瀬崎祐の本棚

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詩集「惑星のハウスダスト」 福田拓也 (2018/03) 水声社

2018-06-12 18:21:32 | 詩集
 79頁、22編を収める。
 収載作品のほとんどの部分が散文詩型で書かれていて、しかもすべての文末は読点ではなく句点で区切られている。どこまで続いても言い切られることのない事象が話者を突き動かしており、そのために言葉に追われているような焦燥感が伝わってくる。

 冒頭の「草かげのストーリー」から間隙もなく敷きつめられた言葉が眼を圧倒する。しかも、いたるところで言葉が渦を巻いている。

   突き刺さる空気のふと固まり入りこむやわらかいなかをわけて進むせかえる息
   のできないつまでもここで窒息のすじたどるしがないふさいだはずの穴からっ
   ぽのほざいたちまちがふれまわったかい他界転軸ちゅうしんしてみるのいちば
   んはずしてますっかりあ止まった動きからまるすじというかひもなくだったと、

 前の言葉の語尾が次の言葉に重なってうねうねと続く。たとえば「息のできない」と「いつまでもここで」は重なり、それこそ息継ぎをする余裕を与えてくれない。夥しい言葉が、かえって何ものも意味のあることは伝えまいとする意図で敷きつめられているようだ。

 詩集の後半になると、話者の肉声が感じ取れるようになってくる。言葉に感情がまとわりついている。しかし、それが意味を伝えてくるかという問題はまた別の次元の話だ。たとえば「夜の流れ」、

   空ゆきのはずかしい流動は、光となってすばやく、ぼく、それ、ほしいです、
   くずれかけた肉体でぼく、砂の中にすわり、あくまで骨粒が肉の闇の中に光る
   星屑のはての音楽、星座とはぼくの身体に打ち込まれた痛い流れ、そのはての
   乾燥の地にぼくのかげはたった一本の木となって朽ちはてる、

 前半の作品では可能な限り主体を消去することによって意味性を薄くしていたが、後半の作品では主体に寄りそうことによって他者における意味性を奪っているようにも感じられる。素材としての言葉に対する作者の意識はどこまでも真剣だ。
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Rurikarakusa  8号  (2018/05)  東京

2018-06-08 18:52:37 | ローマ字で始まる詩誌
花潜幸、草野理恵子、青木由弥子の3人誌。A4用紙4枚を三つ折りにした体裁。

「鳥屋」岬多可子はゲスト作品。
鳥屋だけがある坂道を話者は通る。昼前にその坂を下り、暗さのなかを今度は上って帰ってくる。それは鳥屋の在処もわからないほどの暗さなのだ。

   空を 墜ちることもかなしまず
   鎖されて 鳥たちは
   どうやって 翼をなだめ
   翌朝を待つのか

 夜の暗闇のなかにただ居るという鳥の存在感がくっきりと描かれている。この作品の締まっているところは、そんな鳥を描くだけではなく、そんな鳥と出会った自分を捉えているところ。最終部分は「夜に/通るような坂ではなかった」。話者は、それではどこを通ればよかったのだろうか。

 「予期せぬリレー」花潜幸は、15行の短い散文詩。
水が抜かれている夜のプールにやってくると、水音がして、こちらへ泳いでくる者がいるのだ。

   あの小さな耳は母、あの平手は父、懸命なバ
   タ足は祖父たちのものではないか。彼らの手
   のひらが足下の壁にしっかりとタッチしたと
   き、私は思わず身体を力いっぱい伸ばし、宙
   に跳んでいた

幻想でありながらよくわかる作品。話者にはなにか血脈を考えさせる出来事があったのだろうか。

 「はなもも」青木由弥子。
 この作品は「ははをさがしています/というひとに/鍵をてわたす」と始まるのだが、そんな話者の傍らには、

   流れていく影ぼうし
   はなもものにおい
   まだ少女だったころのははが
   ははに 似た人が
   何人もゆきすぎる

話者自身もまた、ははをさがしているのだろう。そのことにあらためて気づいてしまった「ひとりきりの午後」だったのだろう。説明はまったくなされないのだが、それゆえになおいっそう背後に隠された物語を感じさせる作品。
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詩集「青挿し」 中村梨々 (2018/04) オオカミ編集室

2018-06-05 18:01:27 | 詩集
第2詩集。107頁に31編を収める。巻末に広田修の「てびき」が載っている。
「廃屋」では、「またひとりいなくなったと/誰かがわたしに告げる」のだ。季節は夏のようで、すべてのものの影もくっきりと濃いような気がする。あまりにくっきりとしているので、かえって捉えることが不安にもなるようだ。そこは”廃屋”ではなくて、人が居なくなる場所なのかもしれない。

   いないものに囲まれた家で
   ことばは隅々にまでゆきわたり
   無言のやさしさを柱時計に刻む
   その、ほんのわずかの振動で
   目覚め
   始まるものがある
   いる

この詩集では、青色、夏、そして海が繰り返しあらわれる。季節は巡り、二月の風や春もあらわれるのだが、それは夏を待つ季節であり、夏を迎えるための季節である。

「ツンドク」。タイトルの意味はよく判らないが(まさか”積ん読”?)、話者は「日々に戻れる方法はいくらでも知っています」という。ということは、今は通常の日々ではないわけだ。

   いつも履く靴のなかでお湯が煮えていました
   二月に夏のコーヒーを淹れようとしたのです
   また別の日
   カーディガンに腕を通す途中で電車にさらわれました
   冷たい切符を掴もうとする指先が粉々になる
   それしかないような蓋がある

 こんなことで今の状態から抜け出せるのだろうか。そして、どこか話者には余裕もあるように感じられる。それは独特の美意識のようなものが崩れずに保たれていると感じられるからだ。

 この詩集全体を覆っている軽やかなイメージは、くっきりとした物事の輪郭、どんなことでも醜い拒否を振り切った前進感、そんなものから来ている。それを浅いと捉える人もいるかも知れないが、この透明感は悪くないと思う。
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