ウイズ宝塚の2010年の6月の最終ページ、22ページにて第26回「宝塚アート見聞記」にアトリエ訪問の記事が載りました。
電動ハブラシ色鉛筆党 武内ヒロクニさん
「しあわせ食堂」の挿絵を描いた破天荒な色鉛筆画家
―以下掲載文―
4月始め、爛漫のさくら花の土曜日、宝塚市内の武内ヒロクニさん(1937年、鹿児島県徳之島生まれ)のアトリエを訪ねた。アトリエの庭の春の花が私を歓迎してくれた。
私が武内さんを訪ねる契機となったのは、昨年の9月に光人社から発行された『しあわせ食堂』(武内ヒロクニ+毎日新聞夕刊編集部)を入手ことによる。この単行本は、2006年4月から2009年3月にかけて150回毎日新聞(夕刊)で掲載された「しあわせ食堂」の挿絵を描いた武内さんの絵から厳選されたものである。
挿絵の内容は、各界の著名人が食にまつわる思い出を、「電動色鉛筆党」党首を自称されている武内さんが色鉛筆の描画により、異彩を放っている。
神戸にあるギャラリー島田の島田誠さんは、単行本の序文に次のような紹介をされている。
「(前略)食べるまえから満腹、食傷気味のTVのグルメ番組や、雑誌の『××料理特集』などという小奇麗で小賢しい情報の氾濫をぶっ飛ばし、3年間、150回にも及ぶ連載を成し遂げたのは、『生きる』ということと『食らう』ということが密接であった時代の濃密な記憶と、その時代の底辺をしたたかに生き抜いたヒロクニの色鉛筆のパワーなのだ」。
「しあわせ食堂」の頁を繰ると、田辺聖子さんの「お好み焼き」、藤田まことさんの「おにぎり」、中村吉右衛門さんの「のり弁当」や児玉清さんの「トウモロコシ」などの挿絵が目につき、色鉛筆パワーにユーモアと心地よい刺激による味付けが絶妙で食べきれないうまさだ。
武内さんは1945年に一家で神戸へ移り、高校を中退し“街”を徘徊していたとのこと。その後、地方展での受賞を機に画家をめざし、淡路島へ遊学したり、1965年には神戸の現代美術家集団「グループ位」の創設に参加するなど精力的に、独創的な作家活動を展開。
そして1971年には神戸三宮でロック喫茶「VOXヒコーキ堂」を開店。ここを拠点に、その時代を挑発するカウンターカルチャーを繰り広げる。ところが、70年代後半にロック喫茶畳み、作家活動を再開するといった破天荒で波乱万丈の人生を今の実践している。
穏やかに、自己の半生を淡々と語る武内さんに、そんな紆余曲折な道程は微塵も感じられない。帰り際に、「私には絵だけなんです」と語る背後に映る色鉛筆の主人たる武内さんの瞳に私は魅せられていた。
文・坂上義太郎
(前伊丹市立美術館館長 BBプラザ美術館顧問)
日常では、動きやすいよれよれの服装のヒロクニさん。
外出では、おしゃれな人と思われているが、制作の時はボロボロな格好が好きなようで、穴の開いた首の所が擦り切れているものを着用する。ゴミに出しても、また取り出して着ている・・・。ヒロクニさんは73歳でわたしは47歳だけれど服の貸し借りをすることがある。「あ、これかして」と言う具合に。父とヒロクニさんは同い年なので、たまに父と比べるときがあるが、父の着ている服を借りるというということはまずない。たぬきおやじの服は、地味で華やかさがなく実用一点なのです。自営業を営む父は、老後に及んでも会社にへばりついている仕事が好きなおやじなのである。信楽焼きの狸にそっくりで、自宅の玄関にはまさしく、その焼き物の狸が据えてあり「パパ、自分を飾ってどうするの?」といつも憎まれ口をたたく。父も電話をかけてくると最初の一声にいつも「何とか生きてますか?」という。バカにしてるのかと思い「電話とってるから生きてる決まってるやろ」と言い返す。お互いの愛情表現は憎まれ口という似たもの親子です。