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彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国からの留学生や、卒業生などとの再会の乾杯が続いた1週間余り—久しぶりに八坂神社の朱塗りの山門軒下で眠る

2025-08-04 10:19:27 | 滞在記

 まだまだ40℃近くの猛烈な暑さが続く8月上旬、6日からは秋雨前線の南下で日本の本州はようやく雨も降りそうな予報となっているので、「😥やれやれ‥ようやく‥」か‥。この1か月間、記録的な6月下旬の梅雨明けと猛暑、まとまった雨のなさで亜熱帯化した日本列島だった。8月3日の夕方、京都の自宅近くの水田の稲は、ちょうど中干(なかぼし)の時期になっているので田に水は張られていないが、水田の土(粘土)は極端な雨不足でひび割れている。今年の稲の収穫に影響がありそうだと心配にもなる。

 中国の大学の夏休みで日本に帰国中、これまでに何人かの閩江大学の留学生や卒業生と京都市内の祇園や先斗町などで再会の乾杯をした。7月26日(土)の夜7時30分に京都南座前で待ち合わせたのが、閩江大学を卒業し、現在は大阪大学大学院の博士課程(日本の近世[江戸]文学と中国の近世文学の比較を研究)に在籍している任天楽君(中国山西省出身)。

 彼と会うのは1年半ぶりになるだろうか。祇園の白川石畳の通りにある居酒屋「侘助(わびすけ)」に行き、つもる話をした。博士論文完成は来年2026年3月を目指しているとのこと。

 任君と侘助を9時頃出て、祇園のスナックを2軒余りはしご、時刻は午前0時をとっくに廻っていた。任君は京都市内にアパートがあるので、任君とは八坂神社付近で別れた。そして私は、(かなり)久しぶりに八坂神社の石段山門(朱塗りの山門)の軒下で眠ることにした。ちょうど長い板が置かれていたのでベット代わりにして眠る。午前5時頃に目覚めたら空は明るくなっていた。京阪電鉄「祇園四条駅」の始発電車に乗り自宅には午前6時半頃に着いた。妻はこの日、早朝6時過ぎに自宅を出て、故郷の丹波山中・京都市京北町の実家に里帰りし、100歳の母親を午前9:0から予約していた「京北ブルーベリー園」に行ったので留守だった。私は昼過ぎまで、自宅のソファーで寝なし、ようやく体の疲れがとれた。もうすぐ73歳のこの身だが‥。まあ、年甲斐もなく‥である。

 7月31日、閩江大学卒業生で現在は福建省福州市の日系企業で働いている王文重君から「今、日本に旅行に来ています。8月1日〜4日まで京都に泊まります。会食と乾杯したいのですが、先生の御都合はいかがですか。」との連絡が突然に入った。

 そこで8月1日(金)の夜に会うこととなった。京都南座前で午後7時に待ち合わせ。南座前は浴衣姿の欧米系外国人が20人ほどもいたのには驚いた。王君はフィアンセの甘さんとの二人旅。鴨川沿いに100軒余りある「鴨川納涼床」も、たくさんの客でにぎわっていた。

 まずは、四条大橋西詰にある中国料理の「東華菜館」の屋上テラスビアガーデンに行った。この建物は有名なアメリカの建築家であるヴォーリズの設計。エレベーターは日本最古のもので、エレベーターボーイとともに現役にして使われている。この屋上テラスから見える、鴨川、四条大橋、南座、八坂神社、東山連山が眼下に見える景色は素晴らしい。おそらく京都の夜景でここほど美しいビヤガーデンはないかと思われる。

 清水寺や比叡山の夕暮れも望める。

 次に高瀬川沿いの沖縄小料理店「海と空」に行き食事、祇園のスナックにも行って三人で歌った。夜も10時頃になったので、ここでお開き。私はこの日は京阪電車で自宅に戻った。王さんたちは烏丸御池にあるホテルに戻る。

 昨日は夜も遅かったので、今日8月2日の一日は自宅でゆっくり過ごしたいと思っていたら、その日の昼前に「先生、私は今、京都の観光に来ています。明後日の4日には関西空港から中国に戻ります。今日か明日、夜に会って一緒に食事ができませんか」という連絡が突然に入った。この1年間、日本の広島大学との交換留学生として来日していた姚博厳君(閩江大学3回生/今年の9月から4回生)からの連絡だった。

 2日(土)の午後7時に京都南座前で待ち合わせをしたが、最初、姚(よう)君だとは分からなかった。1年前には丸々としていた顔がスマートな顔に変貌していたからだ。その理由を聞いたら、「日本食のおかげです。日本食はヘルシーで健康的ですね‥」とのことだった。四条大橋から三条大橋まで続く鴨川沿いの「鴨川納涼2025」(8/2・3)は、日本の47都道府県の物産や食べ物店のテントが軒を連ねていた。中央ステージではさまざまな演目。人で溢れかえっていた。

 そして、昨夜も行った沖縄小料理店の「海と空」へ。二人で乾杯しながら、好物の沖縄ラッキョウを食べる。姚君はまだ広島大学に残っている閩江大学からの交換留学生(2人の女子学生たちは8月中旬に中国に帰国するようだった。)とスマホ映像電話をし始め、私も彼女らとしばらく話した。二次会は高瀬川からすぐそばの、先斗町の「民謡カラオケ みちのく」へ向かう。午後8時頃の先斗町の通りは、外国人観光客でいっぱい。

 「みちのく」で姚君は店のオーナー女性から三味線や日本の歌の練習をさせられることとなった。例えば、「富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も‥」の歌を、まずは、オーナーの三味線に合わせて歌わされ、次にカラオケで歌わされるという具合。まあ、日本文化のいい経験にはなるだろうが‥。午後9時過ぎに姚君と別れ、私は京阪電車で自宅に向かい、姚君は京都駅近くのホテルに向かった。この3人の広島大学への留学生たちとは、今年の9月からの私の「日本文学作品選読」の授業を受講することとなる。

 8月2日の昼過ぎに、1日に会った王文重君から、「先生、明日3日の午前中、京都丹波地方にある"瑠璃渓(るりけい)に、車で案内してもらえないでしょうか」、との連絡があった。3日の午前6時30分に自宅を出て、午前7時30分に彼らが泊まっている京都市内のホテル前に到着。二人を乗せて瑠璃渓に向かう。丹波縦貫高速道路なども使い1時間半ほどで瑠璃渓に着いた。

 今年の瑠璃渓は雨の少なさもあり水量はやや少ないようだが、暑い京都観光の行先としては涼がとれる。

 瑠璃渓谷の遊歩道の入り口付近で彼ら二人だけで遊歩道を行くことを勧めた。渓谷の遊歩道は約4kmで、1時間余りで通天湖に到着できる。私は、1時間後に渓流遊歩道の最終地点付近の車道で彼らと待ち合わせ合流することにした。彼らは渓流美と涼しさを体感したようだった。通天湖では貸カヌーに乗る観光客たちもいた。ここ琉璃渓には温泉や宿泊施設なども充実している。瑠璃渓谷高原の喫茶店に立ち寄り一服した。ここの「柚ジュース」は特別に美味しかった。丹波の山々の栗の実が少し大きくなり始め、イチジクの実も少し大きくなり始めていた。(「瑠璃渓谷」は、京都府と大阪府と兵庫県の三つの府県が交わるあたりにある。)

 京都市内の宿泊ホテルに帰る途中、「今泊っているホテルの値段は?」と聞いたら、「一泊1万円です。二人で1万円なので、4泊で、二人で4万円と安いです」とのこと。新しくできたきれいなホテルで、場所も四条御池なので地下鉄駅もあり交通の便もけっこう良いのにこの値段とは驚いた。

 彼ら2人は、明日5日に関西空港から中国に戻る予定だ。連続した8月1日からの中国人たちとのハードな夜と昼の3日間がようやく終わった。

 


絵本作家「かこさとし」や「いわさきちひろ」のふるさと福井県の武生市(現・越前市)にある二人の記念館やふるさと絵本館

2025-08-02 12:47:59 | 滞在記

 故郷の福井県に帰省中の7月30日の午後、ふるさとの家から車で40分ほどのところにある、福井県武生市(現・越前市)にある二人の絵本作家の記念館に行ってみた。JR武生駅には、「『かこさとし』『いわさきちひろ』のふるさと越前市」と書かれ2人の絵も描かれた看板が掲げられている。

 「ちひろの生まれた家」記念館の建物の道路に面した外観は、岩崎ちひろが生まれた時の建物そのままだ。私はここに20年ほど前に行ったことがあった。(開館間もないころだったようだ。)   入館料は当時は無料だったような気がするが、現在は300円。最近だろうか、リニューアルされ、新館の建物もできていて、その変わりように驚いた。

 特別展が開催されている旧館の建物の2階の8畳一間の部屋が、母が暮らしていて、そして、1918年にちひろが生まれた部屋だった。彼女のお母さんは当時、武生女子高等学校(現・武生高校)の教師をしていた人だった。(夫とは離れて暮らしていた。) ちひろが生まれた12月のこの日、雪が降っていたようだ。

 「やさしいことは つよいこと」と書かれた、ちひろの言葉が掲示されていた。生まれて間もない翌年の3月、ちひろは母とともに列車に乗って父の暮らす東京に行くこととなった。

 「ちひろの生まれた家 記念館」には、かこさとしの絵本(『カラスのパン屋さん』や『万里の長城』など)もコーナーとなっておかれていた。

■岩崎ちひろ—1918年12月15日に、福井県武生市(現・越前市)で生まれた。母の文江は武生高等女子学校(現・武生高校)の教員であった。母は長野県松本市の出身で、当時の日本での女子教育の最高峰と言われた御茶ノ水高等女子学校(現・御茶ノ水女子大学)と並ぶ奈良高等女子学校(現・奈良女子大学)を卒業後、武生高等女子学校に赴任した。武生高等女子学校の校長が奈良高等女子学校に行って、優秀な学生を一人紹介してくれと頼みこんで武生に赴任してもらった経緯があったようだ。

 そして女子寮に住み込み生徒指導もおこなっていたが、妊娠していることが分かり、武生市内の商家の2階の1室を間借り、臨月まで学校に通勤した。ちひろが生まれた翌年の3月に武生での教員を辞して、父が建築技師として働いている東京に移り住んだ。(父も長野県出身。その後、次女・三女の三姉妹の父となる。)

 ちひろは東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高校)を卒業した。(このころから絵を本格的に勉強している。母の文江は1928年、ちひろ7歳の時に第六高等女学校に勤務している。)

 1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは、両親の薦めを断り切れず、婿養子である青年を夫に迎えることになった。相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方はどうしても好きになれず‥という中での結婚だったようだ。結婚から2カ月後の6月、東洋拓殖に勤める夫の転勤(中国、満州の大連)で満州に渡り社宅生活を始める。結婚当初から夫との性的交わりを一切拒否し、寝室も別々の生活が続いている中、夫は1941年3月に自殺をした。そして、ちひろは日本に帰国することに。1944年(25歳)には、女子開拓団の一員として再び満州に渡ったが、戦況の悪化もあり3カ月後の9月に日本に帰国。翌年1945年5月には東京の家は空襲で焼かれ、母・文江の実家である松本市に疎開した。終戦後、両親は長野県松本市近くの安曇野の松川村に開拓農民として移住した。

 1946年、ちひろは松本市で日本共産党に入党した。その後、両親に相談することもなく東京に出て、「人民新聞社」の記者として働き始める。1948年(28歳)、日本民主主義文化連盟の依頼により、アンデルセン『お母さんの話』の紙芝居の絵を描くことを依頼される。このことをきっかけに新聞記者を辞め、画家として自立する決意を固めたとされる。

 1949年(30歳)の夏、日本共産党支部会議で講演する青年・松本善明と出会う。翌50年1月に二人は結婚した。(松本善明は23歳だった。7歳以上の年齢差もあり、松本の両親はこの結婚に反対したが‥。) 51年4月に長男の猛を出産した。松本善明はこの年に司法試験に合格し弁護士の道を歩き始める。そして、1967年からは日本共産党の衆議院議員としても活動。

 1974年8月8日に享年55歳の若さで亡くなった。いわさきちひろの記念館や美術館は他に二箇所がある。「安曇野ちひろ美術館」(長野県北安曇野郡松川村/館長はちひろの息子・松本猛)、「ちひろ美術館・東京」(東京都練馬区下石神井)。

 「ちひろの生まれた家記念館」からほど近いところに「かこさとし ふるさと絵本館」がある。真新しい石造りの倉庫のような建物が2棟並んでいる重厚な建物がその場所だった。中に入ってみると私が大好きだった『カラスのパン屋さん』『どろぼう学校』など、かこさとしの絵本のいろいろなキャラクターたちがいた。入場料は無料。

 階段を上がって2階に行く途中、かこさとしの写真や、2012年に武生の子どもたちに宛てたメッセージ色紙が掲示されていた。その色紙には、「未来をひらくため—自分で努めて 学問や科学を学び 芸術や文化を愛する かしこい子どもをめざしましょう また自分のくせや力にあった方法で すこやかな心と体をそなえたこどもになりましょう。そしてコウノトリのように世界に向かって 力いっぱいはばたいて 進んでいきましょう。」と書かれ、武生市の村国山の上を飛ぶ2羽のコウノトリと1羽のカラスの絵が描かれていた。(コウノトリは武生市の里山に今も飛ぶ。)  言葉の漢字には全てひらがなのフリガナが記されていた。

■かこさとし(加古里子)—1926年3月31日、福井県武生市(現・越前市)に生まれる。本名は中島哲(なかじまさとし)。小学2年生まで武生で育った。その後、家族とともに東京に引っ越す。第二次世界大戦中、徴兵検査を受けるも極度の近視のために合格できなかった。このため東京大学工学部応用化学科で学び続け、終戦を迎える。1945年9月より東京大学の授業が再開される。1946年、大学の演劇研究会に入り、舞台装置デザイン作成、子供向けの演劇脚本を書き始める。卒業後、1948年に昭和電工に入社、研究所勤務を続けるかたわら、川崎市などでセツルメント活動や児童向け人形劇・紙芝居などの活動を行う。1962年、東京工業大学より工学博士を認証された。

 最初に手がけた絵本はダムがどのように人々の生活に役立っているかを示した『だむのおじさんたち』(1959年)。この絵本はこの記念館にも置かれていたが、とても素晴らしい絵本だった。

 1973年、47歳で昭和電工を退社した後は、フリーで多作な活動を行うようになる。1975年東京大学教育学部・東京都立大学人文学部、1983年横浜国立大学教育学部、84年玉川学園女子短期大学、85年再び東京大学、1990年山梨大学教育学部で非常勤講師として教鞭もとった。

 代表作として、『だるまちゃん』シリーズ、『カラスのパン屋さん』シリーズ、『どろぼうがっこう』などがある。

 2018年5月2日、享年92歳で亡くなった。かこさとしの墓は、ここ武生市の寺にある。「かこさとし ふるさと記念館」は2013年の4月に開館された。

 


日本海の夕焼け、地元の温泉「ゆうばえ」—93歳の母との病院行き、久しぶりにダチ公(親友)たちと乾杯する

2025-08-01 11:12:32 | 滞在記

 7月29日(火)の午後2時前に京都の自宅を車で出て、滋賀県の湖西道路を走り、途中の道の駅で今夜の夕食の弁当などを買い福井県に入る。越前海岸の敦賀湾沿岸の杉津(すいづ)集落を望む。向こうには敦賀半島。ここから河野海岸道路に入り、福井県南越前町河野地区に午後6時30分頃着いた。

 日本海の夕焼けが始まっていた。夕焼けの人魚姫(マーメード)像。

 漁港から車で2~3分の実家の家には7時前についた。一人暮らしの93歳の母との弁当夕食後、集落の海岸沿いにある温泉「夕映え(ゆうばえ)」に入りに行った。

 温泉から見える海の夕焼け。翌日30日(水)の早朝6時、集落の中ほどにある圓光寺の裏山にある墓地に行き墓掃除。この日の午前中は、母とともに河野診療所に行き、その後、デイケアーセンターに母を連れて行った。93歳の高齢だが、1か月前の総合病院での総合検査では、血圧が高いほかは健康な体。歯も全部そろっているが全て自分の歯。ただ、認知機能や腰のまがりなど、高齢でしかたがないところもある。

 午後に武生市(現・越前市)に向かい、武生市ゆかりの絵本画家である「いわさき ちひろ」と「かこ さとし」の二箇所の会館に行った。(次回のブログで紹介します。)  午後4時頃にJR武生(たけふ)駅前のビジネスホテルに行き宿泊手続き。午後6時から駅前にある居酒屋「魚民(うおたみ)」にて、友人(親友)の山本君と松本君と合流し、久しぶりの再会に乾杯。二次会には市内に10軒ほどあるフィリピンバーの一つに入った。夜の何時にホテルに戻ったのか、記憶が飛んでいた。

 翌朝10時頃にホテルを出て、故郷の南越前町南条地区(里)や今庄地区(山)[実家のある河野地区は(海)を通って敦賀市の日本海市場へ。夏のお歳暮返しに2軒余り、それぞれに「大きなエビ4尾、サザエ6個、中トロ(まぐろ)」を買って郵送した。南越前町南条地区の水田は穂も大きくなってきている。

 滋賀県の湖北地方の広々とした水田。なかには実が付き始めて稲穂となっている早稲(わせ)の水田もあった。

 

 


雨も少ないこの長い長い連日の猛暑で、一級河川の木津川が干上がってしまっていたので土器探し—義弟の49日、1/2望年会、孫たちのお泊り会など‥

2025-08-01 08:52:26 | 滞在記

 この6月5日に白血病のために亡くなった義弟(妻の弟)・高室茂幸君(享年67歳)の49日法要が、7月21日(海の日)に名古屋市内で行われ親族15人ほどが集まった。法要後、茂幸君が暮らしていたJR名古屋駅にほど近い金山地区のマンションに立ち寄る。名古屋市の中心部にありながら、けっこう周囲は緑の街路樹も多い。義弟の妻の亜由子さんとともに、このマンションの2室を賃貸し、一つの部屋は生活に使い、もう一つは仕事場として借りていた。

 仕事場として使っていた部屋に入る。二人の息子(先妻との子供/長男は東京在住、次男はドイツ在住)も来て、茂幸君の持ち物で、欲しいものを形見分けとして持ち帰ることとなった。仕事場の部屋の蔵書の中には、数十冊の彼の著書(介護・ケアマネージャー関連の著書/ケアマネージャー業界の人間としては著名で、日本では第一人者だった。)もあった。私は通夜や葬式や火葬場には、中国での仕事のために日本に帰国できず、参加できなかったこともあり、まだ、彼の仕事部屋に来て遺影を見ても、茂幸君が亡くなったことの実感がもてない。

 7月23日(水)の午後、京都府京田辺市の料理屋「大扇」で、恒例の「1/2望年会」(京都府南山城退職教職員の会)が今年も行われた。猛暑の中に30人ほどが集まって乾杯し、一人一人が近況を語り合い2時間ほどを過ごした。友人の小森君(76歳)[山城退教の宴会部長]などは、道路警備員の仕事を酷寒・酷暑の中で現在も続けているようで、顔も日焼けして真っ黒だった。また、友人の野村君(66歳かな?)は、日本における理科教育では著名な一人だが、現在は京都大学農学部の履修生やいくつかの大学の講師、理科・自然教育の諸活動を展開していてる。そんな彼らと久しぶりに会い乾杯ができた。

 6月28日に日本に帰国して、時々、朝6時30分からのラジオ体操に参加している。7月21日からは日本の小学校も夏休みに入り、自宅近くの公園広場でのラジオ体操には小学生や親たちも参加するようになった。ここでは毎日、老若男女60人ほどが集まって体操をしている。

 連日の大猛暑の中、一日のまだ暑さがそれほど厳しくない時間帯、公園の木々を数十匹のセミが飛び交い、すざましい鳴き声のシャワー。このため、ラジオの声が聞き取りにくくもなる。小学生だけでなく、参加している全員が参加スタンプ用の用紙にスタンプを押してもらっている。今日8月1日、セミの声も少し弱くなった感があった。

 7月28日(月)、この日は京都市内に住む孫たち3人の、私の自宅でのお泊り会。午後に孫たちを迎えに行った妻とともに自宅にやってきた。夕方に私と孫たちで、石清水八幡宮本殿を経由して、京都市内や南山城地方が一望できる男山展望台に行った。夕食は私が作ったすき焼き。翌日29日(火)、この日の京都市内の予想最高気温は39℃。朝食を終えて、まだ暑くならないうちに、自宅からほど近い、木津川に架かる「流れ橋(上津屋橋)」(時代劇の撮影などで昔からよく撮影される木橋)にみんなで出かけた。(午前9時頃)

 橋の付近で水遊びをしようと出かけたのだが、なんと川の水が全然見えなかった。ここ2か月間余りの連日の猛暑、そして雨の少なさで川が干上がって河床の砂地が広がっているばかりだった。この木津川は三重県伊賀上野市周辺の山地を水源とし、京都府南山城村や木津川市、そして京田辺市あたりが中流域となり三川(桂川・宇治川・木津川)が八幡市・京都市伏見区淀で合流し、淀川となる一級河川。普段ならかなり川幅の広い大河なのだが‥。

 しかたなく、河床から堤防に戻ろうとしたら土器を見つけたので、「これ、大昔の人が使っていた土器の破片やね」と言ったら、妻が、「ねえ、土器探しをしてみたら‥」と言ったので、みんなで干上がっている川床で土器を探し始めた。けっこう見つかるもので、孫たちもそれぞれ数個ずつの土器を見つけていた。このあたりの木津川の川辺(流れ橋から桜の名所・背割堤のある御幸橋までの2~3km余り)は、「木津川河床遺跡」。古墳時代から鎌倉時代初期までの数百年間、人々が暮らした遺跡群で、さまざまな時代の土器の破片が多く見つかる。川に潜って川底の粘土の塊(かたまり)の箇所などでは、粘土層に保護された完全な土器を何度も見つけ、自宅に保管している。今は川が干上がっているので、潜らなくても粘土のかたまりのある箇所を掘れば完全な土器が見つかるかもしれない。

 流れ橋から戻って、みんなでパン作り。昼食は手巻き寿司。狐の面を付けておどける孫たち。この日の午後、私は福井県の故郷に一人で車で向かった。孫たちは午後4時ころまで私の自宅にいたようだ。年に数回、このようなお泊り会がある。

 翌日7月30日(水)、兵庫県柏原市ではなんと41.2℃を記録した。観測史上日本での最高気温とのこと。この日、柏原市からほど近い京都府福知山市は40℃超。京都市内は39.8℃となった。私が人生で経験した最高気温は54℃。2002年、モンゴル国・ゴビ砂漠での恐竜発掘調査地での8月下旬のある場所「(地獄の)ヘルメンツァフ」での気温だった。50℃を越えると、プライパンを熱した時のフライパンの真上の空気のような、耐え難い体感気温となる。ここでは、私たちは翼竜の卵化石群を大量に見つけた。ここは近くのアルタイ山脈から地下水が流れてきているオアシスの渓谷。なんと50~70cmのオオトカゲや死んでいたユキヒョウの遺体なども見つけた。(ところが砂漠では、夜になると気温が10℃以下まで急降下し、寒くてストーブを炊くこととなる。)

 


今年も京都祇園祭の後祭を見ることかできた—猛暑・猛暑‥激暑の夏、鴨川にて水遊びと涼をとる外国からの観光客たち

2025-07-29 07:20:22 | 滞在記

  7月1日から始まった京都祇園祭(31日まで)の諸神事、7月14日から16日までの宵山(よいやま)などの期間を経て17日は前祭(さきまつり)の山鉾巡行、そして21日〜23日までの再びの宵山を経て24日(木)の後祭(あとまつり)の日を迎えた。私はこの祇園祭の中でこの後祭を見るのが一番好きだ。

 24日の午前10時頃に鴨川に架かる四条大橋に着いた。橋のたもとの出雲阿国(いずものおくに)像、そして後ろには百日紅(さるすべり)のピンク色の花と青空。

 10時30分頃に「花笠道中」が四条大橋を渡り始め八坂神社に向かって進んでいった。祇園祭と書かれたの旗を先頭に、子供神輿が2基が続く。そして、白と赤の巫女装束に花笠を頭に被った女性たちが行く。続いて薄い水色装束と花笠を被った女性たちの一群。

 花飾りの車が進んで来た。あとに続くのは馬に乗った平安武者装束の5~6騎の童(わらべ)たち。奈良時代の美女や平安時代の小野小町など、日本の古代の美女たちを乗せた台車がパレードしてきた。

 祇園や先斗町など花街のキレイどころが乗車する花笠台車、それを見守る沿道の浴衣姿の素顔の舞妓さん。獅子舞たちも鷺舞たちも来た。この日、外国人の観光客はとても多く、なかには浴衣を着た外国人の家族たちの姿も。

 四条大橋に近い四条河原町の交差点、河原町通りを三条通りに行き、山鉾や大船鉾を眺める。今年も無事に祇園祭の後祭の巡行を見ることができた。この日の京都の予想最高気温は38度超え。あまりの暑さに、近くの三条河原町にある六曜社珈琲館に入り込んで、冷たいコーヒーと喫煙と京都新聞閲読。

 この日の後祭では、昼過ぎから八坂神社の舞殿で、祇園や先斗町の舞妓・芸妓による奉納舞踊や鷺舞(さぎまい)の奉納などが行われ。夜には数基の神輿(みこし)が八坂神社の山門前の東大路通りに集結する光景は圧巻だ。

 この日、あまりにも暑くて、出町柳駅近くの鴨川にまで足を向けた。高野川と賀茂川が合流して鴨川となるこのエリア、大きな巨岩が川の中に飛び石のように配列されているので川を渡ることができる。たくさんの人が涼しさを求めて集まっていた。日傘をさしながら足を川に入れている人も多い。日陰に座って談笑する外国人のグループも‥。

 まあ、みんな楽しそうだ‥。外国からの観光客が半分以上を占める河原。おそらく、この猛暑というか、40度近い激暑の中での京都観光の外国人たち。子供連れも多いので、おそらく京都観光で最も楽しい場所となっているのではと思う。そして、ここ出町柳駅からは叡山電鉄(京福電鉄)で、八瀬や鞍馬に行くことができる。

 特に八瀬の渓流は泳ぐこともバーベキューをすることもできるので、夏場の京都ではとても便利に行くこともできる最高のスポットとなる。

 出町柳の水辺からほど近いところにあるタナカコーヒー今出川店に立ち寄り涼しさをとる。全席喫煙可の貴重な珈琲店。この日、昼食代わりに白玉団子アイスぜんざいとアイスコーヒーを注文した。(合わせて800円くらい) アイスコーヒーは茶道で使うような茶碗に入っていた。