作者はこの数年は毎年詩集を出しており、今年は2冊目である。やや縦長の判型で、装幀はいつも好いなあと思ってしまう長島弘幸。
124頁に27編を収める。
行分け詩の体裁を取ってはいるのだが、内容としては奇譚が語られている掌編集といった雰囲気である。どの作品ででも悪夢のような奇妙な物語が展開される。
たとえば「妻と鳥籠」。探偵に教えられたホテルの妻の部屋を探していると、その部屋に招き入れられている男を目撃する。男が廊下に鳥籠を残したのだが、それを覆っている絹布を捲ってみると、なかには妻の頭部が吊り下げられていた。
(略)鳥籠のなかの黒い瞼がゆっくりと大きく開いて、ぼくを真正面から
まっすぐに睨みつける。
その真青な虹彩に映るのは、怖ろしいほど醜く歪んだぼく自身の顔。
そのときぼくは、妻を殺害した犯人が誰かをはっきりと理解する。
作品のタイトルも大変にイメージをかき立てるものが多い。「ガラスの車輪に乗る金髪の男たち」「死んだ水夫のための短い祈り」「ぼくの十代に宝石のように埋めこまれた街」など、自分でも作品を書きたくなるような気持ちの昂ぶりを連れてくる。
「骨と砂丘」では、脚の金色の毛を抜こうとして脛の骨が抜け落ちてしまう。友人と二十年ぶりに再会する約束で砂丘を歩いているのだが、
湿った窪地があって、このあたりが妻の体の中心だということが解る。
奈緒也が来ないのは、もしかするとぼくの妻に遠慮しているせいなのかも知れない。
それとも彼は、まだ妻の耳たぶのあたりで道に迷っているのだろうか。
やって来た奈緒也は無表情にぼくの眼のなかに金色の文字を書きこむのだが、それは近すぎて読めないのだ。
急激な場面転換、しかもそれはほとんど脈絡を伴っていない。ただ具体的な出来事がこれでもかとつきつけられる。まさに夢のような展開で物語はすすむ。夢の特徴と言えば、抽象的な表現がなくてすべてが絵画的であること、論理的な意味のつながりの欠如、などがあげられるだろう。常に一人称で展開されるこの詩集の物語は、まさにこの特徴を備えている。
しかし、ここに収められた物語が夢を描いたものと考える必要はない。夢のような展開を利用しただけであって、求めたのはどこまでも自由な飛翔だったのだろう。
124頁に27編を収める。
行分け詩の体裁を取ってはいるのだが、内容としては奇譚が語られている掌編集といった雰囲気である。どの作品ででも悪夢のような奇妙な物語が展開される。
たとえば「妻と鳥籠」。探偵に教えられたホテルの妻の部屋を探していると、その部屋に招き入れられている男を目撃する。男が廊下に鳥籠を残したのだが、それを覆っている絹布を捲ってみると、なかには妻の頭部が吊り下げられていた。
(略)鳥籠のなかの黒い瞼がゆっくりと大きく開いて、ぼくを真正面から
まっすぐに睨みつける。
その真青な虹彩に映るのは、怖ろしいほど醜く歪んだぼく自身の顔。
そのときぼくは、妻を殺害した犯人が誰かをはっきりと理解する。
作品のタイトルも大変にイメージをかき立てるものが多い。「ガラスの車輪に乗る金髪の男たち」「死んだ水夫のための短い祈り」「ぼくの十代に宝石のように埋めこまれた街」など、自分でも作品を書きたくなるような気持ちの昂ぶりを連れてくる。
「骨と砂丘」では、脚の金色の毛を抜こうとして脛の骨が抜け落ちてしまう。友人と二十年ぶりに再会する約束で砂丘を歩いているのだが、
湿った窪地があって、このあたりが妻の体の中心だということが解る。
奈緒也が来ないのは、もしかするとぼくの妻に遠慮しているせいなのかも知れない。
それとも彼は、まだ妻の耳たぶのあたりで道に迷っているのだろうか。
やって来た奈緒也は無表情にぼくの眼のなかに金色の文字を書きこむのだが、それは近すぎて読めないのだ。
急激な場面転換、しかもそれはほとんど脈絡を伴っていない。ただ具体的な出来事がこれでもかとつきつけられる。まさに夢のような展開で物語はすすむ。夢の特徴と言えば、抽象的な表現がなくてすべてが絵画的であること、論理的な意味のつながりの欠如、などがあげられるだろう。常に一人称で展開されるこの詩集の物語は、まさにこの特徴を備えている。
しかし、ここに収められた物語が夢を描いたものと考える必要はない。夢のような展開を利用しただけであって、求めたのはどこまでも自由な飛翔だったのだろう。