた。本宮あたりで暴れていた鬼たちがまた山頂に向かって登って行った。梔子色装束の少女たちも続く。前日の追儀式の鬼たちや松明をもつ男の子たち(小学5~6年)、この日の鬼たち、装束の少女たち(小学3年~6年)もみな、吉田神社の氏子である神楽岡町の人たちが行っている。

  京都大学正門前の道路の両側らも露店は立ち並ぶ。このあたりで、りんご飴を3本買って孫たちに食べさせた。このような露店を子供のころに楽しむことは、とても大切な経験かとも思う。

 日本の最高学府の京大時計台(100年記念館)と日本一の露店とのコラボレーションの光景もまた趣がある。

 春節時期を利用しての日本旅行にきている中国の大学生たちに正門で出会った。大学卒業後、日本の大学院に進学するために京都大学などいくつかの大学を巡っているのだそうだ。

 出町のたいやきという名前の露店には、30人ほどの行列ができていた。すごい人気店のようだ。ようやく東大路通りに着いた。吉田山山頂付近からここまで露店が続いていた。

 

 

 

 


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