武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

花(作品紹介766)と ヒロク二さんへ水垢離の進めを

2024-02-27 14:48:09 | Weblog

和紙に顔彩の作品。

以前、わたしが顔彩の作品の束を見つけ、取り上げたことがありますが、

現在、その紙の束を、武内が点検しています。

わたしが見逃していた絵がありまして、

今回は、その一枚を選びました。

もしかしたら、以前見ているにも関わらず、気にとめなかった絵かもしれない。

少々、わたしも年を取り、絵の見方や好みが変わったりしているのだろうか?

いい意味で言えば、絵画の深みを感知する能力が進化したというふうに、自身のことを思ったり。

きっと、以前は「な~んだ。」と、この絵の前でいったかもしれない。

子供が描いたような絵なのですが、

花の形が立体的に見えて、ユニークなこと。

花びらと茎、葉がほとんど同じ太さで描かれていること。

バックのバラバラとした線が、花が立て向きなのに対して、横の動きをしていること。

黄土色の花に対して、紫~緑がかった茶色の色合い。

この4つの特徴が、調和しています。

花姿は静かなので、日本の花なのでしょう。

また、顔彩の頃は仏教にも傾倒していたので、

どことなく、彼岸を感じるようなところもある。

この頃、武内は孤独で破れかぶれになったり、気を持ち直したり、

侘びしさを抱えて、散策する日々だったようです。

(よく喋る人なので、その頃の心情をもういいと思うぐらい話してくれるのです。

 話が行ったり来たりするのを並べ替え、あの時、この時の心情を頭の中でマッチさせて聞く。

 今でも、理解不能なセリフがあって、

 「私は、きょくほくなんよ。」と言われ、字は「極北」として、どういう意味なんだろう?

 と、思いながら本人を見て、究極に寒い所にいる武内の心情??等と思っていた。

 たぶん、違うでしょう・・・。

 未だに分かりません。

 話が脱線しそうなので、(  )の部分終わります。)

この絵は、紙の白い部分が多く、余計なものが描かれていないだけに、

精神が剥きだしているように思われ、

「侘び然び」に通じるものを感じます。

実際、寂しく、侘しかったようです。

当時、話を聞きながら、「侘しかったのね。」と言ったら、

「侘しいんじゃない、おそろしく孤独だったんだ!」って、怒られた。

わたしは、心外でした。

 

 

暖かい日があり、その暖かさを味わってしまうと春が待ち遠しい。

育苗しているビオラもやっと花をつけ始めている。

緑の葉の間から、紫や黄色、白、茶色が見え初めている。

「やっぱり、花はいいなぁ。」と思う瞬間です。

ヒロク二さんは、寒さが戻ると花が萎れるが如く、弱る人だ。

パワーをアップする為に、ガスストーブとクーラーで暖房を入れる。

その異様な暖かさの中で、わたしは汗をかき、

次々と上着やセーターを脱ぎ、夕食の準備をすることも。

「寒いちゅうのは、いかん。すべてが嫌になる。」とまで言われると、

「それだけで、すべて嫌になるって短絡的すぎない?」とわたしは言う。

「それに、これだけ暖かくして部屋にいるのに。

 こうやって雨風しのげる場にいることに感謝はないの?そう思わない?」

と、説教気味な発言を付け加えた。

すると、怒りのトーンが落ち、少しまともになった。

意地悪なわたしは、トーンが落ちたところを狙うかのように、

「わたしは、入浴前に冷たい水を浴びているからね。

 最近、寒さに強くなったみたいで。

 あなたもやってみたら。いいわよ~。」

と、笑いながら言った。

すると、上目ずかいに私を見て、

「そういう人意外といるよね。修行で滝行とかあって修行僧がよくやっているのは知っている。」と。

わたしは説明した。

「わたしレベルの話なんだけど、何がいいかと言うと、

 水を浴びる前に洗面器に水を溜めるじゃない、やっぱり嫌だなって思うのよ。

 そして躊躇する気持ちがあるじゃない。

 それを思いながら、エイ!ヤ!と水を浴びると、

 思ったほど苦痛じゃなくって苦難を越えたような気がするわけ。

 普段の生活でもやってしまわないと嫌なことってあるじゃない。

 そういう時、やってしまえばいいんだって、思う時があるのよ。

 いいと思わない?」

と、締めくくり、ヒロク二さんの顔を見た。

なるほどという顔はしているのだが、好きな話題じゃないという雰囲気が漂う。

そこで、「水垢離をしているからって、それで素晴らしい人になるとか、そういうことはないと思うけど。」と言うと、

とても嬉しそうな顔に変わり、

「それはそうだよね。」と落ち着いた知的な感じで頷いている。

たぶん、水垢離で素晴らしい人になるわけないという部分に安心を感じているのだろうと察する。

だから、それはしなくていい、自分には関係がないと。

そこで、また震え上がらそうと思ったわたしは、

「それで、水垢離は夏にすると水浴びになってしまうから、冬にしなくちゃいけないのよ。

 だから、今やっている。

 瞑想の指導の先生は、真冬のつららが垂れ下がっている滝に打たれている写真があってね、

 半身水に浸かっているのよ。もう、滝の冷水にあたると、気が遠くなるって言われていて、

 身体が丈夫でないとしてはいけないと言われている。」

ヒロク二さんの顔を見ると、寒さ全開の表情だ。

暖かい部屋で寒そうな顔をしている。

「あなたも、やってみたら?」と言うと、

「やりたい人がすればいい。」という答えが返ってきました。

だけど、寒さで嫌になる発言は、この後、控えたようです。

夏に強いヒロク二さんは、夏になったらクーラーを切れと言い、

立場が逆転します。

けれども「暑いからすべてが嫌になる。」」とは、わたしは言いません。

 

 

 

最後に、育苗中のビオラ。

↑手振れしてしまいました。

今年は、紫色の花が多い。

茶色の花と思って植えた種からも紫の花。

そして、黒に近い紫色の種からも、上記のタイプの花。中央にブッチが入っているという新種(わたしのビオラでは)に。

下の3枚の花びらに白い縁があるのも、今までにないタイプです。

昨年は、蜂がよくビオラの周りを飛んでいましたので、

虫によって新しい交配が進んだのかもしれない。

去年、無かった花姿のビオラが多くなっています。

↑今、花をつけ始めているビオラ。

もう、種を継いだビオラを育て始めて何年経つのか。

上の写真のビオラとは違う紫のビオラが育っています。

花がうさぎビオラの形で紫色。

春になって、わんさかと花をつけて欲しいと思います。

 

今日は、夫の描いた絵を「侘び然び」等と、独自解釈しました。

漢字では、「侘び寂び」と書くのが一般的だと思います。

「然び」としたのは、時間の経過によって出てくる内面の本質を表すという意味になるそうで、

こちらの方がしっくりくるからです。

またもや、褒めすぎかもしれません。

パッと見たら、子供が描いた絵のように見えるという感想も

素直でいいと思っていますが。

日常は、お互い屁理屈の言い合い。

屁理屈の水垢離論でした。(笑)

今日もこのような文章を最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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部屋(作品紹介765)と 坂道を行くと

2024-02-20 09:54:40 | Weblog

この絵は、アトリエに貼られていました。

それを見つけた時は、「この絵は素晴らしいですね。」と言われず、

「武内さんらしい絵ですね。」と言われる部類かな?と思いました。

この絵はインパクトはあるので、

つい目がいってしまう絵で、その度に眺めていました。

電球みたいに見える顔の部分はピンクのクレヨンで描かれていて、

それが目立つのです。

ブログを書く前に、この絵のことを聞いてみようと思い立ち、

「この絵について、何か言って下さい。作者として、何か一言ないですか?」と聞いた。

少し笑いながら、「見る方が、好きにみたらいい。」と言う。

はぐらかされているような感じでもあるので、

「それはそれなんだけど、作者としてこの絵について一言でもいいから言って欲しいのよ。」と、食い下がる。

そうしたら、「この絵は1分ぐらいで出来たからねぇ。」と言い、

「こういう絵は、描いている内に派生する絵で、この絵以外にもたくさん出来てくるんだ。

 例えば、今描いている絵があるだろ、(目の前の絵を描く振りをしながら)

 ちょっと行き詰った場合、この小さな紙をこっちへ持ってきて、(横に重ねられている別のメモを取り出す)

 これの続き・・・・、続きというわけでもないか・・、

 このメモに色を擦り付けて見ると、勝手に手が動いて出来てくることがあるんだ。

 失敗というか、全然ダメなものもあるけどねぇ。

 この絵は、そういうふうにして出来上がった絵で、

 顔の表情がキュートに仕上がっているから、壁に貼っている。

 この絵はそれ以外なにものでもないよ。」と。

思うような答えは返ってこなくて、過程の話が詳しく語られたのでした。

「好きに見たらいい。」と言われましたので、

わたしの主観的見方を言いますと、

“窓辺にある卓上照明“のように思いながら見ていました。

コンセントが伸びていて、スイッチらしきものまであるという具合に。

窓の外は、嵐で、怪しげな屋敷の一角。

錬金術でもやっていそうな人物の住まう部屋。

怪しさが全開の絵と思っていました。

鉛筆とクレヨンで描かれています。

先ほどの話からクレヨンで描かれた絵は、

わりと短時間で仕上げているのかもしれないと思いました。

1分というのは、本当?

大げさに言っている感があります。

 

 

2月というのに、暖かい日がありました。

その日は、ヒロクニさんが散歩すると言うので、

このチャンスを逃してはいけないと思い、家の用事は後回しにして散歩に付き合うことにしたのです。

家の近くにある坂を登るというのでついていきました。

すると、小さな公園があり、滑り台やブランコがあり、その近くに保育園があったのでした。

さらに上に行く階段があり、上ると高台のようになっていて、

葉の落ちきった木と鉄棒だけがポツンとあり、

座る所もなく、私達は突っ立っていた。

あまり手入れをされていないようで、地面にはあちこち石が転がっていて、

頂上の公園は、子供は危ないからいくなという注意をされているに違いない。

周りを見渡すと、近くに山が迫り、下には民家と畑があり、所々に葉ものを植えている様子が見て取れる。

頂上は殺風景で、寂しさを感じる公園だ。

山の方を見ると、山の中腹に寺が立っているのが見えたり、

禿山になっている箇所が、目の前にせまって見える。

このせまり方が神戸だな、と思う。

この日は、いい天気で春の陽気すら感じる日だった。

そのせいかヒロクニさんは、薄紫色のセーターに黒のジャケットといういでたちで、すっと立っていた。

背筋がまっすぐ伸びて、立っている姿は一本の棒のようだ。

家で見る姿は、よれたトレーナに股引姿で、ぶつくさ言う口というのが固定されているので、

「この人、外にいる姿の方がいいんだ。意外と見栄えするな。」と思い、

いつもとは違うヒロクニさんを見たという感じ。

御歳86才、今年で87歳だ。

個人差はあれ、86歳でこの感じはいいのかもしれないと思い、

やっぱり普通の人とは、エネルギーが違うのかもしれない等と思う。

家にいても絵を描いている時も、椅子に背もたれはなく丸椅子で前かがみになって制作。

そして、足を踏ん張っているらしい。

今でも長時間制作だ。

以前より、仮眠を取るとぐっすり寝るけれど・・・。

歩くことを生活に組み込んでくれたら、きっとパワーアップするに違いない。

やはり、もっと歩かせないといけない・・・と決意した。

わたしの周りで、1日に1万5千歩~2万歩を歩くという目標が掲げられている。

わたしもよく歩いたと思っても1日8千歩止まりなのだ。

大体、6千歩がいいところ。

そう、ヒロクニさんが現役でいる為には“歩くこと”だ。

まず、意志を持ってもらわなくてはいけない。

そこで、自ら買い物へ行くとあちこちと回り、歩数を増やす。

帰って来てからは、「歩くと、やっぱりいいわね。」と言い、

「わたしも年齢より動けるようにしておかないと思ってね、

 身体は動かしておかないと錆びると思うわ。」と言う。

こうやって、お前も歩くのだという啓蒙をしているのです。

時々、そうかもしれないと思うのか、

「春になったら、街に出るから一緒に行こう。」と言うことが増え、

「春になったら、小旅行しよう。」と。

そして、時々玄関がガラッと開く音がする。

股引姿で、家の近くを歩いていたようです。

歩くことを気にしているようで、効いてる~と思いクスッと笑ってしまいました。

お年寄りは気遣ってあげないといけないとは思いますが、

我家の場合は、老体に鞭打つ、負荷をかけ、元気を維持するという論理に落ち着きそうです。

後は、実行するのみ!

ここをヒロク二さんがクリアするのが難しそうだ。

口ばかり動く人だからね。

 

 

突然の暖かい日が訪れ春が待ち遠しくなりました。

以前の住まいで植えていた花、2013年の庭の写真から。

↑ヒヤシンスの球根が大きかった頃の庭。

手前は、プリムラとカルーナをあわせて石で囲ったりして、

うっとりとしていたのを思い出します。

↑こちらは、亡きジルと桜草。

外が好きな猫でした。

友人の猫ちゃんの訃報を受けて、飼い主の心配をしていたので、

思い出したのでした。

かつての猫達を。

キタハマも可愛かった。

 

今日は、散歩から目標2万歩(どんな周りかは秘密)という出来そうにない話。

目指せ、2万歩ということで終わりたいと思います。

老人は、鞭打て!わたしにも言い聞かせることにします。

たいしたことない話題を長々と書きました。

最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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少年の雲(色鉛筆作品紹介764)と小澤征爾氏のサン=サンースを聴いて(追悼)

2024-02-12 22:48:25 | Weblog

色鉛筆で描かれた作品です。

右下の空間にタイトルと描かれた日のことが書き込まれています。

「少年の雲」2011.4月と。

古代に描かれた地上絵のような雰囲気もしなくもない。

赤茶で描かれた野太い線がそう思わせるのでしょう。

しかし、タイトルは「少年の雲」となっています。

最初は、緑の線で囲まれた形が、小さな雲のように思い、

これが少年の雲なのか?と思って見ていました。

ちょっと離して見ていると、

この茶色い線で描かれてのが、少年を表し、

水色の部分が空の青で、残りの部分は全部雲なんだと思い至りました。

この絵を眺めていると左方向へ雲は流れ、

雲は流れにまかせて形を変えていっているようです。

そう思うと、緑の線で囲まれた形は、千切れ雲のように思え、

手前の雲なのか、奥の方にあるのか?と思ったりして、

雲が揺らいでいる様子を感じたり。

平面的な絵なんですが、ゆったりした動きがあって、

ちょっとふわふわした浮遊感覚が味わえます。

遠目で見ると、楽しくなる絵かもしれません。

 

 

小澤征爾の訃報を知り、驚いていました。

ヒロクニさんも「惜しい人が亡くなるのは、寂しい。」と。

以前、小澤征爾指揮のサン=サーンス の交響曲のCDアルバムをひきりなしに

拝聴していた時期がありましたので、寂しい感情に襲われました。

失う感覚といいましょうか。

ヒロクニさんは、このサン=サーンスの交響曲を聴きながら、

空間のことを考えるヒントになっていたそうで、

指揮する小澤征爾氏になったつもりで、空間を指差し、混ぜ、かき回すような仕草をしていました。

そして、なんらかの説明を力説します。

それは、「こっちの空間から、ここを取り出して、また送り返す。」という具合で、

自分の絵画造りと重ね合わせていたと思います。

そのこともあり、長い期間聴いていました。

わたしの方は、ヒロクニさんが言う空間の発言もあり、

空気が大きく広がっていき、また寄せてくる空気の動きが大きく循環していくような感じがいい、

と思いながら聴いたものです。

また、ひとつの時代が終わりを告げているようでもある。

昭和の世代の人が亡くなると、

どんどん新しい時代に突入していっているというのを身近に感じるのです。

それでも時間は過ぎて行く。

次の時代のことを思うと、「わたしも昭和よね~。」とつくづく思います。

 

 

 

最後に、小澤征爾氏の指揮の演奏を。

サン=サンースの聴いていたアルバムを失念していて、見つけられませんでした。

そこで、ヨーヨーマのチェロ演奏も好きなので、

上記のものを選びました。

武内からは、ヨーヨーマが好きだと言うと、「何で、そんな奴がいいのか?」と言われるのです。

「だって、育ちも良さそうで、この柔和な笑顔。そして、このチェロの音色。

 それに東洋人らしく、時々一歩引くという技も持っていて、いいの!」

と言い返します。

一歩引いた後で、前に出てきたりとして、ベートーベンのピアノソナタでは

遊び心もあり、名演でした。

そんなことも付け足して言うと、

ふ~ん、という顔で、

アファナシェフのCDを置いて行きました。

その趣味を見て、ヒロクニさんらしいと思ったものです。

↑こちら

「ピアノ界の隠者」とか、「ピアノ界の鬼才」と言われているようで、

ヒロクニさんらしい選択。

激しい印象でしたが、独特なものを感じました。

しかし、わたしは穏やかだけど遊び心もあるヨーヨーマが好きなのでした。

ヒロクニさんは、「色鉛筆画の鬼才」と言ってもいい存在。

淡くてさっと塗るという色鉛筆画から、逸脱し、

筆圧強く塗りこめる執念の塗りと、独自の絵柄。

アフェナシェフの鬼才ぶりと通じる部分があるのかもしれない。

 

「世界の小澤征爾」と言われた指揮者。

惜しい人が亡くなったと思います。

ベートーベンのような風貌になっていました。

大きな存在を亡くしたと感じます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

今日は、訃報を受けてから思っていたことを書きました。

音楽を聴くと、その聞いていた当時の心情や時代背景がすぐ思い出されます。

普段忘れていたっことも、音楽を通してよみがえってくることもよくあります。

音楽というのは、時間や空間と心に密着する不思議なものだと思いました。

サン=サンースを聴いていた時のアトリエの雰囲気や、時代が持つスピード感などもよみがえってきます。

人の記憶と音楽も密接な関係にあると思うと、不思議です。

そして、豊かな気持ちになれるなら、とても素晴らしいことだと思いました。

 

今日は、短めの文章になりました。

だけど、あれこれ思いをまとめるのに2日も要しました。

我家では、音楽担当は武内の役目になっています。

音楽なしでは生きていけないヒロクニさん。

それぐらい音楽好き。

その横で、あれこれ聴いているわけでございます。

今日は、夫を「色鉛筆画の鬼才」とか書いてしまい、褒めすぎかもと内心思っております。

今日もお読みになられた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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花を撒く(色鉛筆作品紹介763)と ケルト人の文化と歴史

2024-02-04 15:50:02 | Weblog

夜の街か?

赤と黒の色使いが印象的な絵。

花を撒き散らしているのは骸骨か?宇宙人か?

どことなく“ワルイ奴ら“のように思える・・・。

わたし的には、不良少女といたずら好きな妖怪が徘徊する街といったところ。

退廃ムードもあって、世紀末的な絵かもしれない。

今朝、額に入っていたこの絵を外しながら、

「この絵をブログに使おうと思って」と言うと、

「ああ、この絵をね。いいと思うよ」と言い、

「この絵は夜、このライトで照らして見ているよ。

 暗がりに、この絵が浮かんでいるといいんだよ。」と説明されました。

その絵の前に小さなライトがありました。

その様子を思い浮かべ、「確かに暗がりに映えるかもしれない」と思ったのでした。

仕事部屋で寝るのが復活して、横になりながら見ているようです。

 

 

その仕事部屋&台所にて本を読んでいると、

制作の手を休め、「そんな本読んで、どうするの?」と聞いてくる。

その本は、「ケルト人の歴史と文化」というタイトル。

この本になります。

この「どうする?」という質問は、「いったいどういうことよ」と思いながら、

答えた。

「ケルト人というのを初めて知ったのは、ローマの歴史からなんだけど、

 ブリテン島にローマ軍が遠征に出た時に、その地にいたのがケルト人で、

 戦車を自在に操って、獰猛な戦い方をするという民族として登場したの。

 それに最近、イギリスものをよく読むでしょ。

 アーサー王物語も面白く読んで、これはケルトの伝承をまとめたものらしくて、

 こういう物語の土台を知りたくて読んでいるの。

 たまたま図書館で見つけたというのもあるけど」と。

わたしは分かり易く言ったつもりなのですが、ヒロクニさんにとっては、まるで関心がない分野。

それから、いろいろな質問を受けるのですが、

ケルト人のいた年代が現代に近く思っていたりして、話がかみ合わない。

わたしも読んでも忘却の彼方にならないよう簡単なメモを取りながら読んでいたのですが、

「そんなメモ、とってもしょうがないじゃない」と言われた時は、

読書を妨害されている気がした。

この時間、ヒロクニさんは子供みたいで、単にかまって欲しかったと気づいたのは静かになってから。

急に寝ていました。

(疲れていたのかも。子供がぐずるような感じもする・・・。)

ケルト人というのは、古代(紀元前7000年)からいた部族で遊牧民的なところもあり、

分散していった民族です。

ヨーロッパはブルターニュ地方、ブリテン島、アイルランドに文化が残っています。

ケルト人は、多神教で植物や動物、石や木にも神を見出す信仰があったということから、

妖精がイギリスに登場するのは、こういうことかもしれないと思いを巡らせる。

わたしが注目している物語に関することでいえば、

ケルトの国では、職業詩人(語り手)集団を手厚く保護し、

身分も貴族としての待遇を受けていたという事と、

この職種につくには、神話や英雄物語を350以上記憶し暗誦できなければ資格がない。

それには、12年の歳月をかけたと言うことです。

ケルト人は、文字を持たなかったので、キリスト教が文字をもたらすまで、

口承で文学を高めていったと。

わたしが好きになった「アーサー王物語」は、

ケルトの伝承をまとめた人物が何人かいて、普及したものをわたし達は読んでいるようだ。

わたしは、はっきりとした作者というのがいると思っていたからね。

あの有名な石のサークル“ストーン・ヘンジ”も石を信仰するケルト人の作ったものだと知ると、

不思議な感じがした。

中世の柄の刺繡をしていた時に、どんぐりの木の図案があって気にいってしたりしていましたが、

イギリスの図案だったのです。

ケルト人の植物信仰で重要な木は、

オーク(カシワ、ナラ、カシの木)やヤドリギ、イチイ、ハシバミ(ヘーゼルナッツ)。

この本を読んでから、象徴的な図案だったんだと。

今取り上げた木は、イギリスの小説にもよく登場するなぁ~と改めて思うのでした。

そして、特に面白いと思ったのは、この箇所。

■抜粋

『異界と現実世界(この世)のあいだにはどこかに何らかの通路があり、

 場所と時間によって、その通路が開かれ往来が可能となる。

 つまり、異界から現実世界へ入ってくることができる一方、

 現実世界から異界へ入っていく「相互乗り入れ」が出来る状態になるとされる。

 通路が開かれた時、異界から死者の霊、悪鬼、魔物、変身した者などが現実を訪れてきたり、

 逆に現世にいるものが異界へ出かけていくことがあると信じられた。~略~

 異界があるとされた場所は、

 地面の下(洞穴の奥、井戸の底、泉、沼、湖の下)

 山の上(丘の頂上、林や森の奥、渓谷など)

 海の下や上、島。また暗い所、奥まった所、危険な所、謎めいた所』

こういう世界感を読み、現在読まれている物語にもこういう要素がふんだんにある。

世界感が物語そのものだ。

身近な所では、「葬送のフリーレン」の漫画も魔物や魔法が出てくる。

ケルト社会には、「ドルイド」という賢者もいて、それが魔法使いの要素になっているようです。

知恵者なのですが、「アーサー王物語」では、“マーリン”という魔法使いが登場します。

フクロウにも変身し、このマーリンの助けによってアーサー王は苦難を克服する。

もし、マーリンが登場しなかったら、物語は味気なくなると思う。

手に汗にぎり、ハラハラする要素が薄められてしまいそうで。

そういう意味においても、フィクションが力を持つ。

物語好きなケルト人は、物語を作る資質も持っていたと思うが、それを高める情熱を持っていたと思うのです。

そういう遺産があって、今の読み物にもつながっている。

そう思うと、文化というのは練り上げられていくものなのだと思いました。

ローマ人は、ケルト人のことを「野蛮だ」とか、「気が短く喧嘩っ早い。」「好戦的」と言っていたらしいが、

そんなことばかりではないように思います。

この度の読書、イギリスの土地のことを少し知ったような気持ちになりました。

丘砦(ヒル・フォート)のこともよく分かった。

風景描写でよく出てくるのですが、いま1つ飲み込めてなかった。

古代ケルトの首長の生活の場、遺跡のことでした。

 

今日は、どれほどの人がケルト人に関心を持っているのか?と思うと、

ポピュラーな話題ではないなぁ・・・と思いました。

それでも、あえて読んで下さった人がいるとしたら、本当にありがとうございます。

最近、イギリスものをよく読むようになってしまって・・。

ヒロクニさんには、「歴史はあんまり興味ないんだよ」と言われてしまいました。

 

 

最後にケルト人が残した「ケルズの書」から

円環と文様の独特の美を追求したものです。

ロマンを感じます。

 

 

 

 

 

 

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