トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「地下道」の次は、その上にある「スフィンクスの門」の見学です。
「ハットゥシャ」の概略地図です。
現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。
北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回り、「スフィンクスの門」は南端にある門です。
バスが駐車した場所から少し長い階段を上ると「スフィンクスの門」が見えてきました。
スフィンクス像が刻まれた門は、城壁の外側に向いており、これは場内に向いた門の風景です。
城門の内側の向かって右側は、崩れており、左側の柱の一部がかろうじて残っています。
石の柱の下部を見ると、二本の動物の足のような模様が見られ、上部には円の模様が縦に並んでいます。
中央部が破損していますが、動物の顔でもあったのでしょうか。
写真上段は、城門の外側にまわり、「スフィンクスの門」を見た風景です。
写真下段は、スフィンクス像の後側から見た風景で、向かって左のスフィンクス像の上部が大きく破損しているようです。
座ったエジプトのスフィンクスとは違い、翼のある神秘的な姿が印象的でした。
「スフィンクスの門」のそばの案内板にあった「地下道」と、「スフィンクスの門」の平面図です。
左右に延びる太い線が当時の城壁、中央の部屋が「スフィンクスの門」、上側が城外です。
地下道の真上に門が作られ、門の右下(城内側)にも関連施設があったようです。
向かって左側のスフィンクス像です。
顔は人間、体はライオンと思われ、大きな翼も付いています。
スフィンクスと言えば、エジプトの大スフィンクスですが、翼のあるスタイルは意外でした。
大城塞にある宮殿を見下ろす最も高い場所にある重要と思われる門に置れた「スフィンクス像」は、強い力を持つ守り神と考えられていたものと思われます。
西側の「ライオンの門」にある地上最強の獣であるライオンと、東側の「王の門」にある人の姿をした神(優れた知恵?)に加えて、自由に空を駆け巡る翼を付けた「スフィンクス」を強い守り神として期待したのかも知れません。
両耳の下に垂れ下がる帯状のものや、アゴの下に細長く伸びるものなど、古代エジプトの文化的影響が感じられますが、翼のあるスフィンクスは、メソポタミア文明からの影響とも考えられます。
又、最初に見た城壁の内側の門に二本の前足や、頭の上に並ぶ円の模様などがあり、この像と類似しているようです。
向かって右側のスフィンクス像です。
背中に盛り上がっていた部分が崩れ、露出したライオンの胴体後部の様子から考えると、最初にライオン像が作られ、その上に、翼などが接着されたように思われます。
ライオンの門は、石の彫像でしたが、この像は、材料を組み合わせ、接着して作られたように見えます。
「スフィンクスの門」から「ハットゥシャ遺跡」を見下ろした風景です。
ツアーのバスが駐車する遺跡の見学道路の下の斜面にはたくさんの神殿跡が見られ、その先にはヒッタイト帝国の中枢機能があったとされる「大城塞」、その左には「二シャン・テペ」の遺跡が見えています。
最初に見学した「大神殿」付近を探してみましたが、ここからは見えませんでした。
「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。
「スフィンクスの門」から遺跡内を見下ろすと、眼下に神殿跡とされるたくさんの建物跡のが見られ、その向こうに「大城塞」などの遺跡が広がっています。
「スフィンクスの門」から見た「大城塞」付近の風景を拡大したもので、向こうの左に盛り上がった大きな岩と、神殿跡が続く手前の斜面との間が「大城塞」です。
ここにヒッタイト帝国の宮殿跡や、粘土板を保管する文書館跡などがあり、1906年、ドイツの古代言語学者フーゴ・ビンクラーが遺跡を発掘し、約1万枚に及ぶ粘土板文書を発見したそうです。
アッカド語(古代メソポタミアの言語で、この地域の国際言語だった)が解読できるビンクラーは、既にエジプトで発見されていた古代エジプトのラムセス2世と、ヒッタイトのハットゥシリ3世が締結した平和条約の粘土板文書と同じ内容の文書を見つけ、ここが「ハットゥシャ」と呼ばれるヒッタイト帝国の都であったことを悟ったようです。
しかし、彼は、初めて見る多くのヒッタイト語の文書の解読は出来ませんでしたが、その後、多くの学者による研究で、BC1680年頃からBC1200年頃までの約480年に及ぶヒッタイトの歴史が解明されるこことなったようです。
左手の岩場の辺りに広がる建物跡「二シャン・テペ」付近を拡大したの風景です。
1862年、フランス人学者ジョルジュ・ペロがここで、古代文字が刻まれた大きな岩を発見し、ひどく風化していたもののその中にヒッタイトの聖地ヤズルカヤで発見された文字(象形文字-ヒエログリフ)と共通していることが分かり、解読がすすんだそうです。
解読された内容は、ヒッタイト帝国最後の王「シュピルリウマ2世」(在位紀元前1218~1200年)の偉業を讃える文書が刻まれているようです。
ヒッタイト帝国は、海の民(謎の民族)によって滅ぼされたとされますが、詳細は分かっていません。
大城塞には激しく燃えた壁がガラス状に溶け、滅亡を伝えているようです。
次回は、南東の城門「王の門」です。
「ハットゥシャ」の概略地図です。
現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。
北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回り、「スフィンクスの門」は南端にある門です。
バスが駐車した場所から少し長い階段を上ると「スフィンクスの門」が見えてきました。
スフィンクス像が刻まれた門は、城壁の外側に向いており、これは場内に向いた門の風景です。
城門の内側の向かって右側は、崩れており、左側の柱の一部がかろうじて残っています。
石の柱の下部を見ると、二本の動物の足のような模様が見られ、上部には円の模様が縦に並んでいます。
中央部が破損していますが、動物の顔でもあったのでしょうか。
写真上段は、城門の外側にまわり、「スフィンクスの門」を見た風景です。
写真下段は、スフィンクス像の後側から見た風景で、向かって左のスフィンクス像の上部が大きく破損しているようです。
座ったエジプトのスフィンクスとは違い、翼のある神秘的な姿が印象的でした。
「スフィンクスの門」のそばの案内板にあった「地下道」と、「スフィンクスの門」の平面図です。
左右に延びる太い線が当時の城壁、中央の部屋が「スフィンクスの門」、上側が城外です。
地下道の真上に門が作られ、門の右下(城内側)にも関連施設があったようです。
向かって左側のスフィンクス像です。
顔は人間、体はライオンと思われ、大きな翼も付いています。
スフィンクスと言えば、エジプトの大スフィンクスですが、翼のあるスタイルは意外でした。
大城塞にある宮殿を見下ろす最も高い場所にある重要と思われる門に置れた「スフィンクス像」は、強い力を持つ守り神と考えられていたものと思われます。
西側の「ライオンの門」にある地上最強の獣であるライオンと、東側の「王の門」にある人の姿をした神(優れた知恵?)に加えて、自由に空を駆け巡る翼を付けた「スフィンクス」を強い守り神として期待したのかも知れません。
両耳の下に垂れ下がる帯状のものや、アゴの下に細長く伸びるものなど、古代エジプトの文化的影響が感じられますが、翼のあるスフィンクスは、メソポタミア文明からの影響とも考えられます。
又、最初に見た城壁の内側の門に二本の前足や、頭の上に並ぶ円の模様などがあり、この像と類似しているようです。
向かって右側のスフィンクス像です。
背中に盛り上がっていた部分が崩れ、露出したライオンの胴体後部の様子から考えると、最初にライオン像が作られ、その上に、翼などが接着されたように思われます。
ライオンの門は、石の彫像でしたが、この像は、材料を組み合わせ、接着して作られたように見えます。
「スフィンクスの門」から「ハットゥシャ遺跡」を見下ろした風景です。
ツアーのバスが駐車する遺跡の見学道路の下の斜面にはたくさんの神殿跡が見られ、その先にはヒッタイト帝国の中枢機能があったとされる「大城塞」、その左には「二シャン・テペ」の遺跡が見えています。
最初に見学した「大神殿」付近を探してみましたが、ここからは見えませんでした。
「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。
「スフィンクスの門」から遺跡内を見下ろすと、眼下に神殿跡とされるたくさんの建物跡のが見られ、その向こうに「大城塞」などの遺跡が広がっています。
「スフィンクスの門」から見た「大城塞」付近の風景を拡大したもので、向こうの左に盛り上がった大きな岩と、神殿跡が続く手前の斜面との間が「大城塞」です。
ここにヒッタイト帝国の宮殿跡や、粘土板を保管する文書館跡などがあり、1906年、ドイツの古代言語学者フーゴ・ビンクラーが遺跡を発掘し、約1万枚に及ぶ粘土板文書を発見したそうです。
アッカド語(古代メソポタミアの言語で、この地域の国際言語だった)が解読できるビンクラーは、既にエジプトで発見されていた古代エジプトのラムセス2世と、ヒッタイトのハットゥシリ3世が締結した平和条約の粘土板文書と同じ内容の文書を見つけ、ここが「ハットゥシャ」と呼ばれるヒッタイト帝国の都であったことを悟ったようです。
しかし、彼は、初めて見る多くのヒッタイト語の文書の解読は出来ませんでしたが、その後、多くの学者による研究で、BC1680年頃からBC1200年頃までの約480年に及ぶヒッタイトの歴史が解明されるこことなったようです。
左手の岩場の辺りに広がる建物跡「二シャン・テペ」付近を拡大したの風景です。
1862年、フランス人学者ジョルジュ・ペロがここで、古代文字が刻まれた大きな岩を発見し、ひどく風化していたもののその中にヒッタイトの聖地ヤズルカヤで発見された文字(象形文字-ヒエログリフ)と共通していることが分かり、解読がすすんだそうです。
解読された内容は、ヒッタイト帝国最後の王「シュピルリウマ2世」(在位紀元前1218~1200年)の偉業を讃える文書が刻まれているようです。
ヒッタイト帝国は、海の民(謎の民族)によって滅ぼされたとされますが、詳細は分かっていません。
大城塞には激しく燃えた壁がガラス状に溶け、滅亡を伝えているようです。
次回は、南東の城門「王の門」です。