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瀬崎祐の本棚

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詩集「一本足の少女」 村岡由梨 (2024/11) 七月堂

2024-11-25 22:28:30 | 詩集
第2詩集。180頁に22編を収める。

作者は映像作家としての活動もしており、短編映像の映画祭で受賞もしている。作者がおこなっているX(旧Twitter)の実際の画面も2カ所で紹介されている。映像やSNSでの発信と多面的な発表形式を紙媒体での発表と平行しておこなっているわけだが、それらは紙媒体でおこなっている文字での表現と補い合って総体としての作者を形作るのだろう。

「お葬式ごっこ」。娘の眠(ねむ)がネズミの死骸を神社の木の根元に埋めたと言う。

   ねえ、ママさん、
   もし今ママさんが死んだら、私に悲しんで欲しい?
   いたずらっぽく笑って、眠が言う。
   私は少し考えて、無理に悲しまなくていいよ、と答えた。
   私の嘘つき。

話者は「ねぇ、本当の親子ごっこをしようよ。」と娘を誘う。すると娘は「ママさんは、全然わかってない。」「わかったような気でいないで。/わかったような詩も書かないで。」と言うのだ。

通り一遍のものではない母子の求め合いがあるのだが、それが生々しくなるほどに傷つく部分も増えてくる。まるで自分自身を切り刻んでいるような切実な語りに、読んでいる私(瀬崎)は立ちすくんでしまう。作者にとっては我が身を傷つける痛みと引換にしてでも書かなければならなかった作品たちなのだろう。

「陸橋を渡る」は、「この陸橋を渡る時の気持ちや日々のあれこれを/言葉にして記録してみようと思い立」って、日付入りで書かれた作品。その日のある時点での日記のようなのだが、その日常は切りとられて言葉で貼り付けられたときに作品へと変容している。

「一本足の少女」。クリニックで一本足の男を見かけ、テレビで瓦礫の前に立つ片足を失った少女を観る。目を背けて逃げた私の前に巨大な二つの蕾があらわれる。花が開くと中には右足を失った眠と左足を失った花がいた。(”眠”と”花”は二人の娘の名前:瀬崎註)

   眠は、使い古したクロッキー帳と鉛筆で、
   花は、痛みと引き換えに手に入れた
   スネークアイズとスネークバイツで武装して、
   自分たちを食い潰そうとしている世界と闘っていた。

世界と少女たちはギリギリの均衡を保って屹立している。そして彼女たちは怒り、叫ぶのだ。

安易な感想などは無用とする詩集だった。それほどに凄まじい存在感の詩集だった。
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