昔に出会う旅

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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨

2013年04月10日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、平戸市の生月島を一周して風景を楽しんだ後、 「平戸市生月町博物館・島の館」の見学です。

南北に約10Kmの細長い、小さな生月島に博物館と称する施設があること自体、意外に思われますが、現在まで続く隠れキリシタン信仰や、江戸時代に平戸藩の財政を大きく支えた日本最大の捕鯨の本拠地でもあった島で、その充実した島の歴史の展示は非常に印象深いものでした。



「平戸市生月町博物館・島の館」の玄関前のロータリーの真ん中に造られたセミクジラの親子の噴水です。

左上のクジラ像の展示も玄関前にあったもので、館内にも鯨に関する展示であふれています。



館内一階の展示室の入口にある案内板です。

「勇魚とりの物語」のタイトルで、生月島の捕鯨の歴史を紹介するコーナーがありました。

吹き抜けの天井から吊り下げられた大きな鯨の骨格の大胆な展示にも驚きです。

玄関からの壁面には様々な鯨の絵が展示されており、江戸時代に繁栄した捕鯨の島の歴史が当館のメイン展示と思われます。

■展示パネルより
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勇魚とりの物語
昔 西海に
生月という島がありました
ここでは冬から春にかけ
沖合いを大きな鯨が
泳いでいきました
人々は鯨を勇魚[いさな]とよび
みんなで協力して
とるようになりました。
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上段の絵は、「勇魚とりの物語」のパネルに展示されていた絵で、江戸時代の絵師「司馬江漢」(1788~1789年)が描いた「生月島之図」です。

「生月島之図」は、天明8年(1788年)から約1年間の長崎旅行の記録「西遊旅譚」の中にあるもので、「司馬江漢」が長崎の帰路、生月島へ立ち寄り、島の風景を描いた一枚のようです。

「司馬江漢」は、捕鯨漁を経営する益冨家で約1ヶ月間滞在したようですが、益冨家のある生月一部浦の沖合いから島を見た風景と思われます。

絵を見ると、海岸の中央付近の家屋に「益冨宅」(矢印の場所)と書かれ、左手の海岸に建つ高い建物には「鮪見楼」と書かれ、大がかりな鮪漁も行われていたことがうかがえます。

下段の絵は、天保年間に益冨家が生月島で経営する捕鯨業の様子を描かせた「勇魚取絵詞」の絵の一つ「生月一部浦益冨宅組出図」です。

「勇魚取絵詞」の書籍「鯨取り絵物語」(中園成生・安永浩著、弦書房出版)によると、この場面は、冬から春にかけて行われる鯨漁の操業開始の日に行われる「組出[くみで]」の儀式の場面とされています。

江戸時代、生月島で行われていた捕鯨の様子は、司馬江漢の「西遊旅譚」「江漢西遊日記」や、益冨家の「勇魚取絵詞」などの資料でよく伝えられています。

■展示パネルより
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生月島の捕鯨の歴史
生月島で本格的に捕鯨が行われるのは、享保10年(1725)島北部の舘浦で、畳屋(のちの益冨)又左衛門と田中長太夫が共同で突組を操業した時からです。(翌年より単独経営)。享保14年(1729)には根拠地を島北部の御崎浦に移して経営を安定させ、享保18年(1733)には網掛突取法を行う網組編成に移行します。
益冨組は更なる発展を期して壱岐へ進出しますが、その過程で壱岐勝本に本拠を置く土肥組と、壱岐の主要漁場である前目(恵比寿浦)と勝本を交代で使用する取り決めを元文4年(1739)に交わし、発展の契機をつかみます。益冨組は18世紀には土肥組と同数の4組の網組を経営していましたが、文政~天保年間には壱岐の漁場を制し、5つの網組を傘下におさめる日本最大規模の鯨組になります。
弘化年間に入ると、欧米の捕鯨船が日本近海に進出した影響によって、当時の主要な捕獲対象だった背見鯨や座頭鯨が激減し、さしもの益冨組も経営縮小を余儀なくされ、明治7年(1874)には捕鯨業から撤退します。益冨組が操業した142漁期に捕獲した鯨は21790頭、収入は332万両に達します。
益冨組撤退後も、生月島での網組の操業は明治30年代まで続きます。また平戸瀬戸でも生月島民が多数参加した銃殺捕鯨が、明治15年(1882)から昭和22年(1947)頃まで行われています。
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展示パネル「西海の古式捕鯨地」の地図に生月島の地形図を合わせたもので、生月島の地形図には赤丸印で益冨家や、前回も紹介した益冨組の御崎浦納屋跡、平戸市生月町博物館・島の館の場所を表示しています。

「西海の古式捕鯨地」の地図に捕鯨の拠点が表示されており、山口県北部から五島列島までの捕鯨海域と思われる破線で囲んでいます。

生月島の益冨組の捕鯨地は、対馬、長門を除く壱岐~生月島~西彼杵~五島列島で、平戸藩の領域を中心に西海の漁場が集中する海域へ捕鯨事業を拡大して行ったようです。

西海での捕鯨は、餌を求めて冬に暖かい海域へ移動し、春には寒い海域へ戻る鯨の習性を利用してこの海域を通過する鯨を捕獲していたようです。

文政年間の益冨組は、冬に日本海を南下する「下り鯨」と、春に北上する「上り鯨」を捕獲するため、西海各地に5組の捕獲組織を敷き、下記の説明文の概要で、「冬組」「春組」と配置を替えていたようです。

周辺に捕鯨漁場が集中し、冬・春を連続して操業出来る効率的な生月島での創業も益冨組発展の背景となったのかも知れません。

■展示パネル「文政年間頃の益冨組配下の鯨組の配置」より
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(冬組)        (春組)
壱岐島-前目 → 壱岐島-前目
壱岐島-前目 → 西彼杵-江島
壱岐島-勝本 → 壱岐島-勝本
壱岐島-勝本 → 五島南部-大板部島
生月島-御崎浦 → 生月島-御崎浦

冬組の漁期 小寒10日前から彼岸10前まで
春組の漁期 春土用明けの後20日まで
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■展示パネルより
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西海捕鯨の歴史
 西海漁場は、対馬海峡に面した長崎、佐賀、福岡、山口各県の沿岸部からなります。この海域では縄文時代から鯨の利用や捕獲が行われてきましたが、本格的な捕鯨が始まるのは江戸時代初期の事です。
当初、紀州から出漁した突組[つきぐみ]が漁場を開拓しますが、すぐに平戸町人など地元からも捕鯨業に参入し、17世紀中頃に突組操業の盛期を迎えます。
 延宝5年(1677)に紀州太地(和歌山県)で網掛突取捕鯨法が発明されますが、翌年には深澤組が五島有川湾で同漁法を導入、その後西海各地で網組が興ります。18世紀に入ると、呼子小川島の中尾組、壱岐勝本の土肥組、平戸生月島の益冨組が壱岐や五島などで盛んに操業を行いますが、19世紀に入ると壱岐漁業掌握した益冨組の優位が確定します。
 しかし、弘化年間(1844~48)以降、日本海近海で操業する欧米捕鯨船の影響で深刻な不漁となり、廃業する鯨組も出ます。明治時代には長州川尻、呼子、生月島、五島有川湾などで、網掛突取、定置網、銃殺など様々な漁法が行われますが、厳しい経営を強いられます。
 明治32年(1899)遠洋捕鯨株式会社(長崎市)のノルウェー式砲殺捕鯨船・烽火丸が試験操業を開始。同じ年には山口県仙崎で日本遠洋漁業株式会社が設立され、近代捕鯨業が幕を開け、対馬や呼子でも沿岸型ノルウェー式捕鯨法の操業が行われます。
 昭和9年(1934)以降、南氷洋で日本の工船型ノルウェー式砲殺捕鯨法による操業(母船型捕鯨)が行われますが、下関は捕鯨船団の出漁拠点となり、五島列島などから多くの乗組員を輩出します。終戦直後には各地でミンク鯨を対象とする小型沿岸捕鯨が行われ、昭和30~40年代には五島福江島を拠点とした大型沿岸捕鯨が行われています。
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吹き抜けの展示室の中央に古式捕鯨の大きなジオラマがありました。

下段の図は、ジオラマの説明図で、下の「勇魚[いさな]とり」の説明文と併せて見て頂くものです。

9艘の船が大きな鯨を追い詰めたクライマックスとも思われる場面で、体を張って漁をする迫力のある捕鯨の様子が伝わってきます。

■ジオラマの説明パネルより
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勇魚とり(網取式捕鯨)
この場面は、生月島沖の捕鯨の様子を8分の1で再現したものです。
(1)勢子船が鯨に曳かれています。船の舳先には背見鯨の発見を示す幟が立っています。
  鯨に刺さった萬銛は、船を引く力で曲がっています。
(2)双海船[そうかいぶね]が網を回収しています。網は、鯨が被った部分だけ離れるように、つなぎ目を藁縄[わらなわ]で括[くく]っています。
(3)持双船[もっそうぶね]から羽指[はざし]が剣を投げています。上に向けて投げ、落下する力で鯨の皮膚をつき破ります。刺さると綱を引いて回収し再び投げます。
(4)鯨にとりつくため羽指が海に飛び込んでいます。帰ってきた羽指がドンザを着て火にあたっています。
(5)羽指が鯨によじ登り、手形包丁で鼻を切っています。鼻に穴を開けた後、別の羽指持ってきた綱を通して沈むのを防ぎます。
(6)羽指親父(船団の指揮をとる役)が采[さい]を振って作業の指揮をしています。
(7)2艘の持双船を持双柱[もっそうばしら]で繋げています。柱の下に鯨を吊り下げて運びます。
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網取式捕鯨の船の種類と、役割を説明したパネルにあった船の絵です。

上から勢子船[せこぶね]、持双船[もっそうぶね]、双海船[そうかいぶね]と並び、下の説明文に船の大きさや、役割などがあります。

上段のジオラマでは9艘の捕鯨船が見られますが、この絵の説明パネルでは三種類の船が合計30艘、乗組員は見習いなどを計算すると約470名となり、生月島の捕鯨船団は、意外に大規模なものでした。

■説明パネル「船の役割」より
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船の役割
勢子船[せこぶね](長さ約10.6m 幅2.12m 八挺櫓)20艘
鯨を網に追い立てたり、銛をうつ狩りの勢子(追っ手)の役割をする船です。先細りのスマートな形で、八挺[はっちょう]の櫓で漕ぐため早いスピードが出せました。また、旋回しやすいように、船首から船尾にかけての船底が弓なりになっていることも特徴です。ミヨシ(船首)ま先端にチャセンという尖った飾りを付けています。指揮をとる羽指の他、13人の加子(漕ぎ手)が乗っています。

持双船[もっそうぶね](長さ約10.6m 幅2.15m 八挺櫓)4艘
弱った鯨に剣でとどめを刺す際にも使われますが、一番大きな役目は、仕留めた鯨を2艘の持双船に渡した持双柱に吊り下げて運ぶことですが、チャセンはありません。指揮をとる羽指の他、12人の加子(漕ぎ手)が乗っています。

双海船[そうかいぶね](長さ約12m 幅3.64m 八挺櫓)6艘
鯨に掛ける網を張る船です。勢子船と違い、たくさんの網を積めるように幅が広いがっしりとした造りになっています。網を張る時には、2艘が網を結わえておいて両側に弓なりに張っていきます。その際には、自船の櫓で漕ぐ意外に附船に引っ張ってもらいます。指揮をとる羽指の他、10人の加子(漕ぎ手)が乗っています。
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捕鯨のジオラマの横に山の上で鯨を見張る「山見」のジオラマがありました。

説明文では鯨を見つけると、旗や、狼煙で船団に伝えるとあり、戦国時代まで活躍した海賊を彷彿とします。

■「山見」の説明パネルです。
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山見
西海では、冬に暖かい海に向かう鯨を「下り鯨」、春に餌の豊富な北の海に向かう鯨を「上り鯨」と呼びました。
生月島では、下り鯨は、平戸~度島間(田の浦落し)、度島~大島間(袴瀬戸落し)、大島北沖(貝島まわり・大矢入り)の3つのルートを通って島の東岸にあらわれ、五島方面に泳いで行きました。
そこで、鯨の通過を確認できる岬の突端・山の頂上・小島に山見という監視小屋を設けて鯨を見張りました。鯨を発見すると、旗や狼煙で他の山見を中継しながら沖場(船団)に伝えました。
また、海上に数艘の勢子船を配備して、沖を通る鯨を見張る「流し番」という方法もとられました。
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「山見」のパネルにあった「生月周辺山見配置図」です。

赤丸印が「山見」の場所で、3つの青丸印は「網代」とあり、冬に南下する鯨のルートは北東方向からの矢印、春に北上するルートは、南西からの矢印で表示されています。

この図から鯨の通る各ルートに山見を配置して、発見した鯨は生月島北端の網代へ追い込み、捕獲する手順が見えてきます。

又、捕獲した鯨は、島の地図の北東岸に書かれた「納屋場」へ引き上げたようで、鯨の習性と、海の地形を巧みに利用した漁法だったことがうかがえます。



上段の写真は、捕鯨の展示室の一角に生月島北東岸にあった御崎浦の納屋のジオラマです。

二段目の絵は、江戸時代の益冨組が制作させた「勇魚取絵詞」に掲載されている「生月御崎納屋全図」で、ジオラマの元となった絵のようで、海岸の建物や、地形は、ほぼ同様です。

三段目の図は、ジオラマの説明図にあった施設名称を吹出しで表示したものです。

中央の突堤から向かって右の浜が鯨を解体する「捌場[さばきば]」、その後方に加工処理を行う建物が並んでいます。

中央の突堤から左の浜から後方の広場が「前作事場[まえさくじば]」で、多くの船が引き上げられ、様々な道具類と併せた整備工場と、資材倉庫が並ぶエリアのようです。

向かって左端の建物は、船の指揮をとる羽指の宿舎「羽指納屋」、船を漕ぐ加子たちの「加子納屋」があり、数百名の宿舎が整備されていたようです。

ジオラマには見えませんが、納屋の周囲に柵が設けられ、数ヶ所に置かれた番小屋では夜間の警備も行われていたとされます。

御崎浦の納屋で働く人員は、船団員以外にも約100名、総人数は587名にものぼる大捕鯨基地だったようです。

益冨組は、壱岐から五島列島にこのような鯨組を5組保有しており、生月島を本拠地とする日本最大の鯨組は、約3,000人に及ぶ江戸時代としては途方もない巨大組織でした。

「鯨取り絵物語」によると、大規模な鯨網を扱う双海船の加子には、備後の田島(広島県福山市)から多くの人が雇われ、網を専門に修理する網大工もいたとされ、意外な場所で地元備後に関わる歴史を知りました。

■展示パネルより
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御崎捕鯨納屋場
この模型は、生月島の北部、御崎浦にあった益富組の鯨納屋場を捕鯨図説「勇魚取絵詞[いさなとりえことば]」を参考に、30分の1で推定復元したものです。中央の建物群が、鯨の解体・加工をおこなう納屋場で、左側の広場とそれを囲む建物は、道具の制作・整備をおこなう前作事場[まえさくじば]です。捕鯨のシーズン中はみんな納屋場内に住み込んで作業に従事していました。
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上段の写真は、御崎浦の納屋のジオラマの一部、海岸で二頭の鯨を解体している「捌場」で、その向こうに大納屋の建物が屋内の様子が見えるよう作られています。

下段の写真は、「勇魚取絵詞」に掲載されている「生月御崎納屋場背美鯨切解図」で、大勢の人が綱を引き、切断した皮を剥いでいる場面です。

鯨一頭に木材を十字に組んだ轆轤が2基使われており、ここに大勢の人が働いているのが印象的です。

左の鯨には、赤身が取られている段階のようで、轆轤は使われておらず、皮を剥いだ後の解体行程には人手が掛かっておらず、納屋での加工作業が忙しくなっていたものと思われます。

解体の作業場に渚が選ばれていたのは鯨の血を洗い流しながら作業するためだったのでしょうか。

■展示パネルより
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鯨の解体
運ばれてきた鯨は、納屋場の前の2ヶ所の突堤の間に、頭を陸側に付けて引きあげられます。そのあと各所に配置した轆轤[ろくろ]という人力によるウインチと大切包丁を使いながら解体されます。
解体は、まず背中の皮を剥ぐことから始まります。綱の付いた鈎[かぎ]を皮にあけた穴にかけ、轆轤で引っ張りながら、大切包丁で切れ目を入れて剥いでいきます。次にその内側の赤身、腹側の皮、大骨(背骨)と解体をすすめます。
解体手順はおおよそ13段階に分かれていました。
解体された皮・赤身・骨・臓物その他は、大納屋をはじめ各納屋に吊り鈎やモッコで運び込まれます。
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3枚の絵は、「勇魚取絵詞」に掲載されている大納屋、小納屋、骨納屋の作業風景で、「鯨の加工」の展示パネルにあったものです。

上段の絵は、「生月御崎浦大納屋図」で、皮から「鯨油」、赤身肉から「塩鯨」が製造され、大納屋は多くの人が動き回る最も大きな納屋だったようです。

中断の絵は、「生月御崎浦小納屋図」で、小納屋では主に骨から肉を削いで「塩鯨」、内臓を煎って「鯨油」を製造する他、様々な部位を食用などに加工し、鯨を完全利用する加工場だったようです。

下段の絵は、「生月御崎浦骨納屋図」で、骨を海水で煮て、骨髄に含まれる「鯨油」を採る他、骨を足踏み式の唐臼で粉砕して肥料用の「骨粉」を製造していたようです。

主力商品「鯨油」は、灯油で使われる他、水田に撒いて害虫駆除をする需要が大きかったようです。

「塩鯨」は、益冨家が料理本「鯨肉調味方」を制作し普及に努め、その中の鯨肉料理「鋤焼」[すきやき]が現代の「すき焼き」の元祖となったと紹介されています。

■展示パネルより
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鯨の加工
各納屋場は分業して鯨の各部位の加工をおこないました。
そのうち大納屋では、主に皮や赤身肉が処理されました。
分厚い脂肪層を持つ皮は小さく刻まれたのち、大釜の中で煎って液化(鯨油)されます。それを柄杓にすくいとり集めたものを最終的に樽詰めにしました。鯨油にすると腐敗することなく遠方まで出荷することができました。。赤身肉は塩漬け(塩鯨)にして保存が効くようにしました。
小納屋では骨についた肉を剥ぎおとしたり、内臓から油をとる作業がおこなわれました。
骨納屋では、油分を多く含んでいる骨を細かく刻んだあと、釜に入れて煮て油をとる作業がおこなわれました。
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二階に生月島出身の巨漢力士「生月鯨太左エ門[いきつきげいたざえもん]」の展示コーナーがありました。

益冨家の捕鯨が最盛期だった頃の力士で、相撲史上最も背の高い2.27mだったとされ、日本一の捕鯨の島をPRするには願ってもない力士だったと思われますが、若くして亡くなったのは残念です。

昔、松山市の全日空ホテルで偶然、高見山親方(身長192cm)と並ぶ横綱曙(身長203cm)と出会い、見上げた高さに驚きましたが、更に20cm以上高い「生月鯨太左エ門」に当時の人々の驚きはもっと大きかったものと思われます。

生月島の捕鯨コーナーを見学させて頂き、江戸時代の生月島の鯨文化をしっかりと伝えようとする素晴らしい展示内容でした。

■展示パネルより
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巨漢力士 生月鯨太左エ門
生月鯨太左エ門[いきつきげいたざえもん]
相撲界の記録の中で最大の身長を誇る力士です。文政十年(一八二七)生月・舘浦の漁師の子として生まれ、幼名を要作[ようさく]となづけられました。
要作は子供の頃からすでに身体が大きく、富豪の親戚の家に行った時、そこの旦那から米俵を持ち上げられればくれてやると言われ、軽々と抱えて帰ったという逸話が伝えられています。
平戸藩主・松浦公の勧めもあり、大阪の小野川部屋、次いで江戸の玉垣部屋に入門し、生月鯨太左エ門というしこ名を貰い土俵に立ちました。
身長はさらに高くなり、七尺五寸(二二七センチ)に達しましたが、嘉永三年(一八五〇)二四歳の若さで病死しました。
鯨を思わせる巨躯は、当時、鯨の島・生月の名を大いに宣伝してくれたでしょう。
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参考資料
「鯨取り絵物語」(中園成生・安永浩著、弦書房出版)
「江漢西遊日記」(司馬江漢著、芳賀徹・太田理恵子校注、平凡社出版)