巻頭に「感謝をこめて片桐ユズルに捧げる。/感謝をこめて共に歩んだ人々に捧げる。」と記されている。181頁。
副題に「秋山基夫に即して」とある。彼は詩の実作、詩論と平行して詩の朗読に熱心に取り組んできた。本書は1966年から編年体で組まれた彼の詩朗読に関する記録と、その背景にあった時代考証の「秋山の判断、補足、主張など」がノートとして記されている。
1966年12月、秋山は片桐ユズルに招かれて神戸で朗読体験をする。それは朗読をテープに録音してこれを聞くという「一種の客観性の体験」だったという。これが始まりであったようだ。
1967年からは岡山県詩人協会で「現代詩朗読会」がおこなわれている。1968年の兵庫での「今日の詩祭」、1969年の京都での「詩とフォークソングの会」、そして1970年大阪での「詩乱'70〈日々の凶器〉」の詳細な記録がつづく。
驚くのはこれらの朗読会の記録の詳細さである。日時、場所、出演者などきちんと記されている。そしてノートとして、その朗読会が開かれた経緯、その時点で持っていた意味、後に及ぼした影響などについて秋山の考察がなされている。この考察があることによって、この書は単なる記録集ではなく、朗読活動を通してのその時代の意味を問い直すものとなっている。
1970年代は活発な朗読活動がおこなわれている。京都や神戸で開かれていた「詩の朗読会」には秋山、片山とともに有馬敲、谷川俊太郎の名も見える。1974年には「オーラル派宣言」が出されている。これはわら半紙大、41頁で部数は220部だったとのこと。京都に「ほんやら洞」が出来、1979年には「ほんやら洞の詩人たち」の本やレコードが出ている。
1980年代も前半は各地で朗読会が開かれていたが、次第にその記録は少なくなっている。そして1985年のノートには「ここにきて、すでに、「オーラル派」という詩の朗読について明確な主張をもったゆるやかな詩人の集りによるポエトリー・リーディングの季節は終わっていたことが明瞭になった」とある。
その後、2000年頃からはイベントのひとつとして詩人が朗読をおこなうようになっている。岡山ではエクサン・プロヴァンス、未完成といった場で朗読が続けられていた。秋山は、2004年から2009年まで定期的に開かれていた「大朗読」に参加し、その後は「ギャラリー朗読会」をおこなっていた。
朗読についての秋山の思いは熱い。彼は「詩の朗読について考える時、もっとも根本的なところで言おうとするなら、文字と音声、どちらが言葉の本質か、どちらが詩の始原かというところにくる」と言っているのだ。そのような観点から朗読活動を捉えている。
副題に「秋山基夫に即して」とある。彼は詩の実作、詩論と平行して詩の朗読に熱心に取り組んできた。本書は1966年から編年体で組まれた彼の詩朗読に関する記録と、その背景にあった時代考証の「秋山の判断、補足、主張など」がノートとして記されている。
1966年12月、秋山は片桐ユズルに招かれて神戸で朗読体験をする。それは朗読をテープに録音してこれを聞くという「一種の客観性の体験」だったという。これが始まりであったようだ。
1967年からは岡山県詩人協会で「現代詩朗読会」がおこなわれている。1968年の兵庫での「今日の詩祭」、1969年の京都での「詩とフォークソングの会」、そして1970年大阪での「詩乱'70〈日々の凶器〉」の詳細な記録がつづく。
驚くのはこれらの朗読会の記録の詳細さである。日時、場所、出演者などきちんと記されている。そしてノートとして、その朗読会が開かれた経緯、その時点で持っていた意味、後に及ぼした影響などについて秋山の考察がなされている。この考察があることによって、この書は単なる記録集ではなく、朗読活動を通してのその時代の意味を問い直すものとなっている。
1970年代は活発な朗読活動がおこなわれている。京都や神戸で開かれていた「詩の朗読会」には秋山、片山とともに有馬敲、谷川俊太郎の名も見える。1974年には「オーラル派宣言」が出されている。これはわら半紙大、41頁で部数は220部だったとのこと。京都に「ほんやら洞」が出来、1979年には「ほんやら洞の詩人たち」の本やレコードが出ている。
1980年代も前半は各地で朗読会が開かれていたが、次第にその記録は少なくなっている。そして1985年のノートには「ここにきて、すでに、「オーラル派」という詩の朗読について明確な主張をもったゆるやかな詩人の集りによるポエトリー・リーディングの季節は終わっていたことが明瞭になった」とある。
その後、2000年頃からはイベントのひとつとして詩人が朗読をおこなうようになっている。岡山ではエクサン・プロヴァンス、未完成といった場で朗読が続けられていた。秋山は、2004年から2009年まで定期的に開かれていた「大朗読」に参加し、その後は「ギャラリー朗読会」をおこなっていた。
朗読についての秋山の思いは熱い。彼は「詩の朗読について考える時、もっとも根本的なところで言おうとするなら、文字と音声、どちらが言葉の本質か、どちらが詩の始原かというところにくる」と言っているのだ。そのような観点から朗読活動を捉えている。
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