武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

玉葱(色鉛筆作品紹介762)と 古いスケッチから

2024-01-28 17:43:12 | Weblog

玉葱の絵。

しかし、背景がカラフルでモダンな玉葱に見えます。

以前の家で、玉葱を庭で育てていたので、それを描いていたようだ。

今思うと、庭には花、野菜とよくあれだけ熱心に育てていたものだと感心します。

絵を見ると、玉葱の首の部分や葉をよく観察して描いているのがよくわかる。

首の部分が、ねじれたような表現になっていて、独特の表現だ。

脳内で、茎の部分が縄編みになっていたのだろうか?

アクロバットな表現に驚きます。

武内は、作品を分類してペーパーバックにまとめるという癖があり、

そこから見つけました。

あと、4袋ぐらいが放置されています。

先回の雨の絵も、今回と同じペーパーバックから選んでいます。

このペーパーバックには、やや古いめの絵が多く、

「こんな絵も描いていたんだねぇ~。」と思いながら見る絵が多い。

その中では、今日の玉葱の絵は新しいほう。

庭がある頃の絵なので。

それと、メモの類が多く、捨てていないということは、

このメモから派生する作品があると思われる。

仕事部屋に骸骨の絵が貼ってあったので、見ていたら、

「この絵は失敗なの。後で破るから。」と言われ、

そんなに出来が悪いだろうか?と疑問に思った。

失敗作という絵も、メモから絵にしたということを聞いていたので、

現在はメモの点検、見直しをしている時期なのだと思います。

引っ越しをしましたので、紙の分類をしている内にメモと作品の点検が始まっているようです。

その中から、古いスケッチを見つけました。

↑こちら

スケッチブックから切り離されて、1枚だけがありました。

このスケッチを見ながら、わたしが武内と結婚する以前の風景、

すなわち40年以上前、1980年ぐらいの明石駅の裏のなのだと。

木造の建物が多く、山陽電車も高架に上ってなくて、路上を走っていた頃だ。

そして、線路のわきには、草がぼうぼうと生い茂っていたのだろうと。

ローカルな当時の明石駅の様子が想像される。

電信柱の様子も見ていると、木だったりしたのか?と思えてくる。

そして、意外と絵に情というか体温があり、武内の感傷的な部分がよく出ている。

上記の玉葱の絵と随分違う印象です。

武内は若い頃、それも高校生の途中から画家の生活スタイルになって、

突き進み洋画家の仲間入りをする。

洋画家時代は、風景画が多かったと聞いているので、

どんな絵だったのか、見て見たいと思っているのですが、

それは手元になく、見たことがないのです。

このスケッチを見ると、洋画家時代があったのだなぁ~というのがよく分かり、

その頃の油絵を見てみたいと思うのだ。

わたしは、武内の人生の後半の伴侶なので、前半部分は分からないことが多いのです。

その絵は、淡路島にあるらしいという事だけが、はっきりしています。

裏町の風景が多いと当人は、言う。

今と随分違う作風かもしれないと思うと、見てみたい。

 

こういう事を書いて、途中で一息いれに1階に行くと、

台所&仕事部屋にいるヒロクニさんから、

「あの時代は、風景画が多かったし、淡路島を行ったり来たりするうちに、

 自分の帰る家もないような状態になってもて、あれ?おかしいな。

 俺ってどうなっているの?て思ってねぇ。」という話が。

(淡路島に単身赴任状態だったのだろう。そう思いながら聞く。)

思わず、わたしのブログの内容とシンクロニシティしてる?と。

こういう事もあるのか・・・と、驚いていました。

 

その前に、ローリングストーンズのメンバーのキース・リチャーズのソロを聴く時がありました。

この人って、歳をとれば取るほど演奏する姿が「これほど楽しいことはない!」という表情が良く、

ちょっと見ていたのです。

youtubeでは、途中からソロの曲を聴いていました。

音が枯れたような味わいもあって、その音が心地よかった。

そして、また1階に降り、一息ついていると、

ヒロクニさんが、そのアルバムをかけたのです。

同じ曲聴いている・・・と思い、

シンクロニシティ?と

いろいろなヒロクニさんの解説付きで聴くことに。

「こいつら、ロックのいい所は、いわゆる勉強をしましたというのじゃなくて、

 いや、いろいろ学習はしているんだけど、

 そういうのとは違って、ひょいと才をつかむ瞬間を逃さないのが、いいんだよ。

 それに、このチープさ。

 このドラムの真ん中を叩かないで、端の叩く音を聴いてごらん。

 実に、チープな感じもあって、いいだろう。

 キースもいつもより開放されているし、

 こういうのが、才能なんだよ。」

と言い、才を感じながら音を聴いていたみたい。

わたしは、そういう事はわからないので、黙って聞いていました。

わたし自身は、音楽について語るのは難しく、いつもこれで言いたいことは伝わっているのか?

という疑問を持ちながら書いているわけです。

頭の中で、音楽はジャンル分けされることがない。

若い頃、レコードショップで見た分類である“プログレ”という文字を見て、

大きい声で「プログレって、いったい何なのですか?」と言った人なのです。

店員の人の反応から、とんでもない質問だったような・・・。

話がそれそうなので戻しますと、

「才能があるからやるのじゃなくて、やり続けるうちにひょこっと出るから、

 それに気づいて、さっと広いあげる。

 それが出来ることが凄いわけで、気が付かなかったずんべらぼうだ。」

「学校の勉強ではなくて、そんなものはどうでもよくって、

 勉強というのは、こういうことでもあるから。」

と、教師の息子であるヒロクニさんが言う。

ヒロクニさんは、才の部分を確認するのと同時に、

自分の才はどう出るか?という問いかけをしていたみたい。

わたしは、80歳になったキース・リチャーズの姿がよく、見ていると楽しくなる。

と音楽一筋に生きた人を見て勇気を出したかったのでした。

ヒロクニさんも、絵一筋。

いい感じになって欲しいと思っています。

しかし、手強い相棒だ。

↓最後は、失敗作という仕事場に貼られた絵を。

↑右の骸骨の絵は、破り捨てるのだそう。

その周りには、絵のメモが。

走る骸骨なのか?と思いながら、今日はこの辺で終わりたいと思います。

 

才能というのは、長所のことでもあると思うのです。

そう思うと、だれにも才能というのはあるのです。

そういうふうに思い、わたしも「長所かも・・。」ということを磨くことをしている途中。

ヒロクニさんは、才について語りながら、「恥もかくこともしないといけない。」と言っています。

時々、「この人って恥知らずかしら?」と思うことがある夫ですが、

大目に見ることにしています。

今日も最後までお読み下さったかた、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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雨(作品紹介761)と 花士・珠寶さんの「献花」

2024-01-20 16:26:35 | Weblog

今日は、雨。

そして、雨というタイトルの絵を見つけました。

ガッサとペーパーバックに入れられた、紙の束の中から。

この絵は、マジックとアクリル絵具を使用。

バラバラとした線に、太い黒の線がさらにバラバラと重ねられています。

いつもの色鉛筆や鉛筆で描く絵とは、

随分雰囲気が違う。

俳画のような趣の画風。

こういう面も持っていて、永田耕衣の俳句に親しみ、兵庫県加古川市を散策する時期があったそうです。

永田耕衣氏は、兵庫県の郷土作家で加古川の作家です。

武内流に言うと「風狂な精神」に親しんでいたということになる。

わたしは、「夢の世に 葱を作りて 寂しさよ」という句を教えてもらい、

夢と葱と寂しさの三つが頭の中で混ざり合い、

「白っぽい土の上に立ち、畑を耕し、土の表面から玉葱の白い部分と緑が眩しい。」という光景を想像して、

なんとも言えない寂莫感を感じたのでした。

実際に、加古川の地を一緒に散歩し、鄙びた風景を見ているうちに、

土地に「寂しさ」というものがあるのかもしれないと思ったものです。

この「風狂さ」のある作品は、顔彩を多く使用していて、

自然を抽象的に描く作品が残っています。

それから、急に「風狂」には見向きもしなくなり、色鉛筆画に励んでいます。

この絵は、マジックで描かれているので、最近に近い作品だ。

ということは、表現方法が違うけれど、「風狂」が自然に出てきた。

その作品を見つけたということかもしれません。

この永田耕衣氏は、たくさん俳画も残していますが、

武内は、俳画には興味が薄く「句」の精神が好きだと言っておりました。

野に出て歩いている内に、暗雲が垂れ込め、急に大粒の雨が降ってきて、

3人の人が慌てて走っているように見えますが、

皆様はいかがでしょうか?

 

 

今週は、初めて「献花」というものを見に行きました。

献花は、青蓮舎、花士・珠寶(しゅほう)さんによるものです。

活ける植物は、枝や葉、花がありますが、彼女の手にかかると残された枝や葉がスッとして美しくなり、

その過程を見ているのが、非常に楽しく目を奪われていました。

また、大きな枝ぶりのものは、枝が落とされていく度に、

気持ちに余分なものがなくなるようなものがあり、

こういうのも体験しないと(実際に見る・場を同じにする)分からないことなんだと思ったのです。

終わってから、雑談もあり、その内容も面白いものでした。

花を活ける時に、自分が出てもいけないというような事を言われていて、

花も今回は、コレというふうに、決めないで使う植物を選ぶと言われていました。

非常に謙虚な姿勢で、献花に望まれているのだな、と思い、

西洋が、自分の意志や主張を明確に表現するのに対し、

植物を中心に沿え、それを最大に生かす為に自分を主張しないという姿勢は日本独特。

どちらが、良い悪いではなく、物事によく合っていればどちらでもいいと思います。

花士というのは、室町時代からいたそうで、男性が担っていたと。

室町時代というのは、学校の教科書では、書かれていることが少なく、あまり知らないな、と思い、

日本の室町時代に興味が湧く。

このように、文化的な刺激を受け、家に帰りました。

写真は、うまく撮れなかったようで暗く写ってしまい残念。

↑梅の木の幹に白い苔が生えていて、その部分の白がとてもいいのですが、

この写真では分かりません。

小菊とよく合っていて、「侘び然び」の感覚があってじんわりきます。

↑もう少し明るくすれば・・・、と思いやってっみましたが、難しいよう。

またもや、残念だ。

 

献花の様子は、撮影できませんので、

花士・珠寶さんの動画を紹介します。↓

とても、美しい方。

一緒に写真を撮ってもらいましたが、

わたしの劣化が激しく、ここに載せれません。

(開き直れない・・・)

植物の声を聞き、美に添って生活している人は内なる美を備えているのだと思います。

珠寶さんからの、「ヒロクニさんにもまた会いたいな。」との言葉を伝えると、

「嬉しいねぇ。」と一言。

交流があった時間を思い出すと、懐かしい。

皆、若かった。

わたしも20代だったからねぇ~。

 

 

今日は、いつもの夫婦喧嘩ではなく、文化的な内容になりました。

「俳句」「華道」と日本的なことが中心で、ヒロクニさん流に言うと「和風」。

わたしも「献花」を拝見して、美しい気持ちをもっと持たないと!と思った次第。

いつも「うるさいわね~。」とか、「いい加減にしなさい。」と小言を言ったりして、

ムカつく日常を送っているとダメだ・・・、と危機感を感じだぐらい。

それでも、時間は流れていく。

思った時に、少し意識して流れを変えてみたい。

今日も、最後までお読みになった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

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流れに添って(銅版画作品760)と ミロの絵をよく見ると

2024-01-13 13:57:24 | Weblog

武内の作品の中で、とても珍しい銅版画を紹介します。

とりあえず、「銅版画というものをやってみたという」時期があったそうです。

作品は、保存状態も悪く、染みも浮き出ているような状態。

これが、今まで見もしなかった溜めていたメモの袋から出来きたと。

わたしにとっては、初めて見る作品なので、「へぇ~!」と驚くと同時に、新鮮さを感じる次第。

武内は、「つたない作品だけど、俺も試行錯誤してたんだな。」と、

銅版画を持ちながら、片方の手で顎を触り含み笑いをしていました。

そして、メモとして壁に貼られています。

流れる五線譜に音符と釘(ネジのような)、そして旗。

案山子のような4部休符もある。

ハート型と流れる線。

よく登場する「桜島」。

小さなモチーフと黒色の野太い線が、

細くの伸びる線を強調しているのか、つい見てしまう。

これまで武内の絵を見てきたわたしとしては、

武内の絵の原型が集約されているようで面白い。

それに、遊び心もあって、「苦悩・・!」という絵ではないので、

このシュールだけど、弾けた感覚で軽快感があるところが好きだな、と思いました。

↑この絵の左下の部分を大きくすると、なんか懐かしい。

何が懐かしいって、赤ちゃんの頃のベビーベットの周りにあったオモチャって、

こんな感じの絵が描いてあったような。

この箇所を見て、「ヒロクニさんがこんな絵を描いていたなんて信じられない。」と思っています。

犬の表情、すごく可愛い!

 

寒くなって、暖房をつけていますが、

1階と2階では、室温が全く違う。

普段2階にいることが多いのですが、ヒロクニさんのいる1階に入り浸っています。

ヒロクニさんのいる部屋は、気分が悪くなるくらい暖かい。

もう、温室。

2階にもストーブを持って上っているのですが、

暖房費、ガス代と電気代がウン万円という請求書を見てから、

2階ではストーブをつけないことにしたのです。

パソコンを打つ階段の上がりが框は、寒いのですが、

木製のパグ(犬)の木彫りの上に足をのせると足が冷えないのを発見し、

犬の置物のを踏みつけて、ブログを書いています。

床の冷え込みが緩和されて、丁度いいというわけだ。

犬の耳の角っこで、足の裏をギューと押すと、凝っている部分が刺激され、いい感じだ。

しかし、可哀想な扱いをしているという自覚はあるので、心も少々痛めてます。

一番の発見は、木は石のように冷たくならないということ。

日本は木の家が多いのも、理由があるのかもしれない。

(西洋は、石の建築が多い)

 

それはさておき、一緒に同じ空間にいると、

「ちょっと、そこの鉛筆を持ってきて。」とか、

「珈琲を入れて。」とか、

「ご飯を温めて。」とか、いろいろ言われることになる。

一番言われることは、「この絵、見て。」と言い、

描きかけのものや、出てきた絵を取り出しては、

描いている心情などをいろいろ語る。

絵と一緒にあったミロの絵の切り抜きを取り出してきて、

こちら↓

「この絵はギターを弾いている人物の絵だけど、

 よく見ると左下に犬コロがいて、その隣の渦の上に猫ちゃんがいるだろ、

 その上の白い部分にも猫ちゃんがいる。」と言う。

フムフムと聞いていたが、上の白い部分が猫には見えない。

顔があるような気はするんですがね。

渦の上の猫は、↓これだと思いますが。

「そして、蝙蝠もいる。」

こちら↓(右端の真ん中)

本当だ・・・、と気づかされる。

そして、「この顔のところを見てごらん、魚だろ。」と続けていうので、見てみた。

こちら↓

なんとも奇妙な顔・・・。

そして、最後に絵の下にある緑と黒の四角い部分を指し、

「この部分はなくてもいいかもしれない。」と。

わたしは、緑の部分を見て、

「空間の為に描いていると思うよ。

 バックの緑と呼応させて、空間に奥行きを見せてるって。

 この部分がなくなると、絵に奥行きがなくなるって。」といやにきっぱりと言った。

すると、「そうかもしれないな。」という返事が返ってきた。

食い入るように、絵を見ている姿に感心していました。

わたしは、印象しか頭に入っていなかったので、

何もみていないのに等しかったのです。

ミロの顔が多く描き込まれている絵を見て、

もしかして、ヒロクニさんの絵もバラバラのようで顔のように見える絵があり、

ミロの絵からも影響を受けているのかも?と思いました。

その後は、「この絵どう思う?」が多くなり、

この質問って困ることがあり、どう答えようかと考えていると精神力を使います。

その執拗さに芸術家って自分に関心がある生き物だな、とつくづく思う。

わたしは、精神力を使い果たすと、寒いけれど2階に上りる。

そうすると、今度は飼い猫のピーちゃんが、待ち受けているのだ。

かまって欲しいらしく、

押入れに入って「隠れてるつもり」をする。

押入れに隠れて、急に勢い良く飛び出してきて、わたしを驚かせているつもりというやつ。

何度も同じ行為をするので、その度に、

「ピーちゃん、そんなところにいたの?」と、驚いたふうに言うと喜ぶのだ。

喉をゴロゴロ鳴らしている音が、激しく聞こえ楽しいらしい。

こちらも執拗。

このようにアットホームさが滲み出る我家。

しつこさによって、濃い日常を送っています。

 

最後に、育ったビオラの写真。

↑黄色と赤紫に茶色がかったビオラ。

このビオラを見て、ビオラなのですが「山野草」の趣が感じられます。

種を継いで育てると、いろいろなビオラが咲くので、それが面白い。

台所に飾りました。。

 

今日の絵は、シュールな銅版画でした。

ジョアン・ミロの絵もシュールな作品です。

共通項があったと思います。

武内の銅版画というのは、この1枚だけ。

銅版画というのは、拭き取りが難しく、職人にならなくてはならない部分があります。

そこが、性に合わなかったようなことを言っていました。

武内に合う表現方法というのは、いきなり絵具や色鉛筆で描くなんだと思います。

銅版画は、何枚も刷れるという利点もありますが、

手から直に伝わって描くという行為が好きだと言っておりました。

今日も、最後まで読まれた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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明けましておめでとうございます。(大きいメモ・紹介759)

2024-01-05 14:51:15 | Weblog

明けましておめでとうございます。

昨年は、ブログをお読み下さった方、ありがとうございました。

今年もよろしくお願いいたします。

皇紀2684年

令和6年 甲辰 元旦(今日は、1月4日です)

 

今日の絵は、12月中旬頃から壁に貼られていました。

朝日のようで朝日でない。

日の出のように思えるが、山の形をしています。

メモ描きの絵ですが、大きいサイズで59cm×42cm。

壁に貼ってありました。

クレヨンと鉛筆で描いています。

何を考えて、こういう絵をいきなり描くのでしょうか?

分かりません。

理解するより、楽しんだ方がいいと傍らにいて思っています。

こんな2人ですが、絵と文で頑張って行こう!と思っていますので、

改めてよろしくお願い致します。

 

 

今日からは、正月気分から切り替え、日常が始まりました。

お正月は、朝はお雑煮を作り、

1日、2日とおせち料理を冷蔵庫から出し、料理を休む。

2日の日、食事のお膳を前に、「今日は、ごはん作らないの?」と言われる。

目の前の料理を指差し、「これが晩ごはんよ。」と言うと、

ヒロクニさんは「そうなのかぇ。」と拍子抜けした顔をしていた。

すかさず、「おせち料理をどうして作るのか、考えたことないの?」

そんなこと考えたことがないという顔でわたしを見ている。

「お正月は、煮炊きをしてはいけないの。主婦もゆっくりするためにするのよ。」と言った。

たまたま、ネットで『正月にしてはいけないこと』を検索し、煮炊きをしてはいけない。

火を使ってはいけないという項目があり、

それに附属するものとして、「主婦もゆっくりする」を付け加えたのです。

これを、勝手に付け加えるところが、腹黒い妻。

しかし、火を使わないとなると、雑煮も食べれなくなるので、なるべくということなんだと思います。

ヒロクニさんは、気を取り直して、「昆布巻き」を口にし、

「昆布巻きって、いいものだねぇ。こんなふうに料理を楽しむ正月は、あまり過ごしたことがなくってねぇ。」と言い、

いきなり、かつての妻の料理のことを話しだす。

こういう無神経さは、いつも凄い人だ。

ある意味大らかなのか?

別にいいのですが、かつての妻にも、わたしにも悪いと思わないのか?

言っていい事と言わない方がいい事ってあると思うのだが。

思慮の足りない人だ。

そして、しょうがない人だと思いながら、市販の昆布巻きを「美味しい。」と褒めちぎっている姿を見る。

ある意味、この単純さが彼を救っている。

このように、夫の長所と欠点の微妙な混ざり具合を認識する正月でもありました。

 

さっきの続き火を使わないこと意外にも、してはいけないことがあって、

■掃除をしてはいけない。

■四足歩行の動物の肉を食べない。

■刃物を使ってはいけない。

■ケンカをしてはいけない。

■お金を使ってはいけない。

とありました。

刃物を使ってはいけないというが、それも無理筋なと思い読んでいました。

火と一緒で、なるべくということらしい。

わたしの過ごし方としては、掃除をしてはいけないは簡単に守ることができ、

家でゆっくり過ごしたので、お金も使いませんでした。

何よりも難しいであろう「ケンカをしてはいけない。」が守られたこと。

今年からは、言い争いが減るのか?

この1年の結果を楽しみにして過ごすことにします。

してはいけない6か条には、それぞれに理由があります。

まず、「新年は神様が家を訪れて福をもたらす」この考えが基本にあるようで、

掃除は、その福を掃いてしまうから。

四足の肉は、元々日本には動物の肉は避ける風習があって、

祭事を行う人は穢れをさけていたことを考えると、

神様が来るように殺生をしないようにしていたと考えられます。

そういう意味において、避けるべきことなのだと。

刃物は、いい縁を切ってしまわないように。

お金を使ってはいけないというのは、新年の散財はよくないらしい。

落ち着いて過ごす日ということが重要のようです。

また、火を使わないには、火事を避けるということも含まれているそうです。

こういう事は、人々の心の中に日本の神様が根付いていてこそ、守られてきたような気がします。

わたし自身は、そういうことに無知なので、

こういう事項を知って、おぼろげながら日本の神様の性向を知ることになる。

わたしは、今まで生きてきた中で、「何らかの神のような存在はいる」ということを思っている人なので、

一々の神様のことは考えたことがあまりなかった。

日本特有の神様のことも、時々思ってみるというか、考えてみてもいいかもしれないと思い始めました。

新年は、神社に参拝したり自然にしている人を見ると、

どことなく清々しくていい感じだな、とよく思うのです。

「神道」ということにも、興味がわきますが、特に経典がないらしい。

とりあえず、「森羅心象あらゆるものに神が宿るという思想」ということらしい。

言い換えると、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊が宿っている考えとも言える。

こうなると、物を捨てられなくなると思うのよ。

「物が、わたしを捨てないで!」と言っていたらどうする?

可哀想と思うだろう。

ここまで来ると、頭はファンタジーで、イギリスの精霊を思い浮かべていました。

新年早々、妄想か・・・。

ヒロクニさんは、ファンタジーとかは読まない人なので、

わたしが読んでいる本のことを時々聞いてくるのです。

そして、聞いては「ふヘぇー。」とか「それで~。」「驚いた。」とか、

アホな子供みたいな顔していうのだ。

(ちょっとバカにされているようで、憎たらしい)

哲学書とか、フランス文学とかが好きな人からしたら、驚きのストーリーなんだろうね。

正月に読んでいた本は、“ダイアナウィンジョーンズ”でした。

“なんともいえない可笑し味“があり、それがこの作家の持ち味なのか?と思いながら、

フッと笑い、分かる感覚かもしれないと思いながら呼んでいました。

ハウルの動く家の2、「アブダラと空飛ぶ絨毯」です。

もう一冊は、“ジェフリー・チョーサー”の「カンタベリー物語」。

どちらもイギリスの作家です。

イギリス人の独特感性というのは、皮肉、嘲笑、ユーモアの混ざり加減絶妙で、癖になります。

時間が取れたので、まとまった読書が出来て、よい正月でした。

静かなお正月よ。

ケンカせずにね。

 

今日は、今育てているビオラの親の写真を。

↑以前の家で育てていたビオラ。

この黄色が気に入っていて、種を継いで育てています。

やっと2苗が同じ色。

まだ、つぼみを付けていなくて、色が分からないのが大半なのです。

↑中央の黄色いビオラも。

こちらは地植えに。

前の家は、庭が広かったのでチューリップの球根も地植えしていました。

4月の写真。

この頃は、花を育てるのに力を注いでいたのだなぁ~と、

写真を見ると自分がしていた事とは思えない。

だけど、やりがいのある庭で、花が咲くと気持ちが歓喜にあふれるという感じでした。

今は、ささやかな鉢植えをしていますが、

歓喜あふれる違うものを見つけるような気がしています。

 

今日は、正月から日本の神様のことを思いました。

新年は、皆様のところにも神様がきたでしょうか?

そうであれば、いいなと思いながら。

今日も年甲斐のない思いや考えを書きました。

こういうことを書くと、本当は少々恥ずかしさもある。

けれど、こういう恥ずかしい話で、ホッとして頂ければ幸いです。

最後までお付き合いして読まれた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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