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詩集「生家へ」  柴田千晶  (2012/10)  思潮社

2012-10-13 09:32:44 | 詩集
 作者は詩人であると同時に俳人でもある。「赤き毛皮」という句集も出版している。
 この詩集では詩作品の冒頭、途中に俳句が置かれている。「あとがき」によれば、「俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。」とのこと。
 たとえば、「顔」という作品の冒頭に置かれた句は、「銅鏡に映らぬ目鼻梅真白」。この句につづく世界で、誰も「ほんとうの顔を知らない」わたしは夕子と呼ばれ、無念だ無念だとつぶやく嬰児を産み落としていく。次の句が挟みこまれるとわたしは路子と呼ばれ、その次には和江と呼ばれ、幸江にもなる。暗くどんよりとした澱のようなものから生えた四つの句を、詩作品が浸している。
 そうして形づくられる世界には、夥しい数の死者ばかりがあらわれる。拾いあつめた流木で焚いた風呂に一緒に入った拝島さんも死者のようだし(「雁風呂」)、見知らぬ女が「あなたの男をお返しします。」「少し弱っていますが、まだ生きています。」といって置いて行った甕の中の鰻も、もう元には戻れないのだ(「鰻」)。いつも背後に寄り添っているような死を感じ続けることによって生を(それは性とも同義なのだろう)確かめているようだ。

   窓の下を廃品回収車が通過してゆく。壊れたものたちを満載して、夜の底を攫っ
   てゆく。私も急がなければ。片羽根の白い蛾が畳で羽搏いている部屋の隅から、
   黒い影がいざり寄ってきて、仰臥している私の足もとからゆっくり這い上がって
   くる。私の男が帰ってきたのだ。男は私の腿を抱きしめ頬を擦り寄せている。愛
   しいひと。指先に触れた男の眦が深く裂け廃棄物の祭明かりが見える。男の中に
   鳥居があり、小さな地蔵たちがうねりながら赤く灯っている。
                             (「青葉木菟」より)

 作者は「詩と俳句が遙かなところで強く響き合う、そんな世界を目指し」たとしている。二つの短詩形によって構築された世界が、より陰影に富んで奥行きのあるものになっていることは間違いないだろう。
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1 コメント

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wuwuenhan2011@126.com (月光共君守 )
2012-11-29 12:51:43
なっていることは間違いないだろう。
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