瀬崎祐の本棚

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詩集「耳凪ぎ目凪ぎ」 たかとう匡子 (2020/04) 思潮社

2020-05-15 17:44:20 | 詩集
 117頁に30編を収める。

 「二月/骨について」。人体模型の肋骨の間を烈風が吹き抜けていくのだ。そんな場所では不安も付いてくるのだろうが、

   そのとき
   まだ若かった母が蛇口をひねって
   お飲みなさいと言った
   水
   という言葉がひとりでにひろがっていく
   一筋のあいまいな記述
   均衡を欠く二月の位置

 鮮やかに残っているイメージで、この母の記憶がここまでの自分を支えてくれたのかもしれない。加齢による肉体の変化は否応なしにあるのだろうが、しかしその変化を冷ややかに受けとめて、昏迷の中にありながらもその視線は前を見続けている。最終部分は「とりあえず手鏡を取り出して/二月の影を映す」。お見事。

 「かくれんぼ」では、話者はマングローブの森を彷徨っている。生い茂った樹葉のあいだから一筋の光がとどき、そのうえに青空があることを知る。そして「使い古された言葉につきまとわれながら/もっとうえにはたしかに干潟に通じる道があるはず」と思っている。まるでこの彷徨いは、作品を生みだすために自分の脳内でおこなわれているようだ。

   指先がからだの底をかきまぜては主題をさぐっている
   硬直してもんどりうって
   マングローブの森から転がりでた
   歩き疲れて
   道に迷った
   海岸線がのびていた
   幼な児がいない

 ここにも混迷があり、ふとしたときに抜け出てくる詩句もあるわけだ。ともすれば抽象的にあらわしてしまいがちな主題を、視覚的なイメージで導いて捉えている。最終行は「わたしの海はいまだ天空に貼りついたまま」。

 どの作品でも具体的な事象を巧みに取り入れて、その奥の言葉にし難いままに広がっているような部分に踏み込んでいく。書くことによって己の生を支えているような、そんな迫力を感じる詩集だった。表題作の「耳凪ぎ目凪ぎ」や、「彷徨(さまよ)う」、3章からなる「遠ざかる時刻(とき)」にもたしかな手触りがあった。
コメント
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