この絵を見た時、画面が二分されているので
どういうこと?と非常に驚きました。
私の中での一枚の絵というのは、くっきりとした分れ目があってはいけないものでした。
何を考えているのかさっぱり分らず、
武内のことを「頭がおかしいんじゃなかろうか?」と。
この絵は、長い間だアトリエにあったようで、
筆のある木箱の上に飾られていました。
↑ここに飾ってありました。
ゆら~とした感じや、ふんわりとした感じが優しくて
よく目にとまっていました。
何か、少女趣味な絵に思えてきて、
画面を二分している線も傾でいて柔らかく、
その傾いでいるようすも見ていると、同じように頭を傾がせてしまいます。
全体的に絵から夢みる雰囲気があって、
ゴシックロマンの小説、ホレス・ウォルポール著、
「オトラント城奇譚」を思い浮かべた。
その小説を読んでいる時の感じがするのです。
この本は、武内の蔵書から見つけたもので、読後が身体にまといつき、
キラキラと美しいイメージが身体の回りを包みました。
そして、搭もよく出てきます。
中世風に創作された、大雨や搭、騎士や姫、少し悪魔的な要素が盛り込まれた幻想小説です。
その本自体も箱に包まれ、紐で綴じるようになっていて、
その包まれたものが更に箱に収められているという装丁で珍しいものでした。
中の活字も美的な本で、ページを開けても美しい。
本に出てくる搭のイメージと、この絵の搭のようなものがピッタッときてしまった。
この絵には、騎士とか姫は描かれていないけれど、
イメージとして、わたしにはピッタリときたのです。
姫を巡って、いろんな事が起こるのですが、それと同時に不穏な空気が漂う。
この画面が二分された感じは、不穏な感じがして、
その物語によく合います。
あと、二分された絵画を見るのにも“慣れ”が必要で、
わたしには、少し時間が必要でした。
やっと慣れたからか、取り上げました。
タイトルは「ふじの頃」となっています。
2015年作のようで、慣れるのに7年かかったのか・・・、と思い、
“慣れ”というのもある意味、もの事を解決してくれる要素の1つだと思いました。
よく武内に向かって言われる言葉がありますが、
初対面の人は必ず、
「最所は、何を話されているのかさっぱり分らなかったけど、最近、慣れましたわ」と、
よく打ち明けられます。
皆さん、笑って言うので、最初は衝撃が走っていたのかもしれない。
究極は、何事も慣れかと思うと、
理論はいらないのだと思い・・・、トホホな感じ。
さて、私達2人の現実。
台所でお話。
ヒロク二さんの来客は、何かをやっている人が来ることが多い。
絵を描いている人や、音楽をやっている人や、美術関系の人など。
その方が帰った後、ヒロク二さんは「やっぱり、ひつこさって大切なんよ」と言った。
「ひつこくなれないということは、前進の足がかりをつかむチャンスが少なくなるから」と。
「手放してはいけないものがある」とも言い、
「こういう仕事(画家や芸術家)には、ひつこさは必要だ」と、言われました。
また、「一番だと思うことも必要だ」とも。
「その為にも、ひつこくやっていく力がないと駄目なんだ」と締めくくりました。
粘着質なヒロク二さんなので、納得出来ます。
いつも、ねったりとしたエネルギーをわたしは感じている。
だから、わたしは「清々しい」空気を欲し、
外へ出るといつも清々しさを感じで、満喫することにしている。
そうやって、バランスをとっています。
そう、ヒロク二さんのエネルギーは、ねばい・・・。
もう、1人、“ひつこさ”を勧めている人物がいます。
それは、イエス・キリスト。
私は、新約聖書を読んで、この箇所を読んだ時、非常に驚きました。
驚いた箇所を引用します。
西洋文学を理解するのに、読んでみたのですが、意外な発見がありました。
■ルカによる福音■
こう祈ればよいから、部分抜粋
「しかし、覚えておきなさい。
その人は友達のために起きてなにかをを与える気にならないとしても
しつこく頼めば、そのしつこさに負けて、必要なものはなんでも貸してくれるに違いない」
■抜粋終わり
要約すると、友人というだけでは何も与えられないが、
しつこく頼めば、しつこさに答えてくれるであろうと。
あとの言葉は、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」
と続いている。
私は、ヒロク二さんのしつこさがわたしに向かってくると、
「やめて~!あつくるしいよォ」なのですが、
言い出したきかないから、「ハイ、ハイ」って聞いてしまっていることがたくさんある。
ケーキ作りもそこから始まった。
「作って欲しい」と何度も、何度も言われて作ったのが始まりです。
わたしなんかは、あまり言ったら迷惑だろうし、相手の気持ちもあるし・・・、となりますが、
確かに、何度も何度も言ったり、ひつこく精神誠意にこられると、
それに絆されるということは、あると思いました。
どういうわけか、しつこくされる方にしか、思いがいかない。
また、そういう目に遭いやすく、自分がひつこくするなんて、あまり想像できないわたしです。
西洋の宗教者である、イエス・キリストは、
このくだりを読んで、やはり自己主張がはっきりしていて西洋的で積極的。
やっぱり、西洋人だとつくづく感心した。
読んでいくと、かなりストイックな内容で、イエス・キリストの言葉を実行出来ている人って、
すごく少人数なのではないかな?とも思いました。
言葉でどんな良いことを言っていても、行動が出来てなければ駄目だ。と、
言い切っています。
そして、究極はイエス・キリストが説かれたのは隣人愛なんだと。
それと、よく“裏切り者ユダ”と言われる人物は、ユダヤ人ではなくて“ユダ”という名前でした。
イエス・キリストもユダヤ人で、ユダがもユダヤ人ですが、
ユダヤ人の象徴ではないのもはっきり分りました。
弟子も皆、ユダヤ人。
ユダヤ教の中の、キリスト教ということも分ります。
(当時は)
誤解している風聞をかき分けられそうです。
今回の話からは、それますが、
もう一箇所印象に残っている箇所を■抜粋
「民と民が争い、国と国が戦い、あちこちで飢餓や地震が起きるだろうが、
その時には新しい時代を生み出す前の陣痛が始まったと思いなさい」
と、あり、すぐ、世界が終わると思ってはいけないと諌めています。
終末論は、キリスト教の十八番と思っていましたが、そんなことは言っていないのも分った。
テレビでは、コロナの数ばかり報道しているようですが、
(ヒロク二さんの話でわかる)
その水面下で国々のパワーバランスの微妙な駆け引きがあって、
私はそちらの方に関心があります。
(あまり、詳しく報道されない。)
それは、世界の警察をやめた、
つまりアメリカが今まで負ってきた歯止めが効かなくなった世界が今で、
アメリカの脅威がなくなったことで、中国が好き勝手しようとしているが、
抵抗する勢力と拮抗しているのが現状だと。
しかし、微妙な動きなのでまだまだよく分らないというところ。
WHOも役立たずだし、
(コロナのことでそう思いました)
また、多くの人は「国連」のことを崇高な団体と思っているかもしれないが、
わたしは、これも役立たずだと。
日本人よりもアメリカ人の方がそう思っているらしくて、
日本のジャーナリストが、国連が日本に、こんなことを言うのですと怒っていると、
友人のアメリカ人から「なんで国連のようなものに、怒っているの?怒る価値もないのに」と言われ、
びっくりしたんだそうです。
「あの国連の言うことなんか、気にしないでいいのよ」と言い切られてしまったそうで、
「日本は国連のこと権威あると思っているんだ」と力説したそうです。
キリストの「良いことを言っていても、実行できていないと駄目だ」という言葉が、
WHOや国連のことを想起させる。
また、新しい時代を生み出すとあるので、
こういう組織は、生まれ変わって欲しい部類に入る。
WHOと国連については、個人の意見なので、不愉快な方もいらっしゃるかもしれませんが、
私は、そう思うの。
新しい時代を生み出す陣痛とやらに、コロナ菌も一役かってるのか?
そんなことを思ってみたり。
意外と、イエス・キリストは分り易い言葉で弟子達に伝えていたようで、
例え話が多く、意外と論理的でした。
新約聖書を読んで思うには、
イエス・キリストは、かなりストイックで厳しい人。
そんな印象です。
また、少々過激な行動もあって、ちょっとそこは落ち着いてとハラハラとさせられます。
「しつこくせよ」も、かなり過激な発言だったので頭にしっかりと焼きつきました。
「しつこくせよ」も、ヒロク二さんのしつこさとは、違う。
ヒロク二さんのしつこさは、粘着性があって、ねっとりした感じがある。
ちょっと、我儘な感じ。
よく言えば、芸術家が持つエネルギーと追求する強欲な精神とでも言ったらいいか?
ちょっと欲があり、密着していく力のような。
とても個人的なしつこさです。
何に対して我儘なのか?これにも通じることがあると思います。
今回のヒロク二さんの「しつこく」には、普段のひつこさではなく、
意味ある話だと思いました。
許されるひつこさです。
また、イエス・キリストの「ひつこく」もいいものだと思いました。
こちらは、自分の欲からではなく、隣人愛が基礎になっているので次元が違う。
「ひつこい」というのは、悪い意味にとらえがちですが、
前向きないい面もあると思い至った過程を書いてしまいました。
精神力の1つだと思います。
生命保険の勧誘のひつこさは、嫌ですけどね。
庭では、梅がつぼみを付け初めてました。
↑たぶん2月の終わり頃に咲くと思う。
毎年、我家の梅は、3月3日の桃の節句の時に満開になることが多い。
だから、もう少し待たねばなりません。
立春も間近、それが過ぎると時折春がしのび寄ってきます。
そんなことを思って過ごしています。
今日は、ヒロク二さんの話から「ひつこさ」の必要となり、
イエス・キリストまで登場しました。
わたしは「ひつこさ」を受け入れる立場の自身を強調しましたが、
わたしにも「ひつこさ」を感じるところがあります。
それは、けっこうネチネチとブログの文章をかく、
「しつこさ」です。
長文になりがちで、文章が少ないと淋しくない?と思い、
もう少し書こうか・・・、となる。
わたしの粘着性を感じる次第。
ヒロク二さんの粘着性に感化されたのか?
こんな文章を読んで下さって、ありがとうございます。
ほんとに。