79頁、22編を収める。
収載作品のほとんどの部分が散文詩型で書かれていて、しかもすべての文末は読点ではなく句点で区切られている。どこまで続いても言い切られることのない事象が話者を突き動かしており、そのために言葉に追われているような焦燥感が伝わってくる。
冒頭の「草かげのストーリー」から間隙もなく敷きつめられた言葉が眼を圧倒する。しかも、いたるところで言葉が渦を巻いている。
突き刺さる空気のふと固まり入りこむやわらかいなかをわけて進むせかえる息
のできないつまでもここで窒息のすじたどるしがないふさいだはずの穴からっ
ぽのほざいたちまちがふれまわったかい他界転軸ちゅうしんしてみるのいちば
んはずしてますっかりあ止まった動きからまるすじというかひもなくだったと、
前の言葉の語尾が次の言葉に重なってうねうねと続く。たとえば「息のできない」と「いつまでもここで」は重なり、それこそ息継ぎをする余裕を与えてくれない。夥しい言葉が、かえって何ものも意味のあることは伝えまいとする意図で敷きつめられているようだ。
詩集の後半になると、話者の肉声が感じ取れるようになってくる。言葉に感情がまとわりついている。しかし、それが意味を伝えてくるかという問題はまた別の次元の話だ。たとえば「夜の流れ」、
空ゆきのはずかしい流動は、光となってすばやく、ぼく、それ、ほしいです、
くずれかけた肉体でぼく、砂の中にすわり、あくまで骨粒が肉の闇の中に光る
星屑のはての音楽、星座とはぼくの身体に打ち込まれた痛い流れ、そのはての
乾燥の地にぼくのかげはたった一本の木となって朽ちはてる、
前半の作品では可能な限り主体を消去することによって意味性を薄くしていたが、後半の作品では主体に寄りそうことによって他者における意味性を奪っているようにも感じられる。素材としての言葉に対する作者の意識はどこまでも真剣だ。
収載作品のほとんどの部分が散文詩型で書かれていて、しかもすべての文末は読点ではなく句点で区切られている。どこまで続いても言い切られることのない事象が話者を突き動かしており、そのために言葉に追われているような焦燥感が伝わってくる。
冒頭の「草かげのストーリー」から間隙もなく敷きつめられた言葉が眼を圧倒する。しかも、いたるところで言葉が渦を巻いている。
突き刺さる空気のふと固まり入りこむやわらかいなかをわけて進むせかえる息
のできないつまでもここで窒息のすじたどるしがないふさいだはずの穴からっ
ぽのほざいたちまちがふれまわったかい他界転軸ちゅうしんしてみるのいちば
んはずしてますっかりあ止まった動きからまるすじというかひもなくだったと、
前の言葉の語尾が次の言葉に重なってうねうねと続く。たとえば「息のできない」と「いつまでもここで」は重なり、それこそ息継ぎをする余裕を与えてくれない。夥しい言葉が、かえって何ものも意味のあることは伝えまいとする意図で敷きつめられているようだ。
詩集の後半になると、話者の肉声が感じ取れるようになってくる。言葉に感情がまとわりついている。しかし、それが意味を伝えてくるかという問題はまた別の次元の話だ。たとえば「夜の流れ」、
空ゆきのはずかしい流動は、光となってすばやく、ぼく、それ、ほしいです、
くずれかけた肉体でぼく、砂の中にすわり、あくまで骨粒が肉の闇の中に光る
星屑のはての音楽、星座とはぼくの身体に打ち込まれた痛い流れ、そのはての
乾燥の地にぼくのかげはたった一本の木となって朽ちはてる、
前半の作品では可能な限り主体を消去することによって意味性を薄くしていたが、後半の作品では主体に寄りそうことによって他者における意味性を奪っているようにも感じられる。素材としての言葉に対する作者の意識はどこまでも真剣だ。