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詩集「冬が終わるとき」 竹中優子 (2022/10) 思潮社

2022-12-02 18:36:28 | 詩集
95頁に20編を収める。小池昌代と岡本啓の栞が付く。

散文詩でも行分け詩でも、そこには話者の周りにいる人たちの物語が描かれている。話者は、自分をかこむ風景になっている人たちを描き、その中に潜んでいるものを探り当てることによって自分が生きていることを感じようとしている。

たとえば、4連から成る散文詩「西瓜」。俄雨は「生きていくことそのものの懐かしさのように降りはじめ」たのだ。私は買った西瓜をスーパーの袋に入れて帰路につく。3連目で、酒が残った朝には眼鏡をかけてくる横山さんが描かれる。危うい感じを伝えてくる横山さんだが、おそらくは、あやふやなものを振り捨てるために浅瀬を歩き、水の淵に立つのだろう。4連目、「水の辺に立っていた」話者は、「西瓜という浅瀬をひとつ、切り分ける」のだ。最終部分は、

   それが嘘でも、やさしい目をして、飽きていくまま、隠しきれない、声
   を出す、そして西瓜の汁がてのひらを汚して、混ざり合う、かたちのな
   い、水もにおいも言葉にしたいと、夜の川に、手を置いたのだ。

美しいと言ってもよいほどに確かに組まれた言葉がある。自分の外側に立つ横山さんの物語であったものが、いつしか自分の内側に拡がる風景となっている。

血脈の人たちも登場する。父、母、祖母、そして妹。彼らが諸事にたずさわる物語も話者の世界の輪郭を成す。父の友人の山ちゃんもあらわれる。そしてそれらは話者の内側に滲んでくるのだ。

「冬が終わるとき」。借金をしている妹の返済は滞り、冬が去ろうとしている。そして「猿の気持ちになれます、と書いてある入浴剤」を送ったりする。

   夜ごと引き摺られていく川に
   骨のように突きでる砂地を見た
   ああ
   あの水に浸かる頃
   簡単に返せるだけの
   あかるさが見つかる

最終部分は「妹よ/よく聞け/私たちの用事は決して/よく生きることではない」 話者の中にはこれだけのぎりぎりの言葉が鋭く突き刺さっている。そうか、この作品名を詩集タイトルにしたのか。
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