第6詩集。86頁。詩集タイトルには「あるいは ゆらめく風景」とつけ加えられている。
1から160までの番号を振られた作品が収められている。各作品は4行から7行の長さで、作者によれば「それぞれが独立した作品でありながら、ひとつのながれのなかにある」とのこと。「素描」あるいは「原スケッチ」のようなものとも言っている。
たとえば「7」では、
パラソルの婦人が
夕暮れにバスを待っている
誰も来なかった夏の日に
水色のパラソルが
ゆっくりと回転をはじめた
どの作品でも、気持ちの中にちょっと引っかかるような、あるいはふっと顔を出した、そんなものが書きとめられている。たしかに油彩画というよりも淡彩スケッチといった風情であり、かえってそれが読み手のなかで膨らんでいくものを呼び起こしている。先の作品でも、実際には婦人がパラソルを回しているだけなのだが、作品世界ではパラソルが(誰も来なかったために)自然に回り始めたかのようだ。
「116」は、
紫陽花が咲いていて
斜面の草が匂った
雨あがりの峠をくだって
酒を飲んだ
誰も居ない部屋で争う声がする
よく気をつけてみると、この詩集の何処にも人が居ないことがわかる。ときおり登場する人物達も、みな実体は失っているかのようだ。それこそ”ゆらめく風景”のなかには私しかいないのだ。
1から160までの番号を振られた作品が収められている。各作品は4行から7行の長さで、作者によれば「それぞれが独立した作品でありながら、ひとつのながれのなかにある」とのこと。「素描」あるいは「原スケッチ」のようなものとも言っている。
たとえば「7」では、
パラソルの婦人が
夕暮れにバスを待っている
誰も来なかった夏の日に
水色のパラソルが
ゆっくりと回転をはじめた
どの作品でも、気持ちの中にちょっと引っかかるような、あるいはふっと顔を出した、そんなものが書きとめられている。たしかに油彩画というよりも淡彩スケッチといった風情であり、かえってそれが読み手のなかで膨らんでいくものを呼び起こしている。先の作品でも、実際には婦人がパラソルを回しているだけなのだが、作品世界ではパラソルが(誰も来なかったために)自然に回り始めたかのようだ。
「116」は、
紫陽花が咲いていて
斜面の草が匂った
雨あがりの峠をくだって
酒を飲んだ
誰も居ない部屋で争う声がする
よく気をつけてみると、この詩集の何処にも人が居ないことがわかる。ときおり登場する人物達も、みな実体は失っているかのようだ。それこそ”ゆらめく風景”のなかには私しかいないのだ。