瀬崎祐の本棚

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タンブルウィード 7号 (2020/03) 神奈川

2020-05-08 20:49:39 | 「た行」で始まる詩誌
 B5版、89頁と存在感のある詩誌。同人10人がそれぞれ数編の詩作品を載せている。今号ではゲスト寄稿が1編ある。同人の8人はエッセイも書いている。

 佐藤恵は3編を載せている。そのうちの「二0一四年春、奈曽川にて」と「二0一四年秋、子吉川を渡る」は父親の記憶を描いた作品。
 春の「ある日」、前日に法要を済ませて疲れ切っていた父だが、「むずかる小さな家族を宥めるために」出かけてきたのだ。

   手のひらで包んで胸元でゆっくり傾けると
   二人は今でも舞い散る桜吹雪のなかにいる
   父が見せてくれた最後の桜だった

   父よ
   三十年後のわたしたちは
   ともに薄墨となって川面にたゆたう   
                     「二0一四年春、奈曽川にて」より

 そして秋になり、病室に父を見舞ったわたしたちは「誰もが口にしない覚悟をあふれさせないように慎重に歩」き、子吉川を渡って帰っていく。「日が翳りはじめた病室で/軽い寝息を立てているだろう」父は、

   色づいた山裾を見渡すと
   いつものように突然に
   「今日は紅葉を見にいくぞ」と
   驚く母を笑いながら誘いだす夢を見るだろう
                     「二0一四年秋、子吉川を渡る」より

 父へのしみじみとした愛情がゆっくりと伝わってくる作品だった。「永遠(とわ)の別れを悼むカナシイタマシイ」である「イタマシイ」という言葉がいつまでも余韻を残す。

「畦に立つ男」若尾儀武には、タモッちゃんという人物が描かれている。「ぼくはタモッちゃんのこと/ほんまのところ分からへん」という。タモッちゃんは右の頬をどつかれたら左頬を差し出すような人物。後半になるにつれて作品はぐんと凄みを増す。どつかれ続けて陥没したタモッちゃんの左頬は、

   一番底の下に二番底
   二番底の下に三番底
   三番底の下にまだ底がありそうな
   タモッちゃん
   左半分の人生とは
   どう折り合いをつけてきたのだろう

 タモッちゃんの凄まじい人生が音をたてて読む者の方に崩れ落ちてくるようだ。最終部分は「気が遠くなるほどのむこう/畦に立って/ときおりこっちを見るともなくみる男がいる」。なんともすごい作品を読んでしまった。
コメント
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