瀬崎祐の本棚

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詩集「名づけ得ぬ馬」 颯木あやこ (2021/04) 思潮社

2021-05-15 13:04:45 | 詩集
 第4詩集。109頁に28編を収める。若松英輔の栞が付く。

 「砂金」。2連目は「冬の悲しみは直立する」という美しい1行で成る。いくつもの惑星が「手紙のことばのように/砂金を降らせて」去っていくのだ。

   わたしのからだは ことばに濡れた手紙
   とても とても遠い星のことばで 埋めつくされている

   わたしが泣いているのではない、
   時間が泣いている

 喩が凜としている。それは無駄なものは剥ぎ取られ、描かれるべきものが姿をあらわすのに必要なもののみが配置されているからであろう。そこにはぎりぎりまで見つめられつづけたものが担う確かさがあるのだが、それと同時にそこまで見つめなければならなかった作者の辛さもある。その必死さが切なさに繋がっていく。それは栞で若松英輔が言っている「痛み」に通じるものなのかもしれない。

「薔薇と面影」は散文詩。秋の薔薇の棘の毒はすでにわたしたちを巡っている。死が訪れるもののなかには生が育まれており、「どこかに青空が湧きでる泉をみつける」こともできるはずなのだ。いささか通俗的な言い方をしてしまえば、詩でうたうべきことは死と愛の二つである。作者のこれまでの詩集に比して、今回の詩集に収められた作品ではそのことを強く思わされた。

 詩集タイトルの「名づけ得ぬ馬」という言葉は作品「おとずれ」の中にある。それはわたしを訪れてわたしのなかを「駆け抜けてゆく蹄」なのである。

   知っているよ
   その背中にまたがって疾走すれば
   累々 乙女の屍あふれる谷で 風に斬られる日もある
   谷底には ただ ことばにならない雫が
   はりつめているだけということ

詩集の始めの方には「刹那」という6行の作品が置かれていて、そこでは絡まりあう文字のように砂漠の馬群は「すぐさま逃げる/漆黒の脚」だったのだ。作者は、そのように訪れたものを、名を呼んで対象化することなく、そのものと一体になって駈けたのだろう。その結実がこの詩集だったのだろう。
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詩集「端鳥」 田村雅之 (2021/03) 砂子屋書房

2021-05-11 22:10:38 | 詩集
 第14詩集。121頁に26編を収める。

 「瑞鳥」。元号が改まったある夕方に、神社のある岡からやって来た大きな鳥を見たのだ。そして居合わせたみんなは「一斉に/声を喚げた」のだ。鶴なのか、それとも青鷺なのか、「いずれにしても/瑞兆の鳥にちがいない」と思ったのだ。その時に集っていた人々は何かに満たされていたからこそ瑞兆だと感じたわけだ。しかし、作者の思いはその先に続いていく。

   一刻の幸いに
   若きらも交えた皆々は
   微笑していたのだった

   人の世のさびしさを越えて

 この最終行が切ない。今はみんなが穏やかな微笑をたたえているのだが、その微笑の裏には各自がそれぞれに担っている辛いものがあるかもしれないのだ。作者はそれを承知の上で、瑞兆の鳥だと自分にも言い聞かせているのだろう。

 このように作者の作品の根底には抒情的なものが常に流れている。それは古の物語を背負った土地に材をとった作品にもみられる。「耳原(みのはら)の陵(みささぎ)へ」は、大阪・堺にある仁徳天皇陵が詩われている。「ひとりの女のからだの/うちがわを伝って/浸みてくるように」百舌鳥が「み、の、は、ら、へと」呟くのだ。

   経文歌の鳥髪を撫で
   楽鐘器の白き脚をさすり
   さならばともに飛んでゆこうかと
   声さし掛ける

作者はそこに堆積している時間が耐えているものを引き受けようとしている。とても格調が高い詩い方で、思わず声に出して読んでみたくなる内的なリズムもたたえている。

「速雨の乙女」は作者にしては珍しくコミカルな作品。十代の頃に秘かに見初めていた彼女に十年後に再会する。彼女は「いい男を紹介する」と言われて友人に連れてこられたのだ。そしてぼくの前に現れた彼女が最初に発した言葉は、「どこが?」だったのだ。

「蚕の舞」は、「うつむいた詩を書くな」と始まる。これに続いて、「行間にひかりの筋が/ほの見えるようなすがたで/言葉を選べ」これは作者が作品を産むときの心構えであろう。タイトルの蚕の舞は種子島の伝統行事のようだ。顔を頭巾で隠した男性が踊る祝いの舞である。その舞いや、あるいは古墳のたたずまいに、作者はどこかの高みへ通じるものを感じている。この詩集はその産物なのだ。

   夢のなか
   儚い意志と希望が
   繭玉のように
   ひかりかがやき
   ころがっているかもしれないではないか

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詩誌「まどえふ」  35号  (2021/04)  北海道

2021-05-08 21:14:15 | 詩集
1年ぶりの発行。A4版13頁で4人が1編ずつの作品を載せている。

「節分」吉田正代。
何の気なしに開けたひきだしに爪切りが入っていたのだ。それはただの爪切りで、

   つかわれることなく
   そのままはいっている
   つめきり
   つめきり
   父を詰め切りで看病した日々

”爪切り”の音の響きから父の病室に詰め切っていた日々が甦っている。しかしその詰め切りだった日々がいかなるものだったかの説明は何もなく、これに続く最終連は「おにの/つめをきる/つのをきる」。たまたまその日は節分だったのだろう。素っ気ないほどに少ない言葉がかえって作者の様々な思いの深さを伝えてくる。タイトルがなければ「おに」は唐突になってしまうところだが、とてもよく効いている。そして「つめをきる/つのをきる」という一音違いの反復が余韻を残している。

「少女」橋場仁奈。
「蓋をされ蓋をされ/頭の上を 車がとおり人がとおり/頭にはアスファルトの 蓋をされ蓋をされ」と、呪文のように言葉が反復され、その言葉が読み手に絡みついて来る。蓋の上では「絵の中の少女」が「微笑んでアスファルトに手をのばす」。それは、吉川聡子「ソレハ暑イ夏ノ日ノコト」に描かれた少女であるようだ。この作品は、コラボレーションの展覧会などもしている吉川の絵に想を得て書かれたのだろう。

   引き裂きながら引き裂かれても引き裂かれても
   ひらひらと骨が骨を喰らう夜 食う夜も食われる朝にも
   涙のあとをひからせてひらひらと踊り狂うて血まみれの
   口をぬぐいもせずに愛しいものを抱きしめにぎりつぶし
   手をつなぎ手をはなし闇の中にうずくまる
   膝を抱き息をつめて座ったままそうして埋められる

そして私たちは少女が触れるアスファルトの下から魂をぬぎすて殻をすててはっていくのだ。「叫びも涙もずるむけの/ひきつる皮膚もすべてはひかりの胞子と」なるのだ。何ものかに抑圧された状況からの凄まじい思いが、橋場独得の叙述で渦巻いている。いったい吉川の絵はどんなものだったのだろうか。
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詩集「蝙蝠が歯を出して嗤っていた」 猪谷美知子 (2021/04) 澪標

2021-05-06 21:50:32 | 詩集
 第3詩集。122頁に39編を収める。

 「あ・うん」の冒頭は、「狛犬は/「あ」と言わされたまま/もう幾歳月」。言われてみれば、確かに、なるほど、と思う。阿形の狛犬は万物の始めを勝手に背負わされているわけだ。それは大変なことだ。「うん」に近づきたいのだが、そちらは「固く口を閉じて」いるので「心のなかも覗けない」のだ。最終連は、

   石で作られた哀しさ
   欠けていくのは
   鼻柱くらい
   「あ」も「い」も
   思いのままにならない
   それに
   「うん」までのこの距離
   五十音の最初と最後の

 阿形の狛犬は口を開け続けることに飽きて、ついには自らが吽形になることを夢みるのだろうか。普段は何気なく通り過ぎてしまっている狛犬からこれだけの物語世界を引き出して見せてくれたことに、感心した。

 このように収められた作品は、身の回りに広がる事柄から始まる物語をきっちりと捉える。作品「反乱」で描かれる砂時計の砂は、真ん中のくびれで「落ちたくない」と反乱を起こすのかも知れないのだ。それならとくびれを割ってしまおうか。最終部分は、「それもできうることだ/割られたガラス/指は/血に/染まる」

 「かくれんぼ」。私は古着屋のお末ちゃんの家でかくれんぼをしている。吊るされた着物は、なぜか、みんな紫色なのだ。そして「手を通した人の数の脂粉が滲み/垢で汚れた襟」の着物は新しい主を探しているようなのだ。

   あなたが好きよ と紫がつぶやく
   あなたってだあれ

   紫は私とくっ付いたり 離れたり
   だんだん
   得体の知れない色に変わっていく気配が

 古着には、これまでの持ち主の様々な思いが染み込んでいるわけだ。うっかりしているとそれは私にまで染み込んできて、私はどこかへ行かなければならなくなるわけだ。最終連は、「どこに隠れたのお末ちゃん/見つからないわ」お末ちゃんはとっくにどこかへ行ってしまったのだろうか。

 作品に描かれる全ての事柄の背後には何か不穏なものが張り付いているようで、身の回りの世界はその表情がわずかに歪んでいる。それが魅力となっている。
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詩誌「Zero」 16号 (2021/05)  東京

2021-05-01 20:19:25 | ローマ字で始まる詩誌
8人が集まり18頁。

北川朱実「ロードランナーとザトウクジラ」
北アメリカの砂漠地帯を疾走するロードランナーが、国境の鉄条網に行く手を遮られる。そして鳥羽湾には迷い込んだザトウクジラがいる。広々とした自然の中をどこまでも走り、また深く泳ぐはずのものが、制約された生に陥っている。ザトウクジラは尾ヒレで海面を叩き、小さな虹が立つ。

   何を割ったのだろう

   陸地を縁取りながら 円周が
   遠くへとひらいて

作者はそれ以上のことは語らない。語らないことによって、作者が切りとって描いた情景から読み手に向かって放たれるものがある。

新井啓子「さっちゃん」
さっちゃんはごはんを食べるのが遅いうえに文句ばっかり言う。さっちゃんは呆けちょうて、かっこ悪いのだ。そんなさっちゃんは、わたしが帰るときにはいつまでも家の前の石段で見送ってくれる。

   いちど
   曲がってから ひょっこり後戻ってみたら
   さっちゃんはまだ石段に立っていた
   私に気がついたけど
   何も言わなかった
   わたしも何も言わなかった
   小さく(こまあ)なったなぁ さっちゃんは

最後になってさっちゃんが母親であることが判る。「難儀な(あばかん)女です」と言うけれども、母に対する愛情が浸みとおっている。泣けるほどに好い作品です。

長嶋南子「東花畑一丁目」
町名に反して花の畑はなく、家の前のどぶ川では子どもが流されたりする。新築の家には「ふるさとから切り取られた男と女が住んでい」る。ふるさとに帰れない夫も「風呂敷に包まれて押入のなかにい」る。そんな町内では盆踊りがひらかれ東京音頭を踊っている。ふるさとではないから、今はこの町で”東京音頭”を踊るしかないのだ。

   踊りの輪のなかに透き通ったからだの夫がただよっ
   ています 帰るところがないからです 迷子になっ
   て家に帰れなくなる息子の手を夫がひいています 
   息子のからだが透き通ってきました わたしもただ
   よいながら透き通ってきました

ふるさとから拒まれたようにしてこの街に暮らす人は、いつまでもこの場所で仮の暮らしを続けるのだろう。最終部分では、暗渠のなかをここはふるさとだといいながら子どもが流されていく。背中の方から薄ら寒くなるようなブラック・ユーモア感も流れている作品だった。
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