武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

作品紹介447と芭蕉と干瓢(かんぴょう)の句

2017-04-02 16:11:37 | Weblog


鉛筆と色鉛筆で描かれています。

暖かくなってきました。種から育てたビオラも花をたくさん付け始め、
庭は賑やかになり、ヒロクニさんも冬の熊が冬眠からさめるように、外へ出る。
黄色、白、紫、緑の草とのコントラストを基本とした花が、けっこう清々しい色合いになっている。

ヒロクニさんは、今年の冬は、「絵画上の試行錯誤が実った」と一言。
充実した冬ごもりだったそうです。

確かに、上記の絵を見ると、ヒロクニさんの言う「絵の揺さぶり」は、
十分行なわれている。こんな絵は、初めて見る。
また、ヒロクニさんの言う、「俺は一年生なんよ。」とは、このことか?と、思うのでした。

御歳79才のヒロクニさんに対してあまり年齢を感じていなかったのですが、今年で80才になる。
毎年、一年生になってしまうヒロクニさん。
肉体と精神は、どうなってるの!?と横にいながら思います。

今日は、晩年(51才)の芭蕉の一句を紹介します。

■夕顔に 干瓢むいて 遊けり 
 ゆうがおに かんぺうむいて あそびけり

この一句がなにかしら、心に引っかかりました。
晩年の作、といっても51才。江戸時代の人なので晩年にあたるのです。
そんな時に詠まれた句ですが、なにか飄々とした感じを受け、肩の荷をおろしたような清々しさを、
感じてしまったのです。それと「干瓢」が夕顔の実とは知りませんでした。
あの、料理で巻き寿司に入っていたり、揚げの口を縛ったりする干瓢の姿を知りませんでした。

また、枕草子には、「夕顔は、花のかたちも朝顔に似て、言ひつづけたるに、いとをかしかりぬべき花の姿に、
実のありさまこそいとくちをしけれ。」とも書かれていて、夕顔の実って、どんなに醜い姿なんだろうとも、
想像していた。それが、干瓢の素材だと言うことに気が付き、そのことにも驚いたのです。

干瓢の実ってこんなの↓

これは、一例なのですが、他に丸っこいもの等色々なものがあるみたい。
枕草子の清少納言は、夕方に白い花を咲かせて、はかなげな夕顔が、
こんな大きいどかっとした実をつけることを残念がっていたのだと実感をこめて知りました。
芭蕉は、せっせと干瓢の実を1㎝圧ぐらいの紐状のものに向いていたのです。
そんな姿を思いながら、この句を味わっています。

この句の解説を。
■夏もたけ夕顔の白い花が咲いている下で、すでに収穫した実の皮を取り去り、白肉の部分を薄く剥ぐ
 干瓢作りの中に自分も入っていって余事を思わずしばらく気を晴らしたことだ。
 芭蕉は、芭蕉庵にいた寿貞死去の報を知ったころであり、しばらく単調な手仕事に気をまぎらわせ、
 心を慰めていたのである。


ヒロクニさんにも、「干瓢って夕顔の実から出来ているんだって。」と、言い、この句を紹介しました。
ヒロクニさん曰く「女で芭蕉を読む奴なんてめずらしいんだよ。」って・・・・。










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