昔に出会う旅

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ドイツ・スイス旅行 4 ライン川クルーズ(2) アスマンスハウゼンからバッハラツハ

2013年07月18日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目、世界遺産「ライン渓谷中流上部」のクルーズの続きです。

ライン川クルーズは、11:15「Rudesheim[リューデスハイム]」出発、13:05「St.Goarhausen[ザンクトゴアハウゼン]」到着で、途中、船内レストランでランチを頂く1時間50分の楽しい観光でした。



ライン川クルーズの自作地図です。

添乗員さんから頂いた手書きの地図(前回掲載)に飽き足らず、実際の地図に近いものを暇にまかせて作成したものです。

前回は、「リューデスハイム」(右下)で乗船し、2ヶ所目の寄港地「アスマンスハウゼン」まででしたが、今回は古城が最も多く見られる4ヶ所目の寄港地バッハラツハまでで、この地図を参照しながらご覧下さい。

(川沿いのスポットの説明に「左岸」「右岸」の言葉がありますが、川を下って行くその前方に見える左右の岸を表現しており、世界的に広く使われているようです。)



2番目の寄港地「アスマンスハウゼン」を出ると、すぐ左岸に見えてきた「ラインシュタイン城」です。

川縁から切立った高い岩場の上にそびえ立つ城の風景は、川を見下ろす威厳に満ちた姿と共に、崩れてしまう危うさを感じます。

右手の急斜面には城に通じるジグザグの車道も見られますが、昔は城へ登るにも急な坂道に一苦労だったものと思われます。

下記の資料「ライン河の古城」によれば13世紀に通行料徴収所としてマインツ大司教が築いた城とされますが、少し上流の「エーレンフェルス城」や、「ねずみの塔」もマインツ大司教が築いた税関所とされ、税関所の施設が重複している理由は、年代ごとに整理してみないと理解できないのかも知れません。

又、この辺りの古城の多くが左岸にある理由にも興味が湧いてきます。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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岩上のラインシュタイン城
~ラインシュタイン城はライン河に突き出した高さ八十メートルほどの岩の上に築かれている。天守閣の横に、それよりやや低い城館が一枚岩の城壁のようになってつづいている。そこから一段下がったところに教会風のこじんまりとした別館が見える。いずれもネオ・ゴシック様式の建物だ。
この城は十三世紀の後半、ラインの通行料徴収所としてマインツ大司教が築いた。しかし十四世紀の半ばに勢力をのばして来たトリアー大司教の手に渡ってしまう。当時、ライン河沿岸はマインツ、トリアー、ケルンの三者が分け合っていたのだが、時によって勢力圏の消長があったのだ。
その後の度々の戦乱でこの城は荒廃の一途を辿ったが、一八二五年になってプロシアの王子フリートリヒがこれを手に入れると、芸術愛好者の彼は建築家ウイルヘルム・キューンに命じて現在のようなネオ・ゴシック様式の姿に修復させたのである。
城へは急な坂道を登って車でも行ける。城内は美術館として公開され、十六世紀ころからの手工芸品をはじめ甲冑などのコレクションが展示されている。
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「ライン河の古城」は、色々探した本の中で、ライン川沿いの古城などが最も詳細に説明され、勝井規和氏による美しいカラー写真も多く添えられて、とても分り易く参考資料とさせて頂きました。



ライン川左岸トレヒティングスハウゼンの町の上流に建つ「聖クレメンス礼拝堂」です。

添乗員Yさんから頂いた資料では「12世紀建設。ライン川沿でも古い教会」とあり、この建物に800年を超える歴史があるようですが、一見して町外れに建っているごくありふれた教会としか見えませんでした。

教会建物は、河川敷に石垣で造られた一段高い場所に建てられているものの、洪水にしっかりと備えたとも思われず、800年を超えて現代に残されていることには驚きます。

写真左上は、建物正面の壁の左上部分を拡大したもので、よく見ると白い壁を縁取る杏子色の壁が白く細い線で飾られており、優しさや、清潔感のあるイメージを醸し出しているようです。



「聖クレメンス礼拝堂」を過ぎ、すぐ下流に「ライヒェンシュタイン城」が見えてきました。

川辺にはキャンプ場が広がっていました。

下記の資料にはこの城が「盗賊騎士の巣となった」とあり、ライン川を航行する船から通行料を巻き上げる盗賊行為が横行していた時代があったようです。

これだけの立派な城が放置され、盗賊騎士の巣になったのは支配体制が衰退した時期だったのでしょうか。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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ライン最古のライヒェンシュタイン城
~裾まわりに低い城壁をめぐらした、どっしりした構えのライヒェンシュタイン城である。城壁の内側が更に盛り上がった丘になり、隅に二つの櫓を配した高い胸壁に守られるようにオレンジ色の城館がある。二つの櫓のうち、右側の高いほうが天守閣だろう。
そこから右へのぴる尾根つたいの高みに二段に築かれた四角な塔があるが、これは日本の城でいえばさしづめ出丸に当たるもののようだ。
この城はラインの城の中では最古のものの一つだとされている。
しかし盗賊騎士の巣となったため、二云四年にライン都市同盟の攻撃を受け破壊された。その後マインツ大司教の所有となって改築されたが、この城の支配権をめぐって永い間、マインツとファルツ選帝侯の間に争奪戦がつづいた。
一六八八年にはじまったフランス王ルイ十四世のラインラント侵略でライヒェンシュタイン城は他の多くの城とともに、またもや破壊されてしまう。~
~その後、二十世紀の初頭にキルシュ・プリツェリ男爵の所有となって改築され、現在はホテルも営んでいる。城内には狩猟の獲物である鹿の角を飾り立てた部屋、古い家具のコレクションの部屋、武具などを多数展示する部屋などがある。
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山の中腹にそびえる「ゾーネック城」です。

ライン川左岸にそびえ、向かって右手(下流)の「ニーダーハイムバッハ」の町から坂道が続いているようです。

下記の資料では、「1010年にマインツ大司教ヴイレキスによって築かれた」とあり、「十九世紀半ばにプロシア皇太子フリートリヒの所有となり、ラインシュタイン城と同様、ネオ・ゴシック様式に改築された」としており、改修以前の城の姿にも興味が湧きます。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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中世の町とゾーネック城
~その町並みの背後に褐色のゾーネック城が見上げられる。四角の天守閣と高い胸壁の城館を守るように、ラインの流れに面した部分を頑丈そうな城壁で固めている。
この城は一〇一〇年にマインツ大司教ヴイレキスによって築かれた。下って十三世紀には例によって次皿賊騎士の巣として悪名を高めている。その後、幾度かの破壊と修復がくり返されたのち、十九世紀半ばにプロシア皇太子フリートリヒの所有となり、ラインシュタイン城と同様、ネオ・ゴシック様式に改築された。
現在、城内の一部は美術館となり、レストランもある。城から見下すラインの景観は美しく、緑の中州をへだてて対岸の葡萄畑の山裾にわだかまるロルホの町並みが遥かに見渡せる。
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「ゾーネック城」を過ぎ、しばらく下った左岸の町「ニーダーハイムバッハ」に川沿いの教会と、丘の上の「ハイムブルク城」が見えてきます。

下記の資料ではこの城も選帝侯「マインツ大司教」による13世紀の築城とされ、下流を支配する選帝侯「プファルツ伯」との抗争が築城の目的だったようです。

左の大きな円柱形の塔に対して、右の建物部分が小さく、塔がなければ一般住宅にも見え、19世紀後半に改築されたことによるイメージの変化だったのでしょうか。

長い歴史があり、威圧感のない「ハイムブルク城」ですが、「ニーダーハイムバッハ」の素敵な町並みの風景と溶け合っているようです。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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左岸のゾーネック城の川下に、ニーデルハイムバッハの町に囲まれたハイムブルク城がある。ライン河の城の中では最も河岸に近く築かれた城だ。河に面した側に樹木が生い茂り、その上に城壁がめぐらされ、中央にひときわ太い円塔の天守閣が突き出ている。高さ二十五メートルほどもあろうか。城壁には蔦が一面にからみついている。
この城は十三世紀にマインツ大司教が下流のファルツ伯(プファルツ伯)の勢力に対抗するために築いたもので、十七世紀に破壊されたのち、十九世紀の後半に現在の姿に改築されたものだ。しかし個人の所有になっていて、内部は一般には公開されていない。
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「ハイムブルク城」の下の川沿いに続く「ニーダーハイムバッハ」の町並みの風景を集めたものです。

川沿いに様々な色の建物や、木組みの家が混在し、素敵な町並みとなっています。

写真左上に川べりに建てられた「539」の表示板は、ドイツ、オーストリア、スイスの国境にある「ボーデン湖」からの距離を表示したもので、1Kmごとに建てられているようです。

前回掲載したライン川の地図の説明で、「ボーデン湖」から更にさかのぼったライン川源流の記載をしていますが、ライン川の交通の起点となる「ボーデン湖」からの距離を目安としているものと思われます。

川沿いには鉄道と、道路が走り、ライン川沿いは、鉄道、トラック、船の輸送がしのぎを削る場所でもあるようです。



12時前、船内でのランチの風景です。

この地方特産の白ワインを頂きながらのおいしいランチでした。

ブログを書く私としては、古城などの見所を逃すことなく食事が出来たのも幸いでした。



「ニーダーハイムバッハ」の対岸、3番目の寄港地「ロルヒ」の町の風景です。

右手に大きな町の教会がそびえ、左手の川沿いにも白壁の教会と思われる建物が見えます。

写真左下は、左手の小高い山の山頂に見える「ノーリッヒ城」で、その右に並ぶ写真は、白壁の教会の右にある塔(赤い線の場所)です。

山頂の「ノーリッヒ城」へはジグザグに登る道(車道)が見え、下記の資料にある伝説の十字軍の騎士が活躍した時代の道とはだいぶ様相が違っているようです。

川沿いにある小さな塔が山頂の城と関連したものかは分りませんが、ライン川の通行に近くから監視する施設だったのかも知れません。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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十字軍伝説のロルヒ・ノーリッヒ城
~ロルホの町並みの上方に、葡萄畑に囲まれてぽつんと小さな塔が見える。ノーリッヒ城である。かつてはロルホを守る要塞の役割りを果たしていた城だ。しかし現在では二つの円塔を胸壁でつないだだけの廃嘘になっていることが遠目にもわかる。
この城にも十字軍にまつわる伝説がある。ある騎士が十字軍の遠征から帰国してみると、最愛のフィアンセがノーリッヒ城主に奪われていた。城主は騎士に、乗馬のまま城の崖を登れたらフィアンセを返してやるという。なまなかなことでは登れない急峻な断崖だ。
そこで騎士は悪魔に魂を売り渡す契約で魔力を借り、一気に崖を駈け登ってフィアンセを奪い返した。
そこへ悪魔が現われ、約束通り魂をよこせという。騎士が当惑していると、フィアンセがとっさに十字架をふりかざしたため、悪魔はたちまち退散した。そして二人はめでたく結ばれたという。
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「ロルヒ」の町の対岸からやや下流の「ラインディーバッハ」の町の山の中腹に「フェルステンベルク城」がそびえています。

「フェルステンベルク城」の巨大な円柱形の塔は、実に迫力があり、廃墟となって300年以上経過した歳月(下記の資料)を感じさせない存在感があります。

左手の山に広がるぶどう畑は、谷の北側にある南向きの斜面に造られたもので、この辺りの風景を見ると栽培に適した土地は、ぬかりなく利用されていることが分ります。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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フェルステンベルク城の廃墟
次に左岸に現われるのはラインディーバッハの村である。村の背後はなだらかなスロープの葡萄畑の丘につづいている。その中腹にぽつんと太い円塔がそそり建っている。廃嘘となったフユルステンベルク城の天守閣である。
ヴィクトル・ユーゴーは一八四一年に出版した紀行文『ライン河』の中で、この城についてこう書いている。
「その並はずれた高さと珍しい設計はなんという奇妙さであろうか。
高い塔があるが、周囲を取りかこむ壁もなく、扉や窓もなく、矢狭間もほとんどない。この塔は先端から根元に向かって太さを増している……」
この城は十三世紀の半ばに築かれたが、十七世紀前半の三十年戦争と同世紀後半のルイ十四世のライン侵略の際に破壊され、廃櫨のまま現在に至っている。塔の根元には雑草や潅木におおわれた城壁の残骸が崩れかけて残っている。
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「ロルヒ」の下流にある「ロルヒハウゼン」の町並みです。

チョコレート色の重厚な教会の建物が印象的です。

山の稜線の中央付近にも小さな教会が見え、ぶどう畑が広がるのどかな町の雰囲気を感じさせてくれます。



4番目の寄港地、「バッハラッハ」の風景です。

左の小高い山の上に「シュターレック城」がそびえ、写真右上が少し拡大した写真です。

添乗員さんから頂いた資料にはバッハラッハの町は、「千年以上の歴史を持つ町」とあり、「シュターレック城」は、現在ユースホステルになっているようです。

14世紀に築かれたとされる町を囲む城壁も残っており、川沿いの通りに数軒見えた木組みの家も町中に多くあるようで、下船して見物してみたい町です。

下記の資料に「1190年にフリードリヒ一世の息子コンラートの所有」とありますが、神聖ローマ帝国の皇帝でもあったホーエンシュタウフェン王家のフリードリヒ一世の息子コンラートの居城だったようです。

1190年は、日本では鎌倉時代が始まった頃、頼朝の居館にも匹敵するような建物が一般の宿泊施設で利用されているドイツとの文化の違いに驚くばかりです。

■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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~バハラッハの背後の葡萄畑の丘にそびえるのがシュターレック城である。中央に鉄色のとんがり帽子をかぶった天守閣を置き、左右に翼のように胸壁を張り、それぞれの先端に本館と別館を配している。鉄色の屋根と褐色の壁の配色が渋い。この城はほぼ原形に近い形で残されているようだ。~
~ラインを代表する城の一つとされるこの城の名前が記録に現われるのは二三五年のことである。最初はケルン大司教領の最上流の拠点として築かれた。その後、一一九〇年にフリードリヒ一世の息子コンラートの所有になり、その娘アグネスとハインリヒ獅子王の息子ハインリヒ・ザ・グエルフとの婚礼がこの城で盛大に行なわれている。
シュターレック城の所有権を持つアグネスの子が死ぬと、フリードリヒ二世はこの城をバイエルン家のルートヴィヒに譲ってしまった。以後、バイエルン家はラインの重要な基地であるシュターレックとファルツの二つの城を支配することになる。
三十年戦争がその後に起った。単純にいえばこの戦争は旧教徒連盟のバイエルン公マクシミリアン一世と、ファルツ選帝侯を指導者とする新教徒同盟の争いだ。それにヨーロッパ列強が介入して一六一八年からおよそ三十年にわたる動乱が起ったのである。
バイエルン家のこの城は新教徒同盟の後押しをするスウェーデン軍によって一六二三年に破壊された。しかしその後、ライン古代記念物保護協会によって現在の姿に復元され、いまはドイツ・ユースホステル協会の所有となっている。
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